第6話 抱くものと背負うもの

ベッド南側の掃き出し窓からの眺めは、稲穂できつね色絨毯が敷き詰めてあるようだ。

外構ではコオロギ達の声が、秋の深まりと共にトレモロやテンポが変化して来ている。

「人は、いや命は亡くなった後どうなるのだろう」

千幸は七日ごとの読経中は、生命たるもののことばかり思案していた。

菩提の曹洞宗では、生きている人生こそが「苦」であり修行で在り、未来や過去に囚われず「今、ここを生きる」この瞬間に邁進せよと云う。

「徳」を積んでいき、亡くなって浄土(天国)に昇る。そして、生きている間の未練がさっぱり無くなり、悟りの境地に達し「成仏」すると云う。

浄土真宗の親鸞は「念仏を唱えよ」、されば罪人も善人も皆、死後は極楽に行くと説く。元来、誰もが罪を背負ってこの世に生まれたのだから、浄土に行くには念仏を唱えよ、と。

仏陀は生老病死の、人生で避けることができない四つの根源的な苦しみを説いた。

死生観を説く宗教とは異なり、哲学の域である。

科学では、死ねば思考も意識も「無」と成り、遺体は単なる物体に過ぎないと定義する。しかし、死ぬ瞬間には身体質量が2~3g軽くなることも証明されている。

それは魂の質量か?高校の物理で「物質、質量はエネルギーである」と知った。

手塚治虫の「火の鳥」で、物質も生命もエネルギーであると結論付けている。生命も物質も、個々のエネルギーでなく、火の鳥に集合されている。火の鳥は、宇宙をも包括する大きなエネルギー体のたとえであり、宇宙全体の質量は不変である。

生命エネルギーも死ねば、この大きなエネルギー体に吸収されると、親鸞も云っている。

誰かが死ねば、他で生命が誕生している。モノが燃えれば炭酸ガスと熱エネルギーに成る。

宇宙というひとつのものから、エネルギーの出し入れを繰り返しているに過ぎない。

ひとつのエネルギー集合体から産み出された生命だから、情報共有体からの一抹の情報は、新しい生命体に伝えられているに違いない。

それを「輪廻転生」や「霊魂は残る」「天国から見ている」などと言い換えられているのだろう。

千幸は、そんな結論を勝手に導き信じるように成り、聞こえる秋の虫も、窓ガラスに貼りついているヤモリも、目の前を横切る小さい虫さえも、むやみに殺すことが出来なくなっていた。

「この蚊は富美子の一部を持っている。何か言いに来ているのかもしれない」

「あのスズメやカエルは、不孝した母親の意識部を継ぎ、見守ってくれているかもしれない」

時空を超えて来たエネルギーが、今この時をこの場で共に存在する生命、生きる己と無関係とは思えなくなっている。


富美子の弔いは、会社の若い衆が受け付け役や駐車場への弔問者の誘導など、テキパキと完璧に準備から進行、片付けまでこなしてくれた。

たぶん大川事業部長の大号令も有ったのだろう。いずれにせよ有難い好意で、千幸は感謝の念いっぱいであった。

千幸は、ただ祭壇の前で遺影を眺めて、呆然として時間のみが過ぎて行った。

多くの弔問客の中で、八三歳になる自分の父親の姿が無性にやつれて哀しく見えた。

重度障害を負い、更に妻も亡くした息子の姿、運命を堪えがたい想いで言葉もなかったようだ。

大学時代に母親が体を壊して床に伏し、介護状態に成っても自分のことしか眼中にない千幸は、介護を父に任せて実家を出た経緯が在った。

死去するまでの十六年間の介護を父親に任せっきりで、三回忌を始め、ろくに法要にも関与しなかった、大不孝息子。

そして、己を伴侶として選んだ富美子を亡くした。

「仕事だから仕方がないだろう!」

頻繁な出張やら単身赴任やら、その結末は重度障害者の介護。夫としては自己採点零点である。


愛より急ぐものが どこにあったのだろう。

愛を後回しにして 何を急いだのだろう。 ※「慕情」中島みゆき


「明歴々露堂々」という禅語が有る。

世の真理と呼ばれるものはどこかに隠れているわけではなく、

最初からありのままに現われていて、それに気付く心こそが大切である。

家族が大切という、当たり前のこと。千幸は、手足が動かなくなり、日々の暮らしで目の前の妻を失って、やっと気づいた始末だ。懺悔には、全く遅すぎる。

心が痛い「背負うもの」。母の想い、父の想い、妻の想い。この十字架は背中に焼き付いた。

そして、まったく罪がない息子健太には、既に母がいない人生を背負わせてしまった。唯一の家族である父親も、重い障害者である定めも背負わせてしまった。

温かい家庭を築くのが、望みであった千幸のシナリオは一片の欠片もない。

こんな稀有な家庭環境で人生を紡いでいく、人並みの家庭の愛情を授けるのができない、息子健太には十字架の重みを感じさせない様、この身体が尽きるまで「改悟の念力」を注ぐ。

この肩に「担ぐもの」と、千幸は決意した次第であった。


               ◆


モコモコとした鱗雲があらわれ秋分が近いが、まだまだ日中は暑い日が多い。

南側の窓から、茶トラネコ「プチ」が義母に抱かれて、日向ぼっこしているのが見える。プチもキジトラネコのコトラも、終日、庭の小屋の中で「食べては寝る」だけの日々である。

