春に騙される

Dokumushi

春に騙される

 

 春のせいだと思った。大した出来でもないのに、妙な自信が湧いてくる。いつもなら、敵意とすら言えるような疑念を抱えながら、小説を完成させるのに、今回の小品は、誰かにすぐ読ませたいと俺に思わせた。一方で冷静な俺は、自分の異常に気づいていた。俺がこんな情熱に駆られて、自分の作品を思うことなど今までなかった。出来上がったところで何の感慨もなく、いつもふてくされていた。どうせこんなの書いたってしょうがない。

 夢、などといえば大層聞こえはいいが、学生時代の妄執の中に生きているだけだった。自分が小説家になって女にもてたり、先生と崇められたり、月並みな妄想に耽っていた、その延長に今いるに過ぎない。

 本が特別好きだったわけではない。有名になれるなら、何でもよかった。小説を書くことに囚われる前は、画家も、ミュージシャンも、漫画家も、芸人も考えた。

 どれも情熱はなかった。考えることは全て虚構の中で進み、何も始まらないまま、諦めた。残ったのは、自制の効かない狂った妄想癖だけだった。

 どんな場面でも、何をするにしても、ちょっとでも考える隙があると、いつの間にか、妄想が始まり、勝手な物語が作られた。それは現実の延長でありながら、現実とは隔絶された世界だった。俺はそこに満足を見出した。そこでは何もかもが俺の思い通りになった。俺の欲望はそこで擬似的に解消された。

 いつも一人だった俺の唯一の楽しみだった。妄想の中では、俺はヒーローだったし、どの女も俺に嬌態をみせた。

 いつしか妄想は俺のコントロールを外れた。考えたいときに考えるのではなくなった。必要以上に餌を与えられた自尊心は、承認欲求を過大に求め始めた。飼葉はなんでもよかった。偽者で構わなかった。始まりがそもそもリアルでなかったのだから、実感なんて必要な要素ではなかった。

 それは俺の生活には何の関係もなかった。何の影響もない。だから余計に生活する自分と、妄想の自分との対照が峻烈だった。身の丈を知らない誇大妄想家は、そこにいるはずの俺を見下していた。俺はどうやら分裂したらしかった。

 どうしようもなかった。妄想の気狂いじみた蛮行を留める術を知らなかった。出来ることは一つだけだった。現実の俺が、暴走する怪物を満足させることだった。

 俺はどうにかして名を上げようと思った。

 だから、小説を書き始めた。暴れる妄想を利用して小説を書こうと考えた。

 ようやく、俺は何かを始めた。始めざるを得なかった。日々存在もしないやつに俺自身を貶されているのが惨めで仕様がなかった。到頭、耐え切れなくなった。

 書き始めてからがもっと悲惨だった。あいつは一切俺の書いたものを認めなかった。常に扱き下ろした。どんなにこれ以上ない書き出しとアイディアをもって書いてみても、途中で投げ出すことばかりだった。それはあいつが馬鹿にするからだった。見てるだけで何もしないくせに、批評だけは立派に行なった。たとえ完成にこじつけても、評価が変わることはない。罰でも受けるように俺は俺自身の小説を読んだ。

 もともと書くことが好きで始めたわけではなかった。あくまでも暴れ回る傲慢に対処するためだけに始めたことだった。情熱は俺の味方をしてくれない。そこに書く喜びはごくわずかだった。

 そのままずるずると大学卒業まで来てしまった。俺は未だ小説を書くことを、ひいては有名になることを諦められずにいた。

 書き上げた小説は誰にも見せなかった。それは耐え難いジレンマの故だった。誰かに認められることを何よりも切望し、熱に浮かされるように妄想に取り付かれている、その俺が誰かから評価されることで過剰に飾り立てた自己虚像が塗り替えられてしまうことを極度に恐れた。

 しかし、春の妙に浮ついた感じが心を狂わせたのだろうか、俺は今、俺の小説を読んでくれる誰かを強烈に求めている。

 心当たりは一人だけ。

 高校時代の友人だった。それ以外に小説を書いて有名になろうとしていると打ち明けている人間はいなかった。友人、といってもそれほど仲が良かったわけではない、高校を卒業してからは一度も連絡を取っていなかった。

 俺は悩んだ。

 あいつとの思い出はほとんどなかった。帰る方向が一緒だったから、時間が合ったときだけ、自転車を並べて帰った。それだけだった。

 あいつは勉強がよく出来た。曲がりなりにも進学校を名乗っている高校で成績はいつも上から数えたほうが早かった。

 勉強せずに成績がよかった中学時代に未だ引き摺られ、いとも簡単に落ちこぼれた俺には羨望の対象でもあった。

 堅実で真面目でどこまでも現実的に物事を見据えていた。俺はこのときすでに仮象の自己から慰めを得ていた。

 どこかで劣等感に苦しむ自分もいた、決して表には出さなかったが。将来設計について飄々と語るあいつを見て、出来もしない青写真を広げて満足している自分を不甲斐なく思った。

 俺はあいつが羨ましかった。妬んだのだ。

 小説を書いていることを告げる時だって俺はさも本が好きで書くのが面白い、という風を装った。妄想が止まらない、などと馬鹿なことは死んでも口に出せなかった。異様な自己防衛である。だがそれだけが、分裂したままで実生活を送る方法だった。

