第17話 ダムピール軍

 高潔かつ純血なる吸血鬼一族チェイテ家の血筋は十三世紀まで遡る。東欧の小国の貴族であったチェイテ家は、名門ハプスブルク家との繋がりもある古い貴族で、国内において歴代の枢機卿や大臣を多く輩出している名家だった。そんなチェイテ家が吸血鬼への道を歩み始めたのは十六世紀に入ってからだ。当時のチェイテ家の当主は、悪魔信仰に陶酔しており、暗黒への傾倒を深めていた。その中で幾度となく執り行われていた流血の儀式が、当主を吸血鬼へと変貌させていった。流血の儀式とは、人間の血液を体内に取り入れることで、不老不死を得るという儀式だ。当主は領内から若い女性を攫っては、流血の儀式を行っていた。そして幾年にも渡り血液を取り込み続けた結果、当主の身体は血液しか受け付けなくなった。それからまもなく異形の力に目覚め、やがて吸血鬼となった。


 人間の血を飲み続けことで、吸血鬼となったのだ。


 どうやら人間の血液には、微量だが『毒』があるらしい。健康や生命に害を成すことがないため、研究は進んでおらず、その成分や性質などは、ほとんど分かっていないようだ。だが、その毒が蓄積され濃縮され、それらが一定量を超えた時、細胞から遺伝子、そしてDNAの塩基配列までに影響を及ぼし、人間から吸血鬼へと変異するらしい。まさに人体の神秘である。


 確か、フグの『毒』で同じようなことを聞いたことがある。


 元々フグは毒を持っておらず、餌である貝やヒトデが微量な毒を持っているため、その毒が体内に蓄積され濃縮されることで猛毒になるらしい。ちなみにフグは毒に対して凄まじい耐性があるため、体内に毒が蓄積されても死ぬことはないようだ。


 フグは毎回の食事で毒を取り込んで猛毒魚となる。人間は毎回の食事で毒を取り込むことで吸血鬼になる。しかし、毎食、人間の生き血を飲むなど、常人ではありえない。そもそも人間の生き血など簡単に手に入らない。人間が吸血鬼になる方法はあっても、あまりに非現実的な方法だ。だが、吸血鬼に血を吸われれば、簡単に吸血鬼になってしまう。どうやら吸血鬼に吸血されている最中、唾液を介して濃縮された『毒』を注入されているそうだ。濃縮された毒を注入されれば、否応なしに吸血鬼へと変貌させられる仕組みだ。


 チェイテ家の当主が吸血鬼へ変貌したことによって、その一族も遺伝子を介して吸血鬼へと変貌させられていった。元来、チェイテ家は血縁を重視した貴族で、高貴な血筋を絶やすまいと近親結婚を繰り返していた。よって闇の血が一族に拡散され、強大な吸血鬼一族が誕生することとなった。


 やがて彼らは、異能と権力を駆使し、国家を支配した。そして国民を餌として飼育した。そんな状況に危機感を抱いた東欧諸国は、各国から吸血鬼ハンターであるダムピールを集結させ、チェイテ一族の討伐に乗り出した。チェイテ一族とダムピールの戦いは数百年続き、チェイテ家の当主が討たれたことで、ダムピール側の勝利に終わった。生き残ったチェイテ家の吸血鬼たちは、世界各地に散り散りとなり、現在もダムピールによる残党狩りの憂き目に合っているらしい。ちなみにエヴェリーナ・チェイテは、吸血鬼である初代当主の玄孫に当たるらしく、当主が討たれた後に誕生したため、生まれながらに逃亡生活を送る羽目となった。そして、彼女が幼い頃に、両親もダムピールに討たれ、長年、孤独な逃亡生活を送っていた。


