プロローグ 病室は不幸に満ちている。

病室は、いつも不幸に満ちている。


僕の見舞いに来てくれる人の殆どは、「なぜ君のようないい人が、」と涙を流し、ハンカチで目元を拭く。

初めの方こそ僕も、同じ様に涙を流していた。

けれど、今は虚しいとしか思わなくなった。

今のような人の様子を何度も見ると、次第に僕の回復を願うお見舞いではなく、僕が死んでも悲哀に暮れないために心の準備をする為の、生前葬をしに来ているとしか見えなくなっていった。捻くれた考え方なのは、分かっている。けれど、余命を宣告され、先もそれほど長くないのに、病室をそのような不幸で満たされるのは、心底嫌だった。それに、『自分が死ぬことは覆ることのない事実である。』そんな飲み込みたくない事実を、無理やり相手が流す涙で、飲まされようとしている。そんな感覚だけが、喉元に溜まり息が詰まってしまう。さらに、それを誰にも打ち明けられないのは、とても辛く、苦しいものだった。

 そして、いつものように、僕に手を合わせにくる人達は、僕がどれだけ不幸で不運な事でだからこそ幸せにならなければならないと、理想の僕に向かって嘆き始めるのだ。それは、僕にとっては一見どれも優しいように見えるが、実際は細かい棘だらけで、その先端には僕だけに効いてしまう毒が塗ってあるのだ。だから、その言葉を聞いているだけで、元々短い寿命が更に縮まるそんな気がした。そんな自らの繊細さに辟易していた。それに、ただでさえ余命で残り少ない命なのにそんなことを聞いてたら明日にでも死んでしまうよ。そんな老人が言うような笑えない冗談を言って、幾許かの傷を相手につけてやりたいとは思うが、それが出来るほど僕は、精神が図太くもなかった。

 だから僕は、話から耳を逸らし、ただこの苦痛な時間が過ぎるのを待っていた。どうせ、僕が聞いていなくとも、勝手に喋り、勝手に同情する。そこに僕と言う概念が有れば、相手は、それで満足する。そうだとすれば、死体と僕そこに何の違いがあるのか。その明確な答えが欲しくてしょうがなかった。それは、昔も同じだったはずだ。なのに、なんでこんなにも苦しいんだろうか。僕は、2年前に余命宣告をされた。

初めは、嘘だと思った。嘘だと言える証拠は、幾つもあった。けれど、それらは全て医者が事細かに否定していった。否定された僕は、体が冷えていき、それに伴い細部の感覚はなくなり、喉が締まって、息が詰まる苦しさを経験した。ただ、治療を受ければ助かる可能性もある。医者は、資料を僕に見せた。僕は、少しだけ安堵した。

 それから、僕の入院生活が始まった。

初めの方は、楽しかった。来る人来る人が退院したら何をしようかと、希望を伝えてくれて何よりいつもは食べられない、少し高いお菓子を食べられるから、とても幸せな気分に満たされた。親は、いつの間にか二人とも蒸発していなくなったが、どうでも良くなっていた。けれど僕は、僕を苦しめる奇病を患っていた。

 それは、嬉しい事を忘れる病

嬉忘症(きぼうしょう)名前は、僕が便宜上勝手に名付けたものだ。医者からは、精神病の一種かもしれないとカウセリングを勧められ、

治るのだったらと受けたが、物凄く嫌な感じだった。その結果薬を飲むかどうか尋ねられたが、僕は、断った。薬を飲むことによって、精神すらも病に侵されているとは、認めたくなかったからだ。それがスピリチュアルな事なのは分かっていたが、どうしても飲む気にはなれなかった。

 そして半年が過ぎた。半年間過ごしていて分かったことは、この奇病を発病する前の記憶は消えないこと。その時に嬉しいと思った記憶は、次の日には消えていること。その二つだけだった。「疲れているところすまないね。元気を出してくれ。きっと良くなる。」その人は、僕の肩を叩いて、悲しそうに、けれど少し晴々とした表情をして、病室から去っていった。何でかと思ったが、そういえば相槌を打つのを忘れていた。すまない事をしたなと思い、ため息を吐いたが、次の瞬間にはまぁ良いやなんて考えていた。それから、一時間くらい過ぎた頃いつもの嫌な時間が訪れた。「辛い、僕だけ」そんな類の文字が空中に浮いて、ずっと僕の視界を遮り、自己嫌悪が繰り返される最悪な時間だ。そんなところに勢いよくドアを開け、自動で閉まる事をいつも忘れ、勢いよくドアを閉め、ドアが悲鳴を上げる。そんな大雑把な性格の持ち主が今日も僕の唯一の安らぎの時間をぶら下げてやって来た。染谷さんとの時間だ。この時間だけは、僕が僕でいられるそんな気がした。

 

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嬉亡症 @mohoumono

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