第20話 帰郷
風魔谷を後にした五人は、一路、紀州の風の里へと疾風の如く駆けた。
百三十里の道を、寝る間も惜しんで駆け通した彼らは、三日目の夜に、驚異の速さで風の里を見下ろす山の頂に立っていた。
神一郎とライカが、一年半ぶりに見た風の里は変貌していた。焼失した稲妻家、水上家、土鬼家には、俄か造りの家が建てられており、風家、火王家も含めた五家の庭では幾つもの篝火が焚かれ、厳重な警戒態勢がとられていた。二人は、はやる気持ちを押さえながら、赤く揺れる篝火を見ていた。
「街道や谷の要所にも見張りが立っているようです。あれでは、地上から忍び込むのは難しいですね……」
神一郎が、何か良い潜入方法はないかと思案しながら呟いた。
「ライカ様と神一郎の力で一気にねじ伏せては?」
そう言ったのは、日頃冷静な氷馬だった。
「それでは、多くの死人が出る事になる。今は敵とはいえ彼らは同胞だ。むやみに殺すことなど出来ぬ!」
きりっとした表情で言い切るライカに、神一郎も頷いた。
「となると俺の出番だな。地中を潜って屋敷の床下に出れば、敵に気付かれずに人質の居場所を探索できると思います!」
勢い込んで、大刃が神龍斎に進言した。
「うむ、では大刃に行ってもらおう。だが、危ないと思ったら直ぐに戻って来るんだ。決して無理をしてはならぬ。良いな!」
神龍斎が、猪突猛進の大刃の性格を心配して釘を刺した。
彼らは麓近くの古びた水車小屋まで下りて、そこを根城とした。里からも離れ、今は使われていないその小屋は、人が寄りつく心配はなかった。
人質探索の任を受けた大刃は、水車小屋を出ると火王家の裏山まで山伝いに駆けて行き、そこから地中に潜って火王家の床下に顔を出した。幸い、床下に敵の忍びは居なかったが、館の周りには多くの武士が警戒に当たっていた。
彼は、床下と天井裏を半時余り動き回って情報を集め、無事、水車小屋に戻った。
「大刃、何か掴めたか?」
「神龍斎様、火王家の者の話を盗み聞いたところ、人質は、全員龍牙洞に捕らわれて居るようです」
「龍牙洞か……。それで、火王家の様子は?」
「館の内外には、戦支度をした五十名ほどの兵がいました。里全体では百人を越す信長の兵が潜んでいると思われます。炎龍斎が居るかどうかは分かりませんでしたが、真麟はまだ戻っていないようです」
「あれから一月は経っているのに、真麟が戻っていないのはおかしいな……」
真麟の事が気になっていたライカが、口を挟んだ。
「真麟の件は、炎龍斎との決着がついてからで良かろう。まずは、龍牙洞へ出向いて、人質の安否を確かめるが先じゃ」
神龍斎は、そう言って腰を上げた。
龍牙洞というのは、東の山の麓にある天然の洞窟である。そう広くない穴を、入り口から下方に四十丈【約百二十メートル】ほど下りてゆくと、“龍の巣”と言われる、かなり広い空洞に出る。この空洞には、天井から無数の牙のような鍾乳石が垂れさがっていて、龍が口を開けたように見える事からその名がある。幼き頃、神一郎達が修行と称して皆で遊んだ場所でもあった。
空は厚い雲に覆われて、月は見えない。神龍斎達は暗い山道を音もなく駆けて、龍牙洞の入り口が見える所までやって来たが、辺りに人の気配は無く、しんと静まり返っていた。
「洞窟の中に人質が居るのなら見張りがいるはずだ。本当に、此処に母上たちが捕えられているのか?」
氷馬が小声で言って、大刃の肩を小突いた。
「確かにそう聞いたんだが……」
大刃が、そんなはずは無いと暗闇に目を凝らしたその時、厚い雲に覆われていた月が忽然と現れて辺りを明るく照らし出した。
