第14話 純血かつ高潔なる吸血鬼

 島内に広大な敷地を有している高級料亭〈味良し良いち〉は、三つの建物に分かれている。一つは飲食を楽しむ料亭。一つは財界人や政治家などVIP御用達の娼館。そしてもう一つは、島の料亭を束ねる料理組合の事務所だ。この島は売春防止法から逃れるため、表向きは料亭街となっている。料亭を訪れた客が、仲居と恋愛関係になることが前提だ。恋人同士であれば、売春に当たらないからだ。出会って数分で恋に落ち、即、情事に及ぶ。どう考えても無理がある。野生動物でも求愛行動を経てから交尾に及ぶものだ。ともあれ、違法行為を強引に合法化にするのは、脱法風俗の常套手段だ。つまり合法にするために料亭街を作り、料理組合を立ち上げているのだ。


 そんな料理組合の事務所のソファーに俺は寝転んでいる。向かい合う革のソファーの間には、大理石のテーブルが置かれている。どれも新品同然の光沢を放っている。どうやらここは、来客向けのスペースのようで、曇りガラスの仕切りの向こうには、スチール製のデスクと書庫が均一に並べられている。デスクの上には何も置かれておらず、使用された形跡もない。書庫には、資料らしきファイルが数冊立てかけてあるだけだ。


 見事なほど、形だけの事務所だ。


 使用されていない事務所のため、室内が妙に埃っぽい。アレルギー体質でなくとも、鼻がむず痒くなる。俺はソファーから起き上がり、事務所の窓をすべて開け放った。最初の感じたのは潮の香りだった。それからさざ波の音が聞こえ、追うように虫の音が聞こえた。微かな冷たさを帯びた潮風が流れ込み、書庫の資料がカタカタと揺れた。


 静かだ。


 心地良い潮風になぶられながら、俺は小さく呟いた。


 料亭街で大合唱のように響いていた喘ぎ声もここまでは届いてこない。窓の外はすでに夜の帳が下りているため、目で海を感じることはできなかったが、鼻と耳で、その存在は充分に感じ取れた。恐らく窓の外はオーシャンビューに違いない。


 俺は再びソファーに寝転がり、鼻と耳で海を感じながら、ゆっくりと目を閉じた。


 案外、居心地が良いかもしれない。


 男女の激しい欲望が交差している娼館だらけの島の中、唯一、平静が保たれている場所なのだろう。そこら中に充満していた獣じみた熱気が一切感じられない。


 俺は安堵した。


 殺し屋から逃れるために仕方ないとは言え、四六時中、娼婦に誘惑され、四方八方から喘ぎ声が鳴り響いている島である。まともな神経の人間が暮らすには、いささかハードな環境だ。間違いなく数日で頭がおかしくだろう。しかしこの事務所はそれら喧騒から隔絶されているため、売春島にいることを忘れてしまう。しばらくの間、ここに滞在するのも悪くないと思った。


 そんなことを考えていると、少しずつ意識に霞がかかってきた。華美羅が振舞ってくれた豪華料理をたらふく食べたせいで、胃袋は極限まで膨れ上がっている。そういえばここ数日、無駄に栄養補給ばかりしている。大丈夫だろうか。急な栄養補給に体が驚いて変調をきたしたりしないだろうか。酷い腹痛に襲われたりしないだろうか。唐突な便用に悩まされたりしないだろうか。そんな益体もないことを考えながらも、俺の意識は徐々に揺らぎ始めていた。心地良いまどろみが、頭から足へ向けて浸透していく。あまりの気持ち良さに、全身の筋肉が弛緩していった。


 ふと、首元に温かな吐息を感じた。


 驚いて目を開けると、そこに予想外の人物の顔があった。


 くるみだった。


 くるみは寝ている俺に覆いかぶさるような体勢で、俺の首元から上目使いでこちらを見ていた。鳶色の大きな瞳に吸い込まれそうになる。笑みを湛えた唇からは、妖艶な色香が漂っている。剥き出しになっているきめ細やかな首と、形の良い肩は、透明なほど白く、捲れた着物の裾から露わとなっている太腿も白かった。その白さは、瑞々しく健康的に感じるのと同時に、毒々しくも蠱惑的にも感じた。


