第11話 俺たちの勝ちだ

 部屋の扉を勢いよく開くと、歯ブラシを咥えたくるみが、驚いた様子でこちらを見た。


「どこいってたの? なんか大きな音と叫び声が聞こえたんだけど、近くで花火大会でもやってるの?」


「んなわけあるかっ!」


 お前の聞いた大きな音は銃声で、叫び声は断末魔だ。


「とにかく、ここから逃げるぞ!」


「はあ? なに言ってんのよ」


「理由は後で説明する。すぐにここから離れないとヤバイんだ!」


「ヤバイって、なにが?」


「殺されるってことだ!」


 室内に沈黙が落ちた。


「それ、なんの設定?」


「設定じゃない、現実だ!」


「おじ兄さん。もうアラフォーなんだからいいかげん中二病は卒業してよ」


「誰が厨二病だ!」


 俺はくるみの手を握り、強引に引っ張った。痛みに抗議するくるみを無視して、続けた。


「来い、現実だってことを見せてやる!」


 俺は抵抗するくるみを無理やり部屋から引きずり出し、ある部屋へと向かった。


「どこに連れて行くのよ!」


「しっ、大声を出すな、居場所がバレるだろ!」


「はいはい、中二病設定ね」


「いいから黙ってろ!」


「あたしに命令するな!」


「頼むから大人しくしていてくれ」


 心の底から懇願する俺に察してくれたのか、くるみはしぶしぶ口を噤んだ。


「この部屋か……」


 ドアノブに触れると、勝手に扉が開いた。


 瞬間、むせ返るほどの生臭さが、鼻孔を刺激した。


 込み上げる胃酸に口を押えた。くるみも嗚咽を漏らしている。


 真っ暗な室内に充満する血肉と硝煙の臭気。間違いない。この部屋は、あの成金変態オヤジと殺し屋がチェックインした部屋だ。恐る恐る室内へと足を踏み入れる。


「きゃっ!」


 くるみが何かに躓き、バランスを崩した。俺は転びそうになるくるみをぐいっと引き寄せ、身体を支えた。


「あ、ありがと、なんか丸太みたいなのに躓いちゃって……」


 丸太と聞いて嫌な予感がした。


 どこに転がっていたのか。目を凝らしても、闇が深いため何も見えない。


 部屋の奥の大きな窓は派手に割れており、そこからぬるりと月光が差し込んでいた。


 月光によって照らされたダブルベッドのシーツには、真っ黒な液体がぶちまけられていた。


 分かってはいたが、その凄惨な光景に、一気に恐怖が込み上げた。俺のシャツの裾を握り占めるくるみの手から震えが伝わってきた。


 ベッドに飛び散った黒い液体は、成金変態オヤジの血液だろう。あのオヤジが窓から降ってきた際、すでに左腕は失われていた。つまり左腕は、このベッドの上で吹き飛ばされたのだろう。


 刹那、くるみが俺のシャツの裾を強く引っ張った。


「あ、あれは、なに……」


 窓から一筋の月光が伸びた先。おぼろげな光に照らされた床の上に、重量のある物体が転がっていた。薄明かりに照らされたそれは、血だまりの中に沈み、先端からは五本の指が生えていた。


 紛れもなく成金変態オヤジの左腕だった。


 悲鳴を上げそうになるくるみの口を咄嗟に抑えた。


「あれは本物だ。本物の人間の腕だ。あの腕の持ち主は、この部屋の下、駐車場で殺された」


「殺されたって、誰に殺されたのよ」


「殺し屋だ」


 室内に沈黙が落ちた。


「それ、本気で言ってるの?」


「当然だ。俺は、あの腕の持ち主が、拳銃で撃ち殺される瞬間を見たからな」


 当惑しているくるみ。


「ぜんぜん意味わかんないことばかりだけど、もしかして、その殺し屋があたしたちを狙っているってこと?」


 俺は首肯した。


「殺しの現場を見たんだ。簡単には見逃してはくれないだろう」


「いやいや、あたしたち完全に無関係じゃん」


 彼女の言い分も分かるが、そんな道理が通用する相手ではない。俺へと向けられた視線には濃厚な殺意が込められていた。


「それにホテルで殺人が起こったら、従業員の誰かが、警察に通報するでしょ?」


「お前、ここに来て、一人でも従業員の姿を見たか?」


「見てないかな」


「仮にここがラブホテルだったとしても、チェックインすれば、従業員から部屋に内線が入るはずだ。利用時間を確認するためにな。だがそれもない。そもそも部屋には電話がなかった」