龍牙洞の入り口は高さが三丈、横幅が五丈と、かなり大きい。ぽっかり空いた入り口の岩の上部から、何かが吊り下げられているのが彼らの目に止まった。
それは、縄で縛られ逆さ吊りにされた、七人の人質達だったのだ。
「父上! 母上!」
大刃と氷馬が、神龍斎の制止も聞かずに、叫びながら飛び出していった。
「止むを得ん、行くぞ!」
神龍斎がライカと神一郎を振り返ると、彼らの身体は既に宙に浮いていた。
神一郎達は、逆さ吊りになっている彼らを次々と下ろし、縄を解いた。
「逃げろ、罠じゃ!」
猿ぐつわを外された白龍斎が叫んだ途端、火王家の一団が空から来襲して、一斉に火炎放射を放った。
「洞窟の中へ逃げ込め!」
神龍斎が叫んで、彼らが洞窟の奥へ身を翻すと、洞窟の入り口は炎の海となっていた。
火王家の火炎攻撃が執拗に続く中、神一郎達は龍の巣へと追い込まれて行った。彼らは、そこで腰を下ろし一息ついた。
神龍斎が、懐から取り出した蝋燭(ろうそく)に火を灯し岩の上に置くと、人質となった七人の憔悴した顔が浮かび上がった。彼らは衰弱していて、戦う体力のある者は誰も居なかった。
「あなた、生きていらしたのですね!」
驚きの顔で神龍斎を見ていた春風が、彼の傍に寄り添った。
「故あって身を隠していたのだ。心配かけてすまなかった」
神龍斎が春風を優しく抱きしめた。
「神一郎も良く帰って来てくれました」
春風が神一郎の手を取ると、ライカ、大刃、氷馬も、それぞれの両親と抱き合って再会を喜んだ。
その時、火王炎龍斎の声が洞窟内に響いて、彼らは我に返った。
「ライカ、神一郎、どうやら奥義を会得して帰ったようだが、信長様の邪魔をさせるわけにはいかんのだ。可哀想だが、お前達には此処で死んでもらうぞ!」
風に乗せた炎龍斎の声が消えたかと思うと、ドドドド-ッという凄まじい音と共に、大量の水が龍の巣に流れ込んで来た。
「今度は水攻めか!」
神龍斎が叫ぶと、氷馬が得意の水の技で押し返そうとしたが、何故か押し返せなかった。外では、人質を取られ、止む無く火王の言いなりになっている水神家の一党が、水の技を仕掛けていたのだ。彼らは五人、氷馬一人では勝てる筈も無かった。
暫くすると、水嵩は増して胸元迄浸かって来た。
「ライカ様、何か策はありますか?」
神龍斎の落ち着いた声が暗闇に響いた。
「叔父様、私と神一郎は水を自在に操れるのです。お任せください!」
ライカの弾んだ声が答える。
「ライカ様、水の技は、風を起こせない水中では使えませんが……」
水の技の達人である氷馬が、怪訝な顔で言った。
「心配いりません、見ていなさい!」
ライカが、胸元で印を結んで念じた刹那、水がズズッと左右に分かれて空間が広がった。
やがて洞内は水没したが、ライカが作り出した空間のお陰で、彼らは水没を免れていた。
「なぜこんな事が!?」
氷馬が、目を見張った。
「水を直接操っているのじゃな」
「流石お父様、その通りです。ただ、空気は長く持ちませんから、脱出の方法を考えなければなりません。神一郎、外の様子を」
神一郎の指が水に触れた瞬間、外の様子が水の壁に映し出された。そこには、篝火が幾つも焚かれ、炎龍斎を筆頭に火王家の者達が、手ぐすね引いて待っているのが見えた。だが、そのお陰で水の中の空間にも微かな明かりが差した。
「神一郎、いったい何をしたのだ?」
大刃が、キツネにつままれたような顔で神一郎を見た。
「風と同じだ。したい事を伝えれば応えてくれる」
「……」
「お前達は、新しい技を身に付けたようじゃな」
「神龍斎の叔父様に、心の世界を教えて頂いて身に付けた力です。火や土の技も同じように使えます。彼らを蹴散らすのは容易い事ですが、仲間は殺したくありませんから控えておりました」
