第16話 あたしに命令するなっ!

 結論から言うと、この売春島は吸血鬼によって支配されていた。純血かつ高潔なる吸血鬼エヴェリーナ・チェイテによって、島の娼婦たちは、亡者レブナントと呼ばれる吸血鬼にされている。そして、それら亡者レブナントを束ねているのが、エヴェリーナの眷属で、屍食鬼グールとなった華美羅というわけだ。エヴェリーナの目的は、ダムピールと呼ばれる吸血鬼ハンターに対抗するための戦力を確保することらしい。そのためには、強大な異能を持ち、亡者レブナントを操ることのできる眷属が必要となる。そして眷属は、特別な因子を宿した人間しか発現することができない。そんな特別な因子を宿しているのが、くるみというわけだ。


 そんな吸血鬼の眷属の因子を宿すくるみは、革のソファーの上で、のんきに寝ている。


 ここは料理組合の事務所だ。


 俺はずぶ濡れのまま、革のソファーに腰を下ろして息を整えていた。向かいのソファーで眠るくるみもずぶ濡れだ。


 華美羅から逃れるべく海に飛び込んだ俺は、くるみを抱きかかえたまま、岸壁に設置されていた梯子に必死にしがみついていた。くるみを梯子の上に押しやって、下から支えていたため、何度も海水を飲み込んで、溺れそうになった。恐らく華美羅は、俺が泳いで敷地外へと逃げたと思ったのだろう。死に物狂いで梯子を上がると、華美羅の姿はもうそこにはなかった。


 俺は、へとへとになりながら、くるみを背負い、料理組合の事務所に転がり込んだ。


 俺は嘆息した。


 何とか逃げ延びることができたが、俺もくるみもずぶ濡れだ。急激に寒さに襲われ、一気に肌が泡立つ。今の季節、昼の気温は暖かいが、夜はぐっと冷え込む傾向にある。俺は着ていたシャツとジーンズを脱ぎ捨て、タオルを探した。当然、使用されていない事務所に日用品は置いておらず、トイレの洗面台の壁に、タオルが一枚掛けてあるだけだった。もはや贅沢は言うまい。俺はタオルで身体を拭きたい衝動を抑え、トイレットペーパーを乱暴に巻き取り、海水でべたついている肌を無理やりトイレットペーパーで拭いた。暗闇でよく見えないが、恐らく全身トイレットペーパーの紙片が張り付いていることだろう。だが今はそんなことを気にしている場合ではない。俺はトイレットペーパーで全身を手早く拭き、タオルを持って、くるみの元へ急いだ。


 くるみは、未だ仰向けの状態で寝息を立てていた。


 どういうことだろうか。


 吸血鬼に襲われて、海に飛び込んで、陸に這い上がっても、目を覚まさない。どうにも恐ろしくなってきた。寝息は聞こえており、生きているのは間違いないが、もしかすると昏睡状態に陥っているのかもしれない。


 俺はくるみの頬を軽く叩いた。目を覚ます様子はない。


 俺はくるみの耳元で適当な言葉を囁いた。目を覚ます様子はない。


 俺はくるみの足の裏をくすぐってみた。目を覚ます様子はない。


 俺はもう一度くるみの頬を軽く叩いた。さっきよりも冷たくなっている。濡れた衣類が体温を吸収していっているのだろう。もはや一刻の猶予もない。俺はタオルを片手に、腰に巻かれた帯を解き、着物の衿に手を掛けた。瞬間、心臓が大きく高鳴った。月明りに照らされ、なまめかしい白い胸元に、視線が止まる。俺は高ぶる欲望を振り払った。一刻も早く身体を温めないと、低体温症になってしまう。そのためには、海水で濡れている身体をタオルで拭き取らなければならない。


 そう、着物を脱がして。


 疚しさなどない。純粋に彼女を救うための行動をしているのだ。


 と、自らに言い聞かせ、くるみの胸元に手を入れ、着物を脱がせようとした時、彼女の瞳がかっと見開いた。俺は喉から心臓が飛び出しそうになった。くるみは大きな目を広げて、こちらをじっと見ている。俺は素早く彼女から距離を置き、必死で言い訳を考えた。否、言い訳など考える必要などない。正当な理由がそこにはある。上手く説明できないだけだ。


