第7話 洞角島大橋

 人生は山あり谷ありで険しいものだ。前へ進めば、必ず困難や苦難に襲われ、そのたびに傷を負って倒れてしまう。それでも必死に立ち上がり、また険しい道を進んでいく。この繰り返しによって、人間は成長し、健全で強靭な精神を得ることができる。そして折り重なった様々な経験が人間を成熟へと導くのである。


 しかし、傷を負い倒れたならば治癒の時間が必要となる。傷口が塞がるまで安静していなければならない。傷が深ければなおさらだ。


 だが社会は治癒の時間を与えてくれない。


 傷口を簡単に縫合したら、すぐに険道に放り出され、前へ進めと強要してくる。険道に出れば、困難や苦難が容赦なく襲い掛かって来る。負傷者が真っ向から立ち向えば、瞬く間に傷口が開き、致命傷を負ってしまう。致命傷を負えば再起不能となる。


 俺がニートになったのは、致命傷を負ったせいだ。


 前職のアパレルショップで初恋の相手に酷い裏切りにあった俺は、彼女を見返すために、人生一発逆転計画を立てた。学歴もない。キャリアもない。コネもない。資格もない。そして運もない。この状態ではブラック企業のドブ川から抜けることはできない。ならば、学歴、キャリア、コネ、資格、運。この中で一つでも手に入れることができれば、この現状を打破することができるかもしれないと考えた。学歴とキャリアはもうどうにもならない。黒歴史として受け入れるしかない。コネは一切期待できない。体面ばかり気にする両親が俺を救ってくれるとは思えない。運に関しては言うまでもなく皆無だ。そうなるとやはり資格しかない。俺の脳味噌の容量で取得できる資格は限られていると思ったが、現状を打破するためにはそうするしかないと考えた。しかしスクールに通うのは金銭的に無理だった。学生時代から貯めていたお年玉やアルバイト代も前々職の風俗強要によって使い果たしていた。よって俺は資格の勉強をしながら働ける職場を探した。


 そして地元の会計事務所にアルバイトとして採用された。


 俺の脳味噌で士業の資格を取得することは無理だと分かっていたが、勤務する上で必要な資格はいくつもあった。その中には努力次第で取得できる資格もあり、それらの資格を持っていれば、今後の転職にも有利に働くだろうと考えた結果だった。


 しかし現実は決して甘くなかった。


 事務所には、絶対君主制が敷かれていた。


 一日中、所長の常軌を逸した怒号が鳴り響き、容赦ない暴力が振るわれた。従業員とは名ばかりの奴隷たちは、所長の狂気じみたパワハラに怯えながら仕事をしていた。パワハラに明確な理由などなく、その時の気分に応じて、ひたすらに感情を爆発させていた。もはや会計事務所ではなく暴力団事務所だった。事務所の奥には折檻部屋があり、書類のミスがあった従業員は、監禁され壮絶な折檻を受けていた。これまでに経験してきたブラック企業とは比べ物にならないほどの地獄がそこにあった。今までは、狡猾さを利用して上司の懐に入れば、パワハラから多少なりとも逃れることができた。しかしこの所長の懐に入ることは不可能だった。所長はすべてをメリットとデメリットで判断するため、どれほど狡猾に取り入っても、メリットがないと判断すれば、容赦なくパワハラの対象となったのだ。表面上は感情的で暴虐非道だが、内面は機械的で冷酷非道なため、狡猾な手段が一切通用しないのだ。完全なる成果主義。そこに人間の情は一切存在しなかった。


