第5話 干天の慈雨の後に

「あー、筋肉痛で今夜も熟睡できそうもないわ・・・」

6人部屋の頸髄損傷同胞は、リハビリが終わり夕食前にベッドに戻ると口癖に成っていた。

この病室の天井には、吊り下げ型のモノレールレールのようなものが各人のベッドの上にいきわたっている。

自力でベッドに乗り降りできない、または車椅子からベッドに移乗できない手足の四肢麻痺障害患者を、クレーンのごとくつり上げ下げして移行するリフターが設置されている。重度障害患者のみ集められている。

名古屋労災病院リハビリテーション科の担当医師は、千幸が転院し、最初の診察で言及した。

「障害者手帳を見せて下さい」

「えっ!障害者?私のですか?そのようなものは持っていません」

「えっ!前の病院では発行しなかったのか。障害者ですヨ、しかも加藤さんは重度障害者です。早速こちらで発行手配します」

「C4完全頸髄損傷。気管支切開人工呼吸でなく会話できるのが不思議なくらいです。呼吸する力がかなり落ちていますので、まず呼吸訓練をしたのちに残存機能の強化PT(理学療法)と生活に必要な動作訓練のリハビリテーションをしてもらいます」

 午前中は医療処置。膀胱洗浄や尿道カテーテルの消毒や交換。

摘排便(看護師が浣腸してから肛門に指を突っ込み、大便を搔き出す)、シャワー浴などで何かと慌ただしい。

その後、ベッド上でただひたすらに呼吸訓練をする。

訓練はお祭り夜店で売っているような喫煙パイプの先に、吹く力によりパイプ先に有る、プラスチック製ボールを浮かせるオモチャのようなものだ。

プラスチックボールは5色あり、赤色のボールを30秒以上の間吹き浮かし続ければ正常な呼吸力である。

「こんなオモチャで呼吸機能のリハビリになるのかよ?」

千幸は小バカにしてめいっぱい息を吸い込み、一気に吹き出してみた。

結果は最も軽い白色ボールが基準線まで吹き上がるのみで、10秒間と持続できなかった。

「やっぱり頸髄C4番にダメージが有り、気管支切開人工呼吸器が必要とする少し手前だね」

そして看護師は付け加えて言った。

「今、息苦しくない?5番目の赤いボールが上がるまではフィジカルなリハビリは無理だから、ベッド上で呼吸力リハビリのみを終日して居てください」

「エーッ、マジかよ!俺は四肢と体幹機能の訓練をして、復活しなくてはアカンのだ。

こんなお遊びみたいなことを、一日中ベッドでやるために転院したわけじゃないゾ」

とは、声には出せなかった、呼吸力機能の貧弱さを目の当たりに証明されてしまっては・・・。

 千幸は早くスパルタ式リハビリテーションをし、毎晩筋肉痛の納得できる日に移行するため、食事中以外の殆どの時間、寸暇を惜しんで、ピューピュー呼吸訓練をした。

上がるプラスチックボールが、白色の次の黄色、緑色、青色そして赤色が少し浮くように成ったのは、2週間後であった。

転院時に喘息症状が有り、点滴治療を暫らくして完治したのも、呼吸機能の改善に功を奏したようだ。


午後から夕食までは身体機能のリハビリの許可が出たので、勇んで前日に訓練室を見学しに行った。

まず驚いたのが、訓練室とはバスケットコート1面有す体育館ではないか。フィットネスジムのように、ダンベルがゴロゴロしており、レッグプレスなど筋トレマシンだらけである。