 そんな激しく狼狽している俺に対して、決して視線を離さないくるみ。


「まっ、まあ、聞いてくれ。これには深い訳があるんだ!」


 結局、テンプレ的な言い訳しか浮かばない。正当性はどこにいった。


 くるみがすっと立ち上がった。


 窓から差し込む月光が、彼女の真っ白な肌を照らし、露わとなっている濡れた肩口が、てらてらと光る。海水を含んだ着物が、重力に引き寄せられるように、ゆっくりと下りていき、彼女の足元で広がった。下着姿となったくるみは、ひたひたとこちらへ歩き始めた。


 異様な美しさだった。


 引き締まったしなやかな肢体は、西洋の絵画に描かれている裸体の美女を髣髴とさせる。そこに降り注ぐ月光が神秘さと妖艶さを醸し出していた。


 気が付くと、俺は、彼女に見惚れてしまっていた。


 くるみは静かに、そして滑らかに近づくと、俺の胸に手を当て、そのまま体重を掛け、俺をソファーに押し倒した。ソファーのひじ掛けに軽く後頭部を打ち、衝撃で目を閉じる。


 ふと、首元に暖かな吐息を感じた。


 驚いて目を開けると、そこにくるみの顔があった。


 くるみは、俺に覆いかぶさる体勢で、首元から上目使いでこちらを見た。漆黒の大きな瞳に吸い込まれそうになる。微かな笑みを湛えた唇からは、妖艶な色香が漂っている。彼女の冷たい肌が密着する。海水で濡れているはずなのに、驚くほど滑らかで柔らかい。


 情けないことに、俺は声を出すことができなかった。それほどこの状況に動揺していた。


 くるみは唇からゆっくりと舌を出した。柔らかそうな赤い舌が淫靡な動きをする。そして舌先が俺の首筋に触れる。全身に鳥肌が立った。生暖かい舌が、いやらしくうねりながら、首筋をゆっくりと這いずり回る。俺は声が出そうになるのを必死で堪えた。こそばゆさと気持ち良さが同調している変な感覚だ。強張っていた体が徐々に緩んでいく。次第にこそばゆさよりも気持ち良さのほうが勝り始めた。快楽が高まるにつれ、俺の身体は彼女へと委ねられていった。


 と、その時、彼女の歯が首筋に当たった。

 

 既視感があった。


 そして、次の瞬間――。


 ずぶりっ、と首筋に鋭い何かが突き刺さった。


 痛みはなかった。が、どこか聞き覚えのある嫌な音が聞こえてきた。


 ずずずっ、と何かを啜るような音。


 これはまさか。


 恐る恐る首筋に顔を埋めているくるみへと視線を落とす。漆黒だったくるみの瞳が徐々に深紅へと変貌していく。肩甲骨から腕を伝って、生暖かい液体が流れていくのが分かった。


 俺は、自分の体液が吸い出されていることにようやく気付いた。


 途端、首筋から波紋のように痺れが広がっていき、意識に靄が掛かっていった。男たちが抵抗することなく血を吸われていた理由が分かった。恐らく獲物の自由を奪うため、血を吸う際に神経毒のようなものを注入しているのだろう。吸血鬼、恐るべし。


 遠ざかっていく意識の中、俺は人生の最期を悟った。


 改めて思い起こしてもロクでもない人生だった。欲望に支配された人間どもに散々振り回された人生だった。全く人間とかいう猿はどうしてこうも醜いのか。もうウンザリである。そう考えると、この最期は悪くない気がしてした。美しい吸血鬼と肌を密着させたまま、血を吸われて果てる。痛みはない。それどころか溢れた血をいやらしく舐めとる舌の感触や、血を吸うために押し付けられた胸の感触、拘束するために絡みついている二の腕や太腿の感触を踏まえると、至福ともいえる。俺は死への恐怖を脱ぎ捨て、束の間の快楽に身を委ねた。悪くない最期だ。


 さらばだ、我が人生。


 来世は運に恵まれたい。


 リア充、望む。


 と、その時、夢中で血を啜っていたくるみの動きが止まった。


 そして、ゆっくりと顔を上げた。


 血液で頬をパンパンに膨らませたくるみが、こちらを見下ろした。どんぐりを含んだ冬ごもり前のリスのようだ。


 と、次の瞬間、俺の顔面に向けて血液を勢いよく吐き出した。


「うえー、おいしくない」


 ※ ※  ※


 古来より日本では厄災が多く降りかかる年を厄年と呼んでいる。陰陽道を起源とされているらしいが、科学的な根拠は証明されていない。ちなみに女性は数え年で十九、三十三、三十七歳、男性は数え年で二十五、四十二、六十一歳となっている。特に女性の三十三歳と男性の四十二歳は大厄と呼ばれており、災難や凶事に襲われる可能性が非常に高いと言われている。


