第5話 世界が忘れ去るまで、隠れる

「マホウのビキニから来ました。くるみです。本日はご指名ありがとうございます」


 俺は完全に硬直してしまった。


 風俗雑誌の表紙の美女が、そのままの姿で目の前に立っていた。


 あえて違いを挙げるならば、表紙の美女は高身長に見えたが、現実は意外と小柄だった。それぐらいだ。それ以外は寸分たがわぬほど同じである。完全に同一人物だ。


「あのぉ……。お邪魔してもいいですか?」


 固まっている俺を上目遣いで窺いながら表紙の美女が言った。


 俺は動揺を必死で隠しつつ、どうぞ、と部屋へ通した。


 彼女の第一印象は白だった。


 肌がとにかく白かった。顔を始めとして首、腕、脚、すべてが白かった。粉雪のように瑞々しく透明感のある白さだった。その白が彼女の清潔感と品の良さを際立たせていた。


 艶やかなストレートのミディアムヘアは明るめのベージュにカラーリングされ、大きな瞳は鮮やかなブラウンのカラーコンタクトで彩られている。柔らかなピンクのリップがなぞられた小さな唇は、程よく膨らみがあり、大人の色香が漂っていた。口許からは、整った純白の前歯が煌めき、微笑を浮かべた際に垣間見えた左右の八重歯が少女の幼さを感じさせた。


 これほどまでに目鼻立ちが整った美女を見たことがない。


 俺の緊張は頂点に達していた。


 失礼かもしれないが、風俗雑誌に載っている女性の写真は盛っていることが多い。あのお、すいませんが、どなたでしょうか、と尋ねたくなることも多々ある。盛られていて当然の世界なのだ。客はそのことを充分に理解しており、盛られ具合の誤差に一喜一憂しながら日々を送っているのだ。今回も、ある程度、盛られていることは覚悟していた。しかし、結果として誤差は、ほぼゼロだった。身長以外は一致している。充分に許容範囲内だ。むしろ女性は小柄なほうがタイプなので、結果オーライである。


 心臓を激しく高鳴らせながら、俺はソファーに浅く座った。すると表紙の美女はソファーとは対角線上にあるベッドに腰を掛け、スマートフォンを取り出した。


 おや?


 表紙の美女はスマホの液晶画面をコンコンと爪で叩きながら、益体のない話を始めた。


 俺の知る由もない友人の話。俺の知る由もない買い物の話。俺の知る由もない旅行の話。俺の知る由もない俳優の話。俺の知る由もない歌手の話。俺の知る由もないアイドルの話。俺の知る由もないキャンプの話。俺の知る由もない花火大会の話。俺の知る由もないハロウィンの話。俺の知る由もないスノボの話。俺の知る由もないリア充の話。


 そんな益体のない話を独り言でもなく問いかけるでもない話し方で淡々と続けた。


 通常。派遣型風俗店の風俗嬢は、部屋に訪れると客に利用時間の確認をする。その後、店に連絡をして、客から金額を受け取り、サービスを開始する。これが一連の流れだ。しかし彼女からそんな素振りは微塵も見えない。


 俺は不振に思いながらも、気分が高揚していたこともあり、必死で彼女の話に乗った。しかし空しくも俺の発した言葉は、すべて彼女の横を通り過ぎていった。


 彼女はスマホの画面を叩きながら、アンドロイドのように益体のない話を続けている。部屋に入ってから俺に一瞥もくれない。彼女の話に何とか合わせて話してみるが、やはり会話は成り立たない。