手が動き握る機能が残っている脊髄損傷者は、徹底的に腕力強化トレーニングをしている。

腕の力だけで車椅子からベッドへの移乗や、腕だけで匍匐前進(ほふくぜんしん)できるパワーをつけ、退院後に部屋内を自力で移動できるよう鍛えている。

うわさに聞いた「軍隊のようだヨ」の一片が理解できた。

 担当のPT(理学療法士)は、肩と腕の残存筋力をチェックの上、まず車椅子の漕ぎ方を千幸に適し最も楽に早く操る方法を指導した。

南海病院では自主トレと称し我流で車椅子を動かしていたのと異なり、漕ぎだす時の手の位置と上半身を重力と慣性を利用して前後にスイングして操る。

なるほど理にかなった、千幸の残存機能にカスタマイズさせた方法だ!と感心していたのは初日だけであった。

 翌日も担当PTに指導いただこうと思ったが、

「加藤さんは昨日教えた方法で体育館を回っていて下さい。5周ごとに反対回りにして下さい」

その翌日は、

「昨日は2時間弱で15周でしたが、50周回れるまで毎日続けて下さい」

2週間ほどで50週回れるように成ったら、

「バスケットコート外側1週を、早く漕いで30秒以内で回れるようにして下さい。

インターバル摂ってもイイですヨ」

あれほど好きであったバスケットコートとは縁があるようだが、今は目の前のエンドライン、サイドラインが恨めしく見える。

リハビリ訓練終了後の夕方4時からは、車椅子バスケットボールの練習をしており、近くで見ていると確かに速い。

千幸と同じような頸髄損傷レベルでもターンオーバーの速さと、10分近くプレイしているのを見るに、自分の未熟さを痛感した。

 翌日、車椅子バスケットしている連中が、どんな訓練をしているのか判った。

「体育館内の訓練は終了し、今日からは屋外で車椅子訓練をしてもらいます。まず、病院敷地内を周回して下さい。アスファルト面は体育館の様に平坦でなく凸凹が有り、側溝に車輪が落ちない様に注意して下さい。また、砂利石道やコンクリが敷いていない草道部も有りますので、まっすぐに走行するだけでも結構な力が要ると思います。病院外周は約1km程ですので、30分以内で帰って来て下さい」

屋内と屋外では左右腕の力の使い方が全く異なり、石ころひとつに舵を取られてしまう。

また、舗道は真ん中を頂点とし側溝側に低い山形になっており、側溝側の腕の力を強く漕がなければ、側溝の方向に進んで落ちて行ってしまう。

特に難儀したのは、草むら道では路面の状態が目視で確認できないため、左右の前輪後輪にかかる抵抗を腕ヘの負荷で感知しながら、まっすぐに走行する難しさだ。

 はじめた頃は、一時間以上を要し、側溝に前輪がはまり脱出不可能と成り立ち往生しては、担当PTが心配して助けに来てくれることがしばしばであった。

ノルマの30分で一周できるには1か月ほど要した。訓練に励めば必ず車椅子の操舵が思い通りと成り、走行の小回りやスピードアップが実感できるのが、辛さよりむしろ快感で在った。

初春過ぎの5月頃には、病院周りを春の陽気と樹々や草花を喫する余裕も持ち、2周以上の走行は景色を眺めながら、ジョギング気分でできるように成っていた。

  

ひたすら車椅子を操舵するパワーを鍛える理学療法リハビリ、昼食後の1時半から3時半までの2時間訓練で腕力は疲弊しきる。

3時半から5時半までは、自立生活に必要な機能を強化する作業療法(OT)2時間の訓練である。PT訓練の体育館からOT訓練室へは、移動距離だけでも段差がある20mほどの通路であり、この移動だけでも四苦八苦の残体力だった。

前入院の南海病院では、作業訓練は動かせる手腕を使って生活に必要な動作を練習する。

ギブスの様に右手前腕用に特注制作した樹脂製装具をバンド留め装着し、食事動作の訓練であった。この装具の掌あたりに付いているネジ穴にボルト付スプーンを固定し、スプーン部を口許まで持って来る動作の繰り返し練習である。

スプーンを歯ブラシに交換して歯磨き動作練習、鉛筆を付けて図形や字を書く練習などであった。リハビリテーション専門語では、QOL(Quality of Life)の向上ということらしい。

確かに自力で動かせる肩周り筋肉だけを使い、装具を使用しても自力で食事できることは、他人に食べさせてもらうよりは、噛んで吞み込むタイミングが合い美味しく食事ができる。