「うむ、それでこそ稲妻家の跡取りじゃ。たった一年余りで、よくぞそこまで成長してくれた。夢のようじゃ……」
白龍斎は目頭を押さえて、ほろりと涙を流した。流石の白龍斎も、長い人質生活で気弱になったのかと、ライカが傍に寄り添った。
「ライカ、お前には謝らねばならぬことがある!」
白龍斎が居住いを正して、思い切るように言った。
「お父様、何でしょう?」
「実はな……、お前と雪を襲わせたのはこの儂なのじゃ。許してくれい!」
一同が耳を疑い、ひれ伏す白龍斎に視線を向けた。一瞬、ライカが操っていた水の壁がざわついたが、直ぐに静けさを取り戻した。
「お父様、手を上げて下さい。死んだはずの神龍斎様が現れた時、私の身の上に起きた事も、もしやと思っておりました。今は、全て風の里の為であり、宗家の娘としての試練と捉えています。お父様を恨んではいません」
ライカの声は冷静で、父を見つめる目は澄み切っていた。
「ライカ、すまぬ……。この上は外へ出て、炎龍斎と決着を付けるまでじゃ!」
白龍斎が、必死で弱った体を起こそうとする。
「何を言っているのですお父様! そんな身体で戦えるはずもありません」
ライカがそれを制止する。
「いざと言う時の為に最後の力は温存してある。心配は要らぬ!」
白龍斎の落ち込んだ目が、鋭く光る。
「お父様には、信長との闘いの指揮を取ってもらわねばなりません。死んで貰っては困ります!」
「……」
白龍斎は、ライカが奥義を習得して帰って来たら、火王炎龍斎と刺し違えて死ぬつもりだったのだ。だが、その心をライカに見透かされてしまった事に気付いた白龍斎は、力無く座り込んだ。
「あまり時間がありません、此処は私達にお任せください。神一郎、この水を一気に押し返すぞ! 氷馬、大刃、外の敵を蹴散らせ! だが殺してはならん、良いな!」
「承知!!」
ライカと神一郎が印を結んで念じると、水は入り口の方へ逆流し始めた。そして、龍の巣から細い洞窟内へと水が戻った時点で、
「行けーッ!」
神一郎が強烈な風破を水の壁に向かって放った。
洞窟の外では、急に水が逆流して来たのに驚いた炎龍斎が、水神の一党に命じて水を押し戻そうとしていた。だが次の瞬間、風破の圧力に押された大量の水が巨大な水鉄砲のように噴き出して、水神家や火王の家来達を吹き飛ばした。
全ての篝火が流されて辺りは真っ暗闇になった。火王家の家来達が立ち上がり、右往左往している所へ、洞窟から躍り出たライカ、神一郎、氷馬、大刃の四人が、彼らに襲い掛かった。
すると、人質を取られて無理矢理従っていた、稲妻家、水神家、風家、土鬼家の家来たちも、自分達の跡継ぎが無傷で現れた事に歓喜し、一斉に火王家の者達に反撃を開始したのだ。
ほどなく、火王家の家来達は全員捕まって龍牙洞での戦いの決着はついた。
「炎龍斎は逃げたようだ。このまま、各家に行って、残った仲間を開放するぞ!」
神龍斎を先頭に、四家の者達は自分たちの館を目指し突き進み、半時ほどで信長の兵士達を追い払った。勢いに乗った彼らは、そのまま火王家に雪崩込んだ。
「貴様ら、風の里がどうなっても知らんぞ!!」
戻っていた炎龍斎が、狂ったように火炎龍を立ち上げて向かって来たが、土鬼家、稲妻家、風家、水神家の使い手達が束になって掛かると、あえなく取り押さえられてしまった。
厚い雲が去った東の空が白み始め、彼らの長い夜が明けようとしていた。
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