 まあ、気の毒な人生である。


「だから同情してくれ。辛い目、怖い目、悲しい目にもたくさんあったのだ!」


 くるみの胸に顔を埋めながらエヴェリーナが叫んだ。


「はいはい、よしよし」


 くるみがエヴェリーナの頭を優しく撫でると、ごろごろ喉を鳴らしながらニャーと叫んだ。


 ネコか、コイツは。


 エヴェリーナはくるみの膝の上に跨り、気持ち良さそうにくるみの胸に顔を埋めている。


 なぜ、ここまでくるみになついているのか。


 くるみにビンタされたエヴェリーナは、突然、大声で泣き出した。くるみは彼女を落ち着かせるため、優しく抱きしめて頭を撫で続けた。子供のように泣きじゃくる吸血鬼を必死であやした。結果、無事に泣き止ませることに成功した。それと同時に、不気味なほど、なついてしまったのだ。さっきまでの鷹揚な態度は微塵もない。高潔かつ純血なる貴族の末裔としての立ち居振る舞いを無理に演じていただけで、本性はただの甘えたがりの子供だったというわけだ。


 これぞ、飴と鞭である。


 飴と鞭は、餓鬼に最も効果ある手法だ。俺が小学生の頃、教師のビンタは日常だった。よく分からない理由でビンタされることもあった。その度に、教師はビンタした生徒に対して一定の時間をおいてから、優しい言葉をかけていた。すると生徒は猛省して必死で教師を慕うようになった。飴と鞭である。今思うと、よくできた洗脳方法である。教師の力量は餓鬼の洗脳人数に比例していると言える。餓鬼を洗脳することで、クラスを平静に保つことができるからだ。新興宗教団体とさして変わらない。


 とにかく餓鬼であるエヴェリーナは、くるみの飴と鞭によって上手く洗脳された。


 チョロい奴だ。


 しかし餓鬼とはいえ、純血の吸血鬼だ。毒島の拳銃を一瞬で捻じ曲げるほどの膂力を持っている。敵対しなくてなによりだ。そう言えば、元殺し屋の毒島獣香は生きているのだろうか。まあ、そう簡単に死ぬような奴ではない。むしろ恐ろしいのは毒島が吸血鬼になった場合だ。元より人間離れした身体能力の持ち主だ。そこに吸血鬼の異能が上乗せされるのだ。とんでもない化け物へと変貌するに違いない。この世界に災厄が産み落とされるに違いない。ならばいっそ、お亡くなりになってくれたほうが、世界のためにもありがたいといえよう。


 まっ、とりあえず毒島獣香のことは置いておこう。瑣末な問題だ。


 それよりもこれからどうするかだ。


 吸血鬼になったことで、吸血鬼ハンターどもの標的になるのは間違いない。吸血鬼を滅ぼすことに特化した連中だ。ルーキーの俺など瞬時に灰にされるだろう。


「なあ、お前は、この島の女どもを吸血鬼にして、ダムピールと戦うつもりなのか?」


 くるみの胸に顔を埋めていたエヴェリーナが、くるりとこちらへ顔を向けた。


「ダムピールに対抗できるのは、眷属の異能を宿した者だけじゃ。どれ程の亡者レブナントが集まっても、ダムピールには傷一つ負わせることはできん」


「ん、だったら、何でこの島の女どもを吸血鬼にしたんだ。眷属の因子ってやつは吸血鬼にしてみないと分からないのか。いや、違うよな。お前は人間だったくるみから眷属の因子を探り取ったんだからな」


「そうじゃ、吾輩ら純血の吸血鬼は、人間の血液の匂いの中から眷属の因子を嗅ぎ取ることができる」


「血液の臭い? くるみ、お前、怪我でもしていたのか?」


「ううん、どこも怪我してないよ」


「だったら、お前は、どこからくるみの血液の臭いを嗅ぎ取ったんだ?」


「口の中じゃ」


「はあ?」


 俺が首を傾げると、くるみが何かに気付き、大きく口を開いて、指を突っ込んだ。すると頬の裏側に小さな傷跡のようなものが見えた。


「この口内炎でしょ!」


 そう言えば、夕食の時に魚の骨が頬に刺さったとか言っていた。そんな僅かな出血から眷属の因子を嗅ぎ取ることができるのか。犬かコイツは。


 ちょっと待てよ。


 俺は、ふと顎の下にできていたニキビに触れた。大きく膨らんだ大人ニキビだ。膿んでいるせいか爪先で触れると鈍い痛みが走った。三十歳すぎてからやたらと顎の周りにできるようになった。どうやら生活習慣の悪化や、ストレスよるホルモンバランスの乱れが原因らしい。確かに運動は全くしていないし、残飯しか喰っていない。またニートであることの罪悪感と未来への不安に対するストレスはハンパではない。ホルモンバランスが乱れても当然だ。だがニキビが若干萎んでいるように思えた。まさか吸血鬼になったらニキビも治るのだろうか。不死人、恐るべし。


