第4話 無知の人生らせん階段
搬送された南海病院では、連絡を受けた富美子と義父母が待っていた。
加藤千幸は尋常ではない大怪我をしたのは感じており、ストレッチャーの上からうろたえる富美子の顔を見て、
「ごめん、フミ、ごめん、やっちまった・・・」
潤み声を発するのが精いっぱいであった。
「喋れるの!」「わたしが悪いのヨ!ごめんなさい、ごめんなさい」
富美子は泣きじゃくって、ストレッチャーに連いて来ていた。
CT、MRIなど一連の検査を終え、病室に運ばれて間もなく、担当医から説明を受けた。
「頸椎(首の骨)の圧迫骨折で、頸髄(脳から体への中枢神経)のC4とC5番部位が潰れており、
首から下部の身体は完全麻痺状態です。C4頸髄の損傷状況により自発呼吸できなく成れば、気管支切開し人工呼吸器を装着します。今夜がそのヤマでしょう」
「・・・・・・・・」
身体を支えている背骨の中には感覚や運動を司る「脊髄(せきずい)」という中枢神経が通っている。この脊髄がダメージを受け、様々な症状が生じる後遺症のことを脊髄損傷と言う。
背骨は首からお尻まで繋がっており、その中に脳からの信号を全身に伝える中枢神経が有り、首の部位を「頸髄(けいずい)」、背中部を「胸髄(きょうずい)」、腰部から「尾骶骨(びていこつ)」までの「腰髄」「仙髄」に分かれている。
それぞれの脊髄のどのレベルがダメージを受けたかで、脊髄損傷の障害重症度が決まる。
千幸が損傷した首部位の頸髄は、8つの部位から成り、脳に繋がっている最上部がC1とされ首の最下部位をC8と呼ばれている。
頸髄(C1~C8)からは主に上肢の運動・感覚、呼吸する運動に関わる神経が分岐している。
障害を受けた部位より下へ脳からの指令が伝わらなくなり、また下からの信号が脳へ伝わらなくなる。
そのため運動麻痺、感覚障害、排尿障害、排便障害、呼吸機能や体温調節障害などのさまざまな障害が生じる。
しかし当の千幸は、医療とは全く異なった業界のワーカーホリックだ。
医師が言う医療専門用語への理解が、曖昧かつ脊髄損傷については「背骨骨折の重傷」程度の見識である。
楽観的に「首の骨の骨折か」と腕脚の骨折の重い程度と捉えていた。
「南海病院では頸髄圧迫損傷が出来る専門医師は居ないため、2週間後に名古屋大学医学部附属病院から来る専門医師に手術治療をする予定とします。損傷頸髄部のMRI画像が真っ白でしたので、麻痺などの後遺症が残る可能性が有ります」
と、担当医師から更なる説明を受けた際も、千幸はドラゴンボールの見過ぎか、全く根拠なく
「オレに限って後遺症なんぞは在り得ないはずだ!現代医学の手術をすれば、あとは悪運強き根性のリハビリテーションで治してやる。」
「月末の手術では、事業部会の資料は諦めるしかないか・・・」
と、楽観的観点のみのお陰で受傷の悲壮感はあまりなかった。
しかし富美子は元看護師、助産師であり総合病院にも勤めていたから、担当医師の説明と後遺症の有無に関しては100%解っていただろう。
只、オメデタイ亭主とは対照的に、生死の間際と今夜のヤマによる人工呼吸器必要性の有無など、目の当たりの亭主の瀕死の容態に全神経を費やしていたのだ。
翌日から病室で治療が始まった。
現代なら幹細胞移植による再生治療を躊躇なく施術するのだろうが、時はiPS幹細胞で山中教授のノーベル賞受賞より10年近く以前の二十世紀。
治療は、受傷部炎症緩和のステロイド点滴と潰された頸髄2か所の物理的な牽引のみ。
この「牽引」という治療の野蛮さには驚いた。
左右こめかみをメスで切り、フリーザーの冠のようなハーネス鋳物金具を、こめかみにボルトネジで留める。
これがまた、絶頂の痛さだ。
「ミシ、ミシ、ミシ」
と、頭蓋骨テンプルにネジが締め入っていく音が、頭蓋骨全体に響き亘り