 情けないことに、俺は声を出すことができなかった。突然の状況に動揺していたのだ。


 くるみは唇からゆっくりと舌を出した。柔らかそうな赤い舌が淫靡な動きをする。瞬間、舌先が俺の首筋に触れた。全身を鳥肌が襲う。生温かい舌が、いやらしくうねりながら、俺の首筋をゆっくりと這いずり回る。俺は声が出そうになるのを必死で堪えた。こそばゆさと気持ち良さが同調している変な感覚だった。強張っていた体が徐々に緩んでいくと、次第にそれは快感へと変わっていった。そして、完全に身体を委ねようとした時、彼女の歯が首筋に当たった。


「起きろ、コラ!」


 その声にハッと目を開けた。咄嗟にソファーから起き上がる。目の前にやたらと眼光の鋭い獣が立っていた。完全に頭が混乱している。何がどうなっているんだ。


「キモいくらい気持ち良さそうな寝顔だったな」


 寝顔。


「よっぽど楽しい夢でも見てたんだな」


 夢。


 腰に手を当てた毒島がこちらを見下ろしている。いつなく狂暴な視線だ。


 俺は心の底から落胆した。何もかも夢だったのか。それにしてもリアルな夢だった。首筋にはくるみの歯が触れた感覚が鮮明に残っている。しかし、目覚めてすぐ元殺し屋の顔を見るのは心臓に悪い。何せ、昨夜はコイツに殺されそうになっている。てゆうか、ふざけんな、もうちょっとでチョメチョメできたかもしれないんだぞ! すぐに夢の続きを見るから、さっさと寝かせろ!


 俺の抗議の睨みを無視して、毒島が口を開いた。


「ところでオッサン、くるみちゃん見なかったか? どこにもいないんだ」


 華美羅が用意してくれた宿泊場所は二つ。一つは俺が泊っている料理組合の事務所で、もう一つはくるみと毒島が泊っている料亭内の客間だ。


「ん、ここには来てないぞ」


 夢では俺に会いに来てたけどな、と言おうとして口を噤んだ。悲しくなるだけだ。


「オレが寝ている間にいなくなったんだ」


「散歩にでも行ってるんじゃないか? 夜風が気持ちいいからな」


「いや、敷地内を探してみたけど、どこにもいなかった」


「だったら、敷地の外に出て、島内を散策してんじゃないか?」


「オッサン、気付かなかったのか?」


「何だ?」


「敷地の外に出られないんだよ!」


 ※ ※  ※


〈味良し良いち〉の敷地を東西南北に分けると、料亭が南側にあり、娼館が西側にある。そして東側に料理組合の事務所があり、北側は海となっている。西側から南側を通って東側に抜けるまで、高い塀で囲まれており、出入り口は南側にある門だけとなっている。


 俺と毒島は南門の前で茫然としていた。寺院さながらの巨大な門扉は固く閉ざされており、左右の扉を横に貫くように、巨大な鉄の閂が差し込まれている。さらに門扉の上部と下部には巨大な南京錠が掛けられ、堅く施錠されていた。正直、昼間は門扉が大きく開け放たれていたため、ほとんど気にも留めていなかった。


 何故、これほどまで厳重に、門扉を閉ざしているのだろうか。


「薄々は感じていたんだけど、やっぱり変だ」


 聳え立つ門を前に、毒島が呟いた。


「前に来た時には、こんな門はなかった。それに塀もこんなに高くはなかった。料亭だって眩いほどの灯りに包まれていたし、従業員もたくさんいて活気があった。あんな幽霊屋敷みたいじゃなかった」


 ここに来るのは初めてだが、やはり俺にも違和感はあった。特に感じるのは敷地内の異様な静けさだ。敷地外は下品な男たちの声や、卑猥な客引きの声や、淫靡な喘ぎ声で騒がしかったが、敷地内は別世界のように静寂が保たれている。VIP御用達の娼館ということで、厳かな雰囲気を演出しているかもしれないが、それにしても気味の悪い静けさだ。仮に、この静けさを例えるならば、墓地にいるような静けさだ。


「あと、もう一つ気になったことがあるんだ」


「何だ?」


「この島に来てから、男どもがいないんだ」


「男がいない? 料亭の女を漁っている連中が山ほどいただろ」


「違う。漁協や暴力団の連中がどこにもいないんだ」


「どういうことだ?」


「普段、連中は、客に紛れて島中の監視をしてるんだ。島では、客同士や客と娼婦のトラブルが絶えないからな。それに警察が潜入してる可能性だってある。監視は大人数が派遣されていて、二十四時間体制で行われているはずなんだ」