 俺は、長年頑固に張り付いている巨大ニキビを人差し指と親指の爪先で挟んだ。ズキっと鈍い痛みが走った。このニキビは、潰しても潰しても、しぶとく復活してくる厄介な奴だ。コイツとの争いは十年を超えている。さすがに十年物のニキビとなると吸血鬼のパワーを駆使しても簡単には治らないようだ。俺はそのニキビを力任せに引き千切った。指先に滑りを帯びた液が纏わりつく。そして潰れたニキビの痕に触れると、べっとりと血液が付着した。


「ちょっと、おじ兄さん、なにやってるの?」


 くるみが怪訝そうにこちらを見ている。月明りしかない部屋だ。まさか自分のニキビを引き千切ったとは思わないだろう。


 しかし、エヴェリーナは敏感に反応していた。


「なんか、掻きむしったら、血が出たな」


 俺は、エヴェリーナに向けて血の付いた指先を見せた。


「はあ、なにやってんのよ」


 呆れるくるみの膝の上で、エヴェリーナの深紅の瞳が大きく見開かれた。


「なあ、俺に眷属の因子はあるか?」


 神妙な表情を浮かべ、黙り込むエヴェリーナ。


「どうなんだ、俺に眷属の因子はあるのか?」


 不気味な静寂が辺りを包んだ。


 なんだ、この変な空気は。


 エヴェリーナが歯嚙みしなから答えた。


「あ……ああ……あああ……る」


「あるのかっ!」


 クールでシニカルをモットーにしている俺だったが、さすがに驚きの声を上げてしまった。


「だがっ、認めん、認めんぞ、貴様のような汚穢の輩が、吾輩の眷属など認めんぞ!」


「いやいや、別に眷属になるつもりないんで」


 単に興味本位で血を見せただけで、眷属の因子が宿っているとは微塵も思っていなかった。


「えー、おじ兄さんも眷属になろうよ」


「吸血鬼の下僕などまっぴらごめんだな」


「何じゃとっ、吾輩も汚穢の輩など眷属にするかっ!」


「おいっ、さっきから俺のこと汚穢の輩って呼んでるが、汚穢って、う〇このことだろ! 誰がう〇こだっ、馬鹿野郎っ!」


 俺が怒鳴ると、エヴェリーナは怖がる素振りをしながら、くるみの胸にまた顔を埋めた。単に甘えたいだけだろ。


 俺は嘆息した。そして話を戻すことにした。


「んで、どうして、お前は島の女どもを吸血鬼にしたんだ?」


 するとエヴェリーナがくるみの胸から顔を上げ、鋭い眼光をこちらに向けた。


「貴様は、この島の女たちの行く末を知らないのか?」


「行く末?」


「この島の女たちにとって、この売春島は中継地点に過ぎん。女たちはこの島で男どもから散々に慰み者された揚げ句、大陸へと売り払われる」


 室内がしんと静まり返った。


「それって人身売買ってこと?」


 エヴェリーナが首肯した。


「吾輩がダムピールから逃れて大陸を放浪していた時、ある小国の港に東洋人の女を何十人も乗せた漁船が停泊していた。どうやらその港は、魚ではなく人間を揚げることで有名で、市場では世界中から連れてこられた人間が、奴隷として競りにかけられておった」


「この時代に人身売買ねぇ、さすがに信じられないな」


「新興国ではさほど珍しいことではない。人身売買が国家の財源の大半を占めている国だってある。そんな国であれば、政府による情報統制も徹底しておる。国際社会を欺くことなど造作もないじゃろう」


