第16話 深海の死闘

 真麟の事件から一月が経ち、神一郎達は風魔に来て、二度目の正月を迎えていた。正月とはいえ、今の彼らにとっては何の意味も無く、風夜叉が持ってきてくれた餅だけが、そんな気分にさせてくれた。

 ライカの怪我は順調に回復して、神一郎と共に修行に汗を流しており、雷の技を使えるまでになっていた。

「ライカ様、それだけ動ければ、もう大丈夫です。この分なら魔王との闘いも近いですね」

 ライカの回復が、嬉しくてたまらない神一郎が目を細めた。

「ああ、何時でもいいぞ。今夜にでも潜ってみるか?」

「えっ、今夜ですか?」

 神一郎は、それは、あまりに性急すぎると思ったのだが、ライカの方は、何時でも行ける心積もりが出来ているようだった。

「流石ですね、分かりました。帰ったら父上に相談してみましょう」


 その日の修業を終え、神一郎とライカが小屋に戻ると、ひと月前から一緒に暮らしている大刃と氷馬が、野良仕事から帰ったところだった。彼らは、ただ飯を食う訳にはいかないと、自ら願い出て、野良仕事や狩りに精を出していたのだ。五人暮らしとなった小屋は手狭となったが、いつも賑やかだった。

 神一郎とライカは、早速、魔王との対決の事を神龍斎に相談してみた。

「今夜とは、ちと性急だが、風の里の事も気がかりだ。お前達の心が決まっているのなら早いに越した事はあるまい」

 神龍斎の言葉に、大刃と氷馬も、いよいよかと目を輝かした。

  


 その夜の丑三つ時、神龍斎、氷馬、大刃の三人が見守る中、神一郎とライカは、第六天の魔王との決着をつける為に、心の中に入ろうとしていた。

「良いか、己心の第六天の魔王は、阿摩羅を信じ切れない、自身の迷いが生み出した影のようなものだ。その魔王に打ち勝つ為には、この世の根源の力である阿摩羅を信じるしかないのだが、実体が分からぬものを信じろと言うのも少し無理がある。だから、阿摩羅の分身ともいえる、この世界の大自然や風の力、そして、自分自身を信じる事が、阿摩羅を信じる事に通じるのだ。この一点を忘れるでないぞ。

 それから神一郎、お前の龍笛には魔を駆逐する破魔の響きがある。いざとなったら、その笛を使うんだ」

 神一郎とライカは、静かに頷くと、並んで横になり手を繋いだ。

「ライカ様の心に一緒に入るのだな」

「はい、行ってまいります」

 神一郎とライカが目を閉じると、瞬時に二人の身体の力が抜けた。

「もう心の中に入ったのか、大したものだ……」

 神龍斎は、彼らがいつの間にか、自在に心の中へ入る術を会得している事に驚いていた。



 ライカの心の中へ入った二人は、身体を具現化させて、阿摩羅の手前の分厚い岩盤の上に下り立っていた。この岩盤は自身の迷いが作り出した阿摩羅を覆う壁で、魔王を倒さなければ、その扉は開かない。言い換えれば、阿摩羅を心の底から信じ切った時、魔王を倒すことが出来、扉は開くのだ。

 ライカが思念を凝らすと、暗闇の世界は、風の里の白刃の滝の風景に変わった。

「ここは、前回、大蛇に襲われた白刃の滝ですね」

 神一郎が、足元の水をすくい口に運ぶと、紛れもない水の味がした。彼が、懐かしい風景を見上げて相好を崩したその時、

「出て来い、第六天の魔王! 我ら二人に恐れをなしたか!」

 突然、ライカが滝壺の方を見て叫んだ。すると、

『小娘、また痛い目に遭いに来たか!!』

 雷鳴のような凄まじい声が、その世界に響き渡ったかと思うと、風の里の景色が、一気に暗闇の世界へと戻った。

「何?!」

 神一郎が辺りを見回した次の瞬間、二人は、水の中に放り込まれたような感覚に襲われた。

「ゴボッ!」

 瞬時の事で、水の中だと自覚出来なかった二人は、海水を飲み込んでしまった。

「海の中か!?」

 二人が、懸命に心を落ち着かせて、此処が魔王の創り出した海の世界だと認識すると、何故か、呼吸や会話が出来るようになった。

「神一郎、心の世界は微妙だ。現実で無いとはいえ、脳は現実だと錯覚して少なからぬ痛手を負ってしまう。夢と現実が混然一体となっているのが、心の世界だとも言えるのだ。侮ってはならぬ」

「はっ!」

 神一郎は返事をしながら、心の世界の事に詳しい彼女に驚いていた。


 そこは、深海の暗闇の世界だと思われたが、日の光が微かに届いていた。段々目が慣れてくると、彼らの周りを旋回している、巨大な魚の群れが見えて来た。

「ライカ様、あれは、人を食うという獰猛な鮫です!」

 神一郎が風破で撃退しようと試みるも、風は起こらなかった。

「水の中では風の技は使えない。魔王は、風の技を封じるために、この水の世界を選んだようだな」

 慌てる神一郎とは逆に、ライカが落ち着いた口調で言った。

「こうなったら、刀一本で戦うしかないのか!?」

 神一郎が、腰の刀を抜いて身構える。

「風の技は、大自然の中の風を感じ、語り掛ける事から始まる。そして、風を味方にすることで、自在に操る事が出来るようになる……。風と同じように、この水に語りかけてみるとどうなる?」

