第8話 外れすぎの人生も悪くない

 洞角島大橋とは、日本海に浮かぶ洞角島と本土を繋ぐ巨大な橋である。


 洞角島は牛の角(洞角)の形をした島で、橋が開通以前は漁業が主要産業だったが、開通後は観光客の増加に伴って観光業が盛んとなった。観光客の目的は洞角島周辺に広がる絶景である。島を取り囲む海は透明度が非常に高い上に、無数の貝殻の欠片が幾重にも積もってできた白い砂が広がっているため、陽光が降り注ぐことで、鮮やかな色彩を生み出すことができた。陽光の角度によって、エメラルドグリーンや紺碧色に輝くため、その多様な色彩の変化に、観光客は魅了され、心奪われるのである。また洞角島に向けて一直線に伸びる巨大な橋が、海の美しさと見事に調和しており、更なる絶景を生み出していた。


 と、テレビで見たことはあるが、それは昼間の景色で、夜中の景色など見たことない。


「さあ、着いたよ」


 俺はくるみに促されるまま、車を駐車場に停めた。洞角島大橋の袂は公園となっており、駐車場も綺麗に整備されていた。


 車を降りると、長く巨大な橋が眼前に広がった。


 洞角島大橋は、等間隔で設置された幾つもの街灯によって明るく照らされていた。しかし橋があまりにも長大なため、橋の先端付近は濃厚な闇に呑まれ、街灯が放つ光だけが、暗い海の上に、ぽつんぽつんと浮かんでいるように見えた。


「さすがに誰もいないな」


 俺は公園内を見渡した。公園の中心には、海と橋を象ったモニュメントが設置されており、そのモニュメントを囲むように、観光施設や土産屋が並んでいる。当然だがどこも時間外だ。また公園内には小高い丘があり、その頂上には、洞角島大橋を一望することのできる展望台が作られていた。


「こっち、こっち」


 くるみが展望台の方へと歩き始めた。促されるまま彼女の後をついていく。しかし慣れない運転を一晩中したことで、体中が軋みを上げた。首と肩と腰と脚を中心に筋肉が強張っている。運動不足と老化の反動が一気に襲ってきたようだ。


 小高い丘を縫うように造られた緩やかな階段を軽やかに登っていくくるみ。そんな彼女の後を、のろのろとしょぼくれた老犬のようについていく。彼女の若さが憎くて羨ましい。


 夜中の海は冷ややかな潮風が流れている。想定外の肌寒さに身を縮めた。そんな震える俺をよそに、くるみは元気よく階段を上っている。決して厚着しているわけではない。むしろ俺よりも遥かに薄着だ。やはり彼女の若さが憎くて羨ましい。


 観光客に景観を楽しんでもらうためだろうか、展望台へと向かう階段は異様に蛇行していた。展望台は見えているのに、無駄な方向へ行ったり来たりしているため、なかなか辿り着かない。体力を消費していくばかりだ。階段が直線ならばとっくに到着しているはずなのだが。一方、先へ行くくるみの姿はもう見えなくなっていた。改めて彼女の若さが憎くて羨ましい。


 息も絶え絶えになりながら丘の頂上に着くと、そこは円形の小さな公園のようになっていた。公園の周囲は木製の柵に囲まれており、丸太を組んだデザインのテーブルとベンチが各所に設けられていた。


「ふはあ、疲れた」


 俺は勢いよく丸太のベンチに腰を掛けて呼吸を整えた。冷たい海風が頬をなぞった。一瞬にして皮膚が泡立った。さすがは頂上。麓よりも遥かに寒い。


 俺は周囲をぐるりと見渡した。展望台は街灯で照らされているため明るいが、柵の向こう側は漆黒の闇だ。そんな闇の中に皓々とライトアップされた一本の線が浮かんでいる。洞角島大橋だ。駐車場では橋の先端部分が闇に溶け込んでいたため全体を見ることはできなかったが、ここからだと全体を視認することができた。


 一直線に伸びた光の線。


 深い闇を貫く一条の光のようだ。そう感性を揺らせば、この光景も神秘的に見えるだろう。しかし如何せん俺の感性は澱んでいるため、一条の光よりも深い闇のほうへ意識が向いてしまう。神秘的ではなく、物恐ろしさのほうが強くなってしまう。深い闇に吸い込まれそうな感覚ばかりが襲ってくる。