 くるみが眉をひそめて唸った。


「たしかにヘンかも」


「お前の案内で、このホテルに来たんだぞ。こんな異常なホテルを本当に利用したことがあるのか?」


「ないよ。ここは初めてだよ」


「何だと!」


「元カレと行ってたホテルは、もっと麓のほうだと思う。やっぱスマホないと道が分かんないね」


 苦笑いを浮かべるくるみに対して、俺は盛大な溜息を吐き出した。


 とにかく、このホテルが犯罪に利用されていることは間違いない。駐車場で銃声が轟いても、断末魔が切り裂いても、ホテルは沈黙したままだ。異常な状況だ。他の宿泊客に助けを求めることができないかと、一縷の望みに掛けてみたが、駐車場を見る限り、停車している車は二台だけだった。俺のポンコツワゴンと、成金変態オヤジのダサいセダンだけだ。


 つまり、このホテルにいるのは、俺とくるみ、そして狂気に満ちた殺し屋だけだ。


 どうすれば殺し屋に発見されることなく、駐車場に停めている車に乗り込むことができるだろうか。間違いなく、殺し屋は俺たちの居場所を把握している。駐車場からホテルを見上げれば、二階の一室だけ灯りがともっていることが分かる。俺たちの宿泊している部屋なのは一目瞭然だ。ならば、俺たちの居場所を知った上で、殺し屋はどう動くだろうか。考えられるのはフロントでの待ち伏せだ。このホテルの出入口はフロントにしかない。俺たちを確実に仕留めるのなら、出入口を塞ぐことが手っ取り早い。ならばフロントを介さずに外に出る方法を考えなければならない。


「避難階段を探すか」


 俺はくるみを連れて部屋を出ると、避難階段を探した。俺たちのいる二階は、中央にエレベーターが設置されており、その周囲を囲むように部屋がある。部屋数は十室ぐらいだろうか。使用されていないからか、どの部屋も鍵は掛かっていない。


 俺とくるみは、二階全体をぐるりと探し回ったが、避難階段に繋がる通路は見当たらなかった。そもそも階段がどこにもなかった。


「階を移動するには、エレベーターしかないってことか」


 このホテルは五階建てだ。日本の建築基準法では、避難階段の設置が義務付けられているはずだ。しかし避難階段どころか階段すらない。明らかに違法だ。


「じゃあ仕方ないね。エレベーターで降りよう」


 くるみが、エレベーターに向かってすたすたと歩き出した。


「ちょ、ちょっと待て!」


 俺がくるみに駆け寄った瞬間、エレベーターの階数ボタンが点滅した。


 まさか、と息を呑む。


 俺はくるみの手を掴み、近くの部屋に飛び込んだ。


「痛、なにすんのよ!」


 抗議するくるみの口を押え、俺は部屋の扉を少しだけ開いた。


 エレベーターの階数ボタンが二階で点滅した。心拍数が急激に上昇する。呼吸が苦しい。背筋に悪寒が走り、皮膚が一斉に泡立つ。


 ゆっくりとエレベーターが開き、中から金髪の少女が姿を現した。小麦色の肌に露出度の高い制服。時代錯誤な濃いメイクにルーズソックス。そんな少女の手には長大な回転式拳銃が握られていた。


 成金変態オヤジを屠った、鋼鉄の獣。


 世界一強力な拳銃だ。


「あれってホンモノなの?」


 俺は再度くるみの口を押え、小さく頷いた。


 少女は冷笑を浮かべながら辺りを見渡すと、髪をかき上げるかのような自然な動きで、エレベーターの階数ボタンに銃弾を叩き込んだ。強烈な閃光とともに、猛烈な爆音が轟き、階数ボタンから黒い煙を上がった。


 突然の事態に状況が飲み込めない。くるみも驚きに目を見開いている。


 少女は冷笑を浮かべたまま、唐突に口を開いた。


「おーい、ここにいんのは分かってんだ。エレベーターはぶっ壊した。もう諦めろ。さっさと出てきて殺されろ。心配すんな。あのオヤジみたいに嬲り殺したりしねえ。すぐに終わらせてやる。安心しろ。痛みなんぞ感じるヒマねえからよ」


