第15話 いつだって男は、女の前では格好つけたい馬鹿な生き物なのさ

 濃厚な闇が立ち込めた廊下を全速力で走り抜ける。背後で沸き立つ異様な騒めきに、恐怖が込み上げてくる。恐る恐る視線を後ろに向けると、闇の中で炯々と輝く深紅の瞳が幾つも見えた。さっきの部屋で血を啜っていた吸血鬼だろうか。あの白髪の吸血鬼の命令で追ってきているのだろうか。吸血鬼は吸血した人間を隷従することができると読んだことがある。つまり、この娼館にいる吸血鬼は、全員あの白髪の吸血鬼の配下なのかもしれない。


 非常にマズい状況にあるのは分かった。くるみを闇に献上したとて、餌になるのは変わらない。もうこのまま娼館から逃げるしか方法はない。


 その時、襖が閉じられている部屋が見えてきた。


 とんでもなく嫌な予感がした。


 確か、あの部屋には、食事中の吸血鬼がいたような。


 嫌な予感は的中した。


 突然、勢いよく襖が開かれると、全裸の吸血鬼が目の前にまろび出た。


 深紅の瞳を見開き、深紅に染まった口を開き、深紅に濡れた牙を剥き出していた。


 俺は悲鳴を上げそうになった。


 背後からは、金切り声を上げながら、吸血鬼の群れが迫ってきている。眼前の吸血鬼は、獲物ににじり寄る獣のように距離を詰めてくる。


 絶体絶命。


 異形の不死人である吸血鬼に、人間が敵うはずがない。


 適うはずがない……。


 適うはずがない?


 ふと感じた違和感。


 映画では必ず人間が吸血鬼に勝利している。物語なので、そうならないと成立しないのだが、歴史上、吸血鬼に対しての防御方法や厄除け、そして、退治方法は数多くある。有名どころで言えば、十字架やニンニクだが、そんな物は当然持ち合わせていない。だとすればどうする。俺は吸血鬼の映画を見た後、暇潰しで多くの吸血鬼に関する書籍を撫でるように読んだ。その記憶を必死で呼び起こす。図書館で漫然と過ごしていた日々を引き摺り起こす。刹那、眼前の吸血鬼が、床を蹴り上げ飛び掛かって来た。俺はすかさずポケットに忍ばせていた小銭を床にばら撒いた。小銭が散らばる音に反応した吸血鬼が体勢を崩して、俺のすぐ横に着地した。そして吸血鬼はこちらを見向きもせず、床の小銭を数え始めた。俺は直ぐに反転して、背後から迫る吸血鬼の集団の足元にも、小銭をばら撒いた。すると、吸血鬼たちが狂ったように床の小銭を数え始めたのだ。俺は必死で小銭を数えている吸血鬼の横をすり抜けて、娼館の出入り口に向けて一直線に走った。


 吸血鬼の防御策の一つに、数を数えるものを置く方法がある。民間伝承によると、ケシの種や麦を吸血鬼が潜む墓場などにばら撒き、吸血鬼を足止めする防御策だ。どうやら吸血鬼は数を数えるものを見つけると、数えて集めなければ気が済まない性分らしい。理由はよく分からないが、どうやら小銭でも代用できたようだ。まさかこんなところで無駄知識が役立つとは思っていなかった。


 俺は、ちらりと後ろに目を向けた。


 闇の中、深紅に光る瞳が、床の方に集中している。この暗さの中、必死で小銭を数えているようだ。


 俺は鼻を鳴らした。


 ニートを舐めるなよ。十年間ずっと寝ていたわけじゃない。毎日、毎日、何をして暇を潰すか考えていたのだ。そして、暇潰しを繰り返すことによって、果てしなく広くて限りなく浅い知識を身につけていった。これが成熟したニートの姿だ。


 何度も言おう、これが成熟したニートの姿であると。


 ※ ※  ※ 


 くるみを背負ったまま、俺は娼館を飛び出した。そしてこのまま一気に島の外まで駆け抜けようとした時、俺は絶望的な事実に気付いた。


 高級料亭〈味よし良いち〉の敷地は高い塀で囲まれており、唯一の出入口である巨大な門も堅く閉ざされている。今になってようやくその意味が分かった。娼館に引き入れた男どもを逃がさないためだったのだ。吸血鬼たちにとって男どもは大金を落とす客であり、貴重な栄養源でもある。鴨が葱を背負って来るとはこのことだ。漁協が所有して暴力団が管理している売春島は、事実上、治外法権が確立している。この島で事件に巻き込まれても自己責任だ。そもそも、この島を訪れる男どもは、売春行為を目的として来ている。仮に何かあったとしても、公にすることはできない。恐らくその部分を吸血鬼たちに付け込まれたのだろう。