障害を負って3年余りの間、多くのこと、多くの思いで千幸の犠牲者であるプチとコトラのことを気にする時間も激減している。

だからか、プチもコトラも千幸の顔や姿を見ても、桜が丘の家にいた頃の様にゴロゴロと喜ぶことは無くなってしまった。

「こんな処に軟禁しやがって!」

「母さんと兄弟姉妹の5人で、樹の上から草むらを駆け回り、桜が丘の家では階段から窓枠までかけ登って遊び舞われたのに・・・」

「きっと怒って、スネて、恨んでいるだろうな」

千幸は自責の念で謝りたいことだらけであった。

特にわんぱく元気ボウズのプチの運動量は、妹のコトラの数倍であった。

桜が丘での或る日曜日の快晴な朝、布団を天日干しする際に二階寝室の庭側窓を開けた時、松の木の上で待ち伏せていたプチが、寝室にダイビングジャンプして入って来た。

「内窓や障害物が有ったら、首の骨を折ってしまうゾ」

飼い主に似たのだろう。

そんなプチが軟禁小屋で「食っちゃ寝」の毎日は、さぞ退屈で悶々としていたのだろう。

日差しが強めのある小春日和、小屋の中で高い所から気を失い落ちてしまっていた。

健太と義父が、その日の夕に動物病院に連れて行った。

「糖尿病です。運動不足に因るものです。朝と夜の食前に血糖値を測って、インシュリン注射を打ってください」

動物病院の診断結果は、あたかもメタボ人間と同じで、一生もの不治の病を与えてしまった。

食事も低糖質の療養食のみと成ってしまった。

桜が丘での走り回り遊んでいた暮しが、狭い小屋での運動不足と成り、更に大きなストレスであったのだ。

手足が動かない千幸にはできない一連の世話。健太が中学校への登校前と、バスケットボール部活動後の帰宅時に注射と食事やりの仕事に成ってしまった。血糖値測定とインシュリン接種量の決定、定量の療養食、一連のケアは結構面倒であるが、怠ればプチの命に関わる。

「背負う」決意はまったく役に立たず、プチに一粒の食事も与えられない自分の障害は、結局、健太に負荷を掛けてしまう現実に、千幸は情けなさと自責の念が膨らんでいくのみである。

風通しの良くない屋外小屋では夏季の日中は三十五度以上の暑さになる。

脱水症状に成りやすい糖尿病。

プチの命までも摩耗させることは絶対に避けたい千幸は、夏季中は空調が効き、ケアが万全である動物病院に入院療養してもらうことにした。

入院費7千円/日を約3ヵ月、決して容易なコストではない。

しかし3年前のお盆休み、ここに来る桜が丘宅を出発の際に、

「行ってはダメだ!クルマを止めろ!」

わんぱくネコだが性根は、優しく穏やかな性格のプチ。あれほど興奮して暴れまくるプチ。

必死なアラートを無視し今に至った、プチの寿命には替えられない。

ドラゴンボールに登場する、老界王神が時の異次元空間と呼ぶ「精神と時の部屋」を、プチは生前に体験してウチの家族に加わって来たのだろう。起こり得るアクシデントを知っていた。

三回忌の席で千幸一家と会いたかった、プチ心の中の母親のエネルギー単位が、あのように注意したに違いない。

 そして、この朝晩のインシュリン接種が健太の将来を護るものとは、まだ誰も知らなかった。


富美子の四十九日法要を終えた十月中旬、空気が澄んで夜空が美しく見えるが、朝晩の冷え込みも次第に強くなってきた。

中学3年生の健太は、高校受験日まで半年を切っていた。

母を亡くし、さすがに成績も落ちて来ていた。中学校では進路説明会、同級生は親と担任先生を交えての三者懇談会などが盛んに催されている。

親が関わる行事には参加不可能と、健太は重々自覚していた。

夕ご飯時には、プチへのインシュリン接種にプチとコトラの小屋に入っていく。

部活動用のウォーマーを羽織り、しばらく出て来ないことがしばしばである。

一人っ子の健太には、唯一の兄妹は小学4年生から一緒に過ごしてきたプチとコトラ。色々と愚痴や不平不満などの思いを告げることができる、小屋が自分の部屋でも在ったのだろう。

「なんで俺だけ三者懇談がないのだ!親父は『勉強しろよ』と勝手なことしか言わない」

プチとコトラは目をパチパチして、優しく健太の話をたくさん聞いたのだろう。


 間脳機能も壊れ、自律神経が不調で、体温調整も出来ない千幸の身体には辛い。

受験勉強で追い詰められていた健太も精神的に辛い、冬が過ぎ、そして春が来た。

桜が丘宅ではコタツの中で温もっていたが、屋外の小屋で過ごし、寒さには弱いプチとコトラにも日向ぼっこができる春が来た。

プチとコトラの時空を超えた尽力で、健太にも、志望校に通える春が来た。

 千幸は訊いた。

「合格祝いに何が欲しい?健太」

パソコンか「踊る大捜査線」の青島コート程度かと高をくくっていた。

「自分の部屋が欲しい」

とてつもない要望で虚を突かれた。千幸は数日思案して、大きな決断をした。

健太とプチとコトラが、憩える「時間と場」が有る住処。

「オレの家に遊びに来い」と友達を連れて来ることができる我が家。

この先「故郷、実家」と呼ぶことができ、旅立った後も帰って来られる、心が落ち着く住処。

そして、千幸自身の「終の棲家」となる、本当の我が家を造ろう。

年老いていく義父母に、このまま介護し続けてもらい世話に成るわけにはいかないし。

「よしっ!家を建てよう!」


           ◆


「桜が丘がいいか?8年間住み慣れた静かな街。会社の知り合いが多いし、

健太の小学同級生も居るし、プチとコトラの故郷でもあるし・・・」

「千幸が生まれ育った家が有る、名古屋市の堀田がいいか?同級生や幼なじみ友人も多く、医療、介護の情報も入手しやすいだろう。交通の便は良く、健太の高校も自転車で通える・・・」

「街の情報はゼロ、医療介護体制が全く未知で知人もいないが、兄貴一家が住む豊田市か?」

千幸は住処の場所を、岐阜県桜が丘、名古屋市堀田、愛知県豊田市の3候補で迷っていた。

桜が丘なら百坪以上の広い敷地の中古物件を、バリアフリー仕様にリフォームする。

堀田であれば三十坪足らずの狭小地住宅だから、古い実家を壊し、隣の空き地を買い取り、バリアフリー三階建て住宅を新築する。最も高コストと成るだろう。

名鉄本線で名古屋駅まで一〇分少々で行ける、栄までは地下鉄で三十分と立地条件が良い分、建て坪が狭くなるので、樹や季節の花を植える土の庭は無理だろう。無機的なアスファルト駐車場では、プチとコトラには不満であろう。

ベッド時間が多く、家に籠りがちな、千幸が望む「花鳥風月」を味わうのが出来ないだろう。

豊田市は土地も物件も全く心当たりがないが、健太が就職などで家を離れる数年後も、実の兄貴の家の近くであれば、心強いだろう。

そして命尽きるその時も、我が家で看取り尊厳死も叶うだろう。

敷地百坪とはいかないが、桜が丘と堀田の長短所中庸な住処を築けそうだ。

 在宅勤務は相変わらず忙しいが仕事の合間に、間取りやデザインなどを、パソコンソフトでシミュレーションしているのは楽しく、つい夢中に成り時間が経ってしまう日々を過ごした。

