そうだ、蒸発しよう
みほあした
第一章 蒸発編
第1話 そうだ蒸発しよう
怠惰とは、どうにも厄介なものだ。
怠惰は、過去を後悔させて未来を不安にする。
怠惰は、人生を足止めする。
人間は立ち止まると、途端に負の感情に襲われてしまう。
常に前へと歩き続ければ、後悔に苛まれることも、不安に圧し潰されることもない。
だが、前に歩き続けるためには、運と狡猾さが必要となる。
運に守られた狡猾な人間。
怠惰はそれを嫌う。
残念ながら、俺には生まれ持った運の良さもなければ、他人を陥れるほどの狡猾さはない。
よって怠惰に好まれてしまった。
怠惰は時間をかけて肉体と精神を乖離させていく。怠惰に依存したい肉体と、怠惰から解放されたい精神に分かれ、それらはせめぎ合いを始める。怠惰に好まれた人間の多くは、このせめぎ合いに疲れ果て、病へと堕ちてしまう。
ちなみに俺は、かれこれ十年、このせめぎ合いの中にいる。
戦況は絶望的だった。
怠惰によって増幅された負の感情は、俺の肉体に重く伸し掛かり、動きを止め、精神への侵食を徐々に強めている。依存を望む肉体が、解放を望む精神を容赦なくへと引き摺り込もうとしている。
怠惰によって分かれていた肉体と精神が、怠惰によって元に戻されることは、怠惰による完全支配を意味している。
そして怠惰による完全支配により、人は病へと堕ちる。
そうなれば、人はもう二度と前へと歩き出せなくなる。
これが怠惰における真の恐怖である。
が、しかし、これらは所詮、内的要因に過ぎない。
病に堕ちて前へ進めなくなっても、恒久的に前へ進んでいくものがある。
時の流れだ。
どれほど怠惰が人生を足止めしても、時の流れは容赦なく前へと進んでいく。
時を川の流れとするならば、怠惰は川底に沈んでいる大岩だ。川の流れが一定であれば川底の大岩が動くようなことはない。しかしひとたび大雨が降れば、緩やかだった川の流れは激流へと変貌する。長年、川底に鎮座していた大岩であっても、激流に晒され続ければ、やがては流されてしまう。
時の流れは怠惰を押し流す力を持っている。
そこにどれほどの強い支配があっても、時の流れに逆らうことはできない。
これが外的要因だ。
肉体と精神による内的要因と、時の流れによる外的要因。
これらは互いに反発しあう存在であるが、力関係には圧倒的な差がある。どれほど肉体と精神が怠惰に支配されても、時の流れは容赦なく怠惰を押し流す力を持っている。
これは決して抗うことのできない力だ。
俺に伸し掛かっていた怠惰の大岩は、あっけなく時の激流に呑まれて流されていった。
結果、怠惰から解放された。
俺の肉体と精神とは関係なく。
怠惰から解放されることは、再び人生を歩き出すことを意味している。
俺の肉体と精神とは関係なく。
正直、まったく気分は乗らない。
だが、歩くしかない。
怠惰を失った俺に、歩く以外の選択肢はない。
止まれば苦しい。でも歩けば辛い。それが人生だと覚り諦めるしかない。
逃げ場などないのだ。
あるのは諦めだけだ。
諦めて歩くだけ。
しばらく歩いていけば、また怠惰と再会するかもしれない。
その頃には怠惰を渇望しているかもしれない。
そしてまた、怠惰を受け入れてしまうかもしれない。
人間は弱い生き物だから仕方ない。
まっ、それはその時に考えることにしよう。
※ ※ ※
「アンタのニート期間中の生活費の援助って、特別受益に当たるんじゃないの?」
妹のその一言から雲行きは怪しくなった。
俺は十年ほどニートをしている。
大学卒業後、建設会社で二年勤めて退社。次にスーパーマーケットで二年勤めて退社。その後アパレルショップで一年勤めて退社。最後に会計事務所を三ヶ月勤めて退社。その後は定職に就くことなくニートをしていた。両親は定年後も嘱託社員として会社勤めしていたため、俺は自宅警備員としての業務に従事する傍ら、簡単な家事手伝いに勤しんでいた。