 未だにそんな旧態依然の国家がのさばっていることに憤りを覚えた。そういえば世界の人口の三割くらいが虐殺や略奪などの暴力に晒されていると聞いたことがある。確かに世界規模で見れば珍しいことではないのかもしれない。人類が火星を目指そうとしているこの時代に、人身売買とか奴隷とかつくづく情けなくなる。欲深い人間ほど醜く汚らわしい。世界が大きく変換しつつあるこの時代において、果たして醜く汚らわしい人間は必要なのだろうか。いやいや、もう必要ないでしょ。さすがにね。


「ヒドイ話……」


 くるみの押し殺すような声が聞こえた。


「吾輩は、ダムピールから逃れるべく、決死の覚悟で、女たちを乗せてきた漁船に忍び込み、この島に流れ着いたというわけだ」


「流れる水を嫌う吸血鬼が、船に乗り込むなんて、自殺行為だろ」


「仕方あるまい。吸血鬼とのハーフであるダムピールも流れる水を嫌う。ダムピールから確実に逃れるためには、海へ出るしかないのだ。しかし長い船旅により、吾輩は心身ともに摩耗していった。そして、島に辿り着く頃には、酷く憔悴して動くこともままならない状態になっておった。そんな吾輩を救ってくれたのが華美羅じゃった」


 小さく息を吐き、エヴェリーナは続けた。


「吾輩が華美羅に吸血鬼であることを告げると、華美羅は僅かな戸惑いを見せつつも、吾輩に血を分け与えてくれた。吾輩は本能の赴くまま、彼女を貪り、生き血を啜った。結果、華美羅を吸血鬼にしてしまったのだが、彼女が吾輩を咎めることはなかった。寧ろ、重い枷から解き放たれた罪人のような、晴れやかな表情を浮かべておった」


 その感覚は分からないでもない。人間として生きることに絶望していた矢先、吸血鬼として新たに生まれ変わったのだ。人間としての人生が終わり、吸血鬼としての人生が始まった。絶望しかなかった人生からの解放。例えそれが吸血鬼としての人生の始まりであっても、晴れやかであったに違いない。また人間を餌とする上位種に生まれ変わったことで、へばりついていた人間への恐怖心が消え去り、ある種の優越感が生まれたのかもしれない。


 人間は餌に過ぎない。


 この概念が生まれたことで、正直、心が軽くなった。


 ようやく弱者の鎖から解放された気がした。


 もう、人間を恐れなくていい。


 華美羅もそんな感情を抱いたのかもしれない。


「吾輩はこの島の内情を知り、この島の娘たちの行く末が凄惨なものであることを覚り、その事実を華美羅へ告げた。華美羅は立場上そのことを知っていた。知っていたがどうすることもできなかった。そして無力な自分を日々責め立てていたそうだ。しかし吸血鬼になったことで、彼女の中にあった弱者の鎖が断ち切られた。彼女は島の娘たちに人身売買の事実を告げ、大陸で売られて奴隷になるか、吸血鬼となってこの島を支配するかを選択させた」


「究極の二択だな」


 奴隷になるのも吸血鬼なるのも、結局は人間を止めることに変わりない。


「で、全員、吸血鬼になる道を選んだってわけか」


「そうだ。幸い、この島には絶え間なく男どもやってくる。餌に困ることはない」


「餌となった男たちはどうなってんだ?」


「生き血を吸いつくした後は、骨一本残すことなく華美羅が喰らい尽くしておる」


 華美羅は吸血鬼であると同時に屍食鬼だ。死肉を喰らうことで異能を増幅させる化け物だ。


「だが、この島に来た連中が、次々に行方不明になっているのは事実だ。さすがに島を取り仕切っているヤクザどもも異変に気付くだろ?」


「気付いたところでどうすることもできまい。餌となった男どもは、すべて華美羅の胃袋の中に納まっておる。探したところで骨一本も見つかりはせん。そもそもこの島が吸血鬼に支配されているなど想像も及ぶまい」


 元よりこの売春島は違法地帯である。客も違法だと知った上で遊びに来ている。非合法の島で事件に巻き込まれても自己責任だ。血を吸い尽くされた揚げ句に食べられても自己責任だ。高級ブランドを身に着けて偉そうに振舞っていた男たちが、吸血鬼どもの餌になっていたと思うと、少しだけ気の毒に思えた。一時の快楽の代償が命とは何とも皮肉な話だ。