「ライカ様、こんな時に何を言っているんです?」

 突然、水の技の話を始めたライカに、神一郎が怪訝な顔を向けた。

「神一郎、少し試したい事がある。暫しそやつらの相手を頼む!」

「し、承知!」

 神一郎の歯切れの悪い返事と同時に、巨大な鮫たちが、大きな鋭い鋸のような歯をむいて、一斉に襲って来た。人間を丸ごと飲み込みそうな巨大さだ。

 神一郎は、瞑目して何かに集中しているライカを左手で抱きかかえると、右手の刀だけで鮫たちと戦った。剛腕から繰り出される彼の刃は、水の中とは思えないほど速く、的確に鮫の急所を突いて倒していった。

 その内、血の匂いを嗅ぎつけた新手の鮫達が姿を現し、怪我をした仲間を襲って、壮絶な共食いが始まったのだ。


 斬っても斬っても、鮫は襲ってくる。

「こいつら、いったい何匹いるんだ!」

 神一郎が必死に戦い続け、体力の限界を感じるようになった頃には、真っ赤な血で、鮫達の動きが見えなくなっていた。

 その時、巨大な鮫の頭が、神一郎達の眼前にぬっと現れたかと思うと、大きな口をグワッと開けた。

 神一郎は、ライカの身体を護ろうとして、反射的に自分の背中を鮫に向けた。

「やられる!」

 観念した神一郎が、ライカを強く抱きしめた。

 その刹那、赤い海水が音を立てて左右に割れたかと思うと、瞬時に、十丈四方の空間が海底に出現したのである。


 海水が無くなった地面には、鮫達の死骸が転がり、襲って来た鮫や小魚達が、バタバタと暴れていた。

 四方に押し広げられた赤い海水の断面の向こうでは、鮫達が鋭い歯で彼らを威嚇していたが、飛び出てくる様子はなかった。

「助かった! ライカ様、これは貴女の仕業なんですか?」

 ホッとしながらも、面食らっている神一郎に、ライカは目を瞑ったまま軽く頷いた。

「信じられない。風を使わずに水を操るなんて……」

 そうなのだ、風一族の技は、風を使って、土や水を動かしているに過ぎない。風を起こせない水の中では、風一族の全ての技は、使えるはずが無いのである。

「神一郎、風を操るのと原理は同じなのだ。お前にも出来る」

 いとも簡単に言うライカに、神一郎は「はぁ」と、空返事をするしかなかったが、現実に、彼女の思うように水は動いていた。彼は、これは心の世界だから出来る芸当なのだと、自分に言い聞かせた。


「どうすればいいんです?」

 神一郎が、半信半疑ながらライカに教えを乞う。

「風と同じだ。水を思い、水に語り掛けるんだ」

 神一郎が、心を沈めて水と対話してみると、風を動かす時と同じような感覚になった。そして、彼が回れと念じると、目の前の水がゆっくりと回り出し、渦を巻き始めたではないか。

「……信じられん。こんなに簡単に動かせるとは!」

 水は更に大きく渦巻いて、鮫の血で赤く染められていた海水は、元の透き通った水へと変わっていった。いつの間にか鮫達は姿を消していた。

「流石だな、神一郎!」

 ライカが目を開けて微笑んでいるが、水の壁は微動だにしない。彼女は既に、水を完全に制御していたのだ。


 その時である、吸盤の付いた巨大な長い足が、水の壁を突き破って伸びて来て、神一郎とライカの身体に巻き付いた。ぬるぬるした粘液が纏わりついて、不快感が襲ったかと思うと、次の瞬間には、骨も折れよと二人を締めあげて来た。それは、巨大な蛸の足だった。

「ウウッ!」

 ライカの集中力が切れると、彼女の造った空間は形を失い、二人は再び海中に没した。 海水が流れ込む勢いで、大蛸の足の力が弱まった隙に、神一郎が刀を抜いて、その足に突き立てた。大蛸が神一郎を離した瞬間、彼はその足を斬り落とした。

 ライカの方を見ると、彼女も大蛸の足を斬り落として難を逃れていたが、大蛸は怯むどころか猛然と向かって来ていた。

「神一郎、空間を造れ!」

 神一郎が、大蛸の足から逃げながら念じると、再び、海の中に巨大な空間が広がった。

 だが、水が無くなっても、大蛸の動きは止まらない。大きな身体を器用に操って地面を移動し、二人を絡めようと太い足をググっと伸ばした。

 その刹那、二人に伸びて来た大蛸の足が白く変色し始めたかと思うと、身体全体を覆っていった。大蛸は二人を睨んだまま、巨大な身体を真っ白にして動かなくなった。

 隣のライカを見ると、両手を大蛸の方向に突きだしている。

「ライカ様、今度は何をしたんです!?」

「大蛸の身体の水分を、氷へと変化させてみた。思いの外うまくいったな」

「……」

 神一郎は、次々と新しい技を繰り出すライカに、驚くばかりだった。

 心の世界に来て、ライカはどんどん成長していた。彼女は、怪我で養生している間も、人知れず心の中に入って修行していた事を、神一郎は知らなかったのだ。

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