「頭がスイカの如く破裂する!」
意識が遠くなる寸前であった。
このハーネスを頭蓋骨に固定された頭頂部側と足先に、各10kgの砂袋重りをぶら下げて首を引っ張るのだ。
首から下身体が完全麻痺している上に、ハーネスにて頭も固定され、動かせる部位は「まぶた」「目の玉」「口」「舌」のみに成ってしまったのだ。
蚊の野郎がプーンと顔に飛んできても、追い払う抵抗も出来ない。睨みつけて、フッフッフーと吹くのが精いっぱい。
蚊のヤローも
「こいつには、殺られるコトはないな♪」
と舐められてしまい、以降毎晩のように蚊どもに輸血する口惜しい日々であった。
朝も夜も24時間、視界に入っているのは病室の白い天井のみ。
部屋の明るさのみが、昼夜や天候の区別できる術であり、空が青いのか、夕方か夜明けかも判らなくなっていく。
「気がおかしくなりそうだ! 突然に体は動かなくなったし!何も見えんし!」
身体機能の急変を受容できず、黒目しか動かせない状況が気の毒に思った看護師が、
「これなら、窓から外の空と景色が見える?」
千幸の視界左端の天井に、ベッド右横の窓からの景色が反射して見える様に、洗面台に付いている程の大きさの鏡を工夫して設置してくれた。
おかげで、日にちの過ぎる区別ができるようになった。
2~3日が経過し、ヤマを超えてとりあえずは命にかかわる状態は脱した。
しかし、呼吸する胸の筋肉も半麻痺状態のため、呼吸は浅く大声は出せない。
唾を誤って飲み気管支に入ったら、むせて咳込みも強くできない。また、持病の喘息を誘引してしまうなど、麻痺による2次的疾患や発作が憂われる容態として医療留意された。
会社では、あのポジティブな加藤千幸が盆休み明けでも出社して来ないのに、大騒ぎと成っていたようだ。
何とか事情を聞いた上司である事業部長の大川 建が、最初の見舞い客であった。病室で大川の声を聴くや否や、千幸の左右脳は仕事モードに瞬時に戻り、
「申し訳ありません。建築中の東京の技術センターの資料が出来ていません・・・」
「千幸君!何を言っているのだ!そんなことは気にしなくて良い!から、今は、ゆっくりと治療に専念せよ!」
「ゆっくりと」の言葉を聴き、彼は容態、受傷部位など怪我の重さを知っているのだと判った。髪は丸坊主にされ、ハーネスで固定された顔面は見られたくなかったのでタオルで目まで覆おってもらっていた。
大川に同行して来ていた部課長との話声を聴き、会議の彼らのきりっとした顔が鮮明に浮かんだ。しかし、今日の大川をはじめ連中の話し方は、会議でのいつもの鋭さがない。
穏やかさ、優しさ以上に、共に戦って来た戦友の如く
「千幸、オマエが居てくれなくては困るが、今は治すことだけを考えろ・・・待っているゾ」
「会社の資料とパソコンはとりあえず全部預かるぞ」
短い会話の中で、このバブル崩壊兆し厳況のさなかに戦線離脱する申し訳なさと、悔しさでタオルは潤み
「はい・・・」
それ以上喋ると嗚咽に成り、言葉には成らなかった。
数日後、人事課長の城 忠邦が来院し、事務関連の話をして行った。
「千幸は有給休暇と傷病手当支給期間を併せて2年間位あるから、焦らないで治してくれ」
「それと、千幸の仕事面と雑務の世話を栗山隆一が担当し、彼にチョクチョク来させるから」
以降、大川をはじめ城と栗山のうち、誰かが十日間に一度は病室に来てくれた。
おかげで厚生面での家族への負担は全くなく助かったが、彼らの顔を見、会話し帰る度、
「仕事に戻りたい❘❘ いや、絶対に復活してやる!」
社内の景色、東京に建築中の技術センターの進捗等々、悶々とした焦燥感で頭いっぱいに成り、公衆電話に行こうとしてベッドから足を下ろそうとするが、過酷な現実はピクリとも手足は反応しなかった。
富美子と夏休み中の健太は、毎日というか常時そばに居てくれた。
