第2話 魔界で蠢く邪悪な奴らを、我が屋敷へと招き入れる
父の遺産を持って蒸発することに決めた俺は、即座に行動に移った。
さっそく俺は、父の口座から50万円を引き出した。ATMから引き出せる一日の限度額が50万円なのだ。この金額以上を引き出すためには、銀行の窓口を利用しなければならない。しかし、俺が父の口座から預金を引き出すためには、父の委任状が必要となる。つまりの父の許可なしで大金を引き出すことはできないのだ。
遺産をすべて猫糞するのに、父の許可など下りるわけがない。
もどかしいが地道に引き出していくしかない。問題は引き出した金の保管場所だ。自宅は激しい略奪によって、がらんどうの状態だ。物に紛れさせて隠すことはできない。しかも妹は飢えた野犬のように鼻が利く。どんなに上手く隠しても、金目の物はすぐに嗅ぎ付けられる。そのため現金は肌身離さず持っている。油断してリビングに財布を置こうものなら、瞬時に中身を抜き取られる。そして、問いただそうものなら、烈火の如く怒り狂い手に負えなくなる。妹は都合が悪くなると、怒りの沸点を一瞬で最大まで引き上げることができる。突然、マグマを爆発させ動揺した相手から先手を取り、一気に畳み込む戦法だ。チンピラのやり口である。
そのため外出の際は、現金、通帳、印鑑などは常に持ち歩かなければならない。外で強盗に遭遇する確率よりも、家で妹に略奪される確率のほうが格段に高いのだ。だがさすがに札束を持って外出するのは怖い。
さて、困ったものだ。
さて、どうするべきか。
自室で考え込んでいると、すぐそばを一匹のゴキブリが足早に通り過ぎて行った。
そう言えば、ゴキブリを自室で見たのは久しぶりである。軽快な足取りで床を駆けていくゴキブリ。やがて壁へぶち当たると、触覚を左右に動かして、壁をよじ登り始めた。そして数年前に壊れた埃塗れのエアコンの吹出口の中へと潜り込んでいった。室外機から外へ出るつもりなのだろうか。どんなに部屋を閉め切っていても、奴らはエアコンの室外機と室内機を介して部屋に侵入してくる。どこから来ているのか分からない。もしかすると、家の外で生ゴミの在処を探っているのかもしれない。ありとあらゆる隙間から目を光らせているのかもしれない。
瞬間、脳内で一条の光が走った。
放棄すればいい。
俺の部屋を放棄すればいい。
俺の部屋を奴らに明け渡せばいい。
唯一、極端に略奪の被害が少ない部屋がある。
それが俺の部屋だ。
俺の部屋にあるのは、埃が雪のように積もった古いブラウン管テレビ。旧世紀の壊れたゲーム機。日に焼けすぎて表紙が黄色から白色へと変化した漫画本。大学時代から愛用している色褪せた染み塗れの衣類。カビによってコーティングされた万年床。どれもこれもガラクタばかりで、二束三文にもならない。つまり金目の物がないため略奪の優先順位が低いのだ。それでも最近では、俺が外出している間に、何やら物色された形跡がある。恐らく父の通帳と印鑑を探しているのだろう。眉間にシワを寄せながら、無言で押し入れを漁っている姿が目に浮かぶ。
現状では部屋に現金を保管することは不可能である。
妹が部屋に近づかないようにしなければならない。
そのためには、妹が心の底から嫌悪することをしなければならない。
妹はかなりの潔癖症だ。
妹の略奪行為が極端に少ない原因は、金目の物がないことと同時に、俺の部屋が異常に不潔だからだ。
俺の部屋は十年以上掃除をしていない。物が少ないため溜まった埃の多くは床を転がって、部屋の隅で巨大な塊を作り上げている。だが一人暮らしになってからは、部屋で食事をすることがなくなったため、生ゴミが出ることはなくなった。両親が健在の頃は、夜中に冷蔵庫の残飯を漁り、部屋に持ち帰って食べていたため、部屋には生ゴミが散乱していた。そのため窓を開けると、ハエの群れが飛び込み、夜中になるとゴキブリの足音がそこかしこから聞こえていた。現在は栄養となるものが何もないため、奴らの侵入が極端に少なくなった。もし全盛期のように奴らが活発化していれば、さすがの妹も俺の部屋に立ち入ることはできなかっただろう。
ならば、再び奴らを呼び戻す。