土地取得の問題も有り、堀田の実家狭小地に、四肢麻痺障害の千幸に必要バリアフリー仕様住居を新築設計するのは、不可能だと判って来た。

数年後には、健太も巣立ち、独居の障害者は、二十年後には独居障害老人に成ると考えたら、兄貴の近隣で住むのが安心だろう。

そして、八十五歳と高齢な父親を堀田の実家に独居させておくのは限界とのことで、兄貴宅で同居することに成り、増改築を進めていた。

 実家を出て二十四年、父親独りに母親の介護を押し付け、母を亡くして8年、長男の兄貴と同居し、近くで次男の千幸が居る。

四半世紀ぶりに親子三人が集い住めば、父親にもやっと孝行ができる。

との事由にて、千幸と健太の住処は、豊田市に決めた。


「健太、堀田のお爺ちゃんが入院している豊田市の病院行って、様子見て来てくれないか?」

千幸は受傷する5年前までは、月に一度程度は実家に顔を出し、雑談をしがてら父親の健康状態を確認していた。

受傷してからは実家に行くことができず、富美子の法要時に豊田市にいる兄貴の車に乗せてもらい、ここ弥富市の家を訪れていた。

老いと千幸への落胆のせいか、やつれた感じは顔にも動きにも隠しようがなく、みすぼらしいほどであった。

 堀田の家で倒れているのを、世話に成っていた近隣の人から兄貴に連絡があり、兄貴宅に近い豊田市の病院に入院したのであった。

高血圧症で狭心症の持病のうえ、八十五歳独居で栄養も充分摂っていなくて、この冬季の寒さで体調を壊してしまった様だ。


「おじいちゃん、元気そうだったよ。一緒にコーヒー飲んできた。」

退院して、春には兄貴一家と一緒に棲み、千幸と健太が今秋には近所に住めば、散歩がてら気兼ねしない実息子の家を行き来し暮せば、寂しさと不安も失せ体調も回復し健康状態でご隠居させることができるだろうと、千幸は楽観していた。

 健太は高校二年生、十七歳と成っていた。

バスケットボール部で県大会に行けるか否かのボーダーラインで、朝練習と授業後の部活動に加えて、帰宅後も休日も走り込みの自主トレに夢中である。

高校で良き友達、良き仲間が出来たようだ。勝っては大喜びし、負けては共に悔し泣きできる、生涯友人で居られる仲間と青春真っただ中だ。

5年前に故郷ともいえる桜が丘から転居し、誰ひとり友達の居ない環境に放り込まれ、登校拒否か不良ヤンキーもどきに成長がネジ曲げられると半分覚悟していた。

部活の話をする面構えに充実感がみなぎり、スイカの様な口で笑む表情が戻っているのに、千幸は担いだ甲斐に浸された。

 障害と妻の死、やっと残された者たちの人生に日が差し、顔を上げて今後の計画が明るく成って来たと、車椅子とパソコン装具でテレワークしていた昼下がり、兄貴から電話が有った。

「親父が入院している病院から、容態が悪化したと連絡が有った」

警戒アンテナを低くすると、必ず勿怪が起きる、と千幸はイヤな気がした。

「明日は新築の件で住宅会社の担当者たちが来て、打ち合わせの予定が有るが。ドタキャンして、タクシーをチャーターして豊田市の病院まで行くわ」

明らかに親子ならではの「虫の知らせ」だった。

病院に着き、父親のベッドサイドに車椅子を寄せた千幸の目の前では、あの時と同じだった。

人工呼吸器と身体からは数本の管に繋がれた、親父が横たわっていた。

「お父ちゃん!何やっとるの?千幸だけど、一緒に家に帰るよ!早く!」

昔と同じように話しかけ、叫んで、呼んだ。

側臥位状態の親父の横側の眼から、大粒の涙が溢れ続けた。千幸だと判っている。

気管挿管器具で口が塞がれて話せない。しかし、親父の声が千幸にはハッキリと聴こえた。

「ああ、千幸が来てくれたか、ありがとう、待っとったぞ。お父ちゃんは、もうダメだ。元気でやって行けよ。ありがとう、な・・・千幸」

母親の介護を十数年以上も任せっきりに放っておき、自分勝手で自己中だった放蕩息子。

「今更だけど、車椅子の障害者に成ってしまったけど、孝行する時間を持つつもりだったのに」


いつの時も、母は信じてくれた、父は背中を支えてくれた。

また、背負うものが増えてしまった。重みが肩に食い込む。


第六章 あ・うんのミッション


昨年2000年シドニーオリンピックでは、高橋尚子が女子マラソンで初の金メダルに輝いた。その前の1996年アトランタオリンピックでは、有森裕子がマラソンで銅メダルを獲った。

受賞記者会見で「自分で自分をほめたい」という言葉は、千幸がプール飛び込みで受傷して搬送された夜、南海病院でラジオから聞こえていた。

「イヌは人に就き、ネコは家に就く」と言われている。

全く見知らぬ場所に住処を変えられたのは、二度目のプチとコトラちゃん。

新築の我が家もご多分に漏れず、プチとコトラちゃんの洗礼を受けた。

入居して3か月後には、玄関から階段、廊下、居間の壁紙ほとんどに爪とぎをして、とどめに捲れた壁紙の端をくわえて、きれいに剥がしてくれた。

「これでプチとコトラちゃんの匂いが付き、奴らは我が家として認めてくれたのだろう」

壁紙張り直しの費用を支払いながら、千幸は怒りと呆れを通り越して、安堵の気持であった。

家屋内の地の利も判らず、訪れる人たちは知らぬ者ばかり。恐れと不安で屋外に脱走しないよう、4匹用のゲージを千幸ベッドの隣部屋に据えて、新居に慣れるまで兄妹には住んでもらった。

