第6話 王道ラブコメ展開は、まやかしに過ぎない

 俺は女性を信用しないようにしている。


 それは三人の女性による影響が大きい。


 一人目は強欲の獣である実の妹。二人目は傲慢の獣である元カノ。そして三人目は嫉妬の獣であるかつての同僚だ。


 俺はスーパーマーケットを退職した後、アパレルショップで契約社員として働くこととなった。短期間での転職が目立つ俺を正社員で雇うところはなく、仕方なく契約社員を募集している会社を選んだ。契約は一年間だったが、仕事の評価によっては、契約更新もあり、さらには正社員登用もあるとのことだった。俺は正社員を目指して働くこととなった。


 会社は例の如く、低賃金、長時間労働のブラック企業だったが、俺はこれまでの社会経験で培った狡猾さを駆使して、店長に上手く取り入ることに成功した。食事会も風俗会も率先して参加した。それにより店長に気に入られる存在となった。


 だが、そのことを良く思わない輩がいた。同僚の女性だ。


 彼女は俺と同期入社で、同じ契約社員だったため、ライバル同士のようなものだった。


 が、しかし、彼女が俺をライバル視していたことは、後から知ったことだ。


 なぜなら彼女は、俺に対して非常に好意的だったからだ。


 俺は元カノの影響で女性不振だったため、基本的に女性とは距離を置いて接していた。しかし彼女は、その距離をぐいぐい縮めてきた。いつも明るく俺に話しかけ、他愛もない雑談から、仕事の悩みまで、気さくに話してくれた。俺は彼女の人当たりの良さに触れ、徐々に心を開いていった。これまで他人に悩みを相談したことのない俺だったが、彼女には心の底から悩みを相談することができた。これほど異性を信頼したことはなかった。無論、彼女との会話の中に、俺に対しての敵対心は微塵も感じられなかった。それどころか、俺は彼女の親しみやすさと快活さに魅かれていき、いつしか彼女に恋愛感情を抱くようになった。これほど人を好きなったのは初めてだった。今想うとあれが初恋だったのかもしれない。随分と遅れた初恋だった。


 俺は生まれて初めて仕事が楽しいと思った。


 仕事が楽しくて楽しくて仕方なかった。なぜなら仕事に行けば、彼女に会える。それだけで、仕事が楽しくて楽しくて仕方なかった。そして正社員になったら、彼女に告白しようと決意した。


 彼女との幸せな未来を思い描いていた。


 考えもしたことなかった結婚も意識するようになった。


 絶対に彼女を幸せにする。


 そう誓い、俺は死に物狂いで働いた。そして着実に実績を上げていった。上司も先輩も正社員昇格は確実だと言ってくれた。


 しかし一年後、俺は契約期間満了となり、職場を去ることになった。


 店長に詰め寄ったが、その理由を知ることはできなかった。そして退職して間もなく、店長から連絡があり、驚愕の事実を知ることになった。


 実は、俺が恋焦がれていた同僚の女性は、店長の上司であるエリアマネージャーと不倫関係にあったのだ。確かに入社して半年ほど過ぎたあたりから、エリアマネージャーの来店頻度が急激に増え、休憩時間になると、彼女を連れて食事に出かけていた。多少の違和感はあったが、エリアマネージャーには妻子がおり、彼女も自然体で堂々としていたため、関係性を疑うまではなかった。


 彼女はエリアマネージャーとの不倫関係を利用して、契約社員から正社員への昇格を果たしたのだ。俺の契約が切られた理由は、彼女が正社員に昇格したことで、店舗の人件費を削減しなければならなくなったためだ。本来、正社員となった場合、採用枠のある店舗へ異動するのだが、彼女が異動を拒んだことにより、エリアマネージャー権限で、採用枠のないウチの店舗で、無理やり採用となった。結果、人件費を削減するしかなくなり、俺がクビとなったのだ。彼女が異動を拒んだ理由は分からないが、恐らくエリアマネージャーとの関係を続ける上で、この店舗が丁度良い場所にあったからだろう。エリアマネージャーの自宅から程よく遠く、本社からも程よく遠い。そして高速道路からは極めて近い。不貞行為をするには丁度良い場所と言える。


 そう、彼女の方が、俺よりも遥かに狡猾だったのだ。


 俺は契約を切られたことよりも、彼女がエリアマネージャーと不倫していたことに、強いショックを受けた。そして、それ以上に、俺のことを嫌っていたことに、絶望した。彼女は、俺が店長に上手く取り入って、気に入られたことを嫉妬していたのかもしれない。だからエリアマネージャーに取り入ったのかもしれない。


