師弟会話
2020年7月度お題:フリー
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"恩返し"とは世間一般に使われる言葉である。
"人から受けた恩に報いる"という意味だが、将棋の世界においては"公式戦で弟子が師匠に勝つこと"という意味もある。正直なところ、トーナメントで負ければ敗退するわけで、プロとしてはそんな"恩返し"はいらないと思うのだが、当事者以外は、あるいは当事者であっても、そうとは受け取ってくれないらしい。
そして、二度目の"恩返し"の機会が巡ってきたのが、今日のこの覇王戦の対局だ。
覇王戦は1組から6組に分かれており、規定により師弟が一回戦で対決することはないため、戦うには同じ組に在籍しながら、お互いがある程度勝ち進むことが条件になる。
というだけなら十分に可能性がありそうに聞こえるが、実際には弟子とは反対側の山に入っており、実現するためにはその頂き、すなわち組の決勝に上がることが必要だったのだ。
もちろん、組み合わせを見た時に可能性としてはあると考えたが、組決勝で師弟戦だなんて出来過ぎな物語だとばかり思っていたのに。事実は小説より奇なりというものか。
だからこそ、今日は気合を入れて、棋士にとっての正装である和服で対局に臨むことにした。
開始時間の少し前、こちらが入室すると、下座に座る彼が一瞬顔を上げこちらを見る。和服姿の師匠を観て彼は何を想っただろうか。
駒を一つ一つ盤上に並べる姿からは、動揺した気配は感じられない。盤外戦術だと捉えられたらどうしようかとも思ったが、流石にこの程度は動じないだろうとも信じていた。
駒を並べ終わり、記録係が振り駒を行う。
表の"歩"の数が多ければ上座が先手、裏の"と金"の数が多ければ下座が先手だ。
将棋は先手がわずかに勝率が高い。可能なら先手が欲しいが――結果は歩が1枚で下座の彼が先手だった。
返却された駒を並べ直し、気息を整える。
先手はもらえなくとも、当然策は用意してある。気を落とすことはない。
そして、少し間が空き、定刻を告げられ、対局が開始される。
「「よろしくお願いします」」
覇王戦の持ち時間は各5時間。長い一日が始まる。
お互いに一礼し、顔を上げると、まだ彼の黒々とした頭があった。
彼のこうした敬意ある所作というのもまた実に素晴らしい。だが、勝負は勝負だ。
彼はいつも通りお茶を一口飲み、間を置いて▲2八歩と突いた。その姿は自然体そのものだ。
だが、その自然体の姿を見てハッと思い出す。以前、同じように大きな一番に和服を着てきた際、その気力が空回ってしまったことを。このまま同じ失敗を繰り返してはいけない、と思い、こちらが一手指す前に一度席を外した。
そして自販機でお茶を買ってきて、部屋に戻ってきて、再度彼の前に座る。
今度は大丈夫。満を持して△3四歩と角道を開ける――
***
それからしばらくはお互い慣れ親しんだ進行だった。
あちらが角を交換しようとすればそれを拒否し、こちらが端を打診すれば彼は受ける。あちらが囲いを作ろうとすれば、こちらは攻め形を築く。というやり取りをしたあと、こちらから定跡の外へ踏み出す。
△6二金
研究してきましたよ、と告げる、これまで定跡を捨てる一手。
そして、彼の同期が創案した"耀龍四間飛車"<ようりゅうしけんびしゃ>の構えだ。
タイミングはこちらの研究で、前例はない。
そこから彼も少しずつ時間を使い始める。
『そちらの研究を打ち破ってみせます』
そう返すように、攻め筋を伸ばしてくる。。
だが、この形は前例がなく、また居飛車党の彼にはあまり見慣れない形のはずだ。
もし読み違えたなら、一気に攻め立ててやろうという魂胆もある。
彼の隙を伺いつつ指したところで昼休憩となる。
彼との年齢差は30歳以上になる。当然、体力の面では彼に軍配が上がるだろう。その分を補うべく、精のつくうなぎを食べることにする。普段なら頼まないものだが、今日くらいは良いだろう。
***
お昼明けの定刻になり、対局が再開する。こちらはすぐに△3二金と上がり、『そろそろ戦いの準備ができますよ』と伝える。