 これにはさすがの俺も参ってしまった。


 運と狡猾さ。


 この二つこそが、社会を渡る理念だと信じ切っていた。


 が、ここにきて例外があることを知った。


 これまでの社会経験で培ってきた狡猾さが、全く役に立たなくなってしまった。


 そう、俺は唯一の武器を失ってしまったのだ。


 初勤務から一週間も経たないうちに、俺の精神は限界を迎えた。それからまもなくして猛烈な倦怠感。頭痛。眩暈。耳鳴り。顎の不快感。胃腸炎などといった肉体の異変にも襲われた。想像を絶するストレスが全身に伸し掛かっていた。すぐにでも逃げ出したかったが、所長への恐怖が勝り、退職を言い出すことができなかった。事実、退職を申し出た従業員は、折檻部屋で半殺しの憂き目にあっていた。やがて壮絶なパワハラによって憔悴していき、辞める気力さえも失ってしまった。そして入社から三ヶ月経ったある日、朝目覚めると、身体が鉛のように重くなっていた。意識は布団から出ようともがいているが、身体は全く動かなかった。そしてそのまま寝込んでしまった。引っ切り無しに事務所から着信があったが、応じることはできなかった。身体が仕事に対して完全に拒絶反応を起こしていた。このような状態で出社できるわけもなく、俺はそのまま病気を理由に仕事を辞めた。同時に携帯電話も解約した。


 会計事務所での勤務経験は三ヶ月と短いものだったが、十年経った今でも、悪夢にうなされることがある。


 怒号と暴力が吹き荒れる中、パソコン画面の前で背中を丸めて恐怖に怯えながら仕事をする情景が、何度も悪夢として蘇ってきた。


 所長は完全に憤怒に取り憑かれていた。


 咆哮しながら従業員に暴力を振るい続ける姿は、人間ではなく完全に獣だった。


 憤怒の獣。


 今になって思えば、初恋の女性に裏切られたことで、俺は想像以上に深い傷を負っていたのだろう。しかし裏切られた悔しさによって憎しみが増大し、見返したいという気持ちが先走ってしまい、己の傷の度合いを見誤ってしまった。そして傷が癒えていない状態で、険道に飛び出してしまった。これが最大の失敗だった。


 険道に出た途端、人生最大の困難と苦難と襲い掛かってきたのだ。


 完治していない傷口が引き裂かれて致命傷を負ってしまった。致命傷は再起不能を意味している。やはり初恋の女性に裏切られた傷口を治療する必要があったのだ。傷口を完全に消し去ることはできないが、時間が経てば、傷跡は残るが、傷口は塞がる。傷口が塞がれば、また困難や苦難に立ち向かうことができる。困難や苦難に立ち向かうことができれば、人生を歩き進めることができる。前へと進むことができるのだ。


 もし、あの時、傷口をしっかり治しておけば、俺の人生はまた違ったものになっていたかもしれない。


 一時的な負の感情により傷の度合いを見誤ったことが、人生最大の失敗だった。


 この失敗が、俺に空白の十年間をもたらしたのだ。


 ※ ※  ※


「十年かぁ、長いね。十年前だとあたし中学生だね」


 くるみは遠くを見つめながら、口許を綻ばせた。


「そう言われると長く感じるな。まっ、俺としてはあっという間だったがな」


「へえ、そうなんだ。十年間もなにしてたの?」


「なにって言われてもなぁ……」


「ネトゲ廃人だったとか?」


「いやいや、金がないからネットは解約した」


「えっ、ニートってネットの住人ってイメージあるけど」


「そりゃあ、親がネットやスマホの料金を払ってくれれば、住人にもなれただろうが、ウチの親はそんなに甘くなかったからな。最低限の衣食住しか保証してくれなかった」


「じゃあ、なにもできないじゃん」


「金のかかることは何もできないな。暇つぶしはもっぱら図書館だな。図書館だとタダで本が読めて、ついでにDVDも視聴できる。まあ、古いものばかりだけどな。あと冷暖房完備ときている。ニートにとっては楽園だな」


「図書館かぁ、受験勉強の時に少しだけ利用したきりかな。毎日、図書館に行ってたの?」


「いや、週二、三回ぐらいだな」


 土曜日、日曜日、祝日は両親が休みで自宅にいたため、肩身の狭いニートは、図書館に避難するしかなかった。ちなみに平日は、借りてきた本を部屋で延々読んでいた。ニート時代は学生時代の一〇〇倍以上の本を読んでいる。しかし暇つぶしで読んでいたため、内容はほとんど覚えておらず、何の実にもなっていない。