確かに生活費を両親に工面してもらっていたことは認めるが、完全なる穀潰しとは思っていない。特に自宅警備に関しては一定の効果をもたらしている。以前は訪問販売や宗教の勧誘が頻繁に訪ねて来たが、俺が断り続けた結果、誰も来なくなった。昨今、中高年ニートによる犯罪が多発しているせいか、俺が玄関を開けると、決まって相手が顔を引きつらせた。犯罪者と鉢合わせたかのような反応だ。失礼な話である。まあ、髪伸び放題、髭生え放題の土気色の中年男が突然出てきたら警戒するのも分からないでもない。だが、勝手に犯罪予備軍に当て嵌められるのは心外である。
これは由々しき問題だ。
実際、中高年ニートが近所を散歩していると、付近一帯に不審者情報が流れることがある。恐ろしい話だ。外を出歩くだけで、あらぬ疑いをかけられてしまうのだ。こういった偏見が、中高年ニートを引きこもらせる原因の一つになっているかもしれない。世間の目は想像以上に厳しいのだ。
そんなこんなで、引きこもりのやばいオッサンがいる家と認識されれば、おのずと訪問販売も宗教の勧誘も来なくなる。また空き巣被害が近所で多発していたが、特に被害を受けることはなかった。なぜなら俺が家にいるからだ。ついでにオレオレ詐欺の電話も頻繁に掛かってきたが、特に被害を受けることはなかった。なぜなら俺は家にいるからだ。
とにかく俺は、ニートだが、ニートなりに家に貢献しているつもりだった。
しかし妹に、そんな貢献度など伝わるわけがない。
どう転がっても、妹から見れば単なる穀潰しだ。
穀潰しにくれてやる遺産はない、そう妹は言いたいのだ。
昨年、母親が脳梗塞を発症して急死した。それからまもなく父親に末期ガンが見つかり、余命半年と宣告された。
十年間停滞していた俺の人生が急に慌ただしくなった。
入退院を繰り返す父親の介護をする傍ら、家事全般をしなければならなくなった。それらは重い負担となったが、半年という期限付きだったため割り切ることにした。
父の余命宣告から三ヶ月が経過した頃、父の容態が悪化し市内の大学病院に入院することになった。それからまもなく、妹から父の遺産分配についての電話があった。
「アンタのニート期間中の生活費の援助って、特別受益に当たるんじゃないの?」
特別受益制度とは、遺産相続の際に、両親から受け取った額を生前贈与として計算して相続財産に加える制度のことだ。簡単に言えば俺がニートしていた十年間の生活費が生前贈与になるのではないかと言いたいらしい。強欲な妹の考えそうなことだ。
妹は短大を卒業後、保育士となり地元の保育園に勤めていた。その後、合コンで知り合った不動産業を営む男と知り合い、結婚した。現在は専業主婦で二人の子育てに勤しんでいる。ちなみに腹の中には三人目がいる。
恐らく特別受益の入れ知恵は旦那によるものだろう。
私には家族がいるからお金が必要。私には未来があるからお金が必要。だから遺産が多く必要。お前のような家族も未来もない穀潰しに、遺産を受け取る権利はない。そう言いたいのだろう。酷い話だ。中高年ニートには基本的人権の尊重すら認められないのだろうか。
まあ、妹に道徳や倫理を説いても無駄なことは分かっている。
妹はとにかく強欲だ。
母の死の直後、混乱に乗じて母の衣類や宝石類を勝手に質屋に売り、現金を懐に入れたほどだ。また父が病に伏してからは、自宅に旦那や子供を引き連れて家族総出で家具家電を次々に持ち帰り、リサイクルショップやフリーマーケットで現金に換金している。略奪と強奪は彼女のアイデンティティなのだ。もはや盗賊である。これら蛮行に対して少しでも注意すれば、烈火の如く怒り狂うため始末に負えない。
それにしても、妹の強欲さには辟易してしまう。
同じ兄妹とは思えない。
俺への財産分与を減らして、自分の分を増やそうとしていることも充分に納得できる。
だが、俺としても黙っているわけにはいかない。
父が他界すれば、父の年金はなくなる。そうなると遺産が俺の生活の糧となる。遺産なければ、俺は飢え死にしてしまう。まあ、働けばいいのだが、今はその時じゃない気がする。ニート特有の理由である。