わんぱく元気だけど優しくも賢くもある、お兄ちゃんのプチは新居に成れるのも早く、健太部屋がある二階の間取りまで、数日で制覇した。

妹のコトラちゃんは気が小さく、臆病で用心深く、千幸と健太の唯一の家族以外の人たちには心を開かず、ゲージの中で引きこもっている日が続いた。

ご飯時に、健太がプチに血糖値測定しインシュリン注射している最中から、プチはニャゴニャゴ「早く飯をくれ!」と甘えて騒いでいる。

コトラちゃんは「お兄ちゃんはニャゴニャゴとダサイワネ!」と冷たい視線をプチに射っている。キャットフード袋の音が聞こえると、プチは大騒ぎにせがんでいる。

その健太の足許では、コトラちゃんが柱に頬をコスリ付けている。

「なんだー、コトラちゃんも、腹が減っていたのか」

と健太に話しかけられると、小声で「ミャア」と瞼をパチパチさせて喜んでいる。

まったく甘え下手で、損ばかりするコトラちゃんだけど、プライド高く、ツンデレで、お兄ちゃんには強い。

プチは昼寝も夜寝も健太部屋のベッドが大好きで、徹夜勉強にも付き合っていた。

コトラちゃんはゲージが近くの、千幸ベッドで腿に挟まれて寝るのが安心でお気に入りだ。


振り向けば、怒涛の五年の歳月が流れていた。

高校二年生の健太とプチとコトラちゃんを連れて、豊田市の住民に辿り着いた。


ここに引っ越してくる際には、前日に弥富市の家から千幸のベッド以外のものは運び出した。翌日に豊田市新宅に搬入据え置きし、千幸が午後に行った時には、褥瘡(じょくそう)が出来ぬように新しいベッドで寝られるように設置してもらっておいた。

時候は十一月の晩秋で朝晩の冷え込みが始まり、三寒四温の季節の変わり目であった。

頸髄損傷者には体温などの調整ができず、体調を崩しやすい辛い時期だ。

エアコンなどの空調設備や、食事に必要なガスと上下水、電話とインターネットは滞りなく、すべて予め使える様にしておく必要があった。

からだが不自由な障害者の転居は、緻密な計画と連携が必要で、健常者の倍以上のコストと時間と手間がかかる。

転居後まず、車椅子の父と高校生の息子は向こう三軒両隣に挨拶は終えた。

しかし「五里霧中」「手探り」「馬の骨」の状況であった。先住の近隣者には、馴染みのない電動車椅子に乗った重度障害者の転入に、驚きであったに違いない。

千幸の在宅ワーク環境は、会社の若い衆がテキパキと整えてくれた。

医療往診、訪問看護、訪問リハビリテーション、そして日常生活の要である衣食住を世話してくれる訪問介護の体制も、ドタバタ劇ながら整えることが出来た。


目標に向かって、一歩一歩と運んで来たのではない。

その一歩一歩が目標なのだし、一歩そのものが価値あるものだ、と今になって思える。


 終の棲家である新宅は「花鳥風月」五感で暮らせるのを、最優先コンセプトとした。

最も長い時間を過ごすベッドからは、南側の庭が眺められる。

庭地には四季の樹木を並べた。季節樹の花の回廊である。

我が家のシンボルツリーの里桜をはじめ、ハナミズキ、ヤマボウシ、ツツジ、紫陽花、イロハモミジ、キンモクセイ。

眺めの左側から、春夏秋冬を季の折々に感じられる様に並んでいる。

暮すためのバリアフリーは、主に車椅子の動線に配慮を最優先とした。車椅子が通るには廊下幅は1m、車椅子が切り替えしなく、旋回するためのコーナースペース。

訪問看護処置が行い易い、ベッド廻りのスペース。ベッドからバスルームへ移動する際に、温度差が無いような空調設備。

等々の仕様を二十坪建て坪に盛り込んだら、一階は1LKしか間取りが取れなかった。

千幸のベッドは、左手に南側の庭を眺められ、足もと側の隣の和室には、今は富美

子が居り、次は自分が入る仏壇を据えている。

頭を起こせば、背負っている富美子と父母の遺影が、千幸を常に見張っている。


翌年の平成十四年、富美子の三回忌法要を、「我が家」と呼べる住処で務めることができた。

母親の三回忌法要を無下にしてから六年目に、車椅子で、豊田市で、お盆を兼ねて棚経を住職と共に唱和しているとは、まさしく「禍福は糾える縄の如し」幸福と不幸は変転する。


 日々を重ね、ひとつずつ煉瓦を積み上げる様に、生活のスタイルが定まっていった。

訪問看護による週2回の摘便(てきべん)と膀胱瘻(ぼうこうろう)カテーテルのメンテナンス。

訪問介護による週2回のシャワー浴と皮膚手入れ。

訪問リハビリテーションによる週一回の、麻痺四肢の可動域他同運動と拘縮予防マッサージ。

整形外科医と内科医師の4週ごとの往診。

そして、自力では暮らせないための生活の要。

朝のカーテン明けから、就寝時の布団掛けまでの一挙一動をケアしてくれる訪問介護ヘルパーさん。朝八時からと昼十一時から、夕方五時から、夜九時からの一日に4回。

単純に数えて、日に四人、週七日間で二十八人のヘルパーさんと、日々暮らしている。

五年前の三時間ほどの睡眠と出張の日々、常に追いかけられている様な暮しから、まったく様変わりした月日が流れている。

まさに二回目の人生だ。身体は不自由でストレスも有るが、こちらの方が「人間らしい」と想えるのが、千幸のオメデタイ楽観主義の長所でもあるかも知れない。

「道端に咲いていたヨと、一輪挿しに水仙」

「ゴーヤがいっぱい採れたから、夕食はチャンプルにするわ」

「向かえの団地の桜並木が満開だよ」

と、急きょ車椅子を押してもらいながらお花見に。

「庭のキンモクセイの花のアロマ香りでリラックス!」

と、エアコン止めて窓全開に、などなど。

ヘルパーさんたちの「慈」の心で障害者や老人をケアし、いかに活力のある生活を援助するか。

「人に感謝してもらえる仕事。『ありがとう』と言ってもらえるのが、やり甲斐の仕事」

千幸が心身を削って忙殺していた仕事は、

「俺が日本経済、いやグローバル視点で日本人の生活水準を上げる一役を担っているのだ」

この世に生きる上で、どちらが「主」か「副」か、とは云えず、両輪として必要な生業なのだろう。いや、仕事という視点で考えるのでなく、「やりたいこと」と捉える方が比較し易い。

