終曲5
カフカの「父の気がかり」という作品を読んだ。ほんの3ページの短い作品。結局カフカはこれしか読めなかった。
読んだあと僕はふとミサねえさんの書いた小説を思い出した。そうあの同人誌に載っていた小説。男の前に女の幽霊が現れる。現れる時間も場所もまちまち。気まぐれな幽霊だ。男はその女の幽霊を「奥さん」と呼んでいる。男に妻がいたかどうかの記述は一切ない。結婚しているのか独身なのかもわからない。男の一番の関心事は自分がこの世からいなくなった後、幽霊はどうなってしまうのかということ。
僕はカフカを読んだあと、気が乗らずにほとんど小説がかけなかった。三つの話を同時進行で書いている。ストーリーもほとんど固まっていたのに、いざ机に向かうと何も書けない。しかたがないので絵を描くことにした。絵の具が足りないようなので、僕は馴染みの画材屋に向かう。
「今日は奥さんじゃないんだ」
画材屋のおやじは僕にそう言った。奥の方には見なれない若い女性。
「お客さん?」僕がおやじにきいた。
「娘だよ。美大に行ってるんだ」
「かわいい子だね」
「そうかい」
「油絵やってるの」
「それならいいんだけどね」
絵の具を買って外に出ると、画材屋の娘さんが後をついてきて僕に声をかけた。
「あの、あたしモデルやりましょうか」
モデルって、僕は静物か風景しか描いたことがない。
「奥さんが言ってたんです。モデルをやってほしいって」
そもそも「奥さん」ってところから違っているのだけれど。
「あたしの専門は美術史で、一度ヨーロッパを回ってみたいんです」
どうやらミサねえさんはかなりの高額を彼女に提示したらしい。
「バイトもやってるんですけれど、まだ足りなくて」
「裸も大丈夫です」
娘さんは少し顔を赤くしながら僕に言う。
「わかりました。僕は事情がよくわからないので家に帰って話してみます」
僕がそう言うと娘さんは大きく頭を下げた。その時、僕はもう断れないと思った。そして実際、僕は初めて女性の裸を描くことになってしまう。
「少し興奮なさいましたか」
甘い香りのなかでミサねえさんは僕にきいた。このことをあのおやじに知られたらどうなるのだろう。リラックスできるからと部屋の中をアロマで満たすと、モデルの女の子はリラックスというより、夢の中にいるようなぼんやりとした表情で体をソファーに預けていた。僕がいくつかのポーズをデッサンした後、ミサねえさんは女の子をバスルームに連れていった。
「すっきりしたでしょう」
ミサねえさんが女の子に声をかける。
この日は初めてということなので、ミサねえさんも仕事を休んで家にいた。僕の描いたデッサンを見て、女の子は恥ずかしそうに顔を赤らめている。
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