 打ち明けてみて俺はすぐに後悔を始めた。本好きという嘘をついた後ろめたさだけではなかった。言葉にしてみて初めて自分の将来に対する見立ての浅はかさを理解した。この調子で行けば、取り返しのつかないことになるという微かな悪い予感もした。それと知りながらも、しかし俺はこの夢の出来損ないみたいなやつとこの先も顔を突き合せなければならないだろうと悲観した。すぐに俺の心は暗くなった。

 あいつは笑顔で、

「今度、小説読ませてよ。」

と言った。

 俺は、

「傑作が出来たらね。」

と冗談めかして応えるのがやっとだった。

 あいつと別れたあと、俺は逃げるように思い切り自転車を漕いだ。


 小さなスマホの画面を見つめながら、じっと何かを待っていた。それは俺自身からはメッセージを送信する勇気など湧いてこないことがわかっていたから、それがどこからか訪れてくれるのを待ち望む気持ちからだった。だがそんな無理な望みが通るわけもないことはわかっていたし、結局は自分の決断の問題であるわけだから、こうして震える指先を眺めるより他なかった。

 何をそんなに恐れているのか。あいつは久しぶりに連絡してきた昔の友を簡単に拒絶するような人間か。

 そうではない。俺がここで二の足を踏んでいるのは、あいつがどう思うかということに怯えてるのではない。俺自身が、他に頼る人もないといって、高校時代の友人に連絡を取ろうとする自分を軽蔑しているんだ。しかも書き上げた小説を読ませたいという理由だけで。

 だんだんとこんなことで悩んでいる自分を馬鹿らしく思い始めた。そもそもなぜこんな思いまでして他人に小説を見せなければならないのか。こんな試み、辞めてしまえばいいじゃないか。

 打ち込んだメッセージを削除してスマホを投げ捨てた。

 それでこの問題は終わったはずだった。あいつに連絡を取ることに苦心していたのだから、それを取りやめてしまえば、問題は残らない。

 だが、スマホを投げ捨てたあとで俺は猛烈な無気力に襲われていた。これほどの無気力ははじめてのことだった。今までも、ちょっとした倦怠感を抱えることはあった。書いている小説を諦めたり、時には寝ることさえも嫌になって、パソコンの画面を意味もなく見つめていたりした。

 今や自分が何かをするということを考えることさえ嫌だった。布団に寝転がって、全ての緊張を解く。

 「劣等感」は俺の体の芯まで蝕んでいたのか。今までほとんど誰の人生に思い及ぶこともなく比較せずに生きてこれたが、小説を誰かに読ませたいとつい思ってしまったばかりに、俺は他人の人生について考えた。しかも、俺の知り得る限り最も堅実で計画的な人間の人生を。あいつは宣言通り公務員になって結婚して、あるいは子供さえもいるかもしれない。

情熱のない夢ほどこの世で無意味なものはない。誰も救われない。

 ずっとどこかで抜け出すタイミングを窺っていたんだろう。でなければ、この不毛地帯のような現実は必ず俺を殺したはずだ。でも、自分ではどうしようもなくて否が応でも膨張させる自己像に満足げな顔を浮かべる内なる怪物から逃れられない。俺に出来ることは、現実に俺自身がヒーローになること、女にもてること、本物の賞賛を浴びること、それらを目指すことだけ。

 だがどこかで目指すだけで満足していた。手段はいつの間にか目的となっていた。結局「目指している」という言い訳は、少しの可能性をスパイスに妄想モンスターに極上の餌を与えていたに過ぎない。俺の努力は端から、何ほどの実現可能性も有してはいないのに。

 かといって今の俺から、小説を書くことを取り上げたところで、素晴らしき真っ当な人生を送れるとは思えない。怪物は取り除かれずにそのまま巣食っている。

 いっそ、怪物にまるごと食われてしまえばいい、こんな現実なんてあったってどうせ無意味だ。思い込みこそがこの世の真実であればいい。片っ端から、肥大化した自己像を食い散らかして、膨れた腹をさすりながら、満足げに大きなゲップを吐けばいい。消えて無くなれないなら、俺をお前から消してくれ。

 いくら諦めを重ねてもどこにも向かわない。終局はない。諦めることを、人生に疲れた顔で何かを悟ったようなふりをするくたばり損ないの男になることを想像してみても、それは単なる一つの物語で、取るに足りない妄想の一つで、前進することも後退することもなく、うわごとのように言い訳を続けながら、苦し紛れに小説まがいの粗悪品を捏ねまわすことになる。

 抱えきれない無気力のうちで、俺はあいつの家庭が真っ当であることを信じている。そうと信じることに俺は俺自身の救いを見る。些細な問題はあるだろうが、それでも笑って過ごせるだけの暮らしをしていることだけを俺は勝手に頼みにしている。それを確かめる気は全く起こらない。ただそうあれかしと願う。俺の生活とは真逆であってくれ。一生を怪物に食い物にされるためだけに、書くことの奴隷にしかなり得ない俺の惨憺たる人生を、俺が鼻で笑うために、そうと信じるしかない。

 尿意に耐えられず起き上がる。尿が便器の水にぶつかってしわがれた笑い声のようにやかましい音を立てている。こんなにもまざまざと俺の内部の病巣を観察しえたというのに、俺はまた呪いの言葉を記すように小説を書き始めるのだろう。

 だが、俺は二度と春には騙されない。情熱のない物書きが傑作を書き上げることなんてあり得ない。誰にも俺の小説は見せない。お前はずっと俺の人生を食い物にして笑っていろ。

  

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