「客に紛れているなら、見分けるのは難しいんじゃないのか?」


「オレだって元プロの殺し屋だ。堅気じゃない連中は気配ですぐに分かる」


 俺が街中でニートを見抜く能力に近いようだ。この十年間で培われた最も無駄な能力である。


「よく分からんが、島の体制が変わってきているんじゃないのか?」


 腑に落ちない表情の毒島。無論、俺も不気味な違和感を拭えずにいる。


「それよりも、くるみはどこに行ったんだ? 敷地の外に出ることできないなら、やっぱり敷地内を散歩しているんじゃないか? 海でも見に行ってんだろ」


「さっきも言っただろ、敷地内は隈なく探した。海岸沿いも探したけどいなかった」


「だったら建物内にいるってことか?」


 敷地内には、料亭と娼館と事務所の三つの建物しかない。


「料亭内は探したのか?」


「もちろん探した。気味が悪いことに、料亭内にはくるみちゃんどころか誰もいなかった」


「誰もいない? ところで今何時だ?」


「夜の十二時」


「店を閉めて、従業員は帰ったとか?」


「どこに帰るんだよ。この島で働く連中は全員住み込みだ」


 確かに、この島に居住区らしきものはない。外界からも隔絶されているため、自宅に帰ることなど出来ない。


「料亭にもいない。事務所にもいない。てことは……」


 俺は、敷地の西に鎮座する巨大な数寄屋作りの建物に視線を向けた。


「娼館にいるかもしれないってことか」


 だが、くるみが娼館に行った理由が全く分からない。借金返済のため華美羅に頼んでバイトでも始めたのか。そんな素振りは微塵も感じなかった。そもそも俺や毒島に相談なく唐突にバイトなど始めるだろうか。コンビニでバイトを始めるのとはわけが違う。自分の身体を男に切り売りするバイトだ。正直、考えられない。


「なんかイヤな予感がする」


 毒島が顔を歪めた。それは俺も感じていた。娼館から感じるどこかおどろおどしい雰囲気。瘴気でも漂っているかのような不気味さだ。


 娼館の屋根に淡い光が射した。ふと空を見上げると、そこには深紅に染まった満月が浮かんでいた。


 ※ ※  ※


 娼館は財界人や政治家が利用するだけあって、外観は高級旅館さながらの風情を醸し出している。内部で違法行為が行われているとは到底思えない造りだ。重厚な四脚門を抜けると、煌びやかな日本庭園が広がり、各所でライトアップされていた。しかし、明るい日本庭園とは異なり、娼館は鬱蒼した闇に包まれていた。とても営業中とは思えない。


「人の気配がまったくしない……」


 娼館の扉を開けるなり毒島が呟いた。娼館は料亭とは比べものにならないくらい真っ暗だった。そして料亭とは比べものにならないくらい寒かった。娼館と料亭は別々の建物だ。両方の空調が同時に故障するのは考えにくい。どう考えても意図的としか思えない。だが、その目的が全く分からない。


「かなりイヤな感じがする」


 毒島がホルスターから拳銃を抜き、土足のまま玄関の上がり框に乗った。元殺し屋が戦闘態勢になるほどヤバイ状況のようだ。


 ん? ちょっと待て、そんなヤバイ状況に、俺が同行する必要があるのか。


「くるみちゃんを見つけたら、オッサンはくるみちゃんを連れて、すぐにここから逃げてくれ。敵はオレが足止めする」


「敵だと? どういうことだ?」


 毒島は鼻を突き出し、何かを嗅ぎ取っている。


「血の臭いがする」


 俺もくんくん鼻を鳴らしてみたが、鼻孔に冷気が刺さるだけで何も臭わない。


「それも一つの場所からじゃない。いろんなとこから血の臭いがする」


 どうやらそれは敵が複数いることを意味しているようだ。そもそも敵って誰だ。


「とにかく、くるみちゃんを見つけたら、すぐにここから離れた方がいい」


 かなりヤバイ状況にあることは理解した。くるみを連れて逃げることが、俺の役目らしい。会話の流れでそうなってしまったが、冷静に考えると腑に落ちない。俺一人で逃げる選択肢はないのでしょうか。


「敵と戦いながらくるみちゃんを逃がすのはかなり厳しい。癪だが、くるみちゃんの命、オッサンに預けるぜ」


 毒島の真剣な表情に、俺は反射的に頷いた。重大な任務を授かってしまったようだ。もし、くるみに何かあれば、この元殺し屋に確実に殺されるだろう。ああもう、何もかもが理不尽極まりない。そもそも敵って誰だ。


「くるみを連れて逃げる話になっているが、そもそもくるみは無事なのか?」


 毒島が嗅ぎ取っている血の臭いに、くるみものはないのか。


「大丈夫だ。くるみちゃんのいい匂いはしている。死んでいたらこんないい匂いはしない」


 いい匂い? 