とにかく俺にとっても遺産は必要なのだ。
俺はニート期間中の生活費の援助が特別受益に当たるのかどうかを必死で調べた。結果、どうやら親から子供に対する生活費の援助は、扶養の範囲内と考えられるため、特別受益に当たらないとのことだった。
俺がそのことを妹に伝えたところ、安堵する間もなく、妹が次の手を打ってきた。
「アンタは父さんから自宅を生前贈与されているから、やっぱり特別受益に当たるわよ」
実は、兄妹で中が悪いことを知っていた父が、死後に遺産で揉めないように、俺に自宅を生前贈与していたのだ。調べてみると自宅の生前贈与は特別受益に当てはまるようだ。父が兄妹の争いを避けるべく行ったことが、皮肉にも更なる争いを生む結果となったのだ。後日、妹の旦那が不動産鑑定士を呼んで、自宅の評価額を算定すると言い出した。築四十年の木造住宅だが、両親が現役中に優雅な老後を送るため、大規模なリフォームを行っており、それなりの評価額になるだろう。そして、その評価額分の遺産が差し引かれてしまうのだ。
さて、困ったものだ。
家はあるが金はない。雨風凌げても金がなければ生きてはいけない。
世の中は金だ。
さて、どうするべきか。
俺は父の介護を行うにあたり、父から通帳を預かっていた。その通帳から父の医療費と父と俺の生活費を捻出していたため、預金額はすべて把握している。
つまりこの預金額が遺産となるのだ。
遺産は約5000万。
この金額は妹も知らない。
通帳の記帳内容を見たところ、両親の退職金を合わせて2000万。母親の死亡保険が1000万。祖父母から受け継いだ遺産が2000万。合わせて5000万。両親が個人的に貯蓄していた金額はすべてリフォーム代に費やしていたようだ。
単純に妹と分配して2500万を相続することができるが、そこから自宅の評価額分を差し引かれてしまえば、ほとんど手元には残らないだろう。ただ、自宅があれば、俺の肩書は、住所不定無職ではなく、単なる無職となるため、社会的信用度は最低限維持される。
だが、世の中は金だ。
日々の生活で絶対に必要となるのは金だ。社会的信用度も生活していく上で必要かもしれないが、目の前の飢えを凌ぐにはどうしても金が必要なのだ。
それにしても、妹の強欲さには辟易してしまう。
同じ兄妹とは思えない。
父が入院して以降、妹の略奪行為は激化している。家具家電、調理器具、食器、布団、絨毯など値が付きそうなものはすべて回収していった。おかげで自宅は借金取りが押し掛けた後のようにガラクタだけとなった。ちなみに俺の私物はすべてガラクタなので手つかずのまま残っている。
しかし強欲さもここまできたら天晴である。
お前のモノは俺のモノ。俺のモノは俺のモノ。
この精神を徹底的に貫き通している。揺らぐことのない信念として。
これは果たして人間と言えるのだろうか。
妹は強欲の赴くまま行動している。強欲の赴くまま人生設計をし、強欲の赴くまま人生を突き進む。手段を択ばず突き進む。他者を蹂躙しながら突き進む。そのことに一切の躊躇いはない。
妹は完全に強欲に取り憑かれていた。
無表情で母の宝石を漁っている姿は、完全に獣だった。
強欲の獣。
どんな育て方をすればこんな獣に育つのか。まったく親の顔が見てみたいものである。
まあ、両親の私物が売られようが、家の調度品が売られようが、正直、俺は痛くも痒くもない。衣類と布団さえあれば充分に生活できる。ちなみに衣類も布団も二十年以上使用している。色褪せた染みだらけの衣類と、湿ったカビだらけの布団だ。値など付くはずがない。売ったらクレームものだ。そんなゴミ同然の物でも充分に満足している。長年ニートを続ければ、物欲に諦めが生じる。そして諦め続ければ、やがて物欲はなくなる。
今の俺に物欲は微塵もない。
が、物欲はなくなっても、食欲はなくならない。
さて、困ったものだ。
人生を諦めても、食欲はなくらない。生きるために必要な欲は決してなくならない。死ぬ直前まで付きまとう欲だ。逃れる術はない。
