そったく

2020年3月度

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五十秒、一、二、三、四――


「負けました」


 自分の口から発せられたとは思えないほど無感情な声が漏れ出る。

 この半年でさえ、一体何度口にしただろうか。今までの将棋人生で、何度発しただろうか。

 挨拶も程々に、さっさとその場を後にしようとする。


「やらないんですか?感想戦」


 将棋盤を挟んで勝ち負けを争う我々にとって、対局後にお互いの手を検討する感想戦は、呼吸と同じくらい行なって当たり前のものだ。


「いや、すまない。私はもう帰らせてもらう」


 けれども。その機会を蹴って、どころか相手の顔も見ずに一言断って会場を後にする。段位は同じ三段でも、三十路の自分と彼のような十代とでは、格の違いを感じずにはいられない。

 その劣等感から、彼の顔どころか対局後の盤面すら直視することもできず、ただ足早に歩くことしかできなかった。


*********


 翌日、の記憶はない。おそらく、ひたすら酒を呑んでいたか、ひたすら寝ていたであろうことは間違いないが。

 そしてその更に次の日、師匠である麦長九段に呼び出されていたため朝早く起きて準備する。

 頭は重いけれども師匠の言伝を無下にするわけにもいかず、けだるさを着込んで外に出る。


「今日は寒いんだな……」


 3月も中旬、春の陽気が近づいてきたと思っていたのに、今日はまた冷え込んでいた。師匠の道場近くにアパートを一室を借りて生活しているため、道場までの道のりはわずかだ。

 とは言え、やはり寒いものは寒い。早く温かい場所へ行きたい。


「あら、東(あずま)くんじゃないの。おはよう」


 道場の隣、麦長九段の自宅からちょうど出てきた奥様に声をかけられる。


「おはようございます」


 素っ気ない挨拶を返してそのまま道場に向かおうとするが、奥様が続けて話しかけてきたため、立ち止まる。


「聞いたわよ。今期もダメだったんだって?あんなに頑張ってたのに残念だわ。でも大丈夫よきっと。実力を出せば東くんも強いんだから、気を落とさずに次も頑張りなさい」

「あ、はい。ありがとうございます」

「なんて、あの人の言ってたことを言ってるだけなんだけどね。私は将棋のこと、あまりわからないから」

「いえ、その言葉だけでも嬉しいです。頑張ります」


 嘘だ。咄嗟に自然に口から出た返事は、つき慣れた嘘だ。

 心が死んでいくことはあっても浮かぶことはないのが、三段リーグを争う者の背負う業なのだから。


 三段リーグ、それは、日本の伝統的なボードゲームである"将棋"の、プロを目指すものに立ちふさがる魔の巣窟。

 幼くして才能を発揮した将棋指し達が集まり、血で血を洗い、しのぎを削る場所だ。


 早ければ中学生でもたどり着けるが、あくまでそいつらは例外中の例外。おとぎ話に出てくる魔法と同じぐらいの外れた存在だ。基本的には、二十歳前後でたどり着き、運が良ければプロになり、悪ければ三十歳を超えた年に去っていく。


 そう、私も来期で上がれなければ、この界隈を去らねばならないのだ。


「そういえばあの人、今日は朝から出て行ったけれど道場かしら。今更愛人なんていないでしょうけれど。道場にもしいたら、お昼は何人前必要か教えてくれって伝えておいてくれるかしら」

「わかりました、伝えておきます。それでは」


 バツが悪くなり、途中は聞かなかったことにして早々に会話を切る。たしかに若い頃の師匠は女癖が悪かったことは公然の事実だが、それを指摘するほどやぶではない。

 そして気持ち早めに足を動かして、さっさと道場へと踏み入れる。

 正面玄関から廊下へと上がると、中はすこし薄暗い。少し目を慣らしてから廊下を進む。

 道場の広間に入ると、白髪交じりに薄くなった頭と、決して太くはない身体が目に入った。


「師匠、おはようございます」

「おぉ、東か。おはよう」

「駒磨きなら自分がやりますよ」

「なに、たまにはこうして自分で磨かんことには、将棋に対する想いが薄れてしまうのでな」

「そういうものですかね」


 その想いというのが、最近はよくわからなくなってきた気がする。負ければ心が死んでいくだけだし、勝っても次をの対局を考えて憂鬱になるだけだ。それはまるで、一戦ごとにナイフで自分を切り落としていく作業のようにも思える。