 なるほど、な。


 俺は辟易した。


 彼女は俺との会話を故意に成り立たせないようにしていた。


 そう気づいた瞬間、俺の中で沸点まで高まっていた熱が、一気に氷点下まで冷めた。


 そのパターンか。


 一気にどうでもよくなった。


 完全に興味が失せた。


 俺は、おもむろに財布を開き、一万円札を適当に取り出すと、彼女に近づき、スマホの画面を札で隠した。


「お前、時間稼ぎだろ?」


 俺が言うと、彼女が「はあ?」と上目遣いで睨んだ。


「これ一時間分の料金。だからもう帰っていいぞ」


 彼女が気まずそうに目を反らした。


「チェンジはしないの?」


「しない。もうそんな気分じゃない」


「そう……」


 周囲に重い沈黙が落ちた。


 ※ ※  ※


 風俗店に地雷は付き物だ。特に田舎にある派遣型風俗店は、学生や若いフリーターがアルバイト感覚で在籍していることが多いため、地雷を踏む可能性が高くなる。特に今回のような時間稼ぎはよくあるパターンだ。生理的に嫌な客は、時間稼ぎで不機嫌にさせてチェンジを促すこともできるし、気の弱い客であれば、金を貰ってから、のらりくらりと時間稼ぎして逃げ切ることもできる。基本、部屋に来てすぐにスマホをいじり出したら危険信号だ。まあ、それでも強引に持っていくことも可能だろうが、それは自信のある男がすることだ。自信のない男は、風俗であっても、女性から拒絶されれば傷つくのだ。男にとっての自信はモテた実績だ。自信と実績は比例している。自信のある男の背景には必ずモテた実績がある。


 自信とは装甲のようなものだ。


 モテればモテるほど装甲は何重にも強化されていく。強靭な装甲は一度や二度の攻撃では傷一つ付かない。しかしモテなければ装甲を強化することができない。薄っぺらい装甲では、簡単に貫かれて致命傷を受けてしまう。


 俺はモテたことがない。よって自信がない。つまり装甲はぺらっぺらのべニア板なのだ。異性から拒絶されただけで簡単に穴が開く。これ以上穴が増え続けるのは精神的に耐えられそうもないため、金を渡して帰らせることにした。まあ、傷ついた揚げ句に金を払うなど本末転倒だが、これ以上、無理に踏み込めば、必ず地雷が爆発する。そうなればべニア板など木っ端微塵に吹き飛ぶだろう。それだけは何としても避けたいのだ。


 綺麗な花には刺がある。否、綺麗な風俗嬢には地雷が仕掛けてある。


 何であれ、見てくれの良いものには、細心の注意を払わなければならないということだ。今更ではあるが。


 と、いうわけで、早急に目の前の地雷を撤去することにした。


 だが、地雷は金を受け取ろうとしなかった。


 俺は、彼女の目の前にお金を突きつけたまま、どうしていいのか分からず停止していた。


 早く受け取って帰ってくれ。


 そんな俺の思いとは裏腹に、彼女は上目遣いでこちらを見つめたままだった。


 鳶色の澄んだ大きな瞳に吸い込まれそうになる。


 沈黙。


 なぜか見つめ合う二人。


 そんな可愛い顔で見つめないでくれ。この怒りをどこに向ければいいのか分からなくなる。


 すると、彼女は慣れた手付きで金を受け取り、ブランド物の財布にしまった。


 安堵する俺。


 さあ、さっと帰るんだ。


 しかし彼女は帰ろうとはせず、ベッドに座ったまま、きょろきょろと辺りを見渡した。


「お兄さん、旅行中?」


 ベッド横に置いていたキャリーバックを指さす彼女。


 今夜はこのホテルに宿泊するため、私物一式を持ち込んでいた。衣類、下着、タオル、コップなどの生活に最低限必要なものが、このキャリーバック一つに詰め込まれている。荷物はこれだけだ。


 ホテルに宿泊なので、持ち込むのは下着ぐらいで良かったのだが、車内に大きな荷物を放置すれば、車上荒らしに狙われる可能性が高くなってしまう。車外、車内の防犯設備は完璧に施しているが、車内に保管されている財産のことを考えれば用心するのに越したことはない。