また介護する人が「あーん」と食事介助する手間は、格段に楽に成る。

しかし千幸には、理学療法や自主トレに比べ疲労も筋肉痛にも成らず楽な訓練であった。

ここ名古屋労災病院でも、まず作業担当OTと面談し、千幸の手腕機能や肩周りの可動域などのチェックから始まった。

そして訓練内容の説明に、驚きであった。

「それで、加藤さんは何が一番やりたいですか?」

「はっ!言われていることの意味がよく分かりませんが・・・」

「いや、退院して家に帰ってから障害が有る身体でも、最も行えるようにしたいことです。」

千幸はまだ主旨がよく分からなかったので、生半可の知識を振りかざして答えた。

「QOLのアップです。自力で、食事や文字を書けるように成りたいです」

「そんなことは当たり前です。病室の食事の時に看護師に言って訓練してもらって下さい。それだけで良いのですか?」

ここまで言われて千幸は気づいた。

自分は家族を養い、共に暮らせるよう復活する目標を。

「パソコンが打てるように成りたい。仕事レベルのスキル、早く長時間出来るように」

「はい、分かりました。明日までに専用の装具を作りますので、今日はキーボード打ちとマウス操作に必要な筋肉を、強化する訓練のみしてもらいます」

「ここは労災病院です。主な患者は労働災害受傷、つまり勤務中に起きた事故で怪我を負った患者です。治療の目的は、再び働ける身体に回復させることです。加藤さんも受傷前の状態までに回復は無理ですが、パソコンで仕事が出来るまでの機能回復に頑張ってリハビリして下さい」

「目標が有りませんと、リハビリへの頑張り度合いが違い、回復の程度も顕著に異なりますよ。ある患者はタバコが吸いたい、また別の患者はSEXができるように成りたいなど。願望が強いほど、カスタマイズ装具を用いて様々な方法で目標を達成していますよ」


千幸と同じ病室の患者も、仕事中に上階から落下し首の骨を骨折や、配達中の交通

事故で縁石に頭から激突して受傷したなどと、就寝までの間の会話で知った。

ただ大きく異なることが有る。

労働災害の場合は労災保険から休職中の給料は保証される。

ましてや交通事故の様に相手がいる場合、自動車保険からも保険金が貰えて受傷前よ

り収入が多くなっているケースも有る。

 その点、千幸は大バカ者である。お盆休み中にプールに飛び込んで首の骨を骨折だ。

労働災害事故の適用にかすりもしない。交通事故の様に、加害者や相手もいない。

つまり、保険金や休業中の保障はゼロだ。

ある意味、リハビリにて復活は他の者より遥かに高いモチベーションが身体から染み

出ている。

前腕が麻痺しているためキーボードを打つのは、手のひらに専用の装具を付けて麻痺のない、肩を上げ下げする三角筋を鍛えるのが必須であった。

両手がバンザイの体勢で、両手首にワイヤ―が繋がっている革製の手首ベルトが

巻かれた。

「最初は各手に10㎏程度から始めようか」

ワイヤーの上側は滑車で後方に繋がり、後方にはダンベルの円形の鉄製重りが積

み重ねられてあった。バンザイの体勢から麻痺の少ない上腕二頭筋で肘を曲げ、重りをガチャンガチャンと上下させる、筋トレである。

この三角筋強化筋トレを約1時間続ける。ガチャンガチャンの音のペースが早くなると、重りを5㎏ずつ多くしていく。

逆に1時間以内で力尽きて両手がバンザイのままの状態に成ると、荷重は軽くしてくれるのだが、そこは「根性なし」と思われたくない以上に、己のレベルアップへの意地で、当日課せられた荷重を1時間は続けた。

「こ、これが、QOL向上という作業療法か?単なる拷問だ・・・・」

翌日には作業療法士がキーボード打ち用の装具が準備されていた。手のひらにス

ティックが付いた手首までの手袋である。スティック小指側にキーボードのボタンが押せる、指大の樹脂が付いている。

当時では最高スペックのNEC9801VM2デスクトップ型パソコンが準備された。

会社で使用している同タイプだ。口元が緩んだ、筋肉痛の千幸に次なる課題が与えられた。

「あちらに有る雑誌から好きなのを選んで、記事文書をワードで転記していって下さい。1時間で何文字、何頁をキーボード打ちして書けるか。また図柄やイラストをペイントソフトで描き模写などもして下さい。Excelソフトも活用して下さい。今日1ページ打ち込めたら、翌日は1ページ半と自分で目標設定して毎日訓練を進めて下さい」

指が動かなくてもスティック装具を使い、右手でトラックボール、肩の上下可動域にて両腕でキーボードを打つ。この連続動作にて半日間ほどパソコンを自在に使いこなせれば、できる仕事の目安が立つ。

そう想えば自ずと、車椅子上でのキーボード打ちトレーニングに真剣に取り組むことが出来た。肩や腕が悲鳴をあげようと、怠けよう、スローペースでやろう等とは一抹も思えなかった。