 冷えた海風が頬をなぶった。背筋がうすら寒くなり、全身を鳥肌が覆った。なぜに俺は、こんな寒い思いをしてこんなところにいるのだろう。ここからの眺望に心が揺さぶられるほど、俺の心は純真無垢ではない。早く車に戻りたい。どうにも眠くなってきた。死ぬのか。


 ああ、さっさと帰りたい。


 俺は、くるみを探した。


 彼女は柵に身体を預けて、橋の方をぼんやりと眺めていた。


「ねえ」


 ふいにくるみが背中で話しかけてきた。


「なんだ」


 俺は彼女から少し離れた柵に、寄り掛かった。


「あの橋をフツーの人生とします」


「普通の人生?」


「あの橋を進んでいけば、フツーに大学まで行けるし、フツーに就職もできる。フツーに恋愛もできるし、フツーに結婚もできる。フツーに子育てもできるし、フツーにマイホームを建てることもできる。フツーに年一回海外旅行にもいけるし、フツーに趣味を見つけることもできる。フツーに定年まで働けるし、フツーに孫にも恵まれる。そしてフツーに財産を残すことができて、フツーに余生を送ることができる。これが、あの橋の上のフツーの人生」


「普通にしては、ずいぶんと幸せな人生だな」


 俺は皮肉交じりに言った。


「でも、世間的に見れば、普通の人生じゃない?」


「まあ、そうかもな」


 普通の人生の基準が高すぎて呆れてしまう。高度成長期を生き抜いた老人どもが定めた基準が現代も生き続けている証拠だ。老人の数が多い分、老人の基準が国の基準となるのは仕方のないことだ。老害やむなし。


「あたしは、あの橋から落ちちゃったんだろうなぁ……」


 くるみは小さく呟いた。街灯に照らされた表情にはどこか悲哀が滲んでいた。


 冷たい海風が丘を駆け上がってきた。くるみの細く艶のある髪がふわりと波打った。


 くるみは橋をじっと見つめたまま、どこか自虐的に口許を緩めた。


 俺は嘆息した。


「まあ、俺に至っては、橋から落っこちて、かなり沖まで流されているな。このまま海流に乗って、太平洋に流出しそうだな」


 あはは、と空笑いしたが、くるみに反応はなかった。


 重く暗い空気が二人の間に落ちた。人生に絶望するのは勝手だが、その空気に俺を巻き込まないでほしい。人生など、とっくの昔に絶望している。


 とっくの昔に諦めた。


 若い頃は諦めきれず、何度も立ち上がり挑み続けた。一縷の希望を信じて全力で挑み続けた。だがそこに希望はなかった。残骸のように絶望だけが残った。全力で挑んでも希望を手にすることはできなかった。もはや諦める選択肢しかなかった。


 だが、人生に全力で挑んだ自負はある。


「だからよ、諦めるのは早いんだよ!」


 お前は、人生に全力で挑んだのか。抗ったのか。諦めれば、もう立ち上がることができなくなる。それは俺が誰よりも知っている。


「借金が一千万もあるのよ。諦めるしかないでしょ!」


「まだやれることはあるはずだ!」


「結婚して相手に借金を払ってもらうってこと?」


「そうだ」


「うーん」


 歯切れの悪い返事。


 冷えた潮風が肌をさすった。熱が冷めた。


「やはり妥協することはできないのか?」


 俺が訊くと、くるみが小さく頷いた。


「男の人って自尊心がすごく高いよね?」


「自尊心ねぇ……」


 今の俺には微塵も存在しないが。


「お前が出会ってきた男がどんな連中かは知らんが、大半の男は自尊心なんぞ持ってないぞ」


「どういうこと?」


「自分に自信のある男なんて、そんなにいないってことだ」


「でもあたしの知ってる男の人は、みんな自信満々だったよ」


「そいつらのほとんどは自尊心じゃなくて虚栄心だ」


「虚栄心?」


「見栄ってことだ」


 俺は続けた。


「基本、男の頭の中は勝ち負けしか存在しない。常に頭の中で優劣をつけながら生きているんだ。アイツには勉強で勝ったが運動では負けた。アイツには会社の評価で勝ったが恋人の容姿では負けた。みたいな勝ち負けを常に付けているんだ。もちろん頭の中でだけどな」