「旅行中じゃない。蒸発中だ」


「蒸発中?」


 彼女が目を丸くした。


「行方不明になるんだよ」


「えっ?」


 彼女が急に立ち上がった。俺は驚いて、たたらを踏んだ。


「どうして蒸発するの?」


「そりゃあ、まあ、色々と事情があるんだよ」


 歯切れの悪い俺の反応に、彼女が小首を傾げた。


「で、どこに行くつもりなの?」


 詰め寄る彼女。


「どこって、まだ決めてない」


 後退りする俺。


「決めてない? じゃあどうするの?」


 更に詰め寄る彼女。


「どうするって言われてもなぁ……」


 なぜ俺は彼女から詰問されているのだろうか。数分前までこちらが質問しても興味すら抱かなかった彼女が、大きく目を広げてこちらを見ている。あれほど可憐で愛くるしかった瞳が、獲物を狙う猛獣のように鋭く光っている。


「とにかく今は遠くに逃げるだけだ」


「逃げる?」


 彼女が眉を顰めた。


「お兄さん、悪いことでもしたの?」


 俺は言葉に詰まった。遺産の持ち逃げは紛れもなく悪いことだろう。しかし生きるためには仕方のないことだった。ニートとして生きるためには仕方のないことだった。まあ、働けばいいのだが、今はその時じゃない気がする。ニート特有の理由である。


 ちなみに罪悪感など微塵もない。


「悪いことはしていない。ただ金銭問題で追われる身となった」


 出産後、妹は必ず動き出す。妹の執念深さは怨霊並みだ。俺が遺産を持ち逃げしたことが分かれば、あらゆる手段を駆使して探し回るだろう。だが遺産の持ち逃げが発覚するにはまだ時間がある。それまでにできるだけ遠くに逃げなければならない。


「金銭問題ねぇ……」


 どこか共感するような素振りを見せる彼女。


「逃げるなら海外にすれば?」


 海外へ高跳びすれば確実に勝利を支柱に収めることができるだろう。しかし多額の現金を持って空港に行けば、必ず税関で捕まる。遺産の持ち逃げなど申告できるわけがない。最悪没収されてしまう可能性だってある。そもそも俺はパスポートを持っていない。


「それはできない」


「どうして?」


 小首を傾げる彼女。


「金銭的に難しい」


 大嘘をついた。


「まあ、海外へ逃げるとなると、すごくお金がかかるもんね。お兄さん見るからにお金持ってなさそうだし」


 さらりと毒づく彼女。今すぐ札束で頬を叩いてやろうかと思った。


「でも国内だと、いずれ見つかっちゃうんじゃない?」


「遠くまで逃げたら、どっかに隠れるつもりだ」


「隠れてやり過ごすってこと?」


「そうだ」


「どれくらい隠れるつもりなの?」


「うーん」


 あの強欲な妹がそう簡単に遺産を諦めるとは思えない。持久戦は必至だ。十年間ニートしていたが、完全に引きこもっていたわけではない。両親が休日で自宅にいる時は、もっぱら図書館で時間を潰していた。この十年間であらゆるジャンルの本を読破した。ミリタリー、ファンタジー、SFなど様々な書物を読み漁った。おかげで無駄な知識が無駄に蓄積された。


 つまり俺は、完全なる引きこもりを経験したことがないのだ。


 あの強欲の獣に勝利するためには、完全なる引きこもりを実行しなければならない。しかも長期間引きこもらなければならない。まさに苦行である。苦行は獣が遺産を放棄するまで続く。獣が遺産を諦めない限り苦行は延々と続く。この苦行に耐えなければ未来はない。