 数え年で四十二歳。


 俺は、吸血鬼になってしまった。


 大厄によるものか定かではないが、風俗嬢に脅され、殺し屋に追われ、吸血鬼に襲われる災厄の数々。そして、吸血鬼にされる凶事。もはやただ事ではない。


 俺は、顔面に浴びた血をティッシュで拭き取りながら、首筋に指先を当てた。ぽっかりと小さな穴が開いており、押すとぴゅっと生温かい液体が飛び出した。血の付着した指先をティッシュで拭き取り、恐る恐る指先を口の中へと入れ、歯に触れてみた。歪な形をした犬歯に指が引っかかった。ゆっくりとなぞってみると、長く伸びた犬歯は、先端が槍のように尖っていた。


 牙である。


 紛れもなく吸血鬼だ。


 すぐにでも洗面所に向かい、鏡で自分の姿を確認したいが、この暗闇である。見えるわけがない。灯りを付ければ、華美羅たちに見つかってしまう。が、それ以前に、灯りを付けることに対して、本能が拒絶していた。吸血鬼は日光を嫌う。灯りも同様なのだろう。また洗面所に近づくことも、本能が拒絶している。吸血鬼は流れる水を嫌う。水道も同様なのだろう。よって俺は、灯りを付けて水で流せば、すぐに落ちる顔面の汚れを、勘と感覚で拭き取っているのだ。とんでもなく不便な身体になってしまった。が、利点もあった。身体の調子がすこぶる良いのだ。慢性鼻炎、逆流性食道炎、アトピー性皮膚炎、慢性前立腺炎、切れ痔、いぼ痔、痔ろう、水虫といった長年悩まされてきた持病がすべて治ったのだ。二十代の頃より調子が良い。不死人ゆえに細胞が活性化しているのだろうか。とにかくやけに身体が軽くなった。吸血鬼になったことで健康を実感するとは皮肉なことだ。


 しかしもう人間社会に戻ることはできない。これからどうするべきか。


 血塗れのティッシュをゴミ箱に捨て、ソファーに腰を掛けて、今後のことを考える。


「おじ兄さんが着れそうなものはなかったよ」


 振り向くと、そこにスーツ姿のくるみが立っていた。ジャケットとフレアスカートのセットアップで、サイズも問題なく合っている。もしオフィス街にいれば、美人OLとして話題になりそうだ。恐らくスーツの持ち主は華美羅だろう。一応、彼女はこの島を取り仕切る料理組合の組合長だ。多少なりとも対外的な仕事もあるはずだ。事務所にスーツがあっても不思議ではない。


「仕方ないな。服が乾くまでこのままでいるしかないな」


 俺はトランクス一枚で、ソファーに腰を掛けている。


「寒くない?」


 吸血鬼になったからか、不思議と寒くない。


「風邪ひくよ」


 果たして吸血鬼が風邪ひくのだろうか。


「このジャケット貸してあげようか?」


「いらん、レディースのジャケットなど窮屈すぎて着れるわけないだろう」


 まあ、病的に痩せているから着ることは可能だが、ジャケットを脱げば、くるみは下着姿になる。そこまでして寒さをしのぎたいとは思わない。そもそも寒くないのだからなおさらだ。それに、くるみが下着姿になれば目のやり場に困る。


「じゃあ、さ」


 くるみがちょこんと俺の隣に座った。


 俺は変な違和感を覚えた。心なしか妙に距離が近いような気がする。


 状況が理解できずに戸惑っていると、横からすっと手が伸びてきて、俺の肩を掴むと、柔らかな感触が腕に伝わった。耳朶に生暖かい吐息が触れ、鼻孔に甘い匂いが漂った。フルーティーな香り。