 とにかく今は、どうやってこの島から脱出するか考えなければならない。


 敷地南側にある巨大な門は、巨大な閂と南京錠によって堅く施錠されているため、開くことは不可能だ。ならば塀をよじ登って越える方法はどうだろうか。無理である。塀の高さは約5メートル。仮に上手くよじ登ることができても、そこから飛び下りる際に骨折するだろう。そもそも眠っているくるみを抱えたまま塀をよじ登れるほどの筋力は備わっていない。


 焦燥に駆られながらも、逃走手段を必死に模索する。南が駄目なら北を探す。俺は塀に沿って北側へと向かった。延々と続く塀の先に、漆黒の海が見えて来た。塀は海と重なり合うように終わっており、海に飛び込まない限り、この敷地から出られないことを知った。ここは陸地から離れた人工島だ。潮の流れもよく分からない。さらに真夜中である。暗闇の中で潮に流されれば終わりだ。海を泳いで逃げるのは現実的ではない。そもそも眠っているくるみを抱えて泳ぐなど無理である。


 つまり、敷地から出るのは不可能ということだ。


 別の方法を考えなければならない。この敷地内で吸血鬼から逃れる方法。


 夜明けを待つしかない。


 吸血鬼が日光を嫌うのは有名な話だ。日光は邪悪なるものを討ち祓う力があり、邪悪なる悪魔の一種である吸血鬼も例外ではない。問題は日光が吸血鬼に対してどれほどの効力があるかだ。漫画、アニメ、ゲームでは、よく日光を浴びて燃え尽きる描写があるが、民間伝承ではそういった話はなく、昼間でも吸血鬼は行動することができるようだ。日光を浴びて滅びる発想元は映画の演出であり、そこから漫画、アニメ、ゲームに派生していったようだ。よって、太陽が昇れば何もかもが解決すると考えるのは、あまりに都合が良すぎる。だが、昼間、料亭を訪れた際、料亭内は異様な暗さに包まれていた。やはり日光を浴びて死ぬことはなくとも、日光を極端に嫌がっているのは間違いない。ならば夜が明ければ状況が一転する可能性が高い。日光で弱体化した吸血鬼どもの間隙を縫って、海から逃げる。周囲が明るくなれば、海の状況もある程度分かるはずだ。波が穏やかな時を狙えば、泳いで敷地から出られるかもしれない。そのためにも、背中でのんきに寝息を立てているこの女を起こさなければならない。少なくとも夜明けまでは、吸血鬼から逃げ回らなければならない。軽いとはいえ成人女性をおんぶして逃げ回るのは、体力的に無理がある。どこか隠れることができそうな場所を探して、彼女を叩き起こす必要がある。


 俺は辺りを見渡して、隠れることができそうな場所を探した。


 この暗闇の中では簡単に見つかりそうもない。俺はくるみをおぶったまま、周囲に目を凝らした。それにしても世話の焼ける女だ。「あたしは絶対に主導権を握りたいの」などと言っていたが、主導権を握ってリーダーシップを発揮しなければならない時に限って役に立たない。モブの俺の方が頭をフル回転している。少しは頼らせてくれ。とは言え、仮に彼女が主導権を握ったとしても、頓珍漢な指示の連発で現場が混乱するのは目に見えている。とくかく今はさっさと目を覚まして、自分の足で逃げてもらいたい。それぐらいは出来るだろ。


 ふと、俺の脳裏に料理組合の事務所が思い浮かんだ。


 そう言えば、あの事務所は三階建てになっており、一階は事務所で二階と三階は物置になっていた。一階の事務所に隠れられる場所はないが、二階と三階の物置ならば隠れられそうな場所があるかもしれない。