 確かにくるみからは、ほのかに香水の匂いがしていた。甘いフルーティーのような匂いだった気がする。


 俺はくんくん鼻を鳴らしてみたが、鼻孔に冷気が刺さるだけで、何も臭わない。フルーティーなど皆無だ。殺し屋の鼻は警察犬並みに鋭いということか。


「行くぞ、くるみちゃんを助ける」


「おっ、おう」


 濃厚な闇に包まれた廊下を進んでいく。油断すれば、前を歩く毒島を見失ってしまいそうだ。床板の軋む音を頼りについていく。壁側に置物らしき何かが、幾つも置かれている。高価な美術品、もしくは骨董品かもしれないが、こうも暗くては、その価値を知る術はない。それでもぶつかって壊してしまえば色々と面倒なことになりそうなので、足元に神経を尖らせて、慎重に避けていく。廊下をしばらく進んでいくと、襖の開け放たれた和室が等間隔で並んでいた。暗いため明確な広さは分からないが、室内を包む闇の深さから、相当な広さのように思える。そんな中、一部屋だけ襖の閉め切られた場所があった。サービスの最中なのだろうか。しかし不気味なほど静かだ。激しい息遣いも喘ぎ声も聞こえない。それ以前に人の気配がしない。閉め切られた襖の横を通り過ぎようとした時、中から嫌な音が聞こえた。


 ずずずっ、と何かを啜る音。


 俺は思わず立ち止まった。すぐさま毒島に声を掛けようとしたが、彼女の姿は闇の奥に消えてしまっていた。慌てて毒島を追う俺だったが、襖に、僅かばかりの隙間に気付いた。俺は不気味な音に引き寄せられるように、その隙間に目玉を押し当てた。部屋の奥の障子から月光が射している。今夜は満月だったため、月光がより強い。そんな月光に照らされて、全裸の男女が抱き合っている。だが、どうにも様子がおかしい。ぐったりと仰向けに倒れる男の上に、覆いかぶさるように抱きついている女。女は男の首筋に口を押し当てまま、微かに喉元を上下させている。男は眠っているのか微動しない。


 何をやっているのだろうか。


 障子から降り注ぐ月光が、女の肌を照らす。女の肌は異様に白く、不気味な光沢と滑らかさ帯びていた。まるで洞窟に棲む軟体動物のような皮膚に近い。


 嫌な白さだ。そして、この白さをどこかで見たことがある。


 その時、女がゆっくりと顔を上げた。瞬間、背筋が凍り付いた。


 女の唇は真っ赤に染まり、口の両端から伸びた鋭い牙からは、赤い体液が滴り落ちていた。


 恍惚な表情を浮かべる女。畳に落ちた液体を、人差し指で丁寧に拭って、口に運び、舌で舐っている。あの液体は紛れもなく血液だ。恐らく畳の上に倒れている男のものだろう。


 女は血の付いた人差し指を頻りに舐め回しながら、ゆっくりと辺りを伺い始めた。そして、襖の隙間へと視線を止めた。女と視線がぶつかった。あまりの恐怖に視線を反らすことができない。女は俺と視線を合わせたまま、口の両端を吊り上げ、牙を剥き出しにして笑った。


 刹那、俺は弾けるようにその場から走り去った。


 ※ ※  ※


 漫画、アニメ、ゲームでお馴染みの吸血鬼だが、元々は世界各地に点在する民間伝承から始まっており、そこに歴史や宗教が折り重なって出来た空想上の存在に過ぎない。近年は、漫画、アニメ、ゲームで定番となったが、元祖はやはり映画だろう。俺が図書館に入り浸っていた頃、吸血鬼の映画を見たことがある。恐らく60年くらい前のものだろう。吸血鬼の伯爵が、人間の生き血を次々に吸って、吸血鬼へと変貌させ、人々を恐怖の坩堝に陥れていく映画だ。無論、視聴後は暇潰しを兼ねて吸血鬼に関しての本を撫でるように読んだ。吸血鬼の特徴、吸血鬼の弱点、吸血鬼の退治方法、吸血鬼の天敵、吸血鬼の眷属など色々と書かれてあった。空想上の存在とは言え、歴史が古いためか設定も細かく記されていた。