魔界で蠢く邪悪な奴らを、我が屋敷へと招き入れる。
俺は部屋に生ゴミをぶちまけることにした。
食べ残したコンビニ弁当とカップラーメンの容器、飲み残したジュースのペットボトルをあえて部屋中に散乱させた。真夏だったため生ゴミは半日程度で異臭を放ち始めた。ほどなくして奴らが戻ってきた。前回とは比べ物にならないほどの仲間を引き連れ、嬉々として戻ってきた。俺の部屋は数日で強烈な悪臭と害虫によって支配された。不潔に耐性のある俺すら、部屋に近づくことが恐ろしくなった。扉の向こうには魔界が広がっている。
とりあえず俺は様子を伺うことにした。
外出の際は、俺の部屋の扉に紙を挟んでおき、妹の出入りを確かめた。妹が魔界の扉を開け放った瞬間、紙が床に落ちる仕組みだ。無論、妹に気取られないため、紙は小さく切って、扉の最下部に設置した。
結果、一度だけ紙が床に落ちているのを確認したが、それ以降は紙が床に落ちていることはなかった。
さすがの強欲の獣も、潔癖の本能に抗うことはできなかったようだ。
俺の作戦は大成功を収めた。
俺は激臭に鼻を抑えながら部屋に駆け込み、ゴミを掻き分け、ハエを掃い、ゴキブリを蹴飛ばし、押し入れをこじ開けて、50万円の入ったカバンを投げ入れた。
これで現金の保管場所を確保することができた。
後はひたすらATMで預金を引き出すだけだ。
以降、俺は毎日ATMから最大限度額の50万円を引き出し続けた。
妹の動きに細心の注意を払いながら、現金を銀行からゴミ部屋へと移動させていった。この遺産持ち逃げ大作戦が妹にバレたら一巻の終わりである。これまでの努力が水の泡となってしまう。それどころかどんな報復に出てくるのか分からない。恐らく家族、親戚、友人、知人、他人を巻き込み、徹底的に俺を追い込んで、吊るし上げることだろう。獣に慈悲など存在しない。屠るつもりで襲い掛かってくるだろう。我ながら恐ろしい妹だ。
そんな恐怖に苛まれながらも、地道に預金を引き出し続けていると、何やら戦況が変わり始めていった。
略奪の頻度が大幅に減ったのだ。
ゴミ部屋作戦が想定外の効力を発揮したのである。
妹は三人目を妊娠していたため、不衛生極まりないゴミ部屋のある自宅に近づくことができなくなってしまったのだ。もはや無法地帯と化している俺の部屋には、未知の病原菌が蔓延していても不思議ではない。そしてゴミ部屋から放たれた未知の病原菌は家全体に広がっている可能性もある。病原菌は妊婦にとっては重大な問題だ。もし感染症にかかれば、母体への影響は計り知れない。我が子を護るためには、自宅に近づかないことが一番なのである。
ちなみに俺は体調の変化がないため、病原菌が発生している感覚はない。不衛生な環境下で十年も過ごしてきたことで、耐性が確立されているのかもしれない。
戦況はこちらへと傾きつつあったが、それでも警戒を怠らず慎重に預金を引き出し続けた。
そして三ヶ月と十日かけて父の口座からすべての預金を引き出した。
目の前に積まれた5000万円に、さぞ心が躍ると思ったが、そんな余裕はなかった。
作戦は次の段階へと移行した。
蒸発である。
いつ、どのタイミングで蒸発するのか。
俺が遺産を持って蒸発したことが分かれば、妹は血眼で俺を探すだろう。警察に捜索願を出すかもしれない。しかし事件性のない成人男性の捜索は警察も積極的に行わないだろう。社会的価値のない中高年ニートならばなおさらである。ならば探偵を雇うかもしれない。そうなると非常に厄介だ。それまでになるべく遠くに逃げて、身を隠さなければならない。妹が探偵を雇うための資金が底を尽きるまで、どこかに雲隠れしなければならない。
ここで最も重要となるのは、蒸発の発覚を遅らせることだ。妹が捜索を開始する前に完全に雲隠れすることができれば、そう簡単に見つけ出すことはできないだろう。そのためには蒸発のタイミングを慎重に決めなければならない。
俺は蒸発のタイミングを必死で考えた。
妹の意識が遺産から離れる瞬間を狙う。
それはいつか。
そう、出産日である。
妹の意識が遺産から離れるのは出産日しかない。出産が落ち着けば、一気に攻勢を仕掛けてくるに違いない。そうなれば、俺は成す術なく、すべてを奪われてしまうだろう。