「お前さん、少し気が入っておらんようだな。どれ、一局教えてやろう」

「あっ、はい」


 ついさっきの言伝、どう伝えるべきかを悩んでいる間に、師匠は先ほどまで磨いていた駒を今度は並べていく。

 慌てて自分も盤を挟んで座り、駒を並べていく。

 "玉将"、"歩"、"香車"、"桂馬"、"銀"、"金"。並べ終えると師匠が時計をセットして脇に置いた。


「よろしくお願いします」

「お願いします」


パチン――

 師匠が先手を持って指す。初手は[▲7六歩]と"角"の右上の"歩"を動かす。角道を通す手とも言うが、斜めに大きく動くことのできる"角"を使うための第一歩だ。


――パチン

 間髪を入れずに自分も[△8四歩]と"飛車"の真上の"歩"を進める。"飛車"を使うための大事な一手だ。


パチン――

――パチン

パチン―― ……


 そうして交互に駒を動かしていく。基本的には"金"や"銀"を王様に近づけて守りを固め、機をみて相手に仕掛けていくのが基本的な流れだ。そのため、先手が攻め、後手が守るという展開になりやすい。

 しかし、そうなっては胸を借りることもできない。ここは自分から仕掛けるべきだろう。


――パチン

 三十手目は[△6五歩]と"歩"を前に動かし、師匠の"歩"の前に差し出す。これは、後手から攻めますよという宣言だ。


パチン――

 小考の後、師匠は[▲同歩]と差し出された"歩"を取る。これは宣戦布告を受け取った合図だ。


パチン――

……

――パチン

……

パチン―― ……


 そこからは少しずつ時間を使う難解な中盤戦に入った。

 駒を取ったり取られたり、駒を逃げたり逃げなかったりして、どちらがリードするかお互いもがき苦しむ時間だ。

 それはまるで、目を閉じながら小学校のプールを泳ぐようなものだ。遅すぎては溺れ死に、早すぎては壁にぶつかってしまう。その中で、己の感覚を信じてもがき続けなければいけないのだから。


 しかし、思うようにいかないのが将棋である。"角"を一枚渡す代わりに"銀"を二枚貰い、上手く師匠の"王将"に迫っていたつもりだったのだが、その攻めが途中で止まってしまう。受けきられてしまったのだ。


 たまらず自分の陣地に駒を打ち、受けに回る。


 そこから師匠の反撃が始まった。駒を打ち、盤面を広く使ってこちらの攻めをどんどん盤上から消しながら、どんどん自分の"玉"が追い詰められていく。こちらも何とか反撃しようとするが、急所を攻められては守らざるを得ず、次第に防戦一方となっていく。

 そして、こちらが攻防に効かせるつもりで駒を打った時には、もう既に勝敗は決していた。


バチン――

 師匠が一際強く、"金"を僕の"玉"の真上に置く。タダで取れる、いや取るしかない駒だ。

 しかし、師匠の駒台には他の駒も乗っており、"金"をこちらが取っても順番に打っていけば詰む。つまりーー


「負けました」


 師匠に頭を下げる。結局、何もできなかった。

 そういえば、暖房もつけてなかったせいか、体が冷えている気がするな。


「お前、師匠の目を見てみろ」


 顔を上げて師匠の顔を見る。いったい何を言われるのだろうか。

 ほんの少し見つめ合い、それから、師匠が口を開いた。


「お前は最近は明らかにだらけてるようだな。目がな、死んでいるんだ!」


 突如怒鳴り声をあげられる。こんなお叱りは初めてだ。

 普段は諭すように言われたり、少しきつい言い回しをされるくらいで済んでいたのだ。

 思わず背が伸び、視線を床に逸らしてしまう。


「将棋盤を見る目がその辺りの風景を見る目と同じになってる。将棋指しの目ではない。姿勢もピッとまっすぐ将棋盤に向かってない。クニャッとしてるんだ。盤面をな、射ぬくような目でにらむ、そうでなきゃダメなんだよ!」