 これは一体どういう状況なのだ。


 俺は年甲斐もなく動揺していた。


 隣に座っているくるみが、俺の肩に手を回して抱きついているのだ。


 俺は身体を硬直させたまま、虚空をじっと見つめていた。


 肩に触れている彼女のひんやりと冷たい手に、神経が集中されていく。


 もしや、再び、俺の血を吸うつもりなのでは、と不安に駆られていると、くるみが小さく口を開いた。


「こうやってくっついてたら、少しは暖かいでしょ」


 肉体の暖かさよりも、彼女の柔らかさの方に意識が引き寄せてられてしまう。


「あれっ、おじ兄さんって意外といい身体してるね」


 くるみの指が胸の辺りをなぞった。俺は全身に鳥肌が立った。


 これ以上、俺の欲を掻き立てるのはやめてくれ。


 と、ふと気付いた。


 いい身体。


 どういう意味だ。


 俺の身体は、胸骨と肋骨が浮き上がり、下っ腹だけが膨れ上がっている地獄にいる餓鬼のような身体で、お世辞にもいい身体とは言えない。くるみはこの妖怪じみた身体をいい身体と感じる特異な美的感覚の持ち主なのだろうか。そう思いながら、何気なく、いつものぽっこりお腹に手を当ててみると、そこにいつもの感触はなかった。腹がへこんでいる。それどころか腹が割れている。憧れのシックスパックに割れている。慌てて洗濯板のような胸に手を当てると、胸筋がはち切れんばかりに膨らんでいた。


 どういうことだ。


 気付いたら、アスリートのような身体になっていた。


 吸血鬼へ変異したことで起こる相乗作用みたいなものか。確かに、吸血鬼の膂力は人間の数十倍といわれている。それほどの膂力を生み出すには、相応の肉体が必要となる。地獄の餓鬼のままで、人間を超える膂力を発揮することは不可能だ。つまり、吸血鬼になれば、自動的に筋骨隆々の肉体へと変貌するということか。


「あのさぁ……」


 急激な肉体改造に戸惑っていると、くるみが俺の肩に頭を乗せて小さく言った。


「いろいろと巻き込んじゃって、ごめん」


 彼女には珍しく落ち込んでいるようだ。


「実は、全部わかっていたの。おじ兄さんとドクちゃんが、あたしを助けに来て、おじ兄さんが、あたしをおんぶして逃げてたのも、全部わかっていたの。わかっていたけど、身体が動かなくて、そしてだんだん意識が黒い靄に吸い込まれていって、気付いたら、おじ兄さんの血を吸ってたの」


「お前は、あのエヴェリーナとかいう吸血鬼に、血を吸われたのか?」


「うん。おじ兄さんと別れて、料亭の客間で寝ていたら、華美羅さんたちがやってきて、無理やり娼館に連れていかれたの」


「毒島とは同じ部屋じゃなかったのか?」


「ドクちゃんとは別の部屋で、あと離れていたせいもあって助けを呼んでもダメだった」


 すでに奴らは、くるみに眷属の資質を見抜いていたのだろう。毒島と引き離したのも、彼女の抵抗を恐れたからに違いない。異能を宿す吸血鬼であっても、元殺し屋である毒島は、厄介な存在であると踏んだのだろう。


「で、娼館に拉致されて、あの吸血鬼に血を吸われたってことか」


「うーん、血を吸われたんだけど、同時に血も入れられた」


「血を入れられた?」


「うん、舌の先に針みたいなのが付いてて、その針で首筋を刺して血を入れられたの。で、血を入れられた瞬間に、身体が動かなくなって、徐々に黒い靄みたいなものが頭の中に広がって」


 吸血鬼に血を吸われれば吸血鬼になる。ならば吸血鬼に血を注入されたらどうなるのか。眷属との因果関係があるのだろうか。


「正直、吸血鬼のことあんまり詳しくないんだけど、不思議と自分が吸血鬼っていう自覚はあるんだ。変な感じだよね」


「それは俺にもあるな」


 最も感じるのは不気味な渇きだ。水では決して潤うことのない渇き。この渇きを満たすには、生暖かく、とろみを帯びた赤い液体が必要だと本能が唸っている。人間を前にして正気を保つことができるかどうか不安になる。


「ごめんね、おじ兄さん。吸血鬼にしちゃって……」


 常に主導権を握って離さなかったくるみが、随分としおらしくなったものだ。反省しているのだろう。偶然、指名してきた客を散々振り回して、巻き込んで、揚げ句の果て、吸血鬼にしてしまったのだ。反省してもらわなければ困る。俺は完全なる被害者なのだ。だが、これほど身体を密着されれば、責めようにも責められない。美人は得だな、この野郎。