 獣が諦める時。


 強欲の獣が諦める時。


「そうだな、俺のことを世界が忘れ去るまでだな」


 俺の存在を知るすべての人間の記憶から、俺の存在が忘れ去られるまで。


 途方もない時間である。


「世界が忘れ去るまで……」


 彼女が大きな瞳でこちらを見ていた。微かに口許が震えている。


「あ、あたしも……」


 彼女がゆっくりと近づいてくる。先刻までの剣呑な表情が、嘘みたいに柔らかくなっていた。


 彼女はぐいっと俺に顔を近づけた。


 艶やかな潤みを帯びた大きな瞳に吸い込まれそうになった。


「世界が忘れ去るまで、隠れる!」


「はい?」


 ※ ※  ※


 高級派遣型風俗店〈マホウのビキニ〉の指名ナンバーワン風俗嬢くるみ。


 彼女の顧客の中には、地元で名の知れた政治家や社長などが軒を連ねているそうだ。彼女の美貌ならば素直に頷ける。


 そんな彼女が風俗で働く理由は、借金の返済だ。


 借金の総額は一千万円。


 彼女の両親は同級生らしく、大学在学中に彼女を妊娠したらしい。父親は家族を養うために大学を辞めて就職したが、時代はまさに就職氷河期。大学を卒業しても、まともな就職先がない時代である。中退ともなると企業側の扱いは、より酷いものとなる。それでも彼女の父親は家族を養うため、必死で働き続けたらしい。ブラック企業を転々としながらも、必死で働き続けたらしい。しかし過酷極まる労働により、肉体と精神は徐々に蝕まれていき、彼女が高校一年生の時に心身を病んで働くことができなくなった。大黒柱の収入源を失ったことで、学費の支払いが厳しくなり、彼女は母親と教師に促されるまま奨学金制度を利用した。無利子は得られなかったため、有利子の奨学金を得た。彼女は家庭の生活費も工面するため、奨学金を最大額まで借りた。そして大学も奨学金で通った。彼女としては卒業後に就職して返済していけばいいと楽観視していた。しかし卒業後に奨学金の総額が一千万円だと知って愕然となった。就職は無事できたが、現在の給料では借金の返済など到底できるはずなく、風俗に駆け込むしかなかったというわけだ。


「奨学金、恐ろしや……」


 もし奨学金を借りていて、今も返済が続いていると思うとゾッとする。ニートなど絶対にできない。ブラック企業で死ぬまで強制労働だ。そもそも子供に容赦ない借金を背負わせるこの国のおぞましさに背筋がうすら寒くなる。少子化対策が聞いて呆れる。まあ、この国は自己責任って言葉が大好きだから仕方ない。


「お母さんと先生がちゃんと分かりやすく説明してくれていたら、絶対に借りなかった」


 親も教師もいい加減なものだ。所詮は他人事なのだ。


「奨学金の返済が大変だから蒸発するのか?」


「いや……」


 くるみが俯いた。


「風俗で働くのは嫌だけど、このまま我慢して働き続ければ、返済の目途は立つと思う」


 彼女は地方とはいえど高級風俗店のナンバーワン風俗嬢だ。VIP客への知名度は相当なものだ。相当な稼ぎがあってもおかしくない。


「だったら、なぜに?」


 くるみはおもむろに歩き出し、テーブルの上に置かれていた風俗雑誌を手に取った。表紙には下着姿で婉然と微笑む彼女の姿がある。何とも不思議な感じだ。


 が、現実の彼女は憤懣と口を結び、俺に雑誌を突きつけた。


「これよっ!」


「これ?」


 俺は意味が分からず、眉根を寄せた。


「雑誌の表紙になるなんて聞いてない。あたしはホームページ掲載用の宣材写真を撮っただけなの!」


「勝手に載せられたってことか?」


「そうよ!」


 鋭い眼光で睨みつけるくるみ。俺は何も悪いことはしていない。


「何か問題でもあるのか?」


「大アリよっ!」


 今にも飛び掛かりそうな勢いで怒鳴るくるみに、俺は子猫のように身を竦めた。


「あたし昼間はOLしているのよ。こんな雑誌のしかも表紙に載ったことで、社内はこのことで持ち切りよ。上司に呼ばれて尋問されるし、同僚からは冷たい視線を向けられるし、もう最悪よ。二度と会社には行けないわ。それにあたしが風俗で働いていることは、両親にも秘密にしているの。娘が風俗で働いていることがバレたら大問題になるわ。本当に最悪よ!」


