第12話 サービスを待っている状態なのだ

 正面出入口から伸びる下り坂。両側から覆い被さるように樹木が茂り、枝葉が軽ワゴンの側面をひっかいている。


「なるほど、そういうことだったのね」


 殺し屋から逃走するための策を、ようやく理解したくるみ。


 今回に関しては運が良かった。偶然に飛び込んだ部屋が、獣道の上の部屋だった。よって軽ワゴンの停車位置も把握することができた。しかも偶然、軽ワゴンの停車位置が部屋の窓の真下だった。今更ながら運任せの策だったことを実感する。


「おじ兄さんが、獣道に向かってクツを投げたときは、頭がおかしくなったんじゃないかって思ったわ」


「あれは、俺たちが獣道から逃げたって思わせるための策だ。逃げるときに草に足を取られて靴が脱げたってことにしたかったんだ。もし、殺し屋が俺たちの車の方に行ったら、俺たちは、獣道から逃げるしかなくなる。夜中に、あの獣道を踏破するのは危険すぎる。最悪遭難する可能性だってある」


「そうね……」


 納得するくるみ。元より車を捨てて逃げるなど選択肢にない。五千万を捨てて逃げるなどありえない。人生を捨てるつもりはない。


 車は急な坂道を延々と下っていく。アスファルトの両側には木々が重なり合うように生い茂っている。だが、街灯が一定間隔で設置されているため、視界はさほど悪くはない。やはり、この坂道が、ホテルと山道を繋ぐ正規のルートだろう。なぜ獣道に迷い込んでしまったのか、甚だ疑問である。すべてはポンコツナビのせいだろう。


 ホテルから離れていくほど、緊張が解けていった。高鳴っていた心臓も静まり、強張っていた筋肉も緩んでいった。恐怖で冷え切っていた身体も、少しずつ熱を取り戻しつつあった。


 やはり脱出に関しては運が良かった。不気味なほど上手くいった。もしや人生における残りの運を、すべて使い果たしたのではないかと不安になる。まあ、しかし、成人してから、運を使った記憶はない。運を使っていれば、もっとマシな人生を歩んでいるはずだ。もしや、それなりに運が蓄えられていたのかもしれない。命の危機に瀕したことで、貯まっていた運が、一気に下ろされたということだろうか。命が助かったのは喜ばしいことだが、どうにも腑に落ちない。そもそもあのホテルに来なければ、こんな目には合わなかった。貯まっていた運を一気に使うこともなかった。


 俺は、助手席で暢気そうに鼻歌なんぞを歌っている女を睨んだ。


 すべての元凶は、この女にある。


 そう思うと、怒りが込み上げてきた。


 これからスタートするはずだった慎ましやかな人生を散々乱しやがって。許さん。


「あっ!」


 突然、くるみが声を上げた。


「おじ兄さん、あれって……」


 くるみが指さす方へ、俺も視線を向けた。


 遥か前方に灯りが射していた。今、車を走らせている坂道の街灯とは、比べ物にならない明るさだった。俺は安堵した。前方の灯りは、紛れもなく山道の灯りだ。俺は山道に向かってアクセルを踏み込んだ。一刻も早く、この犯罪ホテルの敷地から出たかった。