「まあ、もうお互い吸血鬼になっちまったんだから、嘆いても仕方ないだろ。むしろ俺たちは吸血鬼なわけで、人間を恐れる必要はなくなったわけだ。俺たちを血眼で探しているヤクザや殺し屋も所詮は人間。俺たちに敵うはずがない。もはやただのエサだ。全員、喰ってやろうぜ!」


 不気味な渇きに加えて、肉体の奥底から込み上げてくる異形の力。まさに力が漲るとはこのことだ。人間など指先一つで捻りつぶすことができそうだ。人間など恐れるに足らず。俺にとって人間は、もはや餌に過ぎない。ふいに喉の奥で蠢いていた渇きが増幅した。俺の身体は明らかに血を欲している。人間の生き血を所望している。さてどうするか。すぐにでもカワイ子ちゃんの生き血を啜りたいが、いたいけなカワイ子ちゃんを吸血鬼にするのは良心が痛むので、生きていても害しかなさそうな連中どもの血を吸うことにする。俺は自らの人生を振り返り、血を吸っても問題なさそうなクズ共を次々ピックアップしていった。おや、案外多いことに驚いた。くくくっ、蹂躙してやろうぞ、人間。が、しかし、どいつもこいつもクソ不味そうで食欲が一気に失せた。


「とにかく、俺たちは晴れて自由の身となったわけだ!」


 俺は満面の笑みで言ったが、くるみは浮かない表情のままだ。


「落ち込む気持ちも分かる。人生これからって時に、吸血鬼にされたんだ。そう簡単に受け入れられるものじゃない」


 俺はもう受け入れている。失うものないニートは受け入れも早いのだ。


「うむ、やはりここは、あのエヴェリーナとかいう吸血鬼を捕まえて、人間に戻る方法を聞いてみるか。危険な賭けだが、お前にその気があれば俺は手伝うぞ」


 くるみの目を見つめ、俺は強く言い放った。


 人間に戻る方法。


 言ったそばから後悔した。やはり男は、女を前にすると恰好つけてしまう。男はみんな虚栄心の塊。女の前ではその虚栄心が増幅する。美人だとなおさらだ。


 人間に戻る方法。


 果たして、あの高潔かつ純血なる吸血鬼エヴェリーナ・チェイテが、雑種の俺たちに教えてくれるだろうか。難しいだろうな。そもそもエヴェリーナの目的は、くるみを眷属にすることだ。人間に戻す方法など教えてくれるわけがない。


 ならば、どうするべきか。


 俺が考え込んでいると、くるみが俺の太腿に跨り、躊躇しながらも上半身を傾け、優しく包み込むように抱きしめてきた。


「これだったら、もっとあったかいでしょ」


 彼女の柔らかな感触が全身に伝わる。俺の心臓は飛び上がった。


 くるみは両腕を俺の首に回してぎゅっと力を込めた。俺の顔は彼女の胸に押し付けられた。


 ここまで胸が高鳴ったのは生まれて初めてかもしれない。胸の高鳴り。なぜかそこに痛みはなく、むしろどこか心地のいい高鳴りだった。胸は高鳴っているにも関わらず、心は徐々に落ち着いていく。不思議な感覚だ。


 こうやって誰かに抱きしめてもらえたのは、いつ以来だろうか。


 強張っていた筋肉が、ゆっくりと弛緩していく。俺の身体は、くるみの身体へと委ねられていった。吸血鬼になっても、人の温かさと柔らかさは、心地のいいものだと実感した。


「別にあたしは吸血鬼になったことは後悔してないよ。だってあたしは、あたしの意思でここに来て、吸血鬼になったんだから。自業自得だし、もう運命として受け入れるしかないと思ってるから」


 最近の若者は潔いのか達観しているのか、なんだかんだ受け入れ早い。俺の世代は、基本的に不都合な事態に陥れば、まず放置して見て見ないふりをする。そして、にっちもさっちもいかなくなって、しぶしぶ受け入れるのが主流である。


「でも、おじ兄さんは、おじ兄さんの意思でここに来て、吸血鬼になったわけじゃないでしょ? あたしのワガママに付き合ってここに来て、あたしに血を吸われて吸血鬼になった。全部、あたしのせいでしょ。あたしのせいで危険な目に何度もあって、あたしのせいで吸血鬼になった。謝っても謝っても、謝り切れないよ」


 最近の若者は真面目なのか自信がないのか、とにかく責任を自分のせいにする。俺の世代は、基本的に責任を問われれば、まず他人のせいにする。そして、どうにもこうにもいかなくって、しぶしぶ責任を認めるのが主流である。