 風俗雑誌の風俗嬢の写真は綺麗に加工されていることが多いので、上手くいけば他人の空似を突き通すことも可能だ。しかし彼女の場合は表紙と実物が寸分たがわず一緒なのだ。加工の必要性がなかったのだろう。しかも驚くほどの美人であるため、一度見ただけで印象に残ってしまう。普段、風俗雑誌に興味がない人でも、表紙の彼女と目が会えば衝動的に購入してしまうかもしれない。それぐらいのインパクトがある。皮肉にも美人が仇となったのだ。


「だから、あたしも蒸発するっ!」


 くるみがぐいっと近づき、俺に視線を合わせた。潤みを帯びた大きな瞳に圧倒され、俺は視線をずらした。


「お、落ち着きたまえ、まずはご両親に相談することが先決なのではないかな?」


 至極全うな提案を投げかけた。


「ムリよ。お父さんは病気で冷静な判断できないし、お母さんは世間体ばかり気にする人だから。相談してもムリね。さんざん罵られたあげく、家を追い出されて終わりよ!」


「難儀だなぁ」


 娘に躊躇なく一千万の借金を負わせる親だ。容赦はないだろう。


「だから、あたしも蒸発するっ!」


 くるみがさらにぐいっと近づき、強引に視線を合わせてきた。潤みを帯びた大きな瞳に吸い込まれ、俺の心臓は激しく高鳴った。


「と、ところで、お店には抗議はしたのか?」


 悔しそうに頷くくるみ。


「今日、お店に抗議しに行ったわ」


「ほう」


 彼女が休みの日に出勤していた理由は、人員の穴埋めではなく、店への抗議と退職を告げるためだったようだ。本人に無断で写真を載せる店など信用できるわけがない。


「で、辞めるって言ったわ」


「なるほど。で、辞められたのか?」


「いや、辞められなかった……」


 俯いて肩を震わせるくるみ。長い髪が前へと倒れているため、表情は確認できなかったが、泣いているように思えた。酷い脅しでも受けたのだろうか。実際、店側としてもナンバーワンをそう簡単に手放すわけがない。どんな手段を使っても留めさせるはずだ。なるほど彼女の到着が異常に遅かったのは揉めていたせいか。


「あのまま事務所にいたら本当にヤバかった。もしかしたら殺されていたかも……」


「マジで?」


 急にきな臭くなった。


「マジよ! ここに来たのも事務所から離れたかったから。どうやって逃げるか考えたかったから」


「逃げるって、なぁ……」


「もうあたしは、会社にも戻れないし、家にも戻れない。それに事務所に戻れば殺される!」


 大きな瞳を潤ませながら、くるみは叫んだ。


「殺される、ねぇ……」


 脅しているだけだろう。脅しはヤクザの常套手段だからな。


「だから、あたしも蒸発するっ!」


「ま、まあ、それに関しては、ご自由にってことで……」


「本当っ!」


 くるみの表情が一瞬にして煌めいた。そのあまりの可愛さに胸が圧迫された。


「じゃあ、まずは足止めしとかないとね」


「足止め?」


 首を傾げる俺を無視して、くるみはスマホの液晶画面を慣れた手つきで叩いた。


「あ、もしもし、二時間コースでお願いします」


 機械的な口調でそう告げると、彼女は通話を切った。


「はあ? 二時間コースってどういうことだ? そんなこと一言も言ってないぞ!」


「これで事務所の奴らを二時間は足止めできるわ。お兄さん、早くチェックアウトして!」


「はあ? チェックアウトってどういうことだ?」


「たぶん運転手が、あたしが逃げないように外で監視していたはず。でもサービスが始まれば、運転手は一度事務所に戻って、別の現場に向かうはずよ。今って、人手不足で運転手がぜんぜん足りてないから。二時間も現場に待機するなんてムリなの」