疲労の限界は身体が正直で、腕が挙げることが出来なくなる、座っている姿勢を保てなくなり上半身が前か横に傾き倒れて、自力では戻れなくなってしまう。

文字通り、クタクタで座る姿勢が採れなくなってしまうのだ。

僅かに残る余力で、病室まで車椅子を漕いで数分を要して戻った。

途中、廊下ですれ違う顔なじみの配食のオバチャンが、冗談で車椅子をバックさせる。「千幸さん!おかえりー、お疲れさーん、ホレホレもう一息や~」

これには、マジで怒れてしまうのもしばしばであった。

そして、病室までの最後の難関「車椅子ホイホイ」。

病棟入口ナースセンター前の廊下に、5mほどの粘着シートが敷き詰めてある。

リハビリを終えて来た車椅子のタイヤの汚れを、強力粘着除去して病棟内には泥汚れなどを持ち込まないようにするためだ。

ここを通過するには、結構の腕力で車椅子を漕ぐ必要がある。初速の惰力で、一気に通過するのがコツだ。途中で止まったら、弱い腕力では粘着力に負けてしまう。

しばしば途中で止まってしまい、にっちもさっちも動けなくなった患者が、ゴキブリのような目で、ナースセンターに助けを求めていることが有る。


 スパルタ式リハビリ繰り返しの日々も2カ月ほど過ぎ、腕のパワーアップは自覚できるほどに成った。しかしながら、目標であった前腕や背腹筋機能の復活は、教科書通り全く進展は現れない。

車椅子の重度障害者生活が現実味を帯び、俺に限っての「奇跡」が遠ざかり落胆気味、時にはヤケに成ったりしていた。

夜中に目が覚め、トイレに行こうとベッドから足を下ろそうと、何度と挑戦したことか。

障害を受け入れられない。典型的な苦悩と葛藤の時期である。

受傷障害者が最も多く自殺するのは、この時期だという。

特に、桜の花がほころぶ4月初旬は、入学、進学、転勤など新天地への期待に溢れる春は、落ちこぼれる己に失望し易いらしい。

或るリハビリがない日曜日、ベッド上で相変らず天井模様を見ていたとき、

「お父さん!」

健太が学生服を着て、ベッドの横側に立っていた。

健太は中学校入学前に、学ラン姿をお父さんたる千幸に早く見せたくて祖父に連れてもらってきたという。

「スーパーサイア人計画」が頓挫し、残念無念で自暴自棄気味であった千幸より、十二歳の健太のほうが、障害者に成ってしまった「お父さん」を現実として受け入れていたのだ。

新しい環境でイジメも受けただろうに、愚痴も言わない。

そんな息子の方が遥かに己より逞しく成長していることに、嬉しくも哀しくもあった。


「あっ~筋肉痛で、これでは夕食を食べる力もないゾ~」

と、毎日同じ様な題目を叫んで病室に戻る日々が続いた。

ソメイヨシノ花吹雪の4月初旬の或る日、病室には、会社の後輩である栗山が待っていた。

リハビリの状況や会社の状況など、ひと通りの雑談の後、カバンからドサッと数冊の本をベッドテーブルに置いた。

「千幸さん、この本を来週までに読んでおいて下さい。他にも有りますので、来週また来ます」インターネット関係の本らしく「Norton Anti Virus」「Netscape Navigator」「Eudora」など、聞いたことがない英文字ばかりである。パソコンはワープロソフト「一太郎」や表計算ソフト「Multiplan」などNEC社製PC98のN88-BASIC上でのソフトは使い慣れていた。

しかしインターネット利用は経験がなく、パソコン通信レベルで千幸の知識は止まっている。

僅か1年弱の入院期間中に、オペレーティングシステムもソフト類も海外製となり、日本メーカーはパソコンを組み立てているだけの業界構図に成っていた。マイクロソフト社とアップル社がインターネットの利用を独占していたようだ。

つまりパソコン活用の場は、スタンドアロン利用から世界中の情報に繋がるネット活用に豹変しており、千幸は浦島太郎に成っていた。

「パソコンで仕事をするのには、基礎的知識ですのでマスターをお願いします」

栗山は有言実行で、毎週新しい本を持って来てくれた。千幸を浦島から現代に導くのに容赦のない勉強を科してくれた。

理学療法と作業療法の両スパルタ式リハビリ後の夕食後に、新たに頭のスパルタリハビリが追加された訳だ。

夕食、といってもリハビリテーション科の看護師さんもスパルタ式看護がすり込まれている。右の手のひらにフォーク付スプーンを縛り付けた装具を使って、自力で食事を摂るのだ。