 刹那、くるみの悲鳴が上がり、咄嗟に急ブレーキを掛けた。


 車体が前のめりに停車して、俺とくるみの身体を前後に激しく揺さぶった。混濁する脳を叩き起こし、俺は目の前の光景を睨んだ。


 車のヘッドライトに照らされた先に、巨大な鉄格子の門が行く手を塞いでいた。


「うそだろ……」


 俺は車から飛び降り、門扉に手を掛け、力任せに引いた。しかし、門は微動すらしなかった。


 堅く施錠されていた。


「残念だったな。今日は貸し切りなんだよ」


 鉄格子の向こうに、少女が立っていた。


 金髪のロングヘアとチェックのミニスカートを風になびかせながら、少女は薄笑いを浮かべながら、こちらを見ていた。その手には、銀色に光る長大な拳銃が握られていた。


「オッサン、ずいぶんと小賢しいマネしてくれたな」


 獣じみた眼光でこちらを睨み、こちらに拳銃を翳した。鉄格子を挟んで、銃口と俺の額が向かい合った。


 これまでの運の良さが帳消しになった。否、最初から運などなかったのだ。


「もう逃げ場はねえ。ここで死ね」


 絶体絶命の状況である。僅かでも変な動きを見せれば、脳味噌が吹き飛ばされるだろう。


 諦めて死ぬか。


 それとも。


「わっ、分かった、降参する」


 それでも足掻いて、運に縋るか。


 あるのかないのか分からない糞ったれな運を信じるか。


 もはや選択肢などない。


「最後に教えてくれ。このホテルは一体なんだ?」


 時間を稼ぐ。糞ったれな運が、こちらを向いてくれると信じて。


「んなこと知って、どうすんだ?」


「どうもしない。ただ知りたいだけだ」


 怪訝そうに目を細める少女。


「変なオッサンだな。んじゃメイドの土産に教えてやるよ」


 メイドじゃなくて冥途な、なんて突っ込めば、顔面に風穴が空きそうなので止めておく。


「このホテルは暴力団が経営しててな、普段は売春や買春、AVの撮影なんかに利用されてんだ。まあ、場合によっては、拉致監禁、尋問や拷問なんかにも利用されているみたいだがな」


「犯罪専用のホテルってことか」


「そうだ」


 やはり、あのホテルの異常とも言える高級感は、犯罪をカモフラージュするための偽装だったのだろう。あんなスイートルームのような部屋で、犯罪行為が行われているなど、想像もつかないはずだ。


「んで、稀に殺人にも利用される。殺人に関しては、ホテルを貸し切って行われる。従業員も出勤して来ない。巻き込まれる危険があるからな」


 殺し屋は続ける。


「この門は、従業員がいなくても、設定した時間になると、自動的開閉する仕組みになっていて、予約した時間以外は開かないようになっている」


 もしかすると、ホテルへ向かう際、正規のルートは門が閉ざされていたため、気付かずに、素通りしてしまったのかもしれない。ポンコツナビのせいではなかったのか。


「お前は、プロの殺し屋なのか?」


「ああ、そうだ」


 金髪の女子高生が即答した。


「殺し屋が殺しの現場を見られるのは、ご法度だ。殺しの現場を見た人間は、誰であろうと始末する。それがオレたちの掟だ」


 金髪の女子高生殺し屋が、鉄格子の隙間に拳銃を近づけた。全身に悪寒が走り、冷たい汗が滲む。


「しかし驚いたぜ。まさか裏口から車で入って来るなんて、想像もしなかったな。もし、ぬかるみにはまれば、抜け出すことはまずムリだぜ。しかもこの辺りは、携帯も通じないねえから助けも呼べねえ。無謀すぎんだよ。アンタらどんだけ盛ってんだ」


 裏口とはあの獣道のことか。


「あの裏口は、警察に嗅ぎつけられた時の脱出口だ。普段は客どころか従業員も利用しねえよ。クマも出るし、少しでも道に迷えば、遭難するからな。そんだけアブねえ道なんだよ」


 熊。遭難。とんだポンコツナビだ。


「もういいだろ。そろそろ死ね」


 鉄格子の隙間から銃口が伸びた。その無機質な先端から、暴力の臭いと死の臭いが漂ってきた。


「まっ、待て、まだ知りたいことがある!」


「時間稼ぎなんだろ。バレバレなんだよ。それにオッサン妙に頭が切れるからな。まだ何か企んでんだろ。もう油断はしねえ。確実に殺してやる」


 少女の眼が剣呑なものへと変わる。狩りに集中する獣のそれに似ている。


 ここまでか。


 しょうもない人生だった。


 しょうもない人生の終わりが、殺し屋の凶弾である。


 成仏できんぞ。


 やっぱり、この世には神も仏もいない。改めて痛感した。


 くそっ、どうしてこんなことになってしまったのか。


 そう、何もかも、あの女のせいだ。あの女に関わったことで、俺の人生は急速に収束してしまった。たった一回の風俗が原因で、命を失う結果となった。しかもサービスは一切受けていない。ふざけんな、馬鹿野郎。糞野郎。金返せ。


 俺が怨嗟を込めてくるみを睨もうとした時、彼女が助手席から降りて、声を上げた。


「えっ、もしかして、ドクちゃん?」


 その声に、殺し屋の目が大きく見開いた。


「その声は……くるみちゃん?」


 くるみが恐る恐る鉄格子に近づいていく。街灯の灯りがくるみを照らした。瞬間、殺し屋が目を広げたまま、小刻みに震え始めた。


「ドクちゃん。やっぱりドクちゃんだ。久しぶりだね」


「くっ、くるみちゃんっ!」


 殺し屋は拳銃を投げ捨てると、猫のように鉄格子をよじ登り、こちら側に飛び下りた。そして、そのまま地面を蹴ってくるみに抱き着いた。


「くるみちゃん、会いたかったぁ」


 くるみの胸に顔を擦り付ける、殺し屋。


「よしよし、あたしも会いたかった」


 殺し屋の髪を優しく撫でる、くるみ。


 あまりの唐突な状況に戸惑う、俺。


 どういうこと?