「それでも、この島で行方不明者が多発すれば、その噂が広がって誰も来なくなるだろ」


 売春島を愛用する連中にもネットワークがあるはずだ。その中で知り合いが島で行方不明なったことを知れば警戒して近づかなくなるだろう。


「それに関しては頭を悩ましておる。餌がなくなれば、この島から出て餌を捕りにいかねばならん。だが極力この島からは出たくはない」


「なんでだ?」


「島の外にはダムピールがおるからじゃ」


 ※ ※  ※


 吸血鬼ハンターは世界各地に存在している。その代表格がダムピールだ。


 吸血鬼と人間との混血児で、吸血鬼の異形の能力を宿しながらも、人間としての自我を保ち続けている稀有な存在だ。ダムピールによる吸血鬼狩りは、儀式的な側面が強く、笛を鳴らしたり、走り回ったり、虚空に向けて刃を振るったりと、独特の方法により吸血鬼を祓っているらしい。なにやら東欧では、ダムピールかどうか定かではないが、吸血鬼を祓う儀式が近年まで行われていたらしい。


 ここまでは、俺の図書館で得た知識だ。


 ファンタジー気分で何気なく得た知識だ。


 しかし吸血鬼は実在していた。よって吸血鬼ハンターの存在も現実味を帯びてくる。だが、儀式程度で、この島の吸血鬼をすべて祓うことができるのだろうか。儀式の最中に吸血鬼が徒党を組んで襲い掛かってきたらひとたまりもないはずだ。しかし、高潔かつ純血なる吸血鬼エヴェリーナの一族が討たれたとなると、やはり漫画や小説に出てくるような吸血鬼ハンターが存在するということか。羽根付きの旅人帽子を被り、大太刀を背負った黒衣の男の姿が浮かんだが、そんな奴が現実にいるとは到底思えない。大太刀を持ち歩いている時点で即逮捕だ。


「この島は海に囲まれておる。連中も簡単に侵入することはできぬ」


 ダムピールには吸血鬼の血が半分流れているため、吸血鬼の弱点もそのまま引き継がれているようだ。縛りプレイの面では対等に思えるのだが。


「おいおい、てことは、俺たちも、この島から出られないってことか?」


「この島から出れば、貴様など一瞬で祓われるじゃろう」


 最悪である。まさかここにきて吸血鬼ハンターに命を狙われるとは。持病が治ったなどと喜んでいた己が阿保に思えた。


「だが、いつまでもこの島にいるわけにはいかないだろ。食糧難は必ず訪れるぞ」


 刹那、室内に冷気が漂った。


 皮膚をひりつかせる冷気。紙やすりで撫でられているような嫌な痛みが走った。


「その時が、決戦の時じゃ」


 エヴェリーナの双眸が深紅に光った。その剣呑な輝きに、俺の肌が泡立った。見た目は幼女でも、高潔かつ純血なる吸血鬼貴族の末裔。数分前に吸血鬼になった俺とは訳が違う。彼女は一族の誇りを背負っている。憤怒や憎悪、そして悲愴よりも、一族の誇りのために戦っている。その信念は幾重にも折り重なった歴史の最上段にあるのだろう。俺には到底理解できない信念だ。


「わかった。あたしもエべちゃんのために戦う。だって、あたしはエべちゃんの眷属なんだから!」


 くるみが拳を握りしめた。するとエヴェリーナが「わーい、頼りにしているのだぁ」と叫びながらくるみの胸に顔を埋めた。なぜそうなるのだ。くるみは理解しているのだろうか。エヴェリーナによって俺たちは吸血鬼にされ、結果、吸血鬼ハンターに命を狙われることになったことを。コイツ、日増しに馬鹿になっていないか。いや、これが素なのか。初めて会った時はもっとしっかりした印象だったが。まあ、もう、どうでもいいけど。