「それは女の人にだってあるよ。むしろ女の人のほうが強いように思えるけど」


「もちろんそうだが、男の勝ち負けは自尊心に直結しているんだ。勝てば勝つほどに自尊心は高まっていき、負ければ負けるほどに自尊心は低くなっていく。男は自尊心を高めるために勝ちにこだわっているんだ」


「どうしてそんなに自尊心にこだわるの?」


「そりゃあ、モテたいからだろ」


 冷え切った海風が、二人の間を通り過ぎた。


「たったそれだけ?」


「そうだ。自尊心の高い男はモテる。なぜなら自尊心が高いほど自信が付くからだ。自信のある男は、精神的にも肉体的にも強い男になる。強い男は仕事で成功することができる。そして仕事で成功すれば財を得ることができる。そして女はその財に魅かれて寄って来る。つまりモテるということだ」


「アホみたいな理論ね」


「いたって正論だろ」


 くるみは溜息を零した。


「そもそも、男の人って、そんなにモテたいの?」


「ああ、そうだ」


「みんな?」


「そうだ。男はモテるために生きている」


 俺は続けた。


「だから他人と自分を比較して勝負をつける。自尊心を高めるためだ。だが自尊心を高めるためには、勝ち続けなければならない。何百、何千の勝負に勝ち続けなければならない。しかしこの勝負で勝ち越すことのできる男は、一握りだけだ。ほとんどの男は負け越してしまう。負け越せば自尊心は失われる。自尊心がなれば、女にはモテない。ならばどうする。簡単なことだ。負け越したことを隠せばいい。自尊心があるように見栄を張ればいい。これこそが虚栄心だ。自信満々な奴ほど、虚栄心の塊だということだ」


「へえー、くだらないね」


「そんなもんだ。男の社会なんてもんは、虚栄心で成り立っている。実力よりも、どれだけ虚勢を張って面子を保つことができるかが重要なのだ」


「うすっぺらい社会だね」


「ああ、うんざりするほどぺらぺらだ。だがそんなぺらぺらの社会がこの国を動かしている。まったくもって滑稽だ」


 俺は、闇に浮かぶ橋へと視線を向けた。


「あの橋が普通の人生と言うなら、あの橋を支えている土台は社会ってことだ。見た目は頑丈で頼もしいが、中身はぺらっぺらのわら半紙みたいなもんだ。風が吹けば簡単に飛ばされるし、雨が降れば簡単に破れてしまう。火事になれば簡単に燃えてしまうし、蟲が集れば簡単に喰われてしまう。そんな脆い土台の上に建てられた橋なんぞ遅かれ早かれ崩れ落ちる。橋を渡り切った奴は、単に運が良かっただけだ。順調に橋を進んでいき、普通の人生を一歩ずつ堅実に進んでいったとしても、所詮それは運任せの綱渡りに過ぎない。運が尽きれば橋は倒壊する。そうなれば、あっという間に海の藻屑だ。ぺらっぺらの社会が続く限り、橋の上が安全になることはない。だから普通の人生なんてもんは幻想に過ぎない。固執するだけ時間の無駄だ。ぺらっぺらの社会が土台にある限り、どの人生も運次第ってことだ」


 俺がくるみの方へ顔を向けると、彼女の顔が目の前にあった。咄嗟に驚きを飲み込む。いつの間に近づいて来たのか。まったく気配を感じなかった。


 くるみはじっと視線合わせて黙っている。長いまつ毛に縁どられた大きな瞳に吸い込まれそうになる。なぜ見つめられているのかは分からないが、不覚にも俺の心臓は激しく高鳴っていた。冷え切っていた頬が、焼けるように熱くなっていた。