 鋭さを帯びた声に、皮膚がひりつくのを感じた。


 くるみが俺のシャツの裾をぐっと握りしめた。彼女の指先から微かに震えを感じた。ようやくこの絶望的な状況を理解してくれたようだ。もう遅すぎるが。


「出てこねえか。んじゃ仕方ねえか」


 瞬間、少女は拳銃を翳して、部屋の扉に向かって躊躇なく引き金を絞った。


 隣の部屋の扉が、木っ端微塵に粉砕された。


 危うく声が出そうになった。くるみも両手を重ねて必死で口を押えている。


「メンドーだが、一部屋ずつ潰していくか」


 そう呟くと、少女は拳銃を翳したまま隣の部屋へと入っていった。


 完全に狂っている。


 逃げ込んだ部屋が隣だったと思うと気を失いそうになる。今頃、頭蓋骨が派手に粉砕されて、脳味噌が盛大に飛び散っていることだろう。そもそも扉はすべて開錠されている。そこにわざわざ銃弾をぶち込む意味が分からない。銃声で俺たちを慄かせ、部屋から叩き出すのが目的なのか。それとも単に銃をぶっ放したいだけなのか。全く分からない。どちらにしても狂っている。


 くるみが俺のシャツの裾をぐいっと引っ張った。


「やっぱり、あの拳銃ってホンモノなの?」


「威力を見れば分かるだろ。どうみても本物だ。しかも世界一強力な拳銃だ」


「なんでギャルが世界一強力な拳銃を持ってんのよ」


「知るか。とにかく、どうにかしてここから逃げないと」


 刹那、再び銃声が鳴り響いた。


 二つ隣の部屋の扉が破壊された音だ。殺し屋は部屋を虱潰しに探していくようだ。幸い隣の部屋から反時計回りに探しているため、俺たちの部屋に来るのは最後になるだろう。もし時計回りだったら、すでに屍を晒しているに違いない。ホッと胸を撫で下ろす。この状況で、まさか運に救われるとは思わなかった。だが所詮は悪運に過ぎない。寿命が幾分伸びただけで、絶望的な状況は何も変わっていない。


 再び、くるみが俺のシャツをぐいっと引っ張った。


「どうやって逃げるのよ」


 エレベーターは破壊され使用することはできない。そもそも部屋から出るのは危険すぎる。殺し屋と鉢合えば即終了だ。もはやこの部屋から外への脱出しか選択肢はない。俺は月明りの差し込む窓へと視線を向けた。殺し屋が二階の窓から飛び降りた姿を思い出した。一縷の望みに掛け、ベッドに飛び乗ると、窓をこじ開け地上を見下ろした。


 無理だった。


 五メートル以上の高さから飛び降りる度胸などない。しかも地面は、固いアスファルトだ。飛び下りれば、骨折だけは済まないだろう。


 果たして、この窮地を打開する術はあるのだろうか。


 爆発音のような銃声が、耳朶を震わせている。


 恐怖が増幅していき、焦燥が掻き立てられる。


 どうすれば殺し屋に見つかることなくホテルの外へ出ることができるのか。似たような状況での脱出は、映画やドラマではよく見かける。カーテンやシーツなどを結び付け、ロープ替わりにして脱出することもあれば、窓の下に停車している車のルーフに飛び下りて、脱出することもある。だが、現状を鑑みれば、どれも机上の空論にすぎない。カーテンやシーツでロープを作る時間は辛うじてあるだろうが、ロープを伝って下りる時間がない。ましてや相手は窓から飛び下りても平気な狂人だ。無事に地上に下りても、すぐに追いつかれてしまう。車のルーフに飛び下りる方法は、窓の下に車がないため論外だ。