 俺は彼女に対して信頼と好意を寄せていたが、彼女は俺に対して敵意と嫌悪を抱いていたのである。初めから俺を潰すための算段を企てていたのだ。彼女の親しみやすさや人懐っこさは、敵を油断させるための演技に過ぎなかったのだ。相手を陥れるには、相手を信頼させることが重要である。相手を信頼させることができれば、相手からの敵意はなくなるため、何らダメージを受けることなく、相手を蹴り落とすことができるのだ。さらに好意を抱かせれば、確実に仕留めることができる。


 まさに狡猾の極みである。


 職場を去る際、どうしても最後に彼女の姿を見たくなり、俺は唇を噛みしめながら、彼女の方へと視線を向けた。


 彼女は無表情だった。


 マネキンのような、何の関心も興味もない表情。


 彼女は完全に嫉妬に取り憑かれていた。


 どんよりと昏い眼差しでこちらを見つめ、無表情を貼り付けたその姿は、人間ではなく完全に獣だった。


 嫉妬の獣。


 この経験は俺の心に深い影を落とした。


 俺がニートへと引き込まれていくきっかけの一つとなった。


 だからもう女性は信用しないと決めている。


 信用しない。


 特にコイツは信用できない。


 俺はハンドルを握りながら、助手席に座るくるみを一瞥した。彼女は鼻歌を口ずさみながら、スマホの液晶をしなやかな指先で軽快に滑らせている。


 何なのだ、コイツは。


 彼女にのっぴきならない事情があることは理解している。もうどこかに逃げるしか選択肢がないことも理解している。だがどうにも腑に落ちない。


 コイツは俺の金と車が目的で同行しているのだ。


 コイツは俺の金と車に寄生して蒸発を計ろうとしているのだ。


 まったくもって迷惑極まりない奴だ。果たしてどこまで寄生するつもりなのか。初めは彼女の不幸な人生に同情したが、よく考えたら俺の人生とは一切の関わりがない赤の他人だ。俺が世話する義理もなければ余裕もない。俺が苦心して作り上げた輝かしい人生プランは、俺一人のためだけに作られている。他人が侵入する余地などない。


 それよりも厄介なのは、彼女に莫大な借金があることだ。


 現在、俺が運転している軽ワゴンの後部座席の下には五千万円が保管されている。この金は俺の人生プランを達成させるための必要な資金だ。もしこの隠し財宝のことを彼女が知れば、必ず手に入れようとするだろう。借金さえ返済できれば、大きく人生を軌道修正することができはずだ。風俗雑誌の黒歴史は消せないが、所詮は地方誌であるため、雑誌を知らない県外に生活の拠点を移せば何ら問題はない。仮にネットで拡散されたとしても、髪型や化粧を大きく変えれば、他人の空似を突き通すことができるだろう。人間は忘れていく生き物だ。どんな美人であっても時が経てば顔もスタイルもぼやけて見えにくくなる。やがてそれらも薄れていき、輪郭だけが影となって残る。人間の記憶とはそんなものだ。自分がどんなに意識していても、他人の記憶とは曖昧なものなのだ。


 金を手にすれば、彼女は人生を軌道修正できる。


 が、しかし、何人たりともこの金を渡すわけにはいかない。


 俺も崖っぷちなのだ。他人を救済する余裕はない。人生に夢も希望も抱いていないが、それでも生きなければならない。生きるためには、金が絶対に必要だ。


 学歴も職歴も資格もコネもない人間に世間はやたらと厳しい。常に足元を見られるため、まともな報酬を受けることができない。地面に叩きつけられたはした金を必死でかき集めても、貧困から抜け出すことはできない。これがこの国の現状だ。学歴も職歴も資格もコネもない人間は、働いても働かなくても貧困なのだ。だからニートが増えるのだ。


 貧困から免れるためには、手にした金を計画的に使わなければならない。一円たりとも無駄にすることはできない。


 彼女の借金は一千万円。その金額を奪われるのは非常に痛い。資産の四分の一を失ってしまう。否、すべて奪われるかもしれない。そうなったら俺の人生は終わりだ。


 何としても気取られないようにしなければならない。


「ねえ、おじ兄さん。後部座席の下に何か落ちてるんじゃない?」


「なっ!」


 ちいっ、クソが、もう気付いたか。


「何か、ぶつかり合ってるような音がするけど……」


「ああ、これは親父が仕事で使っていた車だからな、たぶん親父の仕事道具が転がっているんだろう」


「お父さんはどんな仕事してたの?」


「親父の仕事?」


 親父は何の仕事をしていたのだろう。まったく思い出せない。毎朝、背広で出勤していたことは覚えている。あと土日が休みだったことも覚えている。


「サラリーマンだ」


「えっ、サラリーマンがこんな車に乗っていたの? なんか業者さんが乗っているような車だけど」


 しまった、墓穴を掘ったか。俺は苦虫を噛み潰した。こんな車を私用で乗っているのは個人事業主ぐらいだ。


「副業で商店をしていた」


「えっ、サラリーマンしながら、お店もしていたの? すごく忙しかったんじゃない?」


「ああ、休みは土日くらいか」


「土日? 普通に休めてたんだね」


 しまった、また墓穴を掘ったか。俺は奥歯で苦虫をすり潰した。今時、土日休みの商店などほとんどない。


「なんのお店だったの?」


「……」


 俺は逡巡した。


 無邪気な表情で確実に追い込んできている。本当に恐ろしい女である。このまま質問に答え続ければ、必ずぼろが出てしまう。どうにかして質問して打ち切らなければならない。この質問の波を断ち切る方法を何としても見つけ出さなければならない。