俺は妹の出産日にタイミングを合わせて蒸発することに決めた。
このタイミングは神が与えてくれたものだ。
絶対に無下にはできない。
神に誓って蒸発を成功させる。
そんな矢先、父が他界した。
通夜、告別式と慌ただしい中、俺は久しぶりに妹と再会した。会話をすることはなかったが、仰々しく膨らんだ腹が出産日の近さを物語っていた。しかし、出産予定日は分からなかった。本人に直接聞いても無視されるのは分かっていたため、俺は妹と親戚の会話に注意を払った。すると、案の定、親戚らは妹を見るなり出産予定日を聞いてきた。妹は親戚らにわざとらしい笑顔を振りまきながら、出産予定日を答えた。
一ヶ月半後だった。
作戦は最終段階へと移行した。
最初に移動手段として中古自動車を購入した。商用車として使用されていたワンボックス型の軽自動車だ。各所に傷へこみがあり、塗装も剥げて、錆びている箇所がいくつもあった。
俺はあえて商用の中古車を選んだ。防犯のためのカモフラージュだ。
車に5000万円を積んで移動するため、当たり屋や車上荒らしには細心の注意が必要となる。値段の良い車ほど連中に狙われる可能性が高くなるため、個人商店が配達のためだけに所有していたオンボロ車を選んだのだ。犯罪者も、まさかこのオンボロ車に5000万円が積まれているとは思わないだろう。
しかし、エンジンやブレーキなど車内部については徹底的に整備を施した。これから長い旅となる。旅の途中で車が故障すれば大きな痛手となってしまう。また防犯設備も徹底的に行った。警報機、車載カメラ、タイヤロック、ハンドルロック、そしてすべての窓に防犯フィルムを張って鉄壁の護りを施した。
これらを総額すれば、新車を購入したほうが遥かに安価だったようで、整備業者も首を傾げるばかりだった。ちなみに駐車場は、妹に自動車の購入がバレないよう、自宅の駐車場ではなく、近くのコインパーキングを利用した。
次に現金を保管するため隠し金庫を購入した。
事務用のA4ファイルを模した隠し金庫だ。金庫にはちょうど500万円収納できるため、同じデザインのものを十冊購入した。商用車の車内に事務用ファイルが置かれていても何ら違和感はない。また、見た目は完全に事務用ファイルのため、表紙を開けない限り、金庫だとは分からない。仮に金庫だと分かっても、厳重に鍵がかかっているため、簡単に開けることはできない。そのまま持って行かれたらどうにもならないが、そもそもオンボロ商用車の車内にある事務用ファイルを盗もうとする馬鹿はいないだろう。それでも念のため、ファイルは後部座席の下に隠しておくつもりだ。
最後に自宅のゴミ屋敷にすることにした。
俺は生活圏をリビングに絞り、自分の部屋に溜め込んでいた生ゴミを各部屋に振り分け、強制的にゴミ部屋にした。更に購入したばかりの軽ワゴンで、夜中、不法投棄が頻発している現場に赴き、壊れた家具家電を大量に持って帰って、玄関や窓をそれらで塞いでいった。
バリケードである。
妹を足止めするためのバリケードを構築していった。
出入口を家具家電で何重にも封鎖していくことで自宅への侵入を手間取らせ、蒸発の発覚を遅らせることが目的だ。リフォームしたばかりの新築同然の自宅は瞬く間に要塞じみたゴミ屋敷へと変貌した。ちなみに、外出の際はキッチンの小窓から出入りしている。蒸発の際は、この小窓も外から家電で塞ぐつもりだ。
引きこもりのニートの自宅がゴミ屋敷化するのは珍しいことではない。特に両親がいなくなり、一人暮らしとなったことで、病的に生活がすさんでいき、自宅は徐々にゴミ屋敷と化していく。セルフネグレクトと呼ばれているそうだ。つまり俺の自宅がゴミ屋敷化することは、特に珍しいことではなく、よくある社会問題の一つに過ぎないのだ。
略奪行為を封じられた妹は、さぞ忌々しがっていることだろう。恐らく出産後、どのようにしてこのゴミ屋敷を陥落させるか、策を練っているはずだ。そして、陥落後、俺を拘束し、通帳と印鑑の在処を尋問する準備を進めているはずだ。
だが、もう遅い。
俺はそこにはいない。