食べさせてくれる、食器の位置を食べやすい位置に移動してもらう等、出来ないことへの介助は全くない。

味噌汁もコーヒーも、ストローで吸う味気なさ。ラーメンやパスタなどは、思うようにフォーク付スプーンに乗せられなく、口元まで持って来るには何度もトライを要する。

かんしゃくを起し、味わうというより何とか口に入れるトレーニングだ。

「あらっ、千幸さん、その分だと寝る時間まで掛かりそうだね。私は夜勤の人と交替するから、頑張って食べてね」

「なんという薄情な看護師だ! 意地でも完食してやる」

この食事難関を自力で超えられなく、食べる量があまりにも少ないとリハビリは中

止と成る。最悪の場合は、点滴で栄養補給、リハビリテーション中止、自主退院の末路と成ってしまう。

自立意志がなく、名古屋労災病院には落第という判決だ。

千幸は5時半からの夕食の後、9時の就寝消灯までの2~3時間はインターネットを利用できる知識をマスターする、栗山の課題をこなす貴重な時間であった。

本のページをめくるも、麻痺した手腕では重労働である。

指に唾を付けてめくるなり、紙の質によっては舌を使ってめくる。

読むよりページめくりに時間を要し、これまたイライラの絶頂だが憤っていては内容が理解不足と成るので、気を鎮めて集中することに専念した。

同病院リハビリテーション科は後遺症が残った容態でも、自宅に帰り最低限の介護で自立支援を達成させる治療、訓練が目標である。

患者の障がいと残存身体能力に応じた、自宅バリアフリー具合と同居家族の介護体制ができたら、退院と成る。従って、退院までには自宅に必要なバリアフリー改修が必要とされる。

また自宅で衣食住の宿泊体験し、介護を含めた生活が可能かを数回実施される。

通勤し仕事できる身体状況でないため、桜が丘の社宅には帰ることは出来なかった。

受傷前にお盆休みに来た、愛知県弥富市の富美子の実家に退院後は住むことにした。

義父母の大きな好意にて、実家の庭に十畳ほどのバリアフリー部屋を増築してくれた。

通院用に自家用車も買い替えた。車椅子からベッド移乗用の手動リフター、玄関段差の高さまで車椅子を上下させる昇降機も設置。会社からは、バリアフリー浴室の試用モニターということで、介護用シャワー、トイレをユニット室化したバリアフリー新商品を設営してもらった。

 南海病院退院時は、障害者施設行きかと、困惑で頭を抱え込んでいた自体からは、大好転だ。

3度の帰宅宿泊を経て、帰宅許可が出され、5月末に退院と成った。


               ◆


垣根のツツジの季節は終わりかけ、新緑の初夏の始まり。増築部屋の南側は一面の田んぼに面している。田植えを待つ蛙の合唱が千幸を歓迎してくれた。

不本意の念で桜が丘から連れてこられてしまった、茶トラのプチとキジトラのコトラは、秋田犬とセントバーナードが同棲できるほどの大きさの小屋に棲んでいた。

「プチ!コトラちゃん! 帰って来たゾー」

十ヶ月ぶりの千幸の顔をチラ見しただけである。罪の意識と淋しさが込み上げた。

在宅介護は現在の介護保険制度の様な公的支援はない。

小便は「膀胱瘻(ぼうこうろう)」と呼ばれる、へその下辺りに手術で開けられた膀胱に通じた穴にカテーテルが留置され、そこに繋がった尿パックに垂れ流しである。

このカテーテルに尿のカスが溜まると詰まってしまうため、膀胱洗浄などの常時メンテナンスを要す。膀胱瘻カテーテルの尿詰りは、昼夜問わず突発的に起き、悪寒と頭痛が生じ、放置しておくと腎盂炎に成る危険性が有る。

大便は腸自体も麻痺しており、ぜん動運動がなく便は肛門側に送られない。大腸に溜まった大便は、肛門に指を突っ込み、便を搔き出す「摘便(てきべん)」をしてもらう必要がある。

これらの医療ケアは家族らが協力して行うものとされ、退院までに病院で看護師の指導を受け、自宅ケアが出来るように成るまで練習をする。

妻の富美子は看護師資格を持っているので指導は必要なく、入浴ケアも含め介護の殆どが妻の務めと成った。

4週に一度の通院にて、新しい膀胱瘻カテーテルに交換される。が、体調により尿中のカスの量は変わり、数日に一度はカテーテルが詰まるトラブルは起きる。その都度シリンジでイソジン消毒液をカテーテルから膀胱内の洗浄が必要である。