「あんたは治る人だから。健太が待っているヨ。」
「お父さん、今度いつボーリングに連れて行ってくれる?」
医療従事者であった富美子は真剣に奇跡を信じていたようだ。今にして想えば。
あと半年で卒業するはずだった、桜が丘小学校から弥富市の学校に転校する羽目になってしまった健太は、あの強いお父さんは必ず回復する、それがいつかと待っている。望みでなく、秋までか、冬休みまでかかるのかと。
約束したスーパーサイア人計画。
健太の無垢な一言一句と表情が、千幸には重すぎた。
「健太、けんた・・・・」
健太が富美子の実家に帰った日の病室消灯後は、千幸は声が出るほど涙が漏れる夜となる。
ただ一つ救われるのは、
「健太じゃなくて、俺で良かった。」
そして、もうひとつ涙が漏れる想いがある。
三回忌にも行かないバカ千幸に罰?子への親心に、それは在り得ない!きっと、
「そんな無茶苦茶に無理をして働いていると、喘息が酷くなって死んじゃうヨ」
これ以上無理をせず休みなさい、と首を骨折しても命は護ってくれた母親の想い。
一人暮らしに放っておいた40歳の若さで障害者に至るのを目の当たりにした、親父の悲哀。
「放蕩息子の千幸が、取り返しのつかない重いバカをした」
「ごめんなさい、五体満足に産み育ててくれたのに・・・」とサウダージ。
◆
8月30日、手術実施。
頭のハーネスから解放され、千幸は初めて病室と鏡に映っていた窓からの眺めの実像を見た。
ストレッチャーに移乗され病室を出たら、看護婦さんたちが一同並んで、エールをくれた。
「千幸さん、頑張って!頑張ってね」
たかが骨折の手術だろうに大袈裟な連中だ、千幸は自分の思いとの違和感に苦笑いするのみ。
手術室に入り、手術台に移されて、執刀医師から手術の概要を説明された。
「首の前側からメスを入れ、気管と食道を避けて圧迫骨折部を伸ばします。腰から骨を削り取り、棒状にして骨折部位に繋ぎ留めます。またチタン製の金具を頸椎前方にネジ留めし、伸ばした頸椎状態を固定します」
数名の医師と数名の看護師。手術のシミュレーション練習を繰り返し行ったのであろう。
まるで造り付け木工細工ように、工務店大工さんの説明に聞こえた。
「麻酔を吸入してもらいますので、吸い込んでから数字を数えて下さい」
「1、2、3、4・・・・」ここからは覚えていない。
「ガチャ、ガチャ、ガチャ・・・」と耳の側で器具類を片付ける音が聞こえ、気が付いた。
「終わりましたヨ」と執刀医師。
6時間近い手術時間であったらしい。刺激に弱い気管支に違和感、たぶん気管支を剥がし移動させたのちに元の位置とは微妙に異なるところに戻されているのだろう。
喘息特有のヒューヒューとした喉からの喘鳴と息苦しさが残っていた。
病室に戻ると担当医師が待機しており、
「2週間仰向け状態で居たから、側臥位(横向き)にしますね」
ゴロっと頭も横向きに成ったら、グルグルグル~とバク転と前転を高速で繰り返された如く、天井や病室景色が回って見える、これほど激しい目眩は初体験であった。
長時間同じ姿勢の後に90度回転しただけで、三半規管の平衡感覚がこれほど乱れて反応するのに驚きである。
「手術で骨折部位は固定されたので、明日からリハビリテーションしてもらいます」
千幸は武者震いする思いで、己の根性魂に気合を込めた。
「よおし!明日からが運命の勝負だ!ド根性でリハビリに打ち込み、完全復活してやるゾ」
頸髄圧迫完全損傷の知識がない、浅はか者の雄叫びとも知らず・・・。
リハビリテーションはPT(理学療法)による残存筋力の強化と麻痺部位の他動運動。
そして生活に必要な機能助長へのOT(作業療法)が各々毎日1時間ほど行われた。
手術で圧迫破壊された頸髄を伸展修復した効果は、翌日から顕著に現れた。