 ※ ※  ※


 ドクちゃんこと毒島獣香ぶすじまじゅうかは、くるみとは幼馴染だった。


 毒島獣香の幼少期は、決して恵まれているものではなかった。


 幼い頃に両親が蒸発し、身寄りのなかった彼女は、施設へと送られた。施設内での生活は厳しいものだったが、先輩と後輩の立ち位置を守ってさえいれば、それなりに自由な生活を送ることは出来た。問題は施設外での生活だった。毒島のいる施設は、比較的裕福な家庭の多い地域にあったため、施設の子供たちは、地域の住民から差別的な目で見られることが多かった。特に同じ学校に通う生徒の保護者たちは、施設の子供たちに対して、差別意識が非常に強く、それは我が子へと伝染していった。この悪循環によって、毒島ら施設の子供たちは、イジメの対象になっていった。


 保護者発信の差別というのは驚きだが、我が子のためならば、何をやっても正義と考えている親は結構多い。モンスターピアレンツなんかもその一端だろう。妹もしょっちゅう息子の学校に怒鳴り込んでいた。本人は、我が子を護るための正義を振り翳しているつもりなのだろうが、傍から見れば、単なる八つ当たりにしか見えない。我が子をネタにして、ストレス解消しているとしか思えない。


 とにかく毒島は、小学校入学と同時に、酷いイジメに合っていたらしい。いささか個性的な名前も相まって、イジメは苛烈を極めたそうだ。そんなイジメに合っていた毒島を救ったのが、くるみだった。


 当時、小学六年生だったくるみは、才色兼備で文武両道のパーフェクトな生徒で、全校生徒からの憧れの的だった。彼女を中心とした友人グループは、スクールカーストの頂点に君臨しており、それにより校内で彼女に歯向かう者は誰もいなかった。くるみは、下校途中に偶然、毒島が同級生からイジメを受けている現場に遭遇し、そのあまりの酷さに耐えられなくなり、助け出したのだ。その後、くるみらグループに護られる形で、毒島からイジメはなくなり、以降、彼女はくるみを慕うようになった。それからほどなくして、毒島は、ある夫婦に養子に引き取られることになり、そのまま転校してしまった。くるみとの辛い別れを乗り越え、心機一転、新たな人生に向けて、第一歩を踏み出そうとした毒島だったが、親となった夫婦に、ある現実を突きつけられた。


 夫婦は、現役の殺し屋だった。


 夫婦が欲しかったのは養子ではなく、殺し屋の後継者だったのだ。


 毒島が踏み出した一歩は、死屍によって埋め尽くされた殺戮の世界だった。しかし身寄りのない毒島に選択権はなかった。


 殺し屋になるしかなかった。


 そして毒島獣香は、殺し屋夫婦による過酷な訓練を経て、十二歳で、晴れてプロの殺し屋となった。


「漫画みたいな生い立ちだな」


 そして、漫画みたいなオチだ。


 暗い山道に目を凝らしながら、俺はハンドルを揺らしていた。


「ドクちゃん、本当に大変だったね」


「くるみちゃん、ホントにタイヘンだったんだよぉ」


 ルームミラー越しに、後部座席に座るくるみと毒島の姿が見えた。毒島はくるみの胸に顔を埋めて抱きついている。くるみは、そんな彼女の頭の優しく撫でている。猛獣をあやすサーカス団員のようだ。どうでもいいが、ドクと言うあだ名は、毒島の毒から、くるみがインスピレーションを受けて命名したものらしい。


 そんなことよりも、重大な問題が放置されたままだ。


 何故、殺し屋が、後部座席で、くるみとイチャついているのか。


 さっきまでの緊張感はどこにいったのか。


 殺される寸前だったが。


「オレは、オヤジとオフクロから殺し屋が信用していいのは、死体だけだって教えられてきた。つまり人間は殺すまで信用するなってことだ。オレもその教えをずっと信じてきた。でも、くるみちゃんと再会してはっきりと分かった。オレに、くるみちゃんは殺せないって」