彼も負けじと▲3七桂と跳ね『こちらもそろそろ攻めます』と宣言してくる。
一触即発。お互いに相手の隙を見出そうとジャブを放ちながら勝負は進む。
もちろん、ジャブとは言っても応手を間違えれば形勢が揺らぐ可能性のあるものだ。当然、お互いじっくり時間を使い、その罠をすり抜けながら逆に相手に一発を入れようとする。
その一進一退の状況を崩したのは、またしてもこちらからだった。
△5五歩と突き、『大駒を捌かせてもらう』と宣言したのだ。
"捌き"とは、駒の活用のことではあるが、振り飛車党にとっては将棋で最も肝要な心得が駒の"捌き"である。
▲5五同歩『その捌き、受けて立ちます』
△5五同角『では行くぞ』
▲5五同角『ええ、どうぞ』
△5五同飛、と盤の中心でお互いの駒を取り合い、▲5六歩打と彼の方から『一旦ここで捌きを止めさせてもらいます』と返される。
正直ここで止められるのは悔しい気もするが、このまま攻めに出ても勝てないと判断し、△5一飛と一旦撤退する。
その局面で、ちょうど夕食休憩となった。
夕食にはきちんとしたものを食べようと注文したはずだが、ずっと考えていたため味は覚えていない。
***
夕食休憩が明けて第三ラウンドが始まる。
彼は▲7七桂と『また攻める準備を始めます』と言ってくる。
ここで若さに任せてすぐに攻めてこないのが彼の強さだ。緩急自在の指し回しは、多くの棋士仲間が"老獪"と表するだけのことはある。いや、あるいは、"貫禄がある"とでも言うのだろうか。
だが、いずれその駒組も限界に達する時がくる。
先ほどのような一時的なものではなく、今度こそどちらかが倒れるような、真剣を抜いて決着をつける時が、だ。
そしてそれは、夕食休憩明けから約1時間半ほど経った頃に来た。
▲6六角打、と、彼が盤上に大駒を投入したのだ。
『そろそろ勝負をつけましょう』
大駒は盤上に置けば強力ではあるが、手に持っているだけで相手に制約を与える面もあり、使い所を間違えれば破滅を招く諸刃の剣だ。それを手放したということは、彼が勝負を仕掛けようとしているということに他ならない。
守るべきか、攻めるべきか。
守っているばかりでは勝てないのも将棋であるし、攻めるばかりではいつか切らされるのも将棋だ。
攻めるべきか守るべきかはきちんと見定める必要がある。
こんこんと考えを深め、残り時間が1時間を切った頃を見計らって、こちらも△3五歩と同じく攻撃を仕掛ける。
『その勝負、のった』
そう宣言したのだ。
その動きを見て、彼は▲2六飛と受けに回る。
『ではそちらからどうぞ』
とでも言うかのような変幻自在の指し回しだが、こちらも既に足を止められない体勢だ。
『では、行くぞ』
△4六歩と相手に働きかける。
応手を間違えれば途端に形勢が傾く一手ではあるが、相手もきちんと読んだうえで▲4六同銀『継続手はなんですか?』と返される。もう、どちらも後には引き返せない。△5四銀『玉頭を攻めるぞ』と手を伸ばす。
そこから、こちらが駒を攻めに使えば、あちらも隙を見て攻撃を仕掛けてくる華々しい戦いが幕を開けた。一手でも間違えば一気に形勢を損ねるため、可能な限り時間を使い、相手の罠を読み解いて攻撃を仕掛けていく。
△6五銀で『遠い駒はくれてやるが玉に迫るぞ』と言えば、▲6五同桂と『その攻め、止めます』と返される。
△6五同桂『まだまだ!』
▲7四桂打『その攻めは届きません。こちらも攻めます』
△7七歩『なんの、先に王手だ。逃げるか?』
▲7七同銀『逃げません。これで勝ちます』
△7七同桂成『ではどちらかが倒れるまで』
とお互いに駒を取り合い、一歩も引かない。
▲7七同金『これで終わりですか?』
△6五桂打『まだまだ戦えるぞ』
だが、彼は落ち着いていた。こちらの攻めを見切り、返す刀で▲6二桂成と攻め込んでくる。
王手は放置できない。それを取るか、逃げるかの二択を迫られる。
『逃げれば攻め味がなくなる』、そう考え、すぐに△6二同玉と取り返す。それを見て彼は、すぐさま▲3五飛と『詰めろです。どうしますか?』と問うてくる。
