第7話 心の世界

 天眼は、ゴホンと咳払いをしてから、しゃがれ声で話し出した。

「仏法では、人が物事を認識す働きを、九つに立て分けておる。まず、目、耳、鼻、舌、身体【感触】、意識の六つだが、ここまでは通常意識している部分なので、誰でも分かると思う。

 さあ、ここからは無意識の世界に入っていくぞ。意識の下には七番目の末那識【まなしき】がある。これは、自分ではどうしようもない、深層の心が働く場所だ。

 そして、更に深い部分に入ると、八番目の阿頼耶識【あらやしき】に突き当たる。ここは、人が考え、話し、行動した過去世からの全ての業の情報が刻み込まれた所で、全ての人間が繋がっている部分でもあるんじゃ。この部分は、死んでも消える事は無い。だから、人の運命は、この阿頼耶識の中身で決まってしまうと言ってもいい。

 そして、最下層にあるのが、九番目の阿摩羅識【あまらしき】だ。これこそ、この世界を創り、動かしている力の源なんじゃ。要するに、人の心の中にこそ無限の力が秘められているという事なんじゃよ。分かるかな?」


 天眼は、包帯だらけの顔を揺らしながら熱っぽく語ると、それに呼応するかのように、囲炉裏の火がパチパチッと弾けた。

「その力は、どうすれば手に入るのでしょうか?」

 ライカが、更に天眼に顔を近付けた。

「実は、そなた達はもうその力を手にしておる。風一族の技といっても、根源の力である阿摩羅の力の一部に過ぎぬのだ。ただ、今以上、技の力を出そうとするなら、通常の精神の鍛錬では、かなりの時間がかかってしまうだろう」

「では、どうすれば……」

 ライカは天眼から視線を離さない。

「短期間でやろうとするなら、自身の心の中に入って、第六天の魔王という最強の敵と戦うしかない!」

「第六天の魔王!?」

 今度は、神一郎が反応した。

「うむ、人の心の中に住んで、人を不幸にする為に暗躍する、最強の悪魔の王じゃ。阿摩羅を信じ切れない、無知や迷いが生み出す化け物とでも言おうか、別名、無明とも呼ばれておる」

「その魔王に、勝つ方法はあるのですか!」

 ライカが、食い下がるように聞いた。

「それは、全ての力の根源である阿摩羅を、その分身である自分自身を信じ切る事だ。その境地に達すれば、魔王を倒すことが出来る。そして、阿摩羅への扉は開かれる。魔王を打ち破った時点で、お前達には途轍もない力が備わっている筈じゃ。

 ただ、第六天の魔王を打ち破る事は、至難の業だ。魔王に挑戦して勝てた者は、未だ聞いた事が無い。生きて帰れる保証など何処にも無いのだ。それでも行く覚悟はあるか!」

「やらせてください!」

 神一郎とライカは、二人同時に返事をしていた。  

「分かり申した。では、今夜決行する事に致そう」

 話は決まった。二人は、今夜の為に準備をと思ったが、心の中へ入るのに必要なものなど何もなかった。ただ、命を捨てる覚悟だけだった。ライカと神一郎は、少し仮眠しようと床に就いたが、興奮して眠る事は出来なかった。


 その夜の丑三つ時【午前二時】、囲炉裏の火は消され、行燈の灯が隙間風に揺れる板間で、三人は緊張した面持ちで顔を見合わせていた。

「では、始めるか。二人一度にはできない故、順番を決めよう」

「私からお願いします」

 前へ進み出たのは、ライカだった。

「ライカ殿、安座して気持ちを楽にして下され」

 ライカは、言われるままに安座し、目を閉じて心を静寂に保った。

「流石じゃな、もう心は凪いでおる。……貴女の心は何処へでも行ける。大空の彼方へも、大海の深い底にも、そして、心の中に……ほれ、もう入った。

 ここは貴女の心の中じゃ。何が見えるかな」

「……何も、真っ暗です。身体が、底の方へ沈んでいきます。そして、自分の思ってもいなかった感情が、吹き荒れているのを感じます」

「そこは、末那識だ。更に底へ下りて行くぞ」

 ライカは天眼に全てを委ね、心の奥深く潜っていった。

「何か途轍もない流れのようなものを感じます。ここが阿頼耶識? 私の無限の人生が収まっているんですね。たくさんの喜怒哀楽の人生が……。あ、その底に何かが蠢いています。巨大な化け物? ああ、怖い!」

 ライカの顔が恐怖に戦いた。

「ライカ様!」

 神一郎が思わず声を上げると、天眼がそれを制した。

「みだりに声を発してはならん。心を乱すと、何処へ行くか分からんぞ。神一郎殿、手を握ってやりなされ」

 神一郎が、ライカの手を握り締めると、凄い力で握り返して来た。彼は、ライカの手を摩りながら「大丈夫だ、大丈夫だ」と、心の中で励ましていた。

「過去世の悪業が悪さをしておるのだ。今は耐えろ! 心を強く持つんじゃ。ここを突き切らないと阿摩羅には届かぬぞ!」

 その後も、おぞましい悪業がライカを責め続けたが、彼女は、次第に落ち着きを取り戻していった。

「硬い岩盤の上に下り立ちました。これ以上は進めません」

 ライカは辺りを見回したが、真っ暗で何も見えなかった。

「阿摩羅の手前まで来たな、問題はこれからじゃ。ライカ殿、第六天の魔王といっても、結局は、自分自身との闘いだという事を忘れちゃあいかんぞ。心を強く持つんだ。良いな」