 いろんな環境や考えで生活を紡いでいる、各々のヘルパーさんとの会話から、千幸にはまったく知り得なかった人生を垣間見ることが出来、自分の家族にしか焦点を合わせていなかったのが、改めて自戒の念で自覚されるのであった。

しかし、感謝の念は溢れる想いだが、当たり前のことだが自分の家族や肉親ではない反応に触れると、オメデタ楽観の千幸は寂しさを感じざるを得なかった。


               ◆


「ドンジャラジャラ、ギャッハッハッハッハー!おい、親父が下で寝ているから静かにしろ!」

モミジが新緑の盛夏、健太は高校3年生。バスケットボール部活は、サマーカップで名古屋市歴代の強豪校に負けて、3年生は部活動を引退させられていた。

仲間を二階の部屋に呼んで、徹夜マージャンなんぞをしている。

鉄骨造の家だから、麻雀パイが床に落ちただけでも、下階で寝ている千幸にはマル聞こえだ。

翌朝、いつもの様にヘルパーさんが来て二階のカーテンを開けに行って、これまたビックリ。

汗臭い若者たちがイモムシの様にゴロゴロと寝ている。

高校引退試合で負けて、悔し涙の青春に区切りをつけ、

「大学受験勉強にエネルギーを集中せよ!」というのが学校の主旨なのだろうが・・・・。


プチとコトラちゃんも、多くのヘルパーさんが入れ代わり立ち代わりの日々にも慣れて来た。

「プチ、回覧板を置きに行こうか」

オットリ賢いお兄ちゃんのプチは、リードなしでもヘルパーさんの前を歩いていく。

「こっち、こっちだヨ、ちゃんと連いて来ているか?」

と、振り向き振り向き隣の家に行き、帰りは町内をひと回りヘルパーさんと散歩して来る。

コトラちゃんは相変わらずツンデレで、ヘルパーさんが抱っこしようとすると

「フッー!」と威嚇し、ネコパンチや噛みつき技で「放せー!」と暴れる。

しかし嫌われることはなく、あまたのヘルパーさんはプチのファンとコトラちゃん好きが半々である。プチはお利口さん過ぎて手が掛からないが、コトラちゃんは放かっておけない可愛さがあるらしい。

桜が丘で生まれて、同じ茨の道を千幸に連いてきた兄妹なのに、個性が全く違う。

 千幸は相変わらずの在宅ワークで、忙殺されている。

昼のヘルパーさんにベッドから車椅子にリフターで移乗してもらい、昼食を終えるのが概ね午後一時過ぎに成る。ここから夕方のヘルパーさんが来る午後五時までの四時間弱の間は、一心不乱「全集中」でパソコンに釘付けである。

月曜日の朝までに、会社に今週の業務が送信提出されていればOKである。

風邪で熱が有り終日寝込んでいようと、来客が有り忙しかろうと、月曜日の朝に会社のパソコンにレポートが着いていれば、当週の業務は遂行完了なのである。

ある意味では、出勤し顔を出して居れば、サボっていようと居眠りしていようと、OKの通常勤務の方が「楽」と思えることがある。


 近所に住む兄貴も、たびたび千幸の家に寄ってくれている。

岐阜県桜が丘と愛知県豊田市と各々離れて住んでいて、お互いに企業戦士で忙殺していた頃より、会話の機会が多くなっている。

父母を亡くし、堀田の家のことや叔母や従姉など親戚のこと、父母の思い出話が出来るのは、兄弟のみに成ったのも事由だろう。

 自分のこと、健太のこと、住処のこと、生活のこと、ここ数年に起きた禍事も台風一過の様に、今では単調だが落ち着いた日常生活を過ごしている。

 人生初めての我が家を築き、貯金も底が見え心細く成っていた。

健太もその辺は承知の上か、ライフプランでマイホームの次にお金を要す大学教育も、地元の国立に通い助かっていた。

こんな家庭環境でも普通に育ってくれた健太については、千幸には強く思うことが有った。

中学から高校そして大学生の多感な成長期、友人たちと酒盛りや外泊し夜中オールで遊ぶ機会も多いだろう。しかし二十歳すぎても健太には出来ない信念が有ったのだろう。

「俺、プチにインシュリン注射しなければいけないので、無理だ、帰る」

「一回ぐらい注射打たなくても大丈夫だろう、今夜ぐらいはオールで遊ぼう!」

夕ご飯を少なめにしといてもらおう・・・という選択肢は健太には無かった。

桜が丘小学校四年生、一〇歳から顔を見ない日はない。弥富市の家庭の小屋の中で、たくさんの愚痴も不平も聞いてくれない日は無かった、プチとコトラ。

健太にとっては「朋友以上の竹馬の弟妹」なのだろう。

プチも一〇歳を超え、人間年齢でいえば還暦の六〇歳を超えていた。糖尿病の持病を五年以上抱え、食も細く成って来ているのでインシュリンの効き具合が乱れて来ている。

食前の測定血糖値に合わせてインシュリン量を摂取しても、食欲がなく食べる量が少ない場合は、インシュリンが効き過ぎて低血糖発作で倒れてしまうことも間間ある。

その都度、健太が車に乗せて獣医に駆け込み、点滴をしてくる。糖尿病は血糖値が正常に戻れば、発作時はダメか!と心配したプチは、コロっと元気印で帰って来る。

プチの「泣いた烏がもう笑う」さまと同時に、健太の顔の緊張度が失せている。

千幸は獣医から帰ってくるまでは、気が気でないが、健太は必死に車を飛ばしたのだろう。

 たぶん、いや、きっと富美子が亡くなる時に、プチに頼んだに違いない。

「プチ!健太を頼むよ!」と。

 「千幸もコトラちゃんも、自分のことしか考えられない者たちだから」と。

コトラちゃんは富美子にベッタリ可愛がってもらっていたが、頼りにはならなかったのだろう。

 毎日のインシュリン注射で、健太はグレたり、引き籠もりにならずに、大学生に成れたのだ。

 プチの「健太を護るミッション」はいつまでかは、プチのみぞ知っているのだろう。


               ◆


千幸がパソコンに向かって在宅ワークしている昼間は、ヘルパーさんも居ないので警戒心が強くて気が小さいコトラちゃんも、部屋の中、家の中を安心して闊歩している。

千幸のパソコンのすぐ左手にある窓の外は空き地だ。

道路の更に向こうは、農家の畑に季節の野菜や花畑が見通せる。プチもコトラちゃんも窓辺の桟に二人並んで座って、眺めているのが、マッタリとお気に入りのひと時だ。

 天気の良い日の午後は、この日向ぼっこがルーチンであり、幼稚園や小学校の帰りの親子や子供たちには馴染みの窓辺光景に成っていた。

「あっ、あいつら、また座っとるゾ」

「ママ、あれ!ニャンニャンがいる!おいで、おいで」「バイバイィー」

窓の桟の位置によって景色の見え方が違う様で、たて枠側に座る方が見渡し良いらしい。

この場所を取り競うので、よく兄妹ゲンカに成っている。プチがポケーっと窓辺に座っている時に、コトラちゃんが後から来て窓辺に上がると、プチはベストポジションを後ずさりして、妹に譲ってあげる。