「ところで、おじ兄さんは自尊心あるの?」


「あるわけないだろ。とっくの昔に負け越して引退した」


「じゃあ、虚栄心は?」


「ない。ニート風情が見栄を張っても、無様なだけだ」


「確かにね」


 くるみがクスクスと肩を震わせた。


「実は、あたしってさ、絶対に主導権を握りたいタイプなんだぁ」


「はい?」


「だから、結婚相手はゼッタイにあたしに従ってもらいたいの。だから自尊心が高い男の人はムリ。虚栄心が強い男はもっとムリ。主導権は絶対にあたしにないとイヤなの」


「はあ……」


「つまりあたしはドSってこと。だからドMな男の人じゃないと好きになれないの」


 藪から棒に何を言っているのか。唐突に性癖を告白されても戸惑うだけだ。だがようやく合点がいった。彼女と出会って数時間しか経っていないが、完璧に主導権を握られているのは言うまでもない。俺は彼女に言われるがまま一晩中車を走らせ、気付いたらこんな僻地に辿り着いていた。納得いかないことだらけだが、なぜか抵抗できなかった。決して居丈高な振る舞いによって、無抵抗にさせられたわけではない。彼女は他人を自分のペースに引き込むことに長けているのだ。特に自己主張の弱い人間は、あっという間に彼女のペースに引き込まれてしまう。服従するつもりは毛頭ないのだが、結果として服従してしまっている。自己主張が弱く、優柔不断な中年ニートは、真性サディストからすれば恰好の獲物だったのだ。


「そう、だから、自尊心も虚栄心もないドMの男の人じゃないと結婚はできない。そこは絶対に譲れない」


 揺るぎない視線を向けられても困惑するだけだ。結婚の第一条件がドM男ってどういうことだ。シンプルだがまともじゃない。夫というよりも下僕を欲しているように思える。


 ――お金だけで繋がっている男女の関係だと風俗と変わんないよ。やっぱりお互いに好きなほうが楽しいし、幸せじゃないかな


 やはり詭弁だったか。


 この女にとっての幸せは、女王と下僕による主従関係なのだ。


 金ではなく、性癖で結婚相手を選ぶということだ。


 歪んでいる。


 傲慢の獣であった元カノに近いように思えたが、変態性はコイツのほうが強いように思える。


 つまり話をまとめると、男の尊厳をすべて捨て去った下僕になりたいドMの男。ついでに一千万の借金を肩代わりできる金持ち。


 そんな変態いるのか?


 ドMの男は星の数ほどいるが、男の尊厳をすべて捨て去り、下僕に成り下がることのできる真性マゾヒストが果たして何人いるのか。しかも多額の借金付きである。この極悪条件のすべて受け入れなければならない。一つだけ好条件を上げるとするならば、女王様がとびきりの美人だということだけだ。


「相手はド変態で決定だな」


「変態もド変態もゼッタイにイヤ!」


「ワガママ言うな!」


「だって気持ち悪いでしょ!」


「ドM男は基本気持ち悪いぞ!」


「気持ち悪くないドM男じゃなきゃイヤっ!」


「ワガママ言うな!」


「ワガママじゃないわ!」


 一体、何の口論しているのか。くだらなさすぎて呆れてしまう。


「ああっ!」


 くるみが目を大きく広げて声を上げた。今度は何だ。まったく騒がしい奴だ。


「ほらっ、見て、始まるよ」


 くるみが海の方向を必死で指さす。俺は何のことやら分からないまま、彼女が指す彼方へと視線を向けた。


 俺は自分の網膜に映し出された光景に、唖然となった。


 洞角島大橋の先端部分に明かりが射した。橋から垂直に伸びた水平線の一点が輝き始め、ゆっくりと静かに真っ赤な太陽が顔を出した。太陽を起点として、橙の光が水平線に沿って左右に伸びていく。濃い闇に覆われていた海に、眩い光が射し、漆黒に固まっていた海面を朱色に溶かしていく。放射線状に拡散する光によって、橋以外の風景が輪郭を取り戻していった。


 一直線に伸びる洞角島大橋の遥か先、緑樹の生い茂った島が見えた。


 洞角島である。


 広漠たる大海原にぽっかりと浮かぶ緑色の島。確かに牛の角のように細長く見える。島中を覆っている樹木が、降り注ぐ陽光を浴びるために、必死で背を伸ばしているように見えた。目を覚ました鳥たちが、一斉に島から飛び立っていく。そんな自然の躍動感に包まれた島から、一直線に伸びる橋。相容れないはずの自然と、人工物が見事なほどに調和しており、それらを包み込む紺碧色の海が、凄絶な光景を生み出していた。