摘便は隔日に行う。入浴はシャワーチェアを用いて、週2回してもらう。

元来、体が弱い富美子には重労働の介護の日々と成った。

退院後、弥富の増築部屋にはインターネット接続工事やパソコン、様々なソフトが会社から配達された。ワーケーションに必要なハードと機器は、会社がすべて準備してくれた。

同時に、栗山が頻繁に来訪し、入院中に鍛えたキーボード打ちと詰め込んだ知識を実用化。

インターネット活用した情報の収集やホームページの作成など、2~3か月間パソコン活用実践トレーニングを実施。

「千幸君には在宅勤務を定年の六〇歳までしてもらう」

大川事業部長の意向であった。千幸は奇跡的な果報者であった。

テレワーク。コロナ禍で企業が具体化を進めた働き方を、四半世紀前に千幸は日本では先駆者的に進めていたのだ。

妻実家に仕事部屋を増築。バリアフリー水廻り設備の会社からの提供。まだ一般的でないインターネット環境のハードとソフト提供と人的派遣。なんたる恵まれた果報者。

まさに「干天の慈雨」だ。中国の老子が伝えたという、古い慣用句だ。

日照り続きですべてが枯れ尽くして、「もうダメだ!」と倒れた時に頬に落ち感じた一滴の恵みの雨のこと。たかが一滴に雨への希望が開く、ありがたい感謝の念、苦しい時の救いの手と言う意味らしい。

半年前の初春、千幸は障害者施設に入所、富美子と健太との家族生活は終わり。

何の保証もなく仕事を失い無収入に。手足不自由な四肢麻痺で生活の基盤をすべて失い、万事休すにて途方に暮れて見つめていた病室の天井模様。

半年後の初夏、家族同居できる住処、パソコンする部屋と仕事ができるだけの体力とスキル、通勤できずとも在宅ワークで保障されるサラリー環境。

まさに「青天の霹靂」「棚から牡丹餅」と嬉しき故事満杯の大転換だ。


受傷した夏から3年が経った1999年の夏。

巷では、ミレニアムとざわつき始めている。

在宅ワークも軌道に乗っていた。インターネット活用で特許調査など仕事の幅も拡がるに連れ、大川事業部長をはじめ共に仕事に忙殺された営業や開発部門の同輩、後輩たちの支援も有り、サラリーも順調に上がっていった。

父も母も常に在宅している環境が奏功してか、健太も学業成績がのびていった。


残暑厳しきお盆過ぎ、蝉しぐれに降り込められた様な、お昼過ぎ。

座敷向こうのトイレで、聞いたことがないような鈍い音がした。


「お母さん!お母さん!」

「富美子!富美子! おいっ、直ぐ救急車呼んでくれ!」

健太と義父の悲鳴か怒号とも採れる叫び声が、座敷間じゅうに響いた。

義父と健太に頭と脚を持たれ、自力で動けない千幸の視界に入って来た富美子は、返事も反応も意識もなかった。

義母の119番は5分もしない間に、サイレンが間近に聞こえてきた。

数名の救急隊員が富美子のバイタルをチェックしたか否かの間に、運び出され南海病院に向かって行った。

健太と義父が救急車に同行し、極端に静寂と成った仕事部屋の床で千幸は叫んでいた。

「フミ!戻ってこい!フミ!戻ってこい!」


夕刻過ぎ、車椅子の千幸が健太と富美子の病室を訪れた。

富美子は気管挿管され人工呼吸器に繋がれ、心臓モニターに心電図波形と脈拍音が部屋内に無機的で規則正しく、虚しく響いていた。

温冷感覚が麻痺している千幸の手には、握った富美子の手からの温もりは分からなかった。

「いわゆる脳死状態です。今夜がヤマです」

救急担当医師は、これまた無機的な口調で言葉短く伝えるのみであった。

千幸と健太は、富美子のベッドサイドで数時間が過ぎたのだろう。

たった3人の家族水入らずで、父子二人は何を話したのか千幸は記憶になかった。

モニターの心電図波形が乱れ始め、脈拍音リズムもひどく乱れ始めた。

担当医が急いで看護師と共に病室に入って来て、蘇生措置を始めた。

日が変わる少々前に、富美子は息を引き取った。1999年8月20日、享年四三歳。

健太は中学3年生、小学6年生の時に父親が障害を負ってから3年の後に母親を失った。




まさしく、人間万事塞翁が馬(にんげんばんじさいおうがうま)だ。

      ※ 幸せが不幸に、不幸が幸せにいつ転じるかわからない。

        だから安易に喜んだり悲しむべきではないということ。

                   / 中國漢時代の故事

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