しかし、この逆で、コトラちゃんが先に座っている時に、プチが後から来て良い場所に横入りすると、気位の高いコトラちゃんは「フッー」と怒り、プチの鼻頭をバリっと引っ掻く。

プチの鼻からタラーっと血が流れていることもある。

コトラちゃんは感情の沸点が低いのか、すぐ「フッー」「ハッー」と怒る。特にお兄ちゃんには。

横で寸暇を惜しんで在宅ワークしている千幸は、つい見入ってしまうロスタイムが悩みの種だ。


 コトラちゃんは元来、免疫力が弱くて毎月のプチ糖尿病通院の際には一緒に連れて行ってもらい、一万円もする注射をしてもらって来る。


豊田市のこの家に来て五年が経ち、健太もプチもコトラちゃんも桜が丘の家に居た頃の様に、すっかりと「オレの家・あたいの家」として日々暮らしている。

桜が丘の庭で目立っていたシンボルツリー里桜が、この庭でも五度目の開花で庭を彩っていた。平成十八年の春の花粉飛散は多く、千幸も健太も鼻をグズグズさせていた。

鼻風邪がうつったのか、コトラちゃんも鼻水を垂らして、ヒューヒューゼイゼイと喘息の様な息使いをしていた。

鼻水は初夏に成っても止まらず、息使いが苦しそうに見える。カビ菌がインスパイアされる梅雨季は、更にゼイゼイと息の音が普段から聞こえて来た。

「この子は感染症に弱いから肺炎に成りかけている」

抗生剤の注射と内服薬を処方されたが、一向に治っていく感じが見受けられない。

食欲は有るので、やつれていくことはないが、呼吸が苦しそうだ。

 車椅子からは手が届かないソファーで苦しそうに寝ている。

しかし背中をさすってやる事すらできないのが、千幸はもどかしく、悔しかった。

「コ~ートラ~♪、コ~トラ~♪ ねんねしな~ねんね~♪ コ~トラ~」

創作子守唄で、できるだけ近くで見守るしか出来ない、自分の障害が恨めしさいっぱいである。

コトラちゃんは苦しいにも拘わらず、千幸に目をパチパチとしてくれていた。

千幸は仕事など出来る気持ちに成らない、二、三日過ごしていた。


梅雨が明け、プチとコトラちゃんが場所を取りあった窓の外では、グリーンの葉の間に浮かぶようにヤマボウシが白い花を咲いている。

その日も千幸は、ベッド背もたれをギャッジアップし夕食の時間であった。

この姿勢をとると、必ずコトラちゃんが、股間に飛び乗って来て、自分が寝やすい様にグイグイと身体を、千幸の膝上腿辺りにこじ開けてから寝転んでいた。

夜九時過ぎには、ヘルパーさんが千幸の就寝のため、ベッド背もたれを倒し平たくする。

「はい、お父さんは寝るから」

ヘルパーさんが、いつもの様に言えばコトラちゃんはソファーか、隣部屋のゲージ内の自分の寝床に行く。

夜間も暑く寝苦しい時候になり、タオルケットと薄夏ふとんを掛けてもらった。すると、再びコトラちゃんが、ヒョイッとベッドに上がって来て布団の上から千幸の腿の間に入って来た。