十年間引きこもっていた兄が、遺産を持って蒸発するなど想像もしていないだろう。
臆病な兄が、そんな大胆な行動に打って出るなど想像もしていないだろう。
妹は俺を臆病な兄だと見下している。
仕事を転々とした揚げ句にニートとなった兄を臆病者だと冷罵している。
確かに俺は臆病者だ。
生まれながらの臆病者だ。
そんなことは分かっている。臆病は先天的な資質だから仕方のないことだ。
だが、この十年間に渡って苛んでいた臆病は後天的なものだ。
原因は怠惰にある。
怠惰は、過去を後悔させて未来を不安にする。
怠惰は、人生を足止めする。
人間は立ち止まると、途端に負の感情に襲われてしまう。
怠惰によって増幅された負の感情によって、人間は臆病になる。
後天的な臆病に苛まれる。
先天的な臆病に後天的な臆病が上塗りされ、恐怖へと塗り替わっていく。
怠惰は、得体の知れない恐怖を生み出すのだ。
そして、その恐怖に慄き、立ち竦み、歩みを進めることができなくなる。
だが、しかし、今の俺に怠惰はない。
怠惰から解放されれば、おのずと臆病も消え去る。
よって、今の俺は、ただの臆病者だ。
生まれながらの臆病者だ。
だがそこに恐怖はない。
だからもう歩き出している。
決して立ち止まることも戻ることもできない。
決戦の時は着実に近づいている。
俺は着実に準備を進めている。
人生を賭けた一世一代の大勝負。絶対に負けるわけにはいかない。
ただ一つ、俺の力ではどうにもできないことがあった。
妹の出産予定日と父の四十九日が近いということだった。四十九日の前はどうしても親戚と接する機会が増えるため、下手な動きを取ることができない。蒸発するならば、四十九日の後のほうが、親戚の目が離れるため都合が良い。だが、妹の出産日が四十九日の前になれば、親戚の目が集中している中で蒸発を決行しなければならない。俺が行方不明になったことに、親戚が気付けば、すぐさま妹の耳にも入るだろう。そして即座に捜索隊に派遣され、俺を取り巻く状況は、格段に厳しいものとなるだろう。
こればかりは運に頼るしかない。
持っていない運に頼るしかない。
俺は、毎日、神と仏に祈りを捧げた。
もう祈るしかなかった。
社会人になってからというもの、ことごとく運に見放され散々な目に合ってきた。俺に運がないことは分かっている。もうとっくの昔に諦めている。しかし今回ばかりは諦めるわけにはいかない。俺にとって一世一代の大勝負なのだ。ここで人生すべての運を使い果たすつもりだ。それだけの覚悟が俺にはある。残りの人生など運がなくとも生きていける。ただ生きるだけの人生に運は必要ない。夢も希望も抱くことのない人生に運など必要ないのだ。
ただ生きるだけ。それだけの人生。
だから頼む、勝利の女神よ、俺に微笑んでくれ。
そんな祈りが通じたのか、父の四十九日当日に妹が産気づいた。
勝った。
俺は心の底で高らかに拳を掲げた。
人生すべての運を賭けた勝負に勝利した。
もはや思い残すことはない。
あとは余力で人生を生きていくだけだ。
俺は父の納骨を済ませると、親戚一同に、至急、妹が搬送された病院へ向かう、と嘘を付き、我がゴミ屋敷へと戻った。俺は素早く着替えを済ませ、すでに準備していた荷物を手に取り、外に放置していた家電ゴミで入念に出入口を塞ぎ、オンボロ軽ワゴンに乗り込んだ。行き先は決めていない。とりあえず東に向かうと見せかけて、西に向かうとする。東には妹の友人や親戚が多数いる。捜索を開始するならば、東からだろう。よって縁もゆかりもない西へと向かうことにした。
俺はエンジンをかけると、軽快にハンドルを回した。後部座席の下に押し込まれている十冊の事務用ファイルが互いに擦れ合った。
これほど心が躍ったのはいつ以来だろうか。
少なくとも社会人になってからは一度もない。
常に心には暗い靄のようなものがかかっていた。
長年、心に纏わりついていた暗い靄は消え去り、明るい光が差し込んでいた。
いつ以来だろう。
俺は鼻歌を口ずさんでいた。
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