 そう、空想上の存在なのだ。


 だが、襖の向こうで男の首筋にかぶりつき、唇を血で汚していた女は何なんだったのか。そして、この建物の異常な暗さと寒さは何なのだ。


 あの女が吸血鬼だとすれば、すべて合点がいく。


 あの吸血鬼は男の首筋から生き血を啜っていた。建物が暗いのは、吸血鬼が太陽光を避けるためだ。太陽は吸血鬼の肉体を腐敗させる効力を持っている。太陽光に近い明るさをもつ電灯をすべて排除しているのもそのせいだろう。逆に月光は吸血鬼の肉体を活性化させる効力を持っているため、部屋の障子はあえてそのままにしているのだろう。そして、建物内部を凍り付かせている寒さは、不死の肉体を腐らせないためだ。吸血鬼は不死人のため、肉体は死者と変わらない。人間の生き血を吸うことで生命エネルギーを得て、肉体を維持し続けている。それでも死体に近い肉体は、光や熱に弱く腐敗しやすいため、極限まで気温を下げて、腐敗を防いでいるのだろう。


 ちょっと待て、昼間、料亭を訪れた時も暗くて寒かったが。


 俺の中で嫌な予感が沸々と湧き上がった。


 吸血鬼は、あの女一人じゃない。


 その時、奥の暗闇で怒声が響き渡った。


 咄嗟に床を蹴り上げ走り出す。そして暗闇を掻き分けて辿り着いた先、毒島が拳銃を構えて立っていた。決して穏やかではない状況。毒島が拳銃を構える先、開け放たれた襖の奥には、地獄絵図が広がっていた。


 広い和室に、幾人もの全裸の男女が折り重なり絡み合っている。女たちは、力なく横たわっている男たちに跨って、首筋にかぶりついている。血を啜る嫌な音が、部屋中にこだましている。


 そんな夢中で血を啜る女たちの奥で、着物姿の妙齢の女性が立っていた。


 華美羅である。


 華美羅は恍惚な笑みを湛えながら、こちらを眺めている。そんな彼女の傍らで眠っている一人の美女がいた。


 くるみだった。


「華美羅さん、これはいったいどういうことだ!」


 毒島の怒声が響く。華美羅は動じることなく、優雅に口を歪めて答えた。


「お食事中です」


 人間の血液を所望することが食事。やはりここにいる全員が吸血鬼だ。そう断定している自分の思考に眩暈を覚えた。吸血鬼が実在するなど、簡単に信じられるはずがない。悔しいが異世界にでも迷い込んだのか。


「わけのわからないこというなっ!」


 毒島が叫ぶ。その通りである。この光景を見て、すぐに吸血鬼とリンクするのは、成熟したニートぐらいだ。


「くるみちゃんをどうする気だっ!」


 毒島が銃口の標準を華美羅へと合わせた。


 瞬間、華美羅の長い黒髪が逆立ち、両目がみるみるうちに深紅に染まった。


「主は、この娘から眷属の因子を見出しました。よって主へと献上します」


 いよいよ単語が吸血鬼っぽくなってきた。


「わけのわからないこというなっ!」


 毒島が叫ぶ。その通りである。ただくるみを眷属にするということは、彼女を吸血鬼にすることを意味している。非常にマズい展開だ。


「くるみちゃんを返してもらう」


 毒島が拳銃を構えたまま、華美羅へと近づいていく。


 ここにいる華美羅を含む女全員が吸血鬼とすれば、最凶最悪の元殺し屋毒島獣香でも勝ち目はないだろう。吸血鬼の膂力は人間の数十倍といわれている。しかも人間の血液を大量に取り込んだ状態であれば、その力は更に大きく上昇するとされている。現に、畳に転がっている男たちも、女たちに抗うこともできず、生きながらに血を吸われ続けている。