首しか動かすことが出来なかったが、肩の上下すくみ、腕を動かす肩周りの三角筋、腕を曲げる上腕二頭筋の動きが戻って来た。
「この分で行くと腕を伸ばす上腕三頭筋、前腕を動かす腕橈骨筋、バスケットボールに必要な手首のスナップ力などの手腕機能は、秋~年明けまでには戻せる。そして春までには、大小胸筋、腹筋、背筋などの体幹機能を回復させれば、立つことも可能だ」
千幸は希望に満ちた思いで
「既定の2時間リハビリでは甘い。自分独自のリハビリで数時間プラスしよう!朝食後とリハビリ終了後の夕食までの時間は、手動車椅子で病院内を徘徊しよう」
と、決意した。
千幸を車椅子に移乗させるには看護師さんなど、3人以上の人手が要る。
「オーイ! 車椅子に乗せてくれ❘」
麻痺した手ではナースコールボタンが押せないため、都度大声で呼ぶのが、日常恒例と成った。
腹背筋が麻痺しているため、幅広の布帯で車椅子に縛り、上体を固定した。
また、車椅子のリム部を握れないので、キッチン用のゴム手袋を着用し感覚がない手のひらでリムを擦り、カタツムリより遅いスピードだが車椅子を自走させ始めた。
千幸の居る病室前の廊下は、ナースセンターから隣の病棟までの2~30mの直線。
自主訓練の当初は一往復するのに約1時間を要した。
1日に数往復移動するのが精一杯であった。
それでもベッドに仰向けで、目の玉しか動かせなかった一か月前と比べれば、座って見える病棟内と看護師たちの顔、そして自分の意志で360度方向の視界が確保できることにストレスは溜らず、数往復の車椅子自走訓練による肩周りの筋肉痛も苦ではなかった。
理学療法リハビリ訓練室では、残存筋力のアップと体幹機能の向上を主に毎日訓練を行った。訓練室では上半身両側に両腕を立ててマット上で自力座位をとる。平衡感覚と上体を支えた両腕の力のバランスで座位を保つ訓練。
座っている千幸を見て富美子は大喜びをした。
「健太にお父さんが座っているところを見せたい、呼んでくるわ!」
ところが健太は千幸の座位保持を見ても、喜ぶどころか苦々しい顔をして戻って行ってしまった。健太にとって「強いお父さんのイメージ」と大きく異なり、失望しかなかったのだろう。
「夏まで、バスケットボールコートを走り回り、水泳やプロレスでも絶対勝てなかった、お父さんには程遠い!」
千幸にとっても初めて健太から、失望と憐みの眼差しを受け、
「転校させて仲の良い友達もできないだろう、意地悪もされているだろう、健太の唯一の強い味方であったお父さんが弱くなってしまい、ごめんな、健太」
と悔しくも情けなくも、初めて抱く父親として申し訳なさの感情であった。
秋に成りテレビでは「メークドラマ」でプロ野球が盛り上がっていた。
星野監督率いる中日ドラゴンズは、ナゴヤ球場を一軍本拠地とした最後のシーズンで
あった。東京出張する際に、桜が丘から名古屋駅までのJR中央線から眺めていた、
建設中のナゴヤドームに観戦に行けるのだろうか、と複雑な思いであった。
落合博満と松井秀喜をクリーンアップに据えた、ジャイアンツが最終試合で勝ちリー
グ優勝をした。
地元ドラゴンズファンの千幸は、メークドラマの口惜しさも重なり、自主トレは欠かさず実施した。病室前の廊下往復は克服し、正面玄関のロビーやエレベーターで上下階まで、病院内を車椅子で制覇していた。
車椅子を漕ぐ上腕二頭筋は強力に鍛えられていったが、計画していた上腕三頭筋や前腕、手首の麻痺は治らず自在に動かせず、知覚も戻っていない状態のままであった。
正月が過ぎ、リハビリで麻痺が戻るといわれた急性期の受傷後6か月間まで残り2か月。
担当医師と理学療法士に訊ねても、いつも同じ回答であった。
「まあ、そう焦らずリハビリ頑張って下さい」