「はい!」

 ライカの顔に緊張が走った。


 真っ暗な世界に、ライカは一人立ち尽くしていた。何も見えず、何も聞こえなかった。ただ、何とも言えぬ胸騒ぎだけを感じていた。

 その時である。暗闇から一転して、美しい景色が目の前にパッと広がると、彼女は高さ十丈ほどの滝の前に立っていた。そこは、神一郎達と修行に汗した、懐かしい風の里の白刃ノ滝だった。滝壺は青黒く底は見えない。

 水面に移った自分を見ると、現実の山小屋に居た時の姿だった。息も出来るし、身体も動いた。そして、夢を見ているのとは違う現実感があった。

 爽やかな風が吹き渡り髪を揺らすと、ライカは思わず笑みを浮かべた。

 その刹那、滝壺の水面が、突然大きく盛り上がったかと思うと、太さが六尺【約百八十センチ】はある、赤と黒の斑の巨大な蛇が姿を現したのである。巨大な蛇は、凍りつくような鋭い目でライカを睨みながら、ゆっくり頭を近付けて来ると、恐ろしさで固まっている彼女の身体を、長い舌でペロリと舐めた。生臭い異様な臭いが彼女に纏わりついた。

「ウウッ!」

 ライカは、おぞましいほどの恐怖に耐えきれず、思わず呻き声を上げた。

「ふふ、怖いか? もっと苦しめ。お前の恐怖が、絶望感が儂の好物なのだ」

 蛇は、不快感のある重い声で喋った。

「お前は何者だ!」

 ライカの声が震えた。

「我が名は、魔軍を束ねる第六天の魔王じゃ。我が軍門に下れ! さもなくば更なる地獄を味わう事になるぞ!」

「お前なんかの家来になるくらいなら、死んだほうがましだ!」

 ライカが、気を振り絞って言い放った。

 次の瞬間、ライカの身体は、巨大な蛇の口の中にあった。無数の鋭い歯が身体を突き刺し、強烈な痛みが走り、溢れ出た血が滝壺を染めた。そして、蛇はライカの身体を噛み裂いて、ごくりと飲み込んだ。

 ライカは、切り裂かれた痛みや、蛇の胃液で肉体が溶けてゆく喪失感を、強烈に感じながら、暗闇の中へ落ちていった。


 現実世界では、神一郎と天眼が、極限の恐怖に苛まれ、悲鳴を上げ、のた打ち回るライカを、必死に抑え込んでいた。

「天眼様、何が起きているんです!」

「恐らく魔王の責め苦を受けているのだ。実際は、魔王が見せた幻影なのだが、彼女の心は現実と捉えている。早く正気に戻さなければ本当に死んでしまうぞ!」

「打つ手は無いのですか!」

「……何か、彼女の心に響くものは無いか?」

「ライカ様の心に響くものですか……。そうだ、笛、私が吹く笛が好きでした!」

「よし、聞かせてやるんだ。心を込めてな」

 神一郎は腰に差してあった龍笛を抜くと、目を閉じ、ライカの心へ届けと吹き始めた。 時に優しく囁き、時に激しく高鳴る笛の音は、風魔谷の夜の静寂に響き渡り、ライカの心の中へと染み渡っていった。

「ライカ、目を覚ますんだ!」

 神一郎は、その笛の音に自分の思念を乗せて、懸命にライカに語り掛けた。


 その時、ライカは真っ暗な闇の中で、微かな音を聞いた。それは、笛の音だった。

「……聞こえる、聞こえるぞ! 神一郎の笛だ!」

 ライカが、神一郎の笛の音を認識すると、微かだった笛の音は徐々に大きくなり、やがて、彼女の心に響き渡った。神一郎の暖かい心が音を立てて流れ込んで来て、ライカの恐怖を打ち払った。

「神一郎!」

「……ライカ、ライカ様……聞こえますか……」

「神一郎、私は此処だ!」

「ライカ様、心を強く持つのです。心の世界では、思いは具現化します。風一族の技も使えるのです!」

「そう……なのか? この世界では、風一族の技は自在に使えるのか」

「立ち上がるんです。貴女の身体は生きています。戦えるんです。さあ、手に雷を宿すのです。戦うんです。戦えライカ!!!」

「ウ、ウオーーーッ!!!」

 神一郎の渾身の思念の叫びに呼応して、ライカの野獣のような雄叫びが響き渡ると、彼女の、切り裂かれ、溶かされていた身体が瞬時に再生した。そして、彼女の目が青い光彩を放った瞬間、その両手から凄まじい雷撃が炸裂して、巨大な蛇の身体を木っ端微塵に粉砕したのだ。

 大蛇が消滅すると、景色は元の暗闇へと変わった。

「私の笛の音を頼りに、上がって来て下さい!」

 神一郎の笛の音に導かれ、ライカは自分の身体へと心の中を浮上していった。


 現実世界の小屋では、ライカの苦悶の顔が、穏やかに変わっていった。

「神一郎殿、もう大丈夫だ」

 冷や汗をかいていた天眼が、安堵の声で言った。

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