 拳銃を突き付けられても平然としている華美羅。自らが不死人であることを自覚しているのだろう。通常の銃弾は吸血鬼には通用しない。十字架の描かれた銀の硬貨を溶かして作った銃弾でないと殺すことはできない。


 刹那、銃声が轟いた。華美羅の腹に巨大な風穴が開き、盛大に血液が飛び散った。華美羅はそのまま激しく吐血しながら豪快に倒れた。


 周囲が静まり返った。


 そうか。


 俺はすっかり忘れていた。毒島の拳銃は世界一強力な拳銃だった。


 ※ ※  ※


 仰向けに倒れ、血の海へと沈んでいく華美羅。


 毒島獣香。


 くるみのためならば、友人であろうと容赦なく引き金を絞るところは流石である。普通、躊躇して撃てないのだが、やはり元プロの殺し屋は違うようだ。今後、くるみへの発言や態度には、より細心の注意を払う必要がありそうだ。


 毒島は畳の上で絡み合う男女を跳び越えて、眠っているくるみの元へと近づき、彼女を優しく抱き抱えた。そして、再び絡み合う男女を跳び越えて、こちらに戻って来た。くるみは気持ち良さそうに寝息を立てている。


「オッサン、頼む」

 

 毒島はくるみをそっと俺に預けた。恐る恐る彼女を抱きかかえると、柔らかな髪がふわりと揺れてフルーティーな匂いがした。華奢な肢体は、力を籠めると簡単に折れてしまいそうなほど繊細に感じた。しなやか四肢は柔らかく弾力があり、肌からは瑞々しく滑らかな感触が伝わった。


 俺は欲望を抑えながら、極めて冷静に毒島へと視線を送った。


「イヤな予感がする。ここはオレに任せて、オッサンはくるみちゃんを連れて逃げろ!」


 まさか我が生涯で二次元のテンプレ的セリフを聞くとは思わなかった。


 と、その時、畳の下から不気味な嗤い声が響いた。


「兇弾如きで、吾輩の眷属を屠れると思ったかっ!」


 少女の声だった。幼さの残るあどけない声だが、そこに感情はない。温度もない。ひたすらに冷たく機械的な声だ。


 刹那、大の字で仰向けに倒れていた華美羅の身体が激しく躍動を始めた。華美羅が体液を撒き散らしながら、呻き声を上げる。胴体にはぽっかりと風穴が開いている。風穴からはおびただしい量の血液が垂れ流されている。


「血が足らぬか。やもえぬ、そこの醜豚を喰らうがよい」


 少女の声に引っ張られるように、華美羅がゆっくりと起き上がった。そして足元で吸血されている男へと視線を下ろした。すると、獣のように男を貪っていた女が、急に機械のように動きを止め、男から離れ、華美羅へと差し出す素振りを見せた。と、次の瞬間、華美羅は勢いよく男の腹に齧り付いて、肉を引き剥がした。鮮血が噴き出し、内臓が露わとなる。華美羅は凄まじい速さで肉を咀嚼し、飲み込んでいく。喉元があり得ないほど膨らんでいる。蛇が卵を丸呑みしている姿を思い出した。華美羅は男の腹の中に顔を突っ込み、鋭い牙で腸を引き摺り出して、喉を激しく上下させながら飲み込んでいく。その狂気の光景に、俺は茫然と立ち尽くしていた。それは毒島も同じだった。数多の修羅場を潜り抜けている元殺し屋ですら、眼前の狂気の光景に言葉を失っている。


 華美羅は猛烈な勢いで腸を飲み干すと、赤黒い体液に染まった顔面をこちらへと向けて、ゆっくりと立ち上がった。風穴から垂れ流されていた血液が、ぼこぼこと泡立ち始め、風穴をゆっくりと覆っていった。泡立ちは激しさを増し、白く変貌し、沸騰した湯のように煙が立ち昇っていく。やがてそれは徐々に治まっていき、ゆっくりと流れて落ちていった。白い太腿を伝って流れ落ちる泡の先には、がらんどうの腹を晒した男の亡骸が転がっていた。