「今夜はお父さんの所で一緒に寝るワ」

と、いつもの様に瞼をパチパチと嬉しそうに、ヘルパーさんに目で訴えていた。

 千幸は脚の感覚もないため、コトラちゃんの重さも位置も分からなかったが、苦しそうな息のゼイゼイは聞こえていた。

一時間も過ぎるとコトラちゃんの喘鳴は小さく成っていった。

「寝ると呼吸は浅くなるので、眠ったな」

千幸もそう思いつつ安心したら、自分も眠りに入ってしまっていた。

寝苦しい夜だったが、ベッド横のカーテンから日が入っていたのに気づいた。

ハッと昨夜のことが、頭を駆け巡った。

「アレッ、そういえばコトラちゃんは?!」

千幸は自分で頭を起こすのが出来ないので、耳をすました。

ベッドの右側の床から、ゼイゼイと早く、わずかながらコトラちゃんの息が聞こえた。

「健太!健太!起きろ!すぐ来てくれ! コトラちゃんがー!」

大学生の健太は、昼夜逆転の夜更かしをしているので、二階の健太部屋に聞こえる様、渾身の大声で叫んだ。

ダラダラと起きて来た健太に、千幸はつい大声で言った。

「コトラちゃんが死ぬ!コトラは生きているか!?」

健太はコトラちゃんを抱かえて言った。

「息はしているが、もう意識がないみたいダ!」

ゲージ内のコトラちゃんの寝床に連れて行き、しばらく見守っていた。

看取りだ。

朝のヘルパーさんが時間通りに来て、事態をすぐ察したようだった。


「お父さん、コトラちゃんが、今、息をひきとった・・・」

健太がコトラちゃんを抱かえて、千幸の見えるところに連れて来た。

安らかに眠るように抱かれていた。苦しんだ様子はないのが一抹の安堵だった。

千幸はコトラの額に鼻を埋めてみた。良い香りがしている。体温も温かい。

コトラちゃんは女の子だから逝っても、キレイで可愛い匂いのまま眠っている様だ。

「コトラ、甘え下手のコトラちゃん、昨夜はありがとう。十年間、連れて回ってごめんよ。また、何とかして俺のまわりに来て、コトラの気配を感じさせてくれよな・・・」

声に出せば健太の前で涙が出てしまうので、心で話しかけた。

平成十八年、2006年7月4日、十二歳だった。また、ひとり家族を失った。

千幸が障害を負ってから、激動の十年間だった。

その日の午後には小さな骨壺に入って帰宅した。

庭の里桜の下に、骨を埋め石販プレートに「コトラちゃんおやすみ」刻印のお墓を造った。

桜が丘からの千幸宅シンボルツリーである里桜のセカンドネームは「ケン桜」と呼んでいた。

サードネームとして「コトラ桜」も銘々として加えた。


               ◆


 紫陽花が終わると、毎年のことだが西三河の豊田市は急に猛暑日がやって来る。

三十℃超えは当たり前で、酷暑日と呼ぶ体温並みの三十五℃を超える日がザラである。

お兄ちゃんのプチは精が抜けてしまった様で、ボーっとしている時間が多くなった。

場所を取り合った窓辺にも、あまり登って来なくなった。

ご飯をもらう時に、コトラちゃんがいつも柱に頬をこすり付けたところに、黒い跡が残っている。

プチがその場所の匂いを嗅いでいる姿を見る度に、千幸は自分まで哀しくなってくる。

「病は気から」というが、プチの糖尿病が進んでいるようで目が白濁して来ている。

血がドロドロで毛細血管にまで血液が届きにくくなり「白内障」が進むのが、この病の次のステップらしい。

暑い夏の間は、ダラ~とバテ気味だったが、秋には食欲は戻って来て元気も戻って来た。

翌年の春、コトラ桜は例年に増して、たくさんの花を咲かせた。

一本の枝が他とは違った方向に異常に伸びて来ている。

明らかにウチの中を覗こうとしているようだ。

コトラの骨の養分のせいか、命のエネルギーを里桜に少し残していったようだ。


千幸は論語の「五十にして天命を知る」五十歳に成っていた。

千幸は「不惑どころでなかった四十歳」からの十年間を経験し、「天命」とは天から与えられた命ではなく、天から与えられた使命であると考えていた。

人間の力では抗し難い「運命」や「宿命」が、天から与えられた寿命と思っている。

「天命」を知ることによって、己の人生の価値や方向性を思い定めることは、生きるという事に重みを増すと考えられるように成った。

 健常であれば、バブルの崩壊に奔走し忙殺され続けて、今よりもっと浅く小さな器の人間に成っていただろう、これだけは自信を持って言えると、十年間を振り返っていた。

 健太は大学生を満喫している様子だ。

小学6年生から寂しい思いをさせて来た、という親の負い目を千幸は強く感じている。

その反動か、モノの面では不自由がない様にさせて来たのが、甘やかしに成ってしまったと、悔やむところでもある。

これにより「自己否定」の強い人間性が助長されるのを、千幸は最も懸念していた。

弥富市の家でプチにインシュリン注射した後、プチとコトラちゃんのゲージの中で本を読んでいた頃の彼の方が、心が逞しかったとも感じる。

健太にベッタリであるプチが度々、夕食後にコトラの指定席であった千幸の股間に入り、ゴロゴロ言って寝転んでいる。

朝まで千幸のベッド足許で丸く成って眠っていることも多い。

「どうした!プチ、また健太が帰って来なかったのか?」

プチは何も言わない。いろんな思いをしていても、何も言わない。

「お母さんがいなくなり、お父さんは暫らく居なかったし、妹が居なくなり、健太は?・・・」

ただ嬉しい時は「ゴロゴロ」喉を鳴らし、目をパチパチとしてこちらを見てくれる。

白内障の進行も進み、半分くらいはスリガラス通して見えている様子だ。

月日が過ぎるほど、特に寒暖差が激しい季節の変わり目は、食が細く成り朝ごはんが残っているのが多くなってきた。

少し痩せて来たかな。

プチは誰も遊んでくれない、カマってくれずストレスが溜まると、千幸が真剣にパソコンでレポートを書いている時に、突然キーボードの上で寝転んでしまう。

2~3時間かかり作成した文書をオールクリアしてくれる。

怒っても、プチは目をパチパチして喜んでいる。奴は千幸の障害を解っているのだ。

「お父さんは怒っても、僕を叩いたり投げたりして動かす力がないから、ここに居させてくれるのだ。桜が丘の家で夜中仕事をしている時に紙に爪を立てると、怒鳴っていたのに・・・・」

プチも今や十四歳近く成り、人間でいえば七十歳前後で千幸より一回り以上年配だろう。

「五十にして天命を知り、六十にして耳順ひ、七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず」

プチは、つまり七十歳で心の欲するままに任せても限度を超えなくなっている境地なのだ。

千幸も、人の言うことを逆らわないで聴けるようになる「耳順」に近づいている。

穏やかに悟りに近づいている男どうしだから、ここはムヤミに争わず、共にする時間を大切に憩えるひとときに出来るように成った。


 プチの病は容赦なく体を蝕んでいった。階段も一歩一歩ジグザグして、上り下りしている。

千幸のベッドに上がるのも、ジャンプでピョンでなく、布団を手で掴んでからヨジ登ってくる。

トイレの場所も判らない様で、近くでウンコしてしまっていた粗相が多く成った。

最近は家中の所かまわず漏らしてしまうように成り、玄関から二階の部屋すべてにペットシートを敷いておく状態に成っていた。

そこはヘルパーさんがプロで慣れたもので、不平ひとつ言わずに片付けてくれる。老人や障害者の介護には、オムツ交換から大小便の汚物処理は慣れたものである。誠にありがたい。

 2008年、バブル崩壊不況から十年経ち、立ち直りかけた社会にリーマンショックという更なる鉄槌が下された。

千幸の在宅ワーク業務内容も変わって来ており、「販促企画」「ビジネスモデル開発」の要諦を穿く内容が増してきて、スムーズにレポートが進まなくなって来ている。

 健太は大学院に進んだため、就職活動がズッポリとリーマンショックに重なり苦戦している。

プチの糖尿病も加齢が拍車と成り、ヨボヨボにやつれて来ている。

目はほとんど見えてないようだ。光と嗅覚と音と、家内の間取りの記憶に頼って、ヨタヨタと歩いている。

プチは「辛い」とか「痛い」「苦しい」など、ましてや「死にたい」とは絶対言わない。

「今」を懸命に生き、その積み重ねが「毎日」と成っており、「明日」という観念もない様相だ。

これこそ「宿命」であり「天命」を意志の力でつかさどっているのだと、千幸は見護るしかできない。彼は何も言わない。何か要望を言ってくれれば、絶対にそうしてあげるのに。