俺が生きるためには、どうしても父の遺産が必要となる。まあ、働けばいいのだが、今はその時じゃない気がする。ニート特有の理由である。
さて、どうすべきか。
どうすれば遺産を手にすることができるだろうか。
あの強欲な獣から遺産を分けてもらうにはどうすればいいのか。
ふと、違和感を覚えた。
妹の高圧的な物言いによって錯覚していたが、そもそも彼女は遺産を手にしていない。それどころか彼女は遺産の金額さえも把握していない。父の通帳と印鑑は俺が肌身離さず持っているため、妹の略奪行為からは免れている。もしや父が入院してから頻繁に略奪に訪れているのは父の通帳と印鑑が目的なのかもしれない。それらが一向に見つからない腹いせに、略奪行為を激化させているのかもしれない。
俺は肌が泡立つのが分かった。
妹は俺が父の通帳と印鑑を持っていることに気づいているかもしれない。介護が必要となった父が自らで預金を引き出すのは不可能であり、介護をしている俺が預金を引き出して医療費や生活費を捻出していることは容易に予想が付く。
しかし妹は、父の預金について触れてくることはなかった。
それはあまりにも不気味に思えた。
俺を遺産で揺さぶっているにも関わらず、肝心の遺産の在処は訊いてこない。
それはまるで草陰から息を潜めて獲物を狙う獣のように思えた。
父が生きている間は、できるだけ兄妹間で波風を立てないようにしているのかもしれない。兄妹で揉めれば土壇場で遺言書が書き換えられる可能性があるからだ。しかし自宅のどこを探しても遺言書らしきものは見つかっていない。父の手元にあるのだろうか。そもそも書いていないのかもしれない。その辺りはよく分からない。どちらにしても生前で兄妹が遺産で揉めれば相応の対処を取るに違いない。妹としても慎重に行動するしかなくなる。
しかし、ある程度の揺さぶりは必要だ。事前に揺さぶることで、俺を精神的に追い詰め、諦めさせる魂胆だろう。
恐らく特別受益の件は、俺に遺産を諦めさせる口実の一つだ。そもそも初めから遺産はすべて強奪するつもりなのだろう。一円たりとも分けるつもりはないのだろう。もし俺が揺さぶりに屈することなく拒み続ければ、間違いなく強硬手段に出るだろう。旦那側の家族や親戚を巻き込み、総出で追い込みをかけてくるはずだ。もし弁護士を立てて、法的な追い込みをかけてくれば、独身、無職、貯金ゼロの中高年ニートに勝ち目はない。
父が他界すれば、獣は容赦なく獲物を屠りに来る。
どんな手段を使っても、通帳と印鑑を奪いに来るだろう。
獣の牙はすでに喉元に突き立てられていた。
ここにきてようやく自分が詰んでいることに気付いた。
さて、困ったものだ。
さて、どうするべきか。
どうすれば遺産を手にすることができるだろうか。
現時点では遺産は俺の手の中にある。父が生きている間は自由に使用することができる。しかし無駄遣いはできない。この遺産はやがて貴重な俺の生活費になるからだ。贅沢しなければまだまだニートを継続することができる。
そう、ニートを継続するためには、手段を択ばずに突き進むしかない。
妹が強欲の獣ならば、俺は怠惰の獣だ。互いの本能に抗うことはできない。
絶対に負けらない戦いがそこにはあるのだ。
血で血を洗うゼロサムゲームの始まりだ。
それにしても随分と慌ただしくなったものだ。
十年間停滞していた人生が大きく動き始めている。
時の流れが、俺に伸し掛かっていた怠惰を押し流し、俺は巨大な流れに巻き込まれた。流れに逆らったところで押し戻されるのが関の山だ。ならば流れに身を委ねて歩みを進むしかない。そして幾度となく訪れる分岐点を見極め、より良い流れの方へと進むしかない。
そう、ここはまさに、人生の分岐点である。
そして、眼前には、最初の分岐点が迫っている。
さて、どちらに進むべきか。
俺は考えた。
必死で考えた。
考えて、考えて、考え抜いた結果、向かうべき方向が定まった。
そうだ、蒸発しよう。
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