 俺は、唯一の脱出口である窓から顔を出して、外へ出る方法を探る。すると、月明りが、見覚えのある箇所を照らし出した。


 獣道。


 俺たちがこのホテルに来るために利用した獣道。それが窓の下のアスファルトを挟んで数メートル先に延びていた。


 俺は絶望の中に僅かな光を感じた。


 ※ ※  ※ 


「なんかこの方法、テレビで見たことあるよ」


 窓から取り外したカーテンと、ベッドのシーツを結びながら、くるみが言った。


「ほら、あれでしょ、九死に一生スペシャルとかでやってる、火事になったビルから逃げるときに使う方法でしょ?」


「大きな声を出すな、気取られるだろ!」


 俺が声を押し殺しながら叱責すると、くるみはぶうっと頬を膨らませた。


 今、俺とくるみは、カーテンとシーツを結びつけて即席のロープを作り上げている。カーテンもシーツもサイズが大きかったため、すんなり完成した。すぐさまロープを括り付ける箇所を探した。理想としては、ベランダの柵、もしくは窓に取り付けられた転落防止用の格子などに括り付けたかったが、両方ともなかったため、仕方なくベッドの脚に括り付けることにした。


「大丈夫? ベッドごと落ちたりしない?」


「大丈夫だ。ベッドが落ちることはない」


 俺はベッドに上がり、窓の外を睨んだ。そして片方のスニーカーを脱いで、握りしめると、窓の外へと勢いよく投げ放った。


 驚きに目を丸くするくるみ。


 スニーカーはゆるやかな放物線を描き、やがて重なり合った草の上に落ちた。


 俺のスニーカーは、獣道の入り口付近に見事着地した。


「よしっ、隠れるぞ!」


 俺は、戸惑っているくるみの手を引いて、ベッドの下に潜り込んだ。


「どういうこと? カーテンとシーツを伝って逃げるんじゃないの?」


「いや、あんな即席のロープで窓から逃げてもすぐに追いつかれる」


「どうして?」


「すぐに分かる」


 小首を傾げるくるみ。


「とにかく、今は隠れることに集中しろ」


「隠れてどうすんのよ」


「チャンスを待つ」


「チャンスって、そんなの待ってるヒマないでしょ」


「いや、チャンスは必ず来る。チャンスを掴むことができれば、必ず逃げ出すことができる」


「いや、だから、そのチャンスってなんなのよ」


「とにかく、今は隠れることに集中しろ」


「はあ、ちゃんと教えなさいよ。てゆうかさぁ、さっきから、おじ兄さん主導権握りすぎ」


「死ぬか生きるかの状況で、主導権もクソもあるか」


「あるわよ。あたしは死んでも主導権に握りたいの。これがあたしの信念よ」


「どんな信念だ」


 刹那、嫌な足音を捕らえた。


 リズムを踏んでいるような、軽快な足音。


 死を奏でる足音。


 足音が部屋の前で止まる。


 閃光が走り抜け、強烈な爆発音がこだました。入口の扉が粉砕されたのが分かった。


 俺は力ずくでくるみをベッドの下に引き込み、彼女の口を塞いだ。


「ツイてんなオッサン。まさか最後の部屋に逃げ込んでたなんてなぁ」


 無邪気さに纏わりついている酷く剣呑な声に、戦慄が走る。


 成金変態オヤジが嬲り殺されていく様が、脳裏に蘇る。


 ローファーの靴音が、室内にこだましている。


「心配すんな一瞬で殺してやる。痛みなんぞ感じるヒマもねえ。だからさっさと出てこい」


 小気味よい金属音が鳴り響き、床で複数の金属音が聞こえた。リボルバーのシリンダーを横に振り出して、空薬莢を排出したのだろう。


「オレに殺されろ!」


 小気味よい金属音が鳴り響いた。シリンダーに弾薬が装填されたのだろう。


 俺の心臓が異常な鼓動を叩く。心拍音で気付かれるのではないかと恐ろしくなる。横目でくるみを見ると、口を押えたまま、大きな目を見開いている。触れている肩からは、微かな震えを感じ取ることができた。


 このベッドの下で、災厄が過ぎ去るのを待つしかない。


 俺は眼球だけで、くるみにそう伝えた。くるみも納得したのか、大きな瞳でこちらをじっと見つめてきた。


 ベッド下の狭い視界に、爪先が擦れたローファーと、その上に被さるルーズソックスが見えた。ローファーは床を嚙むように軽快なリズムを刻みながら、こちらへと向かって来る。心拍音を遮断するため、胸を強く抑え込む。全身の皮膚が駆けるように泡立ち、どっと冷たい汗が滲んだ。今日ほど仮死状態になることを望んだ日はないだろう。