 俺は海を背にして、料理組合の事務所がある方へ歩き始めた。


 が、すぐにその歩みを止めた。


 俺は踵を返し、海の方へと視線を向けた。


 今はここを離れるべきではない。


 その時、周囲が濃い霧に包まれた。闇の中で不気味に漂う白い霧。奇妙に蠢きながら、一点に向けて収束を始めた。無作為に散らばっていた霧が、徐々に人の形を成していく。おぼろげだった輪郭が鮮明に浮き上がると、そこから妙齢の女性が姿を現した。


 華美羅だった。


「やっと見つけました。その娘をこちらへ渡して下さい」


 青白い手を伸ばし、華美羅は口許を綻ばせた。


 最悪の状況である。


 もう、やることは一つしかない。


 運に縋って、時間稼ぎだ。


「アンタらにとって、そんなにくるみが必要なのか?」


「彼女は眷属の因子を持った貴重な存在。エヴェリーナ様に忠義を誓い、エヴェリーナ様を憎きダムピールから守護する宿命を持っています」


「ダムピール……吸血鬼ハンターのことか?」


「よくご存知で」


 人間と吸血鬼の混血児で、吸血鬼を狩ることを生業にしている連中だ。東欧では近年まで実際に存在していたらしく、奇妙な儀式を用いて吸血鬼を祓っていたそうだ。まあ、ここでいう吸血鬼が本物かどうかは置いとくとして、吸血鬼が実在するのだから、吸血鬼ハンターも実在していてもおかしくはない。


「彼女は魔女ウィッチとなり、未来永劫エヴェリーナ様にお仕えするのです」


「くるみが魔女ウィッチ? どういうことだ?」


「吸血鬼の眷属は、魔女ウィッチ人狼ワーウルフ屍喰鬼グール、マンドレークの四種類に分けられます。それぞれに因子が存在していて、ごく一部の人間に限り、その因子を生まれながらに宿しています。彼女はエヴェリーナ様より魔女ウィッチの因子を宿していることが認められた稀有な存在なのです」


 魔女ウィッチ人狼ワーウルフは、異形の存在として吸血鬼と同一化されることが多く、そこから吸血鬼の眷属へと繋がったとされている。しかし魔女ウィッチ人狼ワーウルフが血族によるものではなく、人間を元に発現することは初めて知った。


「娼館で血を啜っていた連中は眷属じゃないのか?」


「彼女たちは亡者レヴナントです。人間が吸血鬼に血を吸われたら、亡者レヴナントになります。亡者レヴナントとは、眷属の直属の配下となる吸血鬼です。眷属の命令で動く兵隊です。眷属になるには、眷属の因子を宿した上で、主との血の盟約を結ばなければなりません。盟約を結び、眷属になれば、魔女ウィッチ人狼ワーウルフ屍喰鬼グール、マンドレークの異能が吸血鬼の異能に上乗せされるため、主よりも遥かに高い異能を有することができます。しかし眷属は盟約により、主との主従関係が構築されており、によって主に逆らうことはできません」


 随分と複雑な仕組みだが、結局は吸血鬼に都合の良い仕組みだ。


「で、華美羅さんは眷属なのか?」


「そうです。私はエヴェリーナ様の眷属で、屍喰鬼グールの称号を与えられています」


 なるほど、と俺は頷いた。


 屍食鬼グールは人間を喰うという面で、吸血鬼と同一化されている。墓場を棲み処とし、人間の死体を主食としており、時には生きている子供を食べるため、街に下りてくる。女の屍食鬼グールは、男を誘惑して殺して食べるとされている。娼館で行われていた宴がまさにそうである。