「図書館以外にどっか外出はしていたの?」


「図書館以外だと古本屋だな」


 盆や正月は図書館が休みになるため、年中無休の古本屋に避難するしかなかった。無論、古本屋では立ち読みしかしない。


「マジ?」


「マジだ」


「自宅と図書館と古本屋の往復だけで十年間ってヤバイよね。どんだけ本が好きなのよ」


「別に本が好きってわけじゃない。金のない人間の暇潰しは、本を読むことぐらいだろう。図書館と古本屋なら、タダで好きな本を好きなだけ読めるからな」


「いやいや、図書館はともかく古本屋さんは迷惑だったでしょうね」


「金がないんだから仕方ないだろ」


「ん、ちょっと気になったんだけど、お金がないのによくあたしを呼べたよね」


 俺は肩を強張らせた。


「まあ、あれだ、ちょっとした臨時収入があったんだ」


「へえー、臨時収入っていくらぐらい?」


「そんな大した金額じゃない」


「へえー、大した金額じゃないのに、よくウチの店を選んだよね。しかもナンバーワンを指名してるし」


 俺は狼狽していた。臨時収入の金額を気取られるわけにはいかない。この女は目的のためならば手段を択ばない女だ。臨時収入の金額を知れば、あらゆる手段を講じて金を奪いに来るはずだ。脅し、騙し、賺しはこの女の常套手段である。さらに美女を武器に世間を味方につけることも容易のはずだ。世間から見れば、中高年ニートなど犯罪者と大差ない。存在するだけで糾弾の的となる。もし彼女が窓を開けて「誰か助けてー」と叫べば、すぐに通報され、即、御用となるだろう。俺の言い分など誰も聞いてくれないだろう。中高年ニートに市民権はないのだ。


「久しぶりに贅沢な遊びがしたかったんだ」


 努めて平静に答えた。


「へえー、まあ、男の人ってそんな感じだよね」


 どこか諦めの混じった微妙な反応だった。


「俺の世代は遊ぶといえば、キャバクラか風俗の二択だな」


 なんとも酷い偏執である。


「なーんか、空しい遊びだよね」


 緩やかに流れていく街の灯りを眺めながら、くるみが小さく言った。


「空しい? そういうものなのか……」


 キャバクラも風俗も仕事の延長線上で利用していたため、空しいなどと感じたことはない。社会人になって遊びの概念が大きく変化した。社会人にとって遊びとは接待だ。上司に取り入るための時間外労働だ。よって遊びも『酒』と『女』に限られてくる。それらを繰り返していくうちに、やがて遊びとは『酒』と『女』だと脳内へと刷り込まれていく。今回の大失敗もこれに起因している。糞ったれが。


「そんな空しい遊びじゃなくて、もっと思い出に残る遊びをしないと」


「思い出に残る遊び? 旅行とか、か?」


「蒸発中に旅行って、なんか変だね」


「確かに変だな。蒸発も旅行もやってることは大して変わらないからな。しいて言うならば旅行は観光地に立ち寄るが、蒸発は観光地に立ち寄らないってことか」


 人目を避けて移動するのが、蒸発である。


「観光地、そうだね……」


 しばしの逡巡。


「そうだっ!」


 突然くるみが声を上げた。俺は驚いて肩を上下させた。


「十年間どこにも遊びに行ってないおじ兄さんのために、あたしがとっておきの場所を教えてあげる」


「とっておきの場所? なんだそりゃ?」


「それは到着してからのお楽しみ」


 くるみが満面の笑みを浮かべながら言った。不覚にも俺の心臓は高鳴った。


「しかし、そんな悠長なことしていて大丈夫か? 今頃、事務所の連中は血眼でお前のことを探しているんじゃないのか?」


「大丈夫、大丈夫。今の時間、すっごく忙しいから、それどころじゃないの。それに事務所は慢性的な人手不足だから、探しに行ける人間はいないわ。まあ、あたしを探すとしたら閉店後ね。つまり連中が動き出すのは朝方からよ」


 もし、くるみが俺と一緒にいる現場を事務所の連中に見つかった場合どうなるのだろうか。かなりヤバイことになるのではないだろうか。どれほど弁明したところで、聞く耳は持ってくれないだろう。一体どんな目に合うのか。尋問され拷問された揚げ句に、海に沈められたりしないだろうか。途端、恐怖が込み上げてきた。今さらだが、俺はとんでもない爆弾を連れていること実感した。