そう言われても、手術後に戻った肩周り他の手脚の機能は全く戻らない現実に、人一倍自主トレを重ねた千幸には焦りが積もるのみである。
のちほど判明したことだが、鬼気迫る表情で毎日欠かさず自主トレに励んでいる千幸に対しては、損傷頸髄部の状況からして重い後遺症が残るのは自明の理であったらしい。
しかし千幸の希望に満ち溢れた、自主訓練を目の当たりにし、
「障害者、後遺症、回復困難、復活不可」
宣言及び言葉すら、看護師にも御法度かつタブーと申し合わせていたのだ。
背骨骨折の脊髄損傷、さらに重病である自分の頸髄損傷の知識がゼロであることが、千幸の根性魂である自主トレなどへの活力源泉であったのだ。まったくもってオメデタイ男であった。
二人部屋に入院していたのだが、隣のベッドの患者は次々と治癒し退院していく。
脊髄損傷患者も入院してきたが、当初は千幸と同様に手脚が麻痺し動かせないが、手術後リハビリで車椅子を自由自在に操れるまでに回復していった。
自主トレ中に廊下で逢う他の部屋の患者も、自主トレ当初に会釈を交わした同胞と思っていた人たちは皆退院し、今では夏季に入院していた人は誰も居ない。病棟で最古参に成っていた。
これも後で知り得たことだが、脊髄損傷と頸髄損傷は損傷部位が異なるだけでなく、麻痺、後遺症面では全く異なる怪我と云っても差し支えないという。
2020東京パラリンピックで周知された様に、ボッチャ競技や車椅子バスケットボールでは、脊髄損傷と頸髄損傷麻痺の度合いにより競技クラスが別けられている。
寒中、立春が過ぎ、巷では春めいた話が聞かれる2月15日、南海病院は加藤千幸の頸髄損傷は急性期を過ぎ、麻痺や後遺症の改善は望めないと判断し退院とした。
今後のリハビリや生活面の方法などを病院側に相談したが、手のひらを返し
「障害者施設に入所するしかない・・・」
と、完全に匙を投げたコメントであった。
寝返りも大小便排泄も食事も自分で出来ない身状では、仕事どころか家族と暮らすのさえ出来ない現実ではあった。
妻子の生活はどうなる?健太は養護学校に転校か?
千幸の楽観的であった頭の中では、自分の身体能力は自覚しており、家族の今後は悲観的で
「富美子、健太そして着いて来てくれたプチとコトラを放って、四十歳で己だけ施設生活か!」
「誰のせいでもない、すべて己の責任であり、罪のない家族たちを不幸にできない!」
搭の先端では行き交う船舶を安全に誘導する「燈台内のらせん階段」の下段辺りで、しゃがみ込んでいる己が・・・登り上がれば明るく導き燈台灯り、下段に行くほど暗くなり踏み外して闇に落ちて二度と這い上がれない。
「どう成るではなく、どうする!千幸!」
まさに今、人生のらせん階段でたたずんでいる。
千幸の頭にフっと燈台灯りの先に会社の仲間の面々が浮かび上がった。
喘息の身体に鞭打ち、寿命を削る思いでエネルギーを注いだ会社。
看護師を呼び、公衆電話まで車椅子で連れて行ってもらい、受話器を耳に当てダイヤルを回してもらった。
「城さん!頼みが有ります。脊髄損傷者のリハビリに注力している、名古屋労災病院に転院したい、早急に手配お願いします」
名古屋労災病院は、南海病院で入院中同胞から噂を聞いていた。
名古屋労災病院にはリハビリテーション科が有り、まさにスパルタ式の訓練は勿論、
病室内での看護師も自立を目的とし厳しいらしい。
よほどの意志がないと続かず、3~5割の患者は挫折して自主退院すると聞いていた。
千幸には「願ったり叶ったり」であり、またまた楽観的でオメデタイ男の闘志が戻って来た。
「よお~し、労災病院では家族と共に暮らせる様、全精力を注いでやってやるゾ!」
人生のやり直し。その岐路に立ちすくんだが、灯りが見える方の道に歩み始めた。
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