 お盆の棚経の日だった。健太は夏休みで沖縄に行くつもりでいたのだが、前日の夜中、プチが階段を踏み外して落ちてしまった。

千幸は、大きな異常音で起きた。プチにただ事でない事態が起きたと布団の中でも判った。

健太を大声で呼び、救急獣医に連れて行ってもらった。

落下衝撃で眼を撃ち、眼球が飛び出てしまったのを押し戻す処置が施されて、帰って来た。

プチは何も言わない。しかし健太に、「行かないで!」「行ってはダメだ!」と訴えているのだと、千幸は確信した。

ちょうど十二年前の今日、千幸がプールに飛び込み障害を負った日だからだ。

あの時も、プチは車の中で「行ってはダメだ!」と訴えたのを、千幸は無視して家族を不幸にした、原罪人だからだ。


障害を負ったのは子年の健太が子年十二歳の小学六年生の時、そして干支もう一回りした子年の2008年の二十四歳。十二年間の歳月。

リーマンショックを何とか超え、健太が就職内定を獲得したのは翌年の2009年の春。千幸も高校と大学進学の時よりも、心底ホッとしていた。

 安堵の中の盛夏に、プチの眼は完全に見えなくなった。

歩くのが精いっぱいで、食も不調のため低血糖発作が頻繁に起こり、インシュリン接種量を決められなくなった。

美味しくない療養食もヤメにして、市販の美味しさ追求の食事に変えた。こんな美味を味わったのも、十年ぶりぐらいだろう。

もう、千幸も健太も判って来た、「そろそろか」と。

 そして、その時はやって来てしまった。

ツクツクボウシが庭に来てくれる初秋。

就職内定した会社から勤務地の知らせ届いた。

静岡の沼津市。新幹線でも高速道路利用しても、三時間あれば帰って来られる地だ。

「プチ、俺、静岡に行くことになったよ。 インシュリン注射も、急いで病院に連れて行くのも難しい・・・」

やせ細って、目も見えない、横に成って寝ている時間が殆どの日々のプチに、健太は話した。

プチは抱っこして膝に乗せてもらっている。健太の匂いと息も吹きかかる声に喜んで居る。

プチは、ゴロゴロ、ゴロゴロと喉を鳴らす振動で答えている様だ。全身が辛いだろうに。


 2009年、平成二十一年の早秋、巷ではマイケル・ジャクソンが逝去、民主党政権が立ち上がり、新型インフルエンザ流行の兆しでパンデミック、前年のリーマンショックの傷跡など、エンタメ・政治・社会・経済の各界で激動、メディアはニュースに事欠かなく喧騒としている。

千幸の仕事も激変のビジネス界に振り回され、情報収集の切り口が定まらず、頭を抱える日々だった。

 プチの容態は見るからに、既に限界であった。

デスクに向かう千幸の車椅子の左側に、屋内の日向ぼっこで使っているコットン・ネルに横たわっている。パソコンディスプレイを見る視界の左端に、プチの様子が入るようにしていた。

もうプチは自力で歩くのも出来ない。

ヘルパーさんが、寝転びながらもご飯と水分は採れるように、彼の茶碗を配置してくれている。

プチは千幸と同様、首だけは自力で上げて水やご飯を食べようと難儀している。

上手にご飯の位置まで口を持っていけず、皿だけがズルズルと動き食べられず、諦めてしまう。

「お父さん、僕はもうダメだ」とは決して思わないようだ。

千幸は、ご飯や水の器をプチが飲み易いように、口元に移動してあげられない身体障害を、これほど恨めしく思ったことはない。

逆に千幸は、「もういいよ、プチ。寝なさい・・・」

と、安楽死させてあげたい気持に成る。

待っている。プチは健太を待っている。

卒論で忙しいのか、注射が不要に成ってから、健太は家に居ないことが多い。

九月十四日の月曜日の昼下がり。二階の自部屋で寝て居る、健太をインターホンで呼んだ。

眠そうな顔をして降りて来た健太も、横たわるプチの危篤容態に即気づいたようだ。

すぐ抱かえて、膝に乗せソファーに腰かけた。

「プチ!プチ!プチ!プチ!プチ!プチ!プチ!プチ!・・・・」

呼びかけに、一言「ニャ」と微かに返事した。何かを告げたのだろう。

「ケンタ、ボクのことはもうイイよ。ケンタ、ありがとう。ケンタ、ありがとう」

千幸には、そう聞こえた。健太にも、そう聞こえたろう。

「プチ!オマエ死ぬのか!」

プチはもう形骸であった。物体であった。プチの心、生命エネルギーはそこにはなかった。

ヘルパーさんが茶碗を片付けている間も、健太は男泣きしていた。

桜が丘小学4年生十歳からの十五年間、健太の兄妹が逝った。

また一人、家族が逝ってしまった。

千幸一家は、健太と車椅子の千幸、二人きりに成ってしまった。


「阿吽(あうん)の呼吸」。

「あ」は全く妨げのない状態で口を大きく開いたときの音から始まり、口を完全に閉じたときの「ん」で五十音は終わる。

そこから「阿吽」は宇宙の始まりから終わりまでを表す言葉とされている。

宇宙のほかにも、「あ」を真実や求道心に、「ん」を智慧や涅槃にたとえる場合もあるという。

「心が考えるもの、心が伝えるもの」と解釈されている。

富美子が息をひきとる際に、二人の間だけの非言語的コミュニケーションで伝えた、

「プチ!健太を頼むよ!」

「あ」が、健太の高校受験そして「ん」が大学院を卒業し就職して配属された時。

健太が道を間違えず、一人前の社会人に成るまでの「あ・ん」の十年間はインシュリン接種という責任感を損なえない方法にて、プチは「ミッション」を完遂したのだろう。


その日の夕方には、プチも小さな骨壺に入って帰宅した。

庭の里桜の下に、骨を埋め石板プレートに「プチ!ありがとう」刻印のお墓をコトラちゃんの隣に造った。

ウチのシンボルツリーである里桜の名前は「プチ・コトラ桜」とした。

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