「じゃあ、ここからはあたしのナビ通りに進んでね」


 そんな俺の気持ちなど露知らず、くるみは目的地の方向へ指をかざした。


 ※ ※  ※


「このまま海岸沿いを走ったら到着するよ」


 俺はくるみに命じられるまま、海岸沿いの田舎道を走らせていた。もうかなりの距離を運転している。日付はとっくに変更され、深夜から夜明けへと向かっている最中だ。周囲には、ほとんど電灯がないため、漆黒の闇に包まれている。カーナビも携帯もないため、自分が今どこを走っているのか見当も付かない。ただ窓の外から聞こえてくる微かな波の音と、鼻孔を刺激する潮の香りによって、海が近くにあることだけは認識できた。


「この暗闇の中、よく道が分かるな」


「学生の頃、よく遊びに行ってたから」


 どれだけ遊べば、この闇の中を把握できるのだろうか。出会った直後にまくしたてられたリア充トークを思い出した。彼女の美貌でリア充なのは当然だ。学生時代はさぞ楽しかったことだろう。羨ましい限りだ。借金さえなければ、彼女は未来永劫リア充だったはずだ。


 リア充。


「ん? ふと、思ったんだが、まだやり直すことができるんじゃないのか?」


 俺の唐突な質問に、くるみが大きな目を丸くしてこちらを見た。


「どういうこと?」


「結婚して、旦那に借金を払ってもらえばいいだろ」


「はあ?」


 くるみが怪訝そうに口を尖らせた。


「確かに今は色々と面倒なことになっているが、時間が経てばこの騒動も落ち着くだろ。そしたらさっさと結婚して借金払ってもらえばいい。風俗で働く必要なんてないだろ」


「一千万も借金がある女を貰ってくれる男の人がいるの?」


「いるだろ」


「どうしてそう言えるの?」


「どうしてって……」


 それは、君ほどの美人だったら、借金があっても結婚してくれる男性はたくさんいるさ、と言いたかったが、さすがに照れ臭かったため、心中で留めた。


「悪いけど、大学の頃から付き合っていた彼氏に借金のこと相談したら、急に連絡が取れなくなったよ」


「まあ、若いからな。仕方ないか。仕事を始めたばかりで余裕もなかったんだろう。一方的に責めるのは可哀そうだ。今後、仕事で評価されれば自信もつくし、収入も増える。そうなったら考え方もおのずと変わってくるはずだ」


「じゃあ、自信とお金がある人を見つければいいの?」


「そうだ。自信と金の両方を持っている男だ」


「なーんか、メンドーそうな人しか思い浮かばないなぁ」


「まあ、面倒臭くてプライドの高い奴ほど収入は高いからな」


「お客さんにもそういう奴が多くてほんとにイヤだった。気持ち悪いイメージしかない」


 くるみは吐き捨てるように言った。


 確かに大物政治家や大手企業の社長を相手していた彼女からすれば、自信も金も持っている奴は、吐くほど見てきたのだろう。ロクでもない奴が多そうだ。


「まっ、いったん自信と金のある奴は置いておくとしよう」


 俺は続けた。


「そもそも、本当にお前のことが好きな男だったら、借金払ってくれると思うぞ」


「そんな人いるの?」


「いるだろ」


「どうしてそう断言できるの?」


 それは君が美人だからさ、と心中で囁いた。


 美人ほど得なものはない。美人なだけで男は好きになる。美人なだけで男はいくらでも寄って来る。その男の中から借金を払ってくれそうな男を選べばいいだけだ。極めて簡単なことだ。美人に生まれただけで、勝ち組なのだ。優秀な遺伝子を与えてくれた親と先祖に感謝しなければならない。