「ねえ、なんのお店だったの?」


 俺は小さく深呼吸した。


「大人のおもちゃ屋だ」


 車内に気まずい沈黙が広がった。


 ※ ※  ※


「あー、なんかお腹へったぁ」


 スマホの画面をスクロールしながら、くるみが大声を上げた。


「ねえ、おじ兄さん。お腹すいたからコンビニ寄ってもらっていい?」


「なあ、さっきから気になっていたんだが、おじ兄さんってなんだ?」


「そうだよ。おじさんにしては若いけど、お兄さんにしては老けているから、おじ兄さん。どう、あたしネーミングセンスあるでしょ」


 センスなど微塵もない。しょうもないあだ名だ。しかし、お兄さんにしては老けている、は結構ショックだった。こんな俺でも二十代の頃は童顔のため実年齢よりも若く見られることが多かった。あの頃の外見とさほど変化した気はしないが、他人から見れば年相応に老け込んでいるのだろう。十年間のニート生活が、俺を著しく老化させたのかもしれない。今となっては、すべて後の祭りである。認めたくないものだな。アラフォーである事実を。


 そんなことよりも、年上の人間にあだ名を付けるなど無礼千万である。今さらだが彼女の口から一度も敬語を聞いていない。


「あっ、あそこにコンビニあるから止めて」


 俺は不満げにコンビニの駐車場に車を停めた。


「あれ? おじ兄さんは来ないの?」


 俺はシートベルトを装着したままだ。


「別に腹はへってない」


「そうなんだ。じゃあ、あたしちょっと行ってくるね」


 くるみが助手席のドアを開けてぴょんと飛び降りた。


 瞬間、俺の脳裏に閃きが迸った。


 コイツがコンビニで買い物している隙に、とんずらすればいいのではないか。日が落ちた路上に置き去りにするのは、さすがに罪悪感が生まれるが、明るいコンビニの店内に置き去りにするのは、大して罪悪感は生まれない。むしろこの配慮に感謝すらしてもらいたいぐらいだ。


 よし、コイツとはこのコンビニでおさらばだ。容姿とスタイルが良いだけで、中身はとんでもなくド厚かましい女だった。もうこれ以上の厄介事に巻き込まれるのは勘弁だ。


 俺は小さく拳を握り、くるみの小さな背中に向かって、あばよ、と心の中で叫んだ。すると、くるみがくるりと振り向き、笑顔を浮かべた。


「もし、あたしを置き去りにしたら、はい、これ見て」


 彼女がスマホの画面を俺に突き付けた。


 そこには車のナンバーが盗撮されていた。


「車に乗る前にこっそり撮ってたの。もし、あたしを置き去りにしたら、すぐに事務所に連絡して、本番強要されたあげく、車で拉致されたって言うから。そうなったら、怖いお兄さんたちが、おじ兄さんのこと血眼で探すわよ。裏社会のネットワークがあれば、おじ兄さんの車なんてすぐに特定されて終わりよ」


 くるみは口許だけ笑みを浮かべながら、鋭い眼光でこちらを睨んだ。


 ここまで恐ろしい女だったとは。やっていることは反社会勢力関係者と何ら変わらない。もうこの女を狡猾な美人風俗嬢と思うことはやめよう。凶悪な美人極道だと思うことにしよう。


「じゃ、よろしくね」


 何が、よろしくね、だ、馬鹿野郎。


 コンビニで買い物を終えると、くるみはまるで自分の車のように、助手席に乗り込んだ。


「やっぱりコンビニはおでんが美味しいよね」


 くるみが容器を開けると、たちまち車内におでんのだしの香りが充満した。久しぶりに嗅いだおでんの匂いに、唾液が滲んだ。昼から夕方にかけて焼肉と寿司をバカ喰いしているため、空腹とはほど遠い状態だったが、味わいたい欲求だけは瞭然とあった。