「華美羅さん。ずいぶんと喋るんだね。アンタが屍喰鬼グールなら、俺なんて一瞬で殺すことができるはずだろ? とっとと俺を殺して、くるみを奪ったほうが早くないか?」


 屍喰鬼グールは死体を喰うほどに膂力が増す。しかも吸血鬼の能力に上乗せされているため、その膂力は常人の数百倍はくだらないだろう。


「貴方は、この島の男ではありません。だから殺したくありません」


「どういうことだ?」


「私は、この島の男しか殺さないと決めています」


「この島に住人なんていないだろ」


「いえ、この島の男というのは、この島の女を食い物にしている男たちのことです」


「つまり、漁協やヤクザの連中、あと、この島に来る客のことか?」


「そう。この島の女を食い物としか見ていない男すべてです」


「吸血鬼はもっと利己的な怪物だと思っていたが、間違いだったか?」


「吸血鬼になっても人間の意思は存在しています。己の意思に従って行動するのが人間です。もし、この意思を失って、本能と欲望のままに行動すれば、獣と変わりません」


「そうか? 少なくとも俺には、男ども貪ってるお前らの姿は、獣にしか見えなかったけどな」


「かもしれませんね」


 華美羅が自嘲的に嗤った。


「ですが、少なくともエヴェリーナ様は、獣ではありません。知的で聡明な御方です」


「随分と、あの吸血鬼に陶酔しているんだな」


「当然です。あの方は、私たちの唯一の希望だから」


「希望?」


 俺が首を傾げると、華美羅は肩を竦め、溜息を零した。


「もうこれ以上話すことはありません。早くその娘を渡して下さい。その娘を渡せば、貴方の命は奪いません。約束します。言ったはずです。貴方を殺したくないと」


 諭すような表情で、華美羅は訴えかけてきた。


「華美羅さん。俺とコイツの関係って知ってる?」


 怪訝そうに眉を顰める華美羅。


「コイツはデリヘル嬢で、俺はコイツを指名した単なる客だ」


 華美羅が目を丸くした。


「いやあ、まさかさ、ナンバーワンのデリヘル嬢を指名できるなんて思わなかったよ」


 華美羅の深紅の瞳が、徐々に吊り上がる。


「俺は金を払って、コイツを食い物にしようとしたんだ。だから、この島の男と何ら変わらない。馬鹿な男の一人だ」


 華美羅の口の端から牙が剥き出される。


「だから躊躇なく殺せばいい。ほら、ほら、さっさと殺して、くるみを奪えばいいっ」


 俺は片手を広げながら、ゆっくりと後ろへと下がった。背中で波の音を感じた。


「どうした、早く殺しに来いよっ!」


 そう言いながら、俺はさらに後ろへと下がった。踵が岸壁から飛び出すのが分かった。


「殺せよっ!」


 華美羅は悔しげな表情を浮かべながらも、その場を動けずにいた。


「近寄れないよな。だって、後ろは海だからな。吸血鬼は水を嫌うからな。特に流れる水には、近づくこともできないはずだ。この岸壁沿いに塀を作らなかったのも、単純に水が怖くて近づけなかったからだろ」


 水は古くから穢れを洗い流すものと考えられてきた。穢れとは罪や悪のことだ。特に清らかな水は、悪魔に対抗する力となった。それは吸血鬼も例外ではない。川や海のように流れのある水は、穢れを流すとされ、邪悪な存在である吸血鬼は、それを嫌うとされていた。だからと言って、吸血鬼が海に落ちて死ぬことはないらしい。ただ苦手なだけで、日光と同じ原理のようだ。


 それでも、この状況下では武器になる。


「俺は、アンタが人間を食った時から、吸血鬼なのか疑っていた。だからアンタから吸血鬼である確証を得る必要があった。アンタがペラペラ話してくれたおかげで、充分すぎる確証は得た。吸血鬼は不死身の最強生物だが、その分、面倒な縛りプレイが付きまとってる残念な生物なんだよ!」


 華美羅は歯嚙みしながら、こちらを睥睨した。


「娼館で小銭をばら撒いたのは、偶然ではなかったのですね。貴方はいったい何者?」


「通りすがりの、ただのニートだ!」


 背中越しに波の音が聞こえた。


「でもさ、華美羅さん。男って馬鹿な生き物なんだ。だって俺、ほとんど面識のないコイツを背負って、アンタらから逃げているんだ。俺ってただの客だぜ。家族でも兄妹でも恋人でも友達でもないただの他人だ。金でしか繋がっていない赤の他人だ。でも、俺はコイツを助けたい」


「意味が分かりません。客が命を賭けてまで風俗嬢を助けたいなんて、意味が分かりません」


 俺は嘆息した。


 なんだかんだ言って、くるみは俺に気付いてくれる。


 俺に気付いてくれる。


 理由はそれだけだ。


 それと――。


「男はな、どいつもこいつも、女の前で格好つけたい馬鹿な生き物なんだよ!」


 俺は素早く背負っていたくるみを両手で抱きかかえ、背中から海へと身を投げた。


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