「で、今の戦力で勝てるのか?」


「無理じゃな。少なくとも十人は眷属が必要じゃ」


「んで、今、眷属は何人いるんだ?」


「三人じゃ」


「華美羅とくるみ以外にもう一人いるってことか。全然足りないな」


「おじ兄さんも合わせれば、四人になるじゃん」


 くるみが嬉々として言った。どうにも俺を眷属にしたいらしい。意味が分からん。バイト仲間を増やすような感覚か。


「嫌じゃ。臭いで分かる。この男の血は不味い。とんでもなく不味い。糞の汁じゃ」


 必死で拒絶するエヴェリーナに、なぜだか心が傷ついた。そういえばくるみも「うえー、おいしくない」とか言いながら、俺の血を勢いよく吐き出していた。それほど不味いのか。十年間、残飯ばかり食ってきたからだろうか。中年ニートは血液まで否定されるのか。悲しい。


「ほら、珍味と思えば大丈夫。一度吸っちゃえば、案外、病みつきになるかもよ」


 エヴェリーナが、ちらりと顔をこちらへ向けた。


 途端、表情が歪んだ。


「ならば、くるみ、まず、お前が奴の血を吸ってみろ」


 くるみが目を丸くした。


「お前が奴の血を吸うことができたならば、吾輩も考えて良い」


 こちらをチラチラ見ながら、心底困った顔をするくるみ。


「えっ、いや、それは、ちょっとぉ……」


 もう、これ以上、傷つきたくないですけど。


「とにかく、食料が尽きる前に、何としても残り七人の眷属を生み出さなければならん。悪いが吸血鬼である以上、お前たちにも手伝ってもらうからな。覚悟しておけ」


 何の覚悟だ。くるみの胸に顔を埋めた状態で言われても説得力はない。しかし状況は極めて深刻だ。吸血鬼となった俺が生き残るためには、吸血鬼ハンターとの全面戦争は避けられない。人生の安住を求めて蒸発したはずが、とんでもないことに巻き込まれる羽目となった。このすべての原因は、目の前で糞ったれな吸血鬼の頭を撫でている元ナンバーワンデリヘル嬢にある。


 俺がくるみを睥睨すると、くるみが笑みを浮かべて返してきた。瞬間、俺は心臓に痛みを覚えた。俺の膝の上に跨り、淫靡な吐息を零しながら、ゆっくりと近づいてきた妖艶な唇。とろんと垂れた大きな瞳は、今も脳裏に焼き付いている。


 一体、なんなのだ。出会った時は、散々俺を拒絶したくせに、今は異常なほど距離を詰めてくる。何がしたいんだ。何が目的なのか。アラフォーになっても女心は全く分からない。


 俺が悶々と考えてあぐねていると、突如、上空で爆音が轟いた。


 建物全体が揺れるほどの轟音。窓ガラスがせわしなく前後に揺れ、コンクリートの壁が振動を始めた。俺が必死で耳を抑えていると、エヴェリーナがくるみの膝から飛び降り、天井を見つめた。その顔は蒼白していた。


「ダムピールじゃ……」


「はあっ、どういうことだ?」


 俺の問いかけなど無視して、エヴェリーナは走り出し、階段を駆け上がって行った。


 ただ事ではない事態に、俺はくるみを連れてエヴェリーナの後を追った。


 料理組合の事務所は三階建てだ。二階には形だけの会議室があり、三階には形だけの組合長室がある。その三階から非常階段を伝って屋上へ出ることができる。


 そして、屋上へと出た俺は、猛烈な下降気流にたたらを踏みながら、空を見上げた。


 俺は絶句した。


 漆黒の空一面に浮かぶ無数の黒い物体。それら物体の背には巨大なプロペラが高速で回転している。物体からはせわしなく光が放たれ、地上をなぞるように照らし続けている。


「おいおい、何なんだ、このヘリどもは」


 上空には無数のヘリコプターが浮いていた。吸血鬼になったことで夜目が利くようになったのか、すぐに眼前のヘリが普通でないことが分かった。ヘリは装甲に覆われており、側面には機関砲とロケット弾が装備されていた。


 戦闘ヘリコプターである。


「コイツら、軍隊か?」


 空を見上げたまま訊くと、隣にいたエヴェリーナが口許を震わせながら答えた。


「そうじゃ。吸血鬼の殲滅を目的としたダムピール軍じゃ」

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