相手の読みを上回る攻めか、相手の読みを外す受け、つまり攻防の一手か、相手より先に詰みが生じる手を指さなければ負け。この状況、棋士なら一目で判断できる。難解な中盤ならいざ知らず、最早終盤と言うべきこの状況であれば、なおのことである。
つまり、やってこいと言っているわけだ。ならば、正々堂々と戦おうではないか。
△7七桂成『ここでは引いては棋士の名折れ』と最期の攻めに望みを託す。
▲7七同角『これでしのぎます』と取り返される。
△3四歩打『ではこちらはどうか?』と罠を仕掛ける。
しかし、そこで彼は飛車を見捨てて▲4四角打『もう、見切っています』と反撃を繰り出す。
△5三桂打『そこは受けざるを得ない』と守るも、
▲5四桂打『もう、終わらせます』と追撃がくる。
△7二玉『これで逃れればまだ』と逃げるも、
▲7四桂打『もう、そちらは詰みますがどうしますか?』と詰めろをかけられる。
これは最後通牒だ。こちらが相手を詰まさなければ負けという分かりやすい状況。
ここからいくつか王手をかける手段はある。見苦しく粘ることもできるだろう。もしかしたら、どこかに見逃していた詰み筋があるかもしれない。
だが、その不格好さは将棋指しの矜持が許さなかった。
チラッと残り時間を確認する。お互い5時間ずつ持っていたはずが、残り5分と2分だ。
わずかな残り時間で気息を整える。
そして△3五歩と飛車をとり、和服の羽織を着直して、下駄を預ける。
彼もその心に答え、すぐに▲6二桂右成と王手する。アマチュアでも分かるところまで進めるのが、解説を行う同業者と、ファンへの気配りであると言われている。
△7三玉と王手から逃れると、彼は▲5五角と引く。
ここまで進めば、アマチュアでも簡単に解ける。△6四合駒に▲8二銀打までの簡単な詰みだ。
そこで、潔く
「負けました」
と宣言し、頭を下げる。
弟子である彼が3組優勝し、2敗目を記録したのだ。
負けたショックからなのか 対局開始から12時間以上経過した疲れからだろうか。すぐには、声が出なかった。
***
その後、注目度が高い対局ということもあってインタビューが行われた。
負けたものの、注目の舞台での師弟戦ということもあって私にもインタビューされたが、はっきりとは覚えていない。
その場に居続けることは正直に言えば苦しいし、負けたことは純粋に悔しい。だが、この子がプロになれなかったら将棋をやめる覚悟で育てた結果がこれであれば嬉しくもある。
彼の対局日程が詰まっていることを思えば心配にもなるし、彼の大師匠の悲願を思えば期待を抱かずにはいられない。一人の将棋指しとして強い存在と戦えることは至上の喜びであると同時に、敗北の痛みや苦しみを味わう恐怖もある。
そんな複雑な胸中だが、彼のしゃんとした姿を見たら、師匠としてしっかりせねばと思う。
時世もあり、手短にインタビューが終わった後、彼に声をかける。
ここで、他の棋士仲間なら『この後一杯どうかな』と声をかけるところだが、あいにく彼は未成年だ。流石に酒を勧めるわけにはいかない。手短に挨拶を交わして今日は分かれることにした。
対局場を後にする彼の背中を見て、少し物思いに耽る。
彼はきっと、歴代の大名人すら超える存在になる。
だが、今日勝てなかったことは一人の勝負師としてやはり悔しい。
『自分は将棋しかできない人間、ならば将棋を負けるのは殺されるも同然』とは、私をライバルと呼んでくれた旧い友人が言っていた言葉だ。
誰からも一目おかれ、そして、誰よりも早く死んでいったライバル。その彼に恥じない戦いができたであろうか。
いや、毒舌な彼のことだ。きっと、天国でここでこんな手を指してたんじゃ負けても仕方ないと言っているだろう。
彼とライバルは将棋へのひたむきさがどこか似ているのかもしれない。
そう思って、少し笑ってしまった。
(棋譜出典:第33期竜王戦3組ランキング戦決勝 藤井聡太 七段 対 杉本昌隆 八段)
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※この物語はここまでです。
※次のエピソードとは関係がありません。
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