前奏曲8

「お庭をきれいにしてくれてありがとうございます」

 ミサねえさんが気だるそうな目をして僕に言う。

「このままでいいんですかね」

「この前も言いましたけど、あわてなくていいんですよ」

「でも、本当にやりたいことっていってもよくわからないんですよ、自分にも」

「そのうちきっと見つかります」ミサねえさんは濃い目のコーヒーを口に含む。濃い目のコーヒーはミサねえさんのリクエスト。トーストの焼けたにおい。ミサねえさんはトーストにバターとブルーベリージャムを塗っている。

「いい天気ですね。気持ちのいい朝です」

 ミサねえさんはこの生活を満喫してるように思えた。僕はオレンジジュースを飲みながらレタスをかじっている。ミサねえさんは午後からの仕事なので朝はいつもゆったりとしている。

「おねえさんはないんですか、やりたいこと」

「やってますよ。今こうして」

 ミサねえさんたちの母親は早くに亡くなったせいか、ミサねえさんが母親の代わりにお父さんやあいつの面倒を見てきた。朝早く起きて朝食や弁当を作り家事をこなした。お嫁に行っても老舗菓子屋の嫁。きつかったんだろうな。そのころにくらべれば今の生活は本当に望んでいたものなのかもしれない。僕は朝早く起きて庭の仕事をして朝食を作る。洗濯と掃除は朝食後ミサねえさんがやってくれる。僕は残りの庭仕事をした後、ミサねえさんが作ってくれた昼食を食べる。

 それからはテレビを見たり本を読んだり音楽を聴いたり。決して怠惰に暮らしているわけではない。夕方には買い物に行き夕食を作る。

 ほとんどミサねえさんのメモどおりに買い物をするんだけれど、ミサねえさん勤めているスーパーだけに卒がない。安くて良いものもちゃんとわかっているし。理想的ともいえる生活なのかな。でも何となくスッキリと晴れないまま、何かが引っかかっている。そして、その何かもだいたいはわかっている。あいつはミサねえさんのやってきたことを理解していない。いつも現実的なことばかり言う。あいつもあいつなりにコンプレックスを持っているのだろうか。

「小説はお好きなんですか」僕の読んでいた本を取り上げてミサねえさんが言う。

「ええ、まあ。時間ができたので読み返してみようかと」

「ソルジェニーツィン」

「イアン・デニーソヴィチとガン病棟は好きです。あとは政治的な匂いがしてあまり」

「文学的ではないってこと」

「どうなんでしょう。他の作品は途中で読むのをやめちゃったから」

「そうなんですか」

「ドストエフスキーも好きですか」

「好きですね」

「ショスタコーヴィッチは」

「何曲か聴いただけですけど、わりと好きです」

「レコードがありますよ。おじいちゃんが好きだったの、クラシック」

「そうなんですか」

「でも使えるかしら、あのステレオ」

「明日みてみます」

 ミサねえさんが僕を見て微笑んだ。ミサねえさんは自分の使った食器を持って立ち上がる。

「流しに入れておいてください。後で僕が洗います」

 僕がそう言うとミサねえさんは流しに食器を置いて風呂場のほうに歩いていく。

「おねえさん。今日はカレーでいいですか」

「いいですよ。後でメモ書いておきます」

 僕は残っていた野菜と目玉焼きをトーストにのせて二つに折った。

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