 その時、ベッド前でローファーが停止した。


「なんだこりゃ?」


 ローファーが目の前から消えると、ベッドが激しく上下に揺れた。


「くそがぁっ、裏口から逃げやがった!」


 ベッドの上で殺し屋が叫んだ。その獰猛な叫びに、身が竦んだ。恐怖に慄きながらも、必死で息を殺して耐え続ける。殺し屋が窓へと向かうのが分かった。そして窓枠に足を掛ける音がすると、ベッドの上から凶悪な気配が消えた。


「チャンスだ!」


 俺は、くるみの腕を引っ張って、ベッドの下から這い出た。


「まさか、飛び降りたの?」


「そうだ。奴は二階の窓から飛び降りても平気なんだ」


「本当に人間なの?」


「知らん。だがこれで即席のロープで窓から逃げてもすぐに追いつかれるって意味が分かっただろ。俺たちが脱出に費やした時間を、奴は一瞬で縮めることができるんだ」


「そ、そうだね」


「とにかく逃げるぞ」


「逃げるってどうやって? エレベーターは壊れてるんでしょ?」


「ああ、窓から逃げるしかない」


 困惑するくるみを引っ張って、部屋を出る。


 どの部屋も無残に扉が破壊されており、エレベーターの昇降ボタンは抉れて金属が剥き出しになっている。俺はくるみを連れてエレベーターを通り過ぎると、ある部屋へと駆け込んだ。


 さっきの部屋から対角線上にある部屋だ。


 建物から見れば真反対の部屋だ。俺は一縷の望みに賭け、ベッドに飛び乗ると、勢いよく窓を開け放った。


 窓の下に、見慣れた軽ワゴンが停車していた。


 ボンネットには、血塗れの丸太が沈んでいる。


 思わず口角が吊り上がった。


「どうしたの?」


 訝しげにこちらを睨むくるみ。


「逃げるぞ」


 驚きに目を丸くするくるみ。


 俺は窓から身体を乗り出した。窓から軽ワゴンのルーフまでの距離は約三メートル。充分な恐怖を感じさせる距離だ。だが躊躇しているヒマはない。殺し屋に気付かれれば、すべて水泡に帰してしまう。脳内で成金変態オヤジの断末魔が轟いた。途端、撃ち殺される恐怖が、落下の恐怖を上塗りした。


 俺は、窓枠を蹴り、闇の中へと飛び込んだ。浮遊感と共に景色が高速で移動した。瞬間、猛烈な衝撃が全身を襲い、気が付くと軽ワゴンのルーフの上に倒れ込んでいた。くるみの悲鳴が聞こえた。俺は途切れそうになっていた意識を強引に引き戻し、四肢に力を込めた。衝撃による痛みはあったが、力は問題なく入る。骨は折れていないようだ。俺は両足に力を込めて立ち上がると、上空を見上げた。降り注ぐ月光の中、窓から身を乗り出してこちらを見下ろしているくるみに向かって叫んだ。


「飛び下りろ!」


 戸惑いの表情を浮かべるくるみ。


「心配するな、俺が必ず受け止めてやる!」


 彼女を受け止める自信など皆無だ。それでも今はこの方法しかない。ここから逃げるには、この方法しかない。だから覚悟を決めるしかない。彼女を全力で受け止める。


「だからさぁ」


 くるみは勢いよく窓枠に足を掛けると、微笑を浮かべ、こちらを見下ろした。


「おじ兄さん。主導権握りすぎってば!」


 くるみは躊躇することなく飛び降りた。俺はルーフの上に立ち上がり、全身で彼女を受け止めた。衝撃が駆け抜け、微かな香水の匂いが鼻孔を突いた。運動不足の筋力では抱えきれず、彼女を抱えたまま仰向けに倒れてしまった。


「うわあ、おじ兄さん大丈夫?」


 くるみは馬乗りの状態で、俺の肩を揺らした。


「は、早く、逃げるぞ……」


 くるみは立ち上がると、軽やかにルーフから飛び降りた。動きから見ても、怪我はしてなさそうだ。俺は全身の痛みに悶えながら起き上がると、這いずりながらルーフから降りた。各所に痛みはあるが、致命的なものはない。俺は転がるように運転席に乗り込むと、即座にエンジンを掛けた。くるみも助手席に乗り込んだ。落下の衝撃によって、ボンネットの丸太はどこか消えていた。


「俺たちの勝ちだ」


 俺はアクセル踏みつけ、皓々と灯りに照らされた正面出入口へ車を突っ込ませた。

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