第二章 殺し屋編
第9話 成金変態オヤジと援行少女
ふいに風が止まった。
しんと静まり返った世界に、俺は取り残された。
嫌な予感がした。
すると、黒く塗られた空から、白い塊が下りて来た。
何気なく開いた掌に、白い雪がふわりと着地して、じわりと溶けていった。
しんと静まり返った世界に、音もなく降り始めた雪。その勢いは増していき、アスファルトは瞬く間に白く染まっていった。歩くたび、薄っぺらいスニーカーに雪が浸透していき、足先が凍り付いた。俺は恐怖を感じ、必死で走ろうとしたが、脚が言うこと利かなかった。
大粒の雪は、容赦なく降り注ぎ、世界を白へと飲み込んでいく。
全身を雪に襲われ、俺は急激な体温の低下を感じた。
自宅までの道のりは、まだ果てしない。
このまま無事に自宅へ帰り着くことができるのだろうか。
途端、凄まじい恐怖が込み上げてきた。
これは死の恐怖なのだろうか。
死。
俺は死んでしまうのだろうか。
こんな道端で最期を迎えてしまうのだろうか。
早朝には雪に埋もれた死屍を晒しているのだろうか。
俺は、その場に崩れ落ちた。
寒い。
とても寒い。
とてもとても寒い。
とてもとてもとても寒い。
とてもとてもとてもとても寒い。
とてもとてもとてもとてもとても寒い。
どうしてこんなにも寒いのか。
ああ寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。
どうしてこうなってしまったのか。
何がどうなってこうなってしまったのか。
分からない。
今、ここで、自分が死にかけている理由が分からない。
どこからだ。
どこから道を間違えたのだ。
どこまで遡れば、今とは違う世界に行きつくのか。
分からない。
もう、考えられない。
何も、考えらない。
咆哮。
咆哮。
咆哮。
と、その時、俺の身体にふわりと何かが掛けられた。
それはとても柔らかく、温かった。
狂気に荒れていた心が、徐々に鎮まっていった。
※ ※ ※
目を覚ますと、そこは薄暗い室内だった。
俺はソファーから起き上がると、壁に掛けられている時計に視線を向けた。驚いたことに、この部屋に到着して八時間が過ぎていた。
俺は溜息を付くと、今まで惰眠を貪っていたソファーに腰を下ろした。全身を優しく包み込む柔らかさと、フィット感のある黒革のソファーだ。八時間も爆睡できたのはこのソファーのおかげだろう。
俺は、大あくびをしながら、室内を見渡した。
家具から内装に至るまでモダンなもので統一されており、その一つひとつに高級感が漂っている。それらと対照的に、窓の向こう側には深い森が広がり、沈みゆく太陽が、樹木の隙間から赤い光を放射線状に伸ばしている。
夕陽が差し込む窓の下、大きなダブルベッドが置かれ、その中心に美女が仰向けで眠っていた。微動することなく、寝息も聞こえてこないため、人形のように見える。赤みを帯びてぼんやりと光っている様は、どこか神秘的に思えた。それにしても、八時間も寝ていれば、寝返りを散々繰り返して奇妙な恰好になっていてもおかしくないのだが、彼女に至っては、綺麗な仰向けを維持したままだった。美人に寝相は存在しないのだろうか。まさか死んでいるのでは、と不安になったが、微弱にも呼吸の音が聞こえたので生きているようだ。
美人は寝ていても美人だということが分かった。
俺は、再び室内を見渡した。
ここは本当にラブホテルなのだろうか。
くるみに案内されるまま来たが、どうも違和感がある。
この部屋には、ラブホテル特有の下品さが一切ない。オシャレでカジュアルなラブホテルも存在するが、何かしらカップルを盛り上げる仕掛けは用意してある。だがこの部屋にはそういったものが一切ない。テレビを付けてもいかがわしいチャンネルは登録されていないし、玩具やコスチュームの貸し出しも行っていない。極めつけはベッドの枕元に避妊具が用意されていないことだ。
インテリアや内装へのこだわりは、高級ホテルと変わらない。
仮にここがラブホテルではなく、高級ホテルだとする。
俺は、窓の外へと視線を向けた。
茜色に染まった木々が延々と広がっている。
このホテルは、山の中腹付近に建てられている。
舗装された道路は麓付近だけで、ほとんどが砂利道か獣道だ。
そんな砂利道と獣道の先にホテルはあった。
山奥にひっそりと佇む高級ホテル。
俺は暢気に寝ているくるみを一瞥して、嘆息した。