 毒島は続ける。


「くるみちゃんは、オレを気に留めてくれた唯一無二の人なんだ。道端の石ころだったオレに、気付いてくれて、気に留めてくれた。それだけでオレは嬉しかった」


 ルームミラー越しに、毒島の青い瞳と視線が合った。そこに剣呑さはなく、純朴な少女の瞳だった。


 道端の石ころ。


 気に留めてくれた。


 奇妙な共感があった。


「まっ、オッサンは殺してもいいんだけどな」


 ルームミラー越しに、毒島の青い瞳と視線が合った。そこに純朴な少女の瞳はなく、獣じみた獰猛な眼光が刺さった。


「ドクちゃん、冗談でもそんなこと言っちゃダメ」


 いや、冗談には聞こえなかったが。


「まあ、殺しの現場に鉢合わせた人間を見逃した時点で、稼業は廃業だよ。オレはもう殺し屋じゃない」


「殺し屋って、そんなに簡単に辞められるの?」


「辞めるのは簡単。殺しを止めればいいだけさ。ただオヤジとオフクロはそれを絶対に許さない。オレを殺すために刺客どんどん送って来ると思う」


 車内に沈黙が落ちた。


「それ、どうなるんだ?」


「見つかれば、みんなまとめてあの世行きさ」


「撃退できないのか?」


「集団で奇襲されたら、撃退は無理だな。複数の殺し屋に狙われて、生きていた殺し屋はいない」


「よし、分かった。お前は、今すぐここで降りろ!」


「ダメよ、そんなことしたら、ドクちゃんが殺されちゃうでしょ!」


「俺たちも殺されるぞ!」


「それでもドクちゃんを置いていくなんてできない。だったらおじ兄さんが降りてよっ!」


「なんで俺が自分の車から降りなきゃならんのだ!」


 毒島が割って入った。


「仮にオレがここで降りたとしても、くるみちゃんもオッサンも間違いなく殺されるよ」


 俺とくるみが同時に振り向く。


「あのホテルには至る所に監視カメラが付いてんだ。くるみちゃんのキレイな顔も、オッサンの小汚い顔も、監視カメラにバッチリ映ってる。この車のナンバーだって映ってる。それらを元に徹底的に探し回るはずだ。裏社会の情報網はハンパじゃない。どんなに逃げ回っても、半日もあれば確実に見つかるだろうな」


 再び、車内に沈黙が落ちた。


 とんでもない事態に巻き込まれていることだけは分かった。俺は妹に追われ、くるみはヤクザに追われ、毒島は殺し屋に追われる。追手がどんどん増えていっている。どうしてこんなことになってしまったのか。ルームミラー越しに、くるみと目が合った。特に悪びれた様子もなく、こちらを見ている。お前がすべての元凶だ、と叫びたいところだが、一時の快楽を得たいがために、彼女を呼び出したのは、紛れもなく俺だ。あの時、食後に、コンビニへ缶コーヒーを買いに行ったことで、人生が大きく狂った。缶コーヒーなんぞ自動販売機で買えばよかったのだ。わざわざコンビニに行く必要なんてなかったのだ。コンビニに行ったせいで変な気を起こしてしまい、今に至っている。何もかもが悔やまれる。