 俺の肩に顔を埋めていたくるみが、弾けるように顔を上げ、強い眼力で俺を見つめた。俺とくるみの距離は、鼻先数センチしかない。あまりの恥ずかしさに、俺は目を背けた。


「あたし、どうしたらいい? どう責任とったらいい?」


「いや、別に、俺は吸血鬼になったことを後悔してないが。むしろ長年に渡り悩まされてきた持病が一気に治って嬉しいくらいだが……」


「違う、そうじゃない!」


「なにが?」


「持病なんて、ちゃんと病院に行って治療すれば治ってたでしょ!」


「まあ、確かに」


 単純に、ニート期間中は病院に行くお金がなかったのだ。


「これから吸血鬼として生きて行かなきゃなんないのよ。誰かの血を吸わないといけないし、お日様の光も浴びれないし、ニンニクだって食べれないんだよ!」


 血を吸っても問題なさそうなクズはもうリストアップ済みだ。全員クソ不味そうだが我慢するしかない。あと元々引きこもりのニートなので、日光はあまり好きではない。一般的にニートは夜行性でジメジメした場所を好む。あとニンニクに関しては、久しく食べていないため、味がよく思い出せない。あんなもんは、洒落た料理か健康食品にしか入っていないだろう。少なくとも残飯には欠片も入っていなかった。


「とにかく、これからすっごく不自由な生活を強いられるの!」


「そうかねぇ?」


「そうなのっ!」


 さすがは常に主導権を握りたい女。否定は決して許さない。俺は彼女によって吸血鬼にされた不幸な中年ニートを演じなければならない。俺は役者だ。すぐにでも彼女を叱責するセリフをアドリブで生み出さなければならない。


 叱責。


 言いたいことは山ほどある。俺の人生設計を大きく狂わせたことに対する怒りは大きい。しかし、口づけするか否かの距離で、怒りなど湧くわけがない。これは叱責する距離ではない。


「俺は、お前のワガママに付き合ってここまで来たんじゃないぞ。俺は俺の意思に従ってここまで来たんだ」


「嘘だ!」


「嘘じゃない。ほら、言っただろ、俺は今もお前からのサービスを待っている状態だって。高い金を払ってんだ。そう簡単に諦めてたまるか!」


 我ながら最低な励ましだが、俺みたいな中年ニートに責任を感じる必要はない。


 くるみは黙ったままじっとこちらを見ている。


 奇妙な静寂が落ちた。


 互いの心臓の音が聞こえそうなほどの静寂。


 発言がクズすぎて軽蔑しているのか、などと緊張していると、くるみが小さく口を開いた。


「ねえ、おじ兄さんは、どうしてあたしを指名したの?」


 急に話が過去へと遡った。


「どうして、と言われましても……」


 三日前、焼肉と寿司で食欲を満たした俺は、偶然立ち寄ったコンビニで見つけた風俗雑誌の表紙のくるみに魅かれ、性欲を満たそうと考えた。誰しも大金を手にすれば己の欲望を満たすための行動をする。当然のことだ。人間とはそういう生物だ。欲望なくして進化はない。飽くなき欲望が文明を発展させ、現在の成熟した社会を作り出したのだ。悪いことなど何もしていない。軽蔑される筋合いなどどこにもない。俺の行動は社会の発展における礎の一つとなっているのだ。


 が、そんな詭弁言えるわけがない。


「どうして指名したの?」


「いや、それは、その……」


「どうして?」


「いや、まあ……」


「どうしてっ!」


「か、可愛いかったから……」


 いい年こいて恥ずかしがっている己の姿を想像するだけで恥ずかしい。


「だったら、これからずぅーと、無料でサービスしてあげる。それでいい?」


「はっ?」


「おじ兄さんは、あたしの顔が好きなんでしょ」


「あ、いや、その、好きっちゃ好きだけど……」


「だったら、ずぅーと無料でサービス受けられると嬉しいでしょ」


「ま、まあ、嬉しいっちゃ嬉しいけど……」


「じゃあ、決まりね」


「いや、ちょっと待て、ずっと無料サービスってどれくらいなんだ?」


「それはおじ兄さんが決めて」


「じゃあ、俺が一生って言ったら、一生無料サービスしてくれるのか?」


「もちろん」


「それはもう客と風俗嬢の関係じゃないだろ」


「あたしはおじ兄さんの人生を狂わせた責任があるの。それくらいは覚悟の上よ!」


「どんな覚悟だ!」


 そう言いながらも、俺の口許は笑っていた。理解不能な価値観の押し付けだが、なぜだが嬉しかった。決して無料サービスに喜んでいるわけではない。俺のことを真正面から見てくれていることが嬉しかった。俺という存在に、ここまで意識を向けてくれることが嬉しかった。色々とおかしな部分はあるが、俺の心には小さな温かみが生まれていた。