「しかし、醜豚なんぞに、よくもそこまで悪食できるのう。未成熟な処女であれば、遥かに柔らかく美味じゃというのに」


 畳の下から揶揄するような声が聞こえた。


「私は、男しか食べないと決めていますので」


 華美羅は顔に付着した体液を拭いながら続ける。


「この島の女は、男しか食べません。皆がそう決めています」


「本能に抗うほどの歪んだ悪食。それは復讐心から来ておるのか?」


「さあ、それはどうでしょう」


「憎悪は闇を濃厚にする。吾輩は嫌いではない」


「ありがとうございます」


 華美羅の腹部を覆っていた泡が流れ落ちると、そこには青白い肌がてらてらと光っていた。


 ぽっかり空いていた風穴が、完全に塞がっていた。


 拳銃を構えたまま唖然としている毒島。無理もない。俺も頭は混乱している。吸血鬼の存在すら整理できていない状態で、人肉を喰らう化け物が現れたのだ。さすがに脳の処理が追い付かない。


「クソがぁっ、次はド頭ぶち抜いてやるッ!」


 正気に戻った毒島が、拳銃の標準を華美羅の頭部に合わせた。この非常識な状況下でも戦闘態勢を崩さないところは流石である。華美羅が吸血鬼なのかは定かではないが、不死の化け物であることは違いない。不死の化け物という面では、吸血鬼と同じだ。吸血鬼の退治方法で首を刎ねることは有名だ。頭部と胴体を切り離してしまえば復活はできないとされている。稀に頭部と胴体の切断面が近いと、繋がってしまい、復活してしまうことがあるが、毒島の世界一強力な拳銃で頭部を木端微塵に吹き飛ばせば、復活など不可能だ。それに華美羅は人肉をエネルギー源としているようだ。頭を吹き飛ばせば、エネルギー源となる人肉を摂取できなくなる。


「その兇銃、聊か厄介じゃな」


 刹那、華美羅の影が毒島に向かって一直線に伸びた。狼狽する毒島。影は毒島の足先でピタリと止まると、平面から立体へと変貌した。毒島が慌てて引き金に力を込めようとした時、影の中から青白い手が銃口を掴んだ。その瞬間、銃身が握り潰された。


「この程度の膂力、驚くほどでもあるまい」


 影の中から、嬉々とした声が聞こえた。


「何者だ、テメエ……」


 毒島が唸ると、不気味な嗤い声とともに、影の中から少女がぬめり出た。


 闇に浮き上がる白髪の少女。死者のように青白い肌。血のように赤い瞳と唇。深紅の唇の両端からは陶器のように白い牙が飛び出している。


「吾輩は、エヴェリーナ・チェイテ。純血かつ高潔なる貴族チェイテ家の直系にて次期頭首である」


 抑揚のない優雅な口調で、少女は自己紹介をした。


「だからっ、何者だって聞いてんだよッ!」


 毒島の怒声に、少女は笑みを浮かべて肩を竦めた。


「そうじゃな。貴様らの世界で分かりやすく説明すると――」


 少女は牙を剥き出して嗤った。


「吸血鬼じゃ」


 やっぱり。


 それでも簡単に信じられるほど、俺の頭はファンタジーではない。吸血鬼だと宣言する白髪の少女。世界一強力な拳銃で腹をぶち抜かれても死なない華美羅。そして、この騒ぎに動じることなく無心で男どもの血を啜っている女たち。すべて紛れもない現実だが、あまりに日常と掛け離れているため、心では信じようとしても脳が拒絶している。


「それよりも、そこの娘を吾輩に返してもらおうか」


 深紅の双眸が、くるみの方へと向けられた。


「この娘には眷属の因子が宿っておる。娘には吾輩の配下の一人として一族復興の礎となってもらうつもりじゃ」


 言っている意味はよく分からないが、くるみを欲しがっているのは事実だ。ここでくるみを白髪の吸血鬼に差し出せば、命だけは助けてもらえるのだろうか。俺は力なく血を吸われ続けている男たちを一瞥した。やはりどう足掻いても吸血鬼どもの餌になる運命からは逃れられそうもない。その時、毒島から強烈な視線を感じた。獣じみた眼光からは殺気が漲っている。世界一強力な相棒を失っても、その殺意は失われていない。流石は元殺し屋。どんな状況下に陥っても、標的を殺す意思は揺らいでいない。


 毒島の伝えたいことは分かった。


 次の瞬間、閃光のような毒島のハイキックが吸血鬼の少女に炸裂した。同時に俺はくるみを担いで部屋から飛び出した。背後が急激に騒がしくなった。俺は振り返る勇気がなく、ただ前だけを見て全力で走った。


 誇り高き元殺し屋。毒島獣香。貴様の死は無駄にはしない。

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