「あたしたち殺されちゃうの?」


 心配そうにくるみが言うと、毒島が首を横に振った。


「くるみちゃんは、オレが絶対に殺させない」


 くるみを見つめて毒島は続ける。


「オヤジもオフクロも絶対に手を出せない区域がある。そこに上手く入り込むことができれば一旦は安心だ」


「殺し屋が手を出せない場所って、相当ヤバイ気がするんだが」


「ああ、相当ヤバイところだが、今はそこに逃げ込むしか方法はない」


 次から次へときな臭い話が沸き上がってくる。もう勘弁してほしい。


「そこって、どこにあるの?」


 くるみが訊くと、毒島が満面の笑みで答えた。


「実はここから近いんだ。山を下りて、海沿いを一時間ほど走ったところにあるよ」


 そんな近場に魔界都市があるとは驚きだ。


「じゃあ行くしかないね。ドクちゃん。おじ兄さんにナビお願い」


「オッケー」


 艦長気取りのくるみに、配下の毒島が可愛くウインクした。すべてが腑に落ちない。しかし、俺としても死にたくはないため、命令に従うしかない。


 無事に山を下り、海沿いを三十分ほど走らせたところにコンビニがあった。三十時間近く何も食べていなかったため、俺もくるみも空腹がピークに達していた。とりあえず空腹を満たすため、コンビニに立ち寄ることにした。ホテルで凄惨な現場な見た後にも関わらず、腹は減るのだと呆れた。所詮は人間も獣なのだと実感した。空腹を満たした俺は、車を降りて、夜風を浴びながら、缶コーヒーのプルトップを引っ張った。潮の匂いが鼻孔を刺激した。さざ波の音が耳朶を打った。目の前を走る一車線の道路の向こう側には海が広がっている。コンビニの灯りによって、水面がきらきらと煌めいている。


 ホテルでの喧騒が嘘のように静かな光景だ。


 ついさっきまで、死に直面していた。死を覚悟していた。しかし、皮肉にも生きている。糞ったれな運を使い果たして生きている。喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか、分からない。生き残っても、問題は何一つ解決していない。むしろとんでもなく悪化している。俺が組み上げた人生プランは、修正できないほど狂ってきている。もうどうしたらいいのか分からない。人生に希望を見出すことができない。絶望しか感じ取れない。


 悲哀を滲ませ。ぼんやりと海を眺める。そして、コーヒーを一口含む。苦味と微かな甘みが舌の上に広がった。


 ふと、背後から足音が聞こえた。軽快なローファーの音だ。


「くるみちゃんから聞いたよ。オッサン、ただの客なんだろ?」


 俺は首肯した。


「まさかくるみちゃんが風俗で働いてたなんて、さすがにショックだよ……」


 毒島は悲しげな笑みを浮かべた。俺は黙ってコーヒーを含んだ。


「ただの客のアンタが、どうして、くるみちゃんといるんだ。目的はなんだ?」


 目的などない。脅迫されてここまで連れて来られた、と言ってもくるみを妄信しているコイツが信じるはずがない。さてどう言えばこの百合っ子に信じてもらえるだろうか。


「アンタ、もしかして、くるみちゃんのことが好きなのか?」


 何故そうなる。俺はかぶりを振った。


「だったら、なんであの時、逃げなかったんだ?」


 質問の意味が分からない。俺は首を傾げた。


「オレがあの糞豚野郎を嬲り殺した後、オレはアンタに拳銃を向けた。でもアンタは、躊躇することなく車から降りて、くるみちゃんのいる部屋に戻った」


 糞豚野郎とはあの成金変態親父のことか。


「アンタ、弾切れになってること知ってたんだろ?」


 ややあって、頷いた。


「そうだよな。じゃないと、あんな行動取れないよな。だったらなんで、あのまま車を走らせて逃げなかったんだ? オレからは確実に逃げられたはずだぜ」


 逡巡する俺。


「アンタは逃げることができたにもかかわらず、迷うことなくホテルに戻った。くるみちゃんを助けるために」


 俺は一気に缶コーヒーを飲み干し、そのままゴミ箱に投げ込んだ。


「自分が死ぬかもしれない状況で、知り合ったばかりの風俗嬢を助けに行くなんて、マトモじゃないだろ。やっぱりアンタ、くるみちゃんが好きなんだろ!」


 嘆息する俺。ややあって、かぶりを振った。


「いい歳こいたオッサンが、風俗嬢に一目惚れなんて、キモすぎなんだよ!」


 毒島が睨む。


 ふいに、床に落ちた毛布が浮かんだ。


 淡いベージュの毛布。


 それはとても柔らかく、温かかった。


「俺も、お前と一緒だ。くるみは、俺を気に留めてくれた」


 結局、人間は、誰かに気付いてもらいたい。誰かの気に留めてもらいたい。そんな願望に支配されている生き物だ。くるみが掛けてくれた、たった一枚の毛布。彼女が気付いてくれて、気に留めてくれて、掛けてくれた一枚の毛布。たったそれだけの行為が、ひどく懐かしく感じた。俺という存在が、まだ認知されていた頃は、それなりに温かみも感じていた。だが、人生に躓くに連れて、その温かみは遠ざかっていき、やがて消えていった。そんな消えた温かみを、一枚の毛布が思い出せた。くるみにとっては、単なる親切心だったのかもしれない。それでも俺は、そこから感じた温かみに心を打たれてしまい、命を晒して、無謀な行動に出てしまった。呆れるほど安い命である。