「じゃあ、まずは貰ったお金の分から」


 くるみの瞳がとろんと垂れ、潤みを帯びた。


「いや、ちょっと待て、今はそんな状況ではないではないだろ」


 狼狽する俺を無視して、くるみの唇がゆっくりと近づいて来る。形の良いぷっくりと膨らんだピンク色の唇。微かだが感じる甘い香り。彼女の唇に吸い込まれそうになる。俺の理性は薄れていき、本能が濃くなっていった。俺も男だ。彼女の覚悟に泥を塗るわけにはいかない。


 決意を固め、俺は、彼女の唇に顔を近づけた。そして唇と唇が触れ合うかどうかの瞬間、室内の空気が急激に変わった。


「ふふふ、まさか情事の最中に出くわすとは、吾輩の間の悪さも筋金入りじゃな」


 微睡のような時間から、一気に現実へと引き戻された。


 室内に真っ白な霧が立ち込める。聞き覚えのある声と、見覚えのある霧に、背筋が寒くなる。


「吸血鬼は淫魔の闇も宿しておる。安心しろ、獣じみた欲望は吸血鬼である証じゃ」


 闇の中で不気味に漂う白い霧。奇妙に蠢きながら、一点に向けて収束を始めた。無作為に散らばっていた霧が徐々に人の形を成していく。おぼろげだった輪郭が鮮明に浮き上がると、そこから幼い少女が姿を現した。


 白髪が闇にたなびいた。


 高潔かつ純血なる吸血鬼。


 エヴェリーナ・チェイテだった。


 床から立ち込める猛烈な冷気に肌が凍り付く。寒さと恐怖に全身が硬直する。


 吸血鬼になったから分かる。


 華美羅とは明らかに格が違う。


 本能が絶対的服従を叫んでいる。


 眼前に立つ幼い少女が、真の吸血鬼であることを実感した。


「愛すべき眷属よ。迎えに来たぞ」


 エヴェリーナは冷笑を浮かべながら、くるみへと小さな手を伸ばした。


 眷属。


 やはり、くるみは眷属にされていたのか。


 くるみが俺の肩に優しく触れながら、静かに立ち上がった。


 その瞳からは、強い何かを感じた。


 俺は全身が硬直しているため声すら出ない状態だ。金縛りに襲われているようだ。エヴェリーナから放たれている膨大で邪悪な瘴気のせいだと本能的に感じた。


 そんな瘴気に臆することなく、くるみはエヴェリーナへと近づいて行く。


 さすがは眷属。などと感心している場合ではない。


「やはり、溜息が零れるほど艶麗な娘じゃ」


 くるみがエヴェリーナへと近づいて行く。何をするつもりなのか。もしかして操られているのか。俺もくるみもエヴェリーナを原点とした吸血鬼だ。彼女によって意のまま操られても不思議ではない。が、どうにもそんな感じはしなかった。やけに強い眼差しだ。凄まじい信念のようなものを感じる。絶対服従の本能に抗っているように見えた。


「さあ、吾輩の麗しき美鬼よ。吾輩に忠誠を誓い、吾輩の元で異端なる狩人どもを鏖殺してくれ」


 エヴェリーナが、くるみを迎え入れるように両手を広げた。


 くるみが、エヴェリーナと向かい合う形で足を止めた。


 冷笑を浮かべるエヴェリーナに対して、くるみは朗笑で返した。


 その瞬間、室内に乾いた音が響いた。


 俺は状況がよく理解できなかった。


 くるみの平手が、エヴェリーナの頬を叩いたのだ。


 驚いた表情を浮かべ、座り込むエヴェリーナ。


 そんな吸血鬼を見下ろして、くるみが怒鳴った。


「あたしに命令するなっ、主導権は絶対にあたしが握るのっ!」


 俺は嘆息した。


 あっぱれな信念である。


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