「おいしー」


 練り物をぱくぱく口に運んでいるくるみを一瞥して、俺はハンドルを回しながらアクセルを踏んだ。


 おでんを食べるくるみを横目に、俺は無言で車を走らせた。しかし車内に充満する香りと、隣でハフハフ食べる音が気になって、運転に集中することができない。


「やっぱり、おじ兄さんも、お腹へってるんでしょ?」


「いや、別に腹はへってない」


「じゃあ、どうしてチラチラこっち見てるの?」


「いや、コンビニのおでんってどんな味だったかなぁ、と思って」


「えっ、コンビニのおでん食べたことないの?」


「いや、十年前に食べた」


「じゅうねん前? コンビニのおでんが嫌いだったの?」


「いや、そう言うわけではないんだが、そもそも、この十年間、コンビニにほとんど行ってないんだ」


「ええっ、十年も行ってないの? どうして家の近くになかったの?」


「いや、まあ、そういうことではなく、行かなかったというか、行けなかったというか」


「どういうこと?」


「まあ、いろいろと事情があったんだ」


「コンビニに行けない事情ってなによ?」


 俺は逡巡した。


「大人の事情ってやつだ」


 ニートの事情ってやつだ。


「意味わかんない」


「わかんなくて結構だ」


「ふうん」


 訝しげに、こちらを見つめるくるみ。


「仕方ないなぁ」


 くるみが俺の口許に割り箸を近づけた。その先端には大根の欠片が挟まれていた。だしをたっぷりと吸った大根は、今にも崩れそうで、旨味を含んだ雫が垂れていた。


「はい、あーん」


「なっ、ちょっと待て!」


 こんなラブコメチックなシチュエーションとは無縁な人生を送ってきたため、俺は動揺して急ブレーキを踏みそうになった。


「ほら、口を開けなさい」


 俺が少しだけ口を開けると、くるみは大根の欠片を強引に押し込んだ。あまりの熱さに舌を火傷しそうになった。


「ふふふ、じゅうねんぶりのコンビニおでんの味はどうかな?」


 どうもこうもない。突如として訪れた王道ラブコメ展開に、年甲斐もなく緊張してしまった。心拍数が上昇している。もはや大根を味わうどころではない。最近の若者は、恋人同士でなくても、普通にこんなことをするのか。欧米化が加速しているのだろうか。


 必死で平然を装う俺のことなど気にも留めず、くるみは次々とおでんのタネを運んできた。


 たちまち俺の口は、おでんでいっぱいになった。


「美味しすぎて、言葉にならないかぁ」


 いや、確かに美味しいかもしれないが、今は平常心を維持することに必死だった。


 最近の若者はコミュニケーション能力が高いと聞いたことあるが、ほぼ初対面のオッサンに自分の食べかけのおでんを食わせるほどのコミュ力を有しているとは思っていなかった。


「あーあ、もうなくなっちゃた。結局、おじ兄さんがほとんど食べちゃったね」


「いや、もぐもぐ、腹は、もぐもぐ、すいて、もぐもぐ、なかった、もぐもぐ」


「いや、なに言ってんのかわかんないよ。とにかく今度はちゃんと自分の分も買ってよね」


「もぐもぐ」


 ネズミのように頬を膨らませながら、小さく頷いた。


「あっ、そろそろ二時間経っちゃうね。携帯の電源切っちゃおーと」


 そういえば事務所には二時間コースと伝えていた。通常であれば二時間が経過すれば事務所に連絡して終了か延長かを伝えるはずだ。


「おじ兄さんもスマホの電源切ってたほうがいいよ。あたしが出なかったら、おじ兄さんの方にかかってくるだろうから」


 俺は混ざり合って何の味が分からなくなったおでんを強引に飲み込んだ。


「スマートフォンは持ってないから心配するな」


「えっ、スマホ持ってないの? じゃあケータイは?」


「携帯電話も持っていない」


「ええっ、まさかケータイも使ったことないとか?」


「いや使ったことはある。十年前だけどな」


「また十年前? コンビニにも行かず、ケータイも持たず、この十年間なにしてたの?」


 王道ラブコメ展開によって揺れ動いていた心を一旦立て直して、俺は冷静に考え巡らせた。


 彼女の目的は、俺の金と車だ。


 王道ラブコメ展開はまやかしに過ぎない。急速な欧米化が招いたコミュニケーションの一端に過ぎない。惑わされるな。すべては虚構なのだ。


 彼女の目的は、俺の金と車だ。


 それでも俺は、無様にも格好つけようとしていることに気付いた。


 男は女を前にすると無意識に格好つけてしまうものだ。


 美女とあればなおさらだ。


 初めから情けない文無しを演じればこうはならなかった。中途半端に格好つけた結果がこれだ。


 俺は自分の滑稽さに辟易した。


「もしかして山籠もりしてたとか?」


 ふっ、と俺は鼻を鳴らした。


「いや山籠もりではなく、家籠りだ」


「はあ? 家籠りってなによ?」


「ニートのことだ」


 車内に再び気まずい沈黙が広がった。

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