「オレと一緒ってことは、オッサンもくるみちゃんが好きってことだろ!」


「なぜそうなる?」


「だってオレ、本気でくるみちゃんが好きだから。つまり、オレとオッサンは、ライバルになるってことだ!」


「なぜそうなる?」


「オレは、欲しいものはゼッタイに手に入れる主義なんだ」


 毒島の目付きが剣呑なものへと変わる。殺し屋の眼光だ。そして流れるように太腿のホルスターから大口径のリボルバーを取り出すと、俺の額に標準を合わせた。一瞬にして、全身から冷たい汗が沸き上がった。


「なぜそうなる!」


「オレとくるみちゃんの恋路を邪魔する奴は、誰だろうと生かしておけない」


 そう告げると、毒島は、流れるように拳銃をホルスターに突っ込んだ。


「だからくるみちゃんに変な気起こすなよ」


 毒島は口の端を吊り上げると、そのまま車へと戻って行った。


 途端、全身が弛緩した。突然のガチ百合発言からの恋のライバル発言。加えてヤンデレからの殺人予告。もう勘弁してもらいたい。外からは殺し屋に追われ、内からは元殺し屋に狙われている。どうしてこうなってしまったのか。やはり、元凶はあの女だ。とんだ疫病神だ。くそったれ。


 憤懣やるかたなく踵を返すと、目の前にやけに綺麗な疫病神が立っていた。


「どうしたの、おじ兄さん。眉間にシワなんか寄せちゃってさ」


 くるみが顔を覗き込んできた。不覚にも鼓動が大きく波打った。疫病神の分際で無駄に美人なのが腹立つ。


「ん、怒ってんの?」


 俺は曖昧に返事をした。


「なんかさぁ、大変なことになったよね」


 誰のせいだ。


「まさかあたしたちが、殺し屋に狙われるようになるなんてね」


 誰のせいだ。


「早くもフツーの人生から外れちゃったね」


 誰のせいだ。


「まあ、でも、ドクちゃんについていけば助かるみたいだし、結果オーライだね」


 命の危機に瀕しているこの状況で、その短絡的な思考は実に羨ましい。


「でもさ、おじ兄さんが部屋に戻って来たときは驚いたよ」


 俺は首を傾げた。


「あたしが目を覚ました時、おじ兄さんはどこにもいなくて、すぐに、ああ、行っちゃっただなって思ったの。だって、あたしとおじ兄さんの関係って、単なる風俗嬢と客でしょ。あたしのわがままに付き合ってくれてただけで、一緒にいる理由なんてないもんね。だから諦めてどうやって山を下りようかなぁって考えていた時、おじ兄さんがすごい顔で戻って来たから驚いたよ」


「まあ、状況が状況だったからな」


「でも、どうしてわざわざ戻って来たの? あたしを置いて逃げることができたんじゃないの?」


 またその話か。俺は辟易した。


「ああ、逃げれたよ」


「じゃあ、どうして逃げなかったの? 目の前で人が殺されて、次に自分も殺されるって分かってて、どうして逃げなかったの?」


 君が僕に気付いてくれて、気に留めてくれたからさ、とは恥ずかしくて言えない。まあ、言ったところで理解はしてくれないだろう。


「俺とお前の関係は、客と風俗嬢だろ」


「そうだけど」


「だが、その関係は全く成り立っていない。何故なら俺は対価を支払っているが、お前は何のサービスも行っていない。俺は今も、お前からのサービスを待っている状態なのだ。だから、お前から離れるつもりはない。それだけだ」


「サイテーの答えだね」


 くるみは苦笑いを浮かべた。


「でもね、サイテーな理由だったとしても、戻って来てくれた時は、ちょっとだけ嬉しかったんだ」


 くるみが満面の笑みを浮かべた。不覚にも胸が苦しくなった。


「サービスは、気が向いたらしてあげる」


 えっ、と俺は目を丸くした。


「もちろん、主導権はあたしにあるから」


 客に対する言葉とは思えない。


「あと、ドクちゃんに、おじ兄さんがサービス待ちってことは伝えとくから」


 それだけは止めてくれ、と俺が懇願すると、くるみはお腹を抱えて笑った。そしておもむろに俺に近づき、耳元で囁くように言った。


 ありがとう、と。

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