「探せば必ず出会うはずだ。お前は借金があることに後ろめたさを感じていて、出会いを拒絶しているんじゃないか。もっと積極的に探せば、必ず出会いはあるはずだ」


 そして、出会いを求めてとっとと立ち去れ。


「それはあるかも」


 妙に納得するくるみ。もしかして心の芯を喰っていたのか。


「でも、出会った人が借金を払ってくれるとしても、あたしが本気で好きにならないと結婚はムリだね」


「はあ?」


 馬鹿げている。俺は肩を竦めた。恋だの愛だの幻想を抱いている場合か。目の前に多額の借金があるのだ。そんなもんは二の次だ。まずは相手に借金を肩代わりさせることが優先事項だろうが。


「なあ、俺は偏っているかもしれないが、女が男を突き詰めていくと、結局、最後に残るのは金なんじゃないのか?」


 妹も元カノも同僚も欲望の根幹には金があった。


 恋愛や結婚も金があってこそ現実となる。金がなければどれも虚構に過ぎない。


「うん、お金かもね」


 くるみは続けた。


「でもお金だけで繋がっている男女の関係だと風俗と変わんないよ。やっぱりお互いに好きなほうが楽しいし、幸せだもんね」


 金よりも幸せを選ぶということか。理解に苦しむ。金があっての幸せではないのだろうか。金があるから幸せになるのだ。幸せなど一時的な感情に過ぎない。彼女は若い。ゆえに本質が見えていない。彼女には多額の借金がある。それでも金よりも幸せが大事だと言っている。理解に苦しむ。これは世代間における価値観の違いなのだろうか。金と恋愛は同調するものではないのか。


「金がない男でも、一緒にいて幸せだったら、結婚するのか?」


「もちろん」


「詭弁だな」


「きべんってなに?」


「つじつまの合わないの議論のことだ」


「つじつまは合ってるでしょ。一緒にいて幸せだから結婚する。フツーの感情だよ」


「それが詭弁だと言っている」


「はあ、意味わかんない。おじ兄さんだってそうじゃないの?」


「俺はそうだな」


「だったら、あたしだってそうでしょ」


「俺は男だからだ。基本、男は容姿と相性で女を選ぶからな。資産で選ぶ奴なんていない」


「女だってそうよ」


「違うな。女は容姿と相性と資産で男を選んでいる。割合で言えば、容姿2、相性1、資産7ってとこだろ」


「そんなわけないでしょ。どんだけひねくれてんのよ」


「男はみんなそう思っている」


「絶対に違う」


 こちらを睥睨するくるみ。俺は嘆息した。


「夢見がちの馬鹿な男と違って、女は現実的なんだ。現実を見れば金が必要になってくる。現実を幸せにするためには、まず金が必要になる。女は現実を幸せにできる男の中から恋愛相手を選んでいるんだ。つまり金を持っている男の中から、容姿が好みで、相性の良い相手を選んでから、恋愛して結婚するんだ。金のない男は、はなから土俵すら上がれない。これが現実だ」


 どうだ、これこそが男女における大人の価値観だ。


「ふうん」


 くるみの気のない返事が聞こえた。


「おじ兄さんってさぁ」


「なんだ?」


「よっぽどヒドイ目に合ってきたんだね」


「なっ!」


「かわいそうに」


 薄汚い野犬を見るような目でこちらを見つめるくるみ。すごく同情されている。しかもとんでもなく上から目線で。飼い主的な目線で見るのをやめろ。


「いろいろと大変だったんだね」


 やめろ。二十歳年下の小娘から受ける哀れみなど、屈辱でしかない。


「大丈夫。必ずおじ兄さんのことを分かってくれる人に出会えるよ」


 やめろ。二十歳年下の小娘から受ける励ましなど、侮辱でしかない。


「おじ兄さんにいい人があらわれますように」


 やめろ。二十歳年下の小娘から受ける願いなど、恥辱でしかない。


「あっ!」


 くるみが弾んだ声を上げた。次はどんな辱めだ。


「あっ、見えてきたよ。あそこ、あそこ」


 くるみが嬉々として指さす方向へ視線を向ける。真っ暗な海沿いの田舎道の遥か先に、ぼんやりと灯りが見えた。


「ん、ありゃなんだ?」


 濃い深い闇の中にぽつんと光る場所。近づいていくと、幾つもの街灯から放たれている光が折り重なり、闇に滲むように広がっていた。


「洞角島大橋だよ」

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