 バシン!と、師匠が手に持っていた扇子で床を叩く音が聴こえる。またそれにすくみあがる。


「最近、お前はだらけている。目がな、目が死んでいるんだ!わかるか?!そんなんじゃダメだ!もっと盤をよく見ろ!初めて女を相手した時に股ぐらを見つめるように、将棋盤を見ろ!!思春期に河原で拾ったヌード写真集くらいよく見ろ!そうやって血眼になって、初めて勝つことできるんだ!」


 途中何を言っているかわからなかったが、師匠の想いは確かに伝わってきた。身体が熱を帯びる。


「いいか、東」


 師匠は一転して、普段の諭すような口調に戻る。


「私はね、お前のことを一番弟子だと思っているんだ。そりゃあ内弟子として育ててきたあいつらだって可愛いものだ。けれどもね、一番期待してたのはお前なんだよ。だから私はお前を絶対にプロにしてやりたい。」


 ビシッ、と何かに亀裂が入る音を聞いた気がする。それは道場の家鳴りだったか、あるいは、師匠の握る扇子の悲鳴だったか、もしくは自分の心だったか。


「ただね、今の私の体たらくじゃ示しがつかない。五十のよぼよぼのただのジジイに言われたって、聞けるもんも聞けないだろう。だから」


 そこで一旦切って、勿体ぶって言う。


「だからね、私が今回名人を取ろうじゃないか。これまで六回挑んで六回失敗したあの名人だ。七回目の挑戦で、それを取ってやろうと思うんだ。もちろん、失敗したらそれまでで引退してやる。それぐらいの覚悟で臨もうと思う」


 師匠のその言葉にはっとなり、顔を上げる。


「お前も今年で最後だ。一緒に頑張ろうじゃないか」


 その言葉に、思わず涙が零れた。


「いいかい、東。お前は一人じゃない。師匠である私だけじゃない。他の弟子たちも、私の妻も、お前のことを知ってる多くの人たちが応援している。だから、自暴自棄になるんじゃあない」

「でも、ししょう。オレ、もうどうしたらいいか分かんないんです。心が死んでるんです」


 思わず本音がこぼれ出る。押し殺していた感情が、涙と共にあふれ出てくる。


「本当にそうか?」


 どういう意味だろうか。


「じゃあお前、三段リーグの前の日は親父の墓参りに行ってこい。お父さんと話して来い」

「えっ?」

「本当にそうか、ちゃんと話してこい。親父さんと」


 意味が分からない。が、もうどうして良いかわからない以上、「はい」としか答えられなかった。

 それからしばらく、さめざめと泣いた後、道場を後にしたのだった。


*********


――半年後


『東新四段、昇段おめでとうございます。今の率直な感想をお教えください』


 フラッシュを浴びながらマイクを手に取り、記者からの質問に答える。


「ありがとうございます。今は、まだ実感が湧かないというか、信じられないという感じで。まさに神風が吹いたという感じで。奇跡が起こったなという感じです」


 事実、前節までの順位を見れば四段に上がれたのは奇跡のようなものだ。

 勝ち星と前期の順位を勘案して四番手だったにも関わらず、最終日に二勝してキャンセル待ちの状態。

 そこで一位から三位が総崩れして二位に浮上し、昇段できたのだ。奇跡以外の何物でもない。


『今回、麦長名人が誕生し、またそのお弟子さんがプロになるということで、一門としても非常に喜ばしいニュースが続いていることかと思いますが、その点いかがでしょうか?』


「そうですね。自分が今回頑張れたのは師匠のおかげだと思いますので、本当に感謝しておりますし、何よりお互いが一つ殻を破ることができたと思いますので、師弟としても頑張っていきたいと思います」


===

【出典参考】

・棋譜DB2 1989/05/10 深浦康市vs.伊藤能[三段リーグ]

・棋士米長邦雄名言集 人生に勝つために(伊藤能)

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※この物語はここまでです。

※次のエピソードとは関係がありません。

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