八時間前に遡る。
洞角島大橋で朝日を拝んだ俺たちは、猛烈な睡魔に襲われ、とりあえず眠れる場所を探すことにした。くるみは学生時代に、よく洞角島大橋に遊び来ていたため、泊まれる場所を知っているとのことだった。俺はくるみの言葉を信じて車を走らせた。
これが過ちの起点となった。
洞角島大橋は、国道を挟んで山間部と隣接している。そのため昼間であれば、海と山の美しいコントラストを見ることができる。しかし海と山が近すぎるため周囲に人は住んでおらず、街へ出るには国道を走らせて山を迂回するか、峠道を越えるしか方法がなかった。
俺は、くるみに案内され、国道から枝分かれしている峠道へと入った。
車道を覆う木々により、辺りが急にうす暗くなった。
「実は、この山の中に泊まれるところがあるんだよ」
「山荘でもあるのか?」
「いや、ラブホテルだよ」
一瞬、何かを期待した俺だったが、彼女に限ってそれはないだろう。
「山の中のラブホテルか」
別に珍しいことではない。辺鄙な場所でラブホテルを発見することは多い。複雑な事情を抱えたカップルが逢瀬を重ねるには、うってつけの場所なのである。
それにしても。
「こんな山の中にラブホテルがあるなんて、よく知っていたな」
「元カレとよく洞角島大橋で夜景を見て、その帰りに利用してたの」
夜景を堪能した後、愛し合うためにラブホへGO。リア充爆発しろ。
「とにかく、ちゃんと案内してくれよ。遭難なんて勘弁だからな」
「大丈夫。ホテルまでの道のりはバッチリ頭の中に入ってるから」
「ホントかよ……」
俺は、くるみの指さす方向へハンドルを切り続けた。最初は二車線だった車道が、気付くと一車線に変わり、やがてアスファルトだった車道が、砂利道へと変わっていった。
俺は徐々に不安を募らせていった。
「本当にこの道でいいのか?」
変な間があった。
「大丈夫よ」
「いや、山奥すぎるだろ。深夜にこんな山奥まで来るなんて自殺行為だぞ」
「うーん、スマホがあれば、もっと早く着いていたかも」
「ん、ちょっと待て、今までスマホのナビを使って行ってたのか?」
「当たり前でしょ。スマホがないと迷っちゃうじゃない」
「じゃあ、今はどうやってナビしてんだ?」
「記憶よ、記憶」
ここで初めて俺は過ちに気付いた。取り返しのつかない大きな過ちだ。
「大丈夫、大丈夫。何度も行ってるから、心配しないで。それにもう朝だし、迷うことはないわ」
俄かに信じることはできないが、今さら戻る道筋も分からない。このポンコツナビを信じて前進するしかない。疲労と眠気も相まって最悪の気分だ。
やがて砂利道から草と泥を押し潰しただけの獣道へと変わった。馬力のないオンボロ軽ワゴンで突っ込めば、確実にタイヤを取られるため、ゆっくりと草と泥を圧し潰しながら進んだ。一体どこに向かっているのだろうか。そんな疑問がよぎった。死に場所でも探しているのか。もし運悪く泥にタイヤを取られて停車すれば、連絡手段のない俺たちは確実に遭難する。そんな恐怖と絶望に苛まれている俺の隣で、くるみは他人事のように飄々としている。何なのだコイツは。バカなのか。
「あっ、なんだか前のほうが明るくなってきたよ」
くるみを声を上げた。
「そ、そうか?」
慎重に前輪を進めながら、俺は目を凝らした。
獣道の遥か先に、光が差し込んでいるのが見えた。
「マジか……」
細心の注意を払いながら獣道を抜けると、そこに巨大な白亜の建物が屹立していた。
※ ※ ※
ここは、本当にラブホテルなのだろうか。
黒革の高級ソファーに深く腰掛けたまま、辿っていた記憶を今に戻した。
この謎のホテルに辿り着いた時は、疲労と睡魔で極限状態だったため、くるみに確認することなくチェックインした。そしてそのまま部屋に入り、俺はソファーに倒れ込み、そのまま深い眠りへと堕ちた。
ふと、床に落ちている毛布に目が止まった。
淡いベージュの毛布。
俺は、毛布を手に取った。
それはとても柔らかく、温かった。
その柔らかく温かい感触には、微かな既視感があった。
ソファーから起き上がった時に落ちてしまったのか。否、毛布など羽織った記憶はない。そんな余裕などないほど疲弊していた。
俺は、巨大なベッドの中心で眠る美女に視線を向けた。
「まさか、な」
俺は、再びこの奇妙な建物へと思考を戻した。
冷静に考えれば、色々と不可解なことが多い。