「どう、絶景でしょ?」


「ああ……」


 言葉を失うほどの絶景だ。心の底から美しいと思ったのはいつ以来だろうか。思い出すことはできない。少なくともこの十年間で味わったことのない感動だ。


「なんか、一気にどうでもよくなったね」


 確かにそうかもしれない。周囲が暗い闇に包まれていた時は、内に燻っていた冷たい情念が増幅されていたが、周囲が明るい光に包まれると、途端に暖かい感情が込み上げてきた。


 人は簡単に闇に引き込まれる反面、簡単に光に引き寄せられるのだと実感した。


「普通の人生なんてクソくらえだ!」


 俺がくるみに微笑みかけると、彼女もほほえみ返した。そして鞄からスマホを取り出すと、大きく振りかぶって、紺碧の海に向かって放り投げた。


「フツーの人生なんてクソくらえよ!」


 ちゃぽんっ、と音を上げて、スマホは海の底へと沈んでいった。


「おいおい、いいのか?」


「いいのよ。もうフツーの人生に戻る気なんてさらさらないから。こうなったら、外れて、外れて、外れまくった人生を送ってやるわ!」


 どうにもやけくそな発言に聞こえてならないが、この言葉のおかげで、俺もようやく決心がついた。


 俺は、心のどこかで普通の人生を望んでいた。まだやり直すことができると、どこかで信じていた。遺産を持ち逃げしたのも、どこかで人生をやり直したいと思っていたからだ。


 俺は人生を諦めきれずにいたのだ。


 人生を諦めたほうが格段に楽に思える。しかし諦めることへの怖さがあった。諦めた先に何があるのだろうか。諦めたらどうなってしまうのだろうか。諦めて生きていくことは本当に楽なのだろうか。苦痛や苦悩はないのだろうか。ありえない。苦痛や苦悩のない人生などありえない。ならば諦めの境地で待ち受けている苦痛や苦悩はどういったものなのだろうか。そんな禅問答を奈落の底で繰り返していた。やがてそれは得体の知れない恐怖へと変貌していった。


 遺産を持ち逃げしたのも、その恐怖から逃れるためだ。


 諦めの恐怖から逃れるため、俺は蒸発を決意したのだ。


 ――もうフツーの人生に戻る気なんてさらさらないから。こうなったら、外れて、外れて、外れすぎの人生を送ってやるわ!


 普通の人生とは大きく外れた人生を送る。


 それもまた人生である。


 当然、これからの人生に苦痛や苦悩ある。しかし、諦めずに進み続ければ、いつか出会うかもしれない。


 本当の幸せに。


 随分と希望に満ちた思考だ。これも絶景のせいか。


 まあ、とにかく。


「外れすぎの人生も悪くないかもな」


「そうそう、一緒に外れすぎの人生を歩もう」


「いや、だから、お前は、戻ろうと思えばまだ戻れるだろう」


「ムリだって、あたし理想が高いから」


 俺は嘆息した。確かにこの上なく理想が高い。


「ところで」


 くるみがしなやかな指先を唇に当てて、小さくあくびした。


「眠くない?」


 一晩中、慣れない土地を運転してきたのだ。眠いに決まっている。


「あたし、眠くて仕方ないんだけど」


「俺だって眠くて仕方ない」


「じゃあ、どっかで寝よう」


「どっかって、どこだ?」


「あたしが案内するから、車に戻ろう」


「案内ってことは、俺が運転するのか?」


「当たり前じゃん」


「ひとつ訊きたいんだが」


「なに?」


「お前、運転免許証は持っていないのか?」


「いや、持ってるわよ。しかもゴールド免許よ」


「だったら、わざわざ助手席で案内しなくとも、直接運転したほうが早いんじゃないのか。目的地はお前が知っているんだから」


「それはムリね」


「なぜだ?」


「言ったでしょ。あたしは絶対に主導権を握りたいの。あたしが運転したら、おじ兄さんは助手席で、何もせずにぼーっと座っているだけでしょ。これじゃあ、あたしが主導権を握られていることになるわ。あたしが助手席で案内して、おじ兄さんが、あたしの指示した通りに運転すれば、主導権はあたしにあるわ」


 一体どんなプライドだ。どうにも合理性の欠ける考え方だ。


 納得できず俺が憮然としていると、くるみは満面の笑みを浮かべて言った。


「あたしは絶対に主導権を握りたいの」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る