「いや、俺が訊きたいのはそういうことではなく……」


「早くホテルを出ないと、二時間後に奴らが来るわ!」


「だから、なんで俺がホテルを出なきゃならんのだ!」


「奴らが来たら捕まっちゃうでしょ!」


「俺は捕まるようなことしてないぞ!」


「あたしが捕まるのよ!」


「ならば一刻も早くここを離れるべきだ!」


「そう、だから早くチェックアウトして!」


「なぜそうなる!」


「だからぁっ、一緒に蒸発してくれるんでしょ!」


「なぜそうなった!」


「さっき、あたしが蒸発するって言ったら、ご自由にって言ったじゃない!」


「それは蒸発するのはご自由にって意味だ。一緒に蒸発するなんて一言も言ってないぞ!」


「はあ、あたし一人で蒸発しろって言いたいわけ? お金も車もないのにできるわけないじゃない! それにあたしみたく若くて美人でスタイル抜群の女の子が夜に一人で歩いていたら間違いなく危険な目に合うわ!」


「美人でスタイルが良いことは自覚しているんだな」


「危険な目に合うことが分かっていて、あたしを一人で蒸発させるの? この人でなし!」


「俺の金と車を利用して蒸発を企てるお前のほうがよっぽど人でなしだ!」


「仕方ないでしょ、今はそうするしかないのよ!」


 もはや完全に開き直っている。四面楚歌に陥った彼女は、初対面の中年ニートを巻き込んで無理やり退路を作ろうとしている。迷惑にも程がある。


「困ったなぁ……」


 俺は苦虫を噛み潰した。彼女の気持ちは充分理解している。気の毒としか言いようがない。人の噂も七十五日とはいうが、噂は消えても、元ナンバーワン風俗嬢のレッテルは消えることはない。つまりもう二度と日常に戻ることはできないということだ。彼女は後戻りすることのできないところまで来ている。そしてこのラブホテルの一室が彼女の人生の分岐点となっているのだ。風俗店で骨の髄までしゃぶり尽くされるか、初対面の中年ニートに寄生して蒸発するか、この二択しか用意されていない。さすがの俺でも同情してしまう。神様の容赦ない仕打ちには辟易するばかりである。一体、前世でどれだけの悪行を働き、先祖がどれだけの怨恨を受けていたのか想像もつかない。


「もし、拒否するならこっちにも考えがあるわ!」


 彼女はスマホの液晶画面を眼前に突き付けてきた。そこには『緊急』と入力された電話番号が表示されている。


「この番号は、お客さんから本番強要された時に使う番号よ。この番号の通話を押せば、事務所の奴らが、本番強要があったと判断して、すぐに駆け付けるわ。ちなみに本番強要は罰金百万円よ!」


 くるみは薄笑いを浮かべながら、通話ボタンに指を近づける。


「どうする、お兄さん?」


「キサマ、俺を脅迫する気か……」


「そうよ、仮にお兄さんが否定しても、会員でも常連でもないお兄さんの言うことなんて誰も信用しないわ」


「くっ……」


 会員だったら、常連だったら、信用してくれるのか。くそったれ、連中が羨ましい。


「どうする、お兄さん? 奴らに半殺しにされて百万円支払うか、若くて美人でスタイル抜群の女の子と一緒に蒸発するか、二つに一つよ。早く選びなさい。てゆうか選ぶまでもないでしょ!」


 全くもって無茶苦茶である。美人とはここまで横暴な生き物なのか。


 俺は肩を竦め、嘆息した。


「分かったよ」


 くるみが目を丸くした。


「本当に?」


「本当だ!」


「やったぁっ!」


 少女のように嬉々として飛び上がるくるみ。


「はあ、チェックアウトするか……」


 久しぶりにゴミのない部屋で眠れると思ったが、それは淡い夢で終わった。

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