山奥にラブホテルがあるのは、特段珍しいことではない。しかしこのホテルは山奥すぎるのだ。このホテルに辿り着くまでに一時間は山道を走り続けた。しかも幾度となく分岐を迫られたことで方向感覚を失い、どの辺り走っているのか、皆目見当も付かなくなった。さらに途中から獣道となり、車で進むには明らかに無理があった。山奥にも程がある。下手したら遭難してしまうレベルだ。
そして苦労の末に辿り着いたホテルは、異常なまでに高級感に溢れていた。外観も室内もモダンでシンプルなデザインにまとめられている。家具やインテリアは、一つ一つにこだわりが感じられ、高級感の中に上品さがあった。また寝室からリビングルームまで一対となっており、開放感のある広々した空間が広がり、高級ホテルのスイートルームのような作りをしていた。
俺は、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、喉に流し込んだ。滑らかさと柔らかさがあり、ほのかに甘みを感じた。水すら高級に感じる。冷蔵庫の隣には小型のワインセラーが置かれ、高そうなワインが収納されている。
そういえば、宿泊料はいくらなのだろう。
部屋のどこを見渡しても、宿泊料を示す物は見当たらない。ラブホテルならば建物の外と中に料金システムが大きく明記されているはずだ。
急激に不安が押し寄せた。
とんでもない金額を請求されるのではないだろうか。
ホテルに入って八時間以上が経過している。
急激に恐怖が押し寄せた。
俺は料金を確認するため、ホテルのフロントへと向かった。
※ ※ ※
ラブホテルのフロントに従業員がいるわけがない。
巨大なタッチパネルがあるだけだ。画面には部屋番号だけが記されており、その番号に触れると、部屋の鍵が開く仕組みだ。この辺りは普通のラブホテルと変わらない。しかしそこに料金は記されていない。
「どうなってんだ?」
フロントを見渡しても、どこにも料金を示すものはない。俺はロビーへと視線を向けた。広く開放感のあるロビーは、シンプルだが凝った装飾でまとめられており、高級そうな調度品が並べられている。ラブホテルのロビーとは思えないほど、上品で豪奢だ。そもそもラブホテルにロビーなんて洒落たものがあっただろうか。
結局、料金は分からなかった。俺はロビーに置かれているソファーに腰掛けた。相変わらず座り心地の良いソファーだ。立ち上がるのが億劫になる。それよりも料金だ。仮にここがラブホテルだとしても、ここまで高級志向であれば、高額な値段を請求されるに違いない。払えないことはないが、今後の人生プランを考えると、蒸発二日目で高額な出費は痛い。くそっ、なぜこんなことになってしまったのか。理由は分かりきっている。部屋で死んだように寝ているあの女のせいだ。
複雑な事情を抱えた者たちが利用しそうな、山奥のラブホテル。
意図せず複雑な事情を抱えてしまった俺も、山奥のラブホテルは皮肉にも都合が良い。今頃、くるみの勤務先の連中は血眼で俺と彼女を探していることだろう。連中からすれば、俺はナンバーワン風俗嬢を拉致したヤバイ客だ。捕まれば拷問されて内臓を叩き売られるかもしれない。俺はとんでもなく危険な状況にあるのだ。まさか気まぐれで利用したデリヘルによって、ここまで追い込まれるとは思わなかった。俺の人生プランが明らかに崩れ始めている。くそったれ。どうすりゃいいんだ。
その時、ホテルの自動ドアが稼働する音が聞こえた。
俺は咄嗟にソファーの背に隠れた。まさかの来客である。ラブホテルで別のカップルと鉢合わせると変な気まずさがある。
フロントの方から、野太い声がした。
ソファーの背からそっと顔を出すと、丸々と太った中年の男が脂肪を震わせながら笑っている。破裂しそうなほど膨れ上がったダブルのスーツに、鎖のような金のネックレス。爬虫類らしき鱗が浮き上がったセカンドバック。どれも趣味は悪いが値段は高そうだ。
そんな絵に描いたような成金オヤジの隣には、すらっと背の高い少女が立っていた。
金髪のロングヘアに小麦色に焼けた肌。白いブラウスには黒い下着が浮き上がり、チェック柄のスカートからは太腿が剥き出しになっている。脚には過剰にたゆんだルーズソックスが履かれている。
昨今見かけなくなったタイプのギャルだ。もはやコスプレにしか見えない。
察するに成金変態オヤジと援交少女ってとこだろう。
しかし、こんな山奥の謎のホテルを利用するということは、相応の理由があるはずだ。
オヤジは見るからに裕福そうだ。一方、少女は身なりこそ派手だが、明らかに未成年だ。
もしやこのホテルは未成年との買春を斡旋しているのかもしれない。それならば山奥にあるのも頷ける。しかも外観も内装も不気味なほど高級感が漂っている。未成年との買春が横行しているラブホテルとは思えないほど上品な佇まいだ。そこが狙いなのかもしれない。外観も内装もいかがわしい行為を気取らせないためのカモフラージュということか。未成年に限らず買春も売春も犯罪行為だ。この山奥のラブホテルは犯罪行為を行うのにうってつけと場所と言える。最悪、殺人事件が起こっても簡単にはバレないだろう。
ようやく合点がいった俺は、興味本位で成金変態オヤジと援交少女を眺めていた。
無論、相手にバレないように、ソファーの背から片目だけを出して見ていた。
と、その時、少女の首がくいっとこちらへ捻られ、視線が合わさった。
瞬間、背筋が凍り付いた。
カラーコンタクトだろうか、濃いブルーに染まった瞳が微かに細められ、刹那、大きく見開かれた。無機質な青い瞳。だが、その奥底に得体の知れない剣呑さを感じた。
感じたことのない恐怖が、全身を駆け抜けた。
視線が合っただけで、肉体が硬直し、精神が圧縮された。
何だ、この感じは。
俺は咄嗟に視線を外し、ソファーの背に張り付くように隠れた。
呼吸が荒くなっていた。肌が過剰なほど泡立っていた。
明らかに異常に感覚だった。
一体、あの少女は何者なのだろうか。
そもそも、なぜ覗かれていることに気付いたのか。
ソファーのあるロビーからフロントまでの距離は、約十メートル。しかもソファーは十脚以上あり、フロントから隠れている人間を探し出すのは至難の業だ。しかし彼女は、それをいとも簡単に探し当てた。
無論、物音など立てていない。ならば気配だけで探し当てたのか。そんな獣じみた探知能力を人間が持っているのか。
いやいや、偶然だろう。
そう自分に言いかけた。そう自分に信じ込ませようとした。
が、無理だった。
恐らく彼女は、ホテルのフロントに来た時点で、俺の存在を把握していた。その証拠に、十脚以上あるソファーの中から、ピンポイントで、俺が隠れているソファーに標準を合わせた。そして、彼女の方から、敢えて目を合わせてきた。
あまりにも不気味だった。
ソファーの背もたれ越しに、成金変態オヤジの下品な笑い声が聞こえ、二人がエレベーターに乗る音が聞こえた。瞬間、全身が弛緩するのが分かった。同時に脂汗がどっと滲んだ。
俺は、ソファーの背から、潜望鏡のように慎重に目を出して、フロントを見渡し、二人がいなくなったことを確かめた。
ふう、と空気を吐き出し、額を拭った。右手の甲がぐっしょりと濡れていた。
何が何だかよく分からない。
だが、とてつもなく嫌な予感がする。
明確に表現することはできないが、とてつもなく嫌な予感がする。
今の感覚を素直に表現するならば、あの少女から離れたい。
今すぐに離れたい。
俺はソファーから立ち上がり、フロントを通り過ぎて、外へ出た。
すでに夜の帳は落ちており、鬱蒼と茂っていた木々は闇に呑まれていた。しかしホテルの周囲は皓々と灯り点っている。大量の虫が飛び回り、それを蝙蝠らしき陰影が追っている。
ホテルの正面は駐車場となっており、綺麗に舗装されている。入り口の正面には黒光りするセダンが乱暴に停められていた。誰もが知っている定番の高級外車だ。あの成金変態オヤジの車だろう。中を覗くと趣味の悪い内装がそこかしこに施されている。そんな下劣な外車からほどなく離れた場所に、安物の軽ワゴンが停車していた。
俺は、あることに気付いた。
あの険しい獣道を、この高級外車で突き抜けて来たのだろうか。車体の大きさから鑑みて不可能である。それに獣道を越えれば、車体に泥や草が付着していてもおかしくない。現に軽ワゴンの車体には、泥が飛び散り、草が張り付いている。しかし高級外車には塵一つ付いていない。不思議に思い駐車場を見渡すと、入口正面の森に、街灯が立っていることに気が付いた。近づいてみると、そこに舗装された坂道があった。急な下り坂で延々と闇の奥へと伸びている。
俺は、安堵の溜息を零した。
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