4-8
翌日、家に帰るつもりもないけど、この家から出て行こうと思った。
相変わらず重たいリュックを背負うと、背後から声がかかった。
「まだ、雨は止んでないよ。」
ああ、そんな話をしたっけ。
雨宿りさせてくれる約束だった。
「まだ、いていいの?」
お姉さんに問いかけると、「好きにしな。」と言ってくれた。
でも、そう言ったわりに、お姉さんは「行かないで。」と言っているような気がして、僕はリュックサックを下ろした。
結局、それから僕は何日もお姉さんの家に滞在することになる。
お姉さんと二人で過ごす時間は、とても楽しかった。
だから、お姉さんには旦那さんがいて、その旦那さんが帰ってこないという事実をすっかり忘れていた。
そして、お姉さんが庭先を眺めながら、左薬指の指輪を愛おしそうに触っているのを見て初めて、お姉さんがこの家で旦那さんを待ち続けているという事実に気づいた。
ショックだった。
だって、僕は、いつの間にか、お姉さんに恋慕していたから。
***
とある日の夕方、僕はお姉さんが庭先を眺めながら、肩を震わせているところを目撃してしまった。
「お姉さん、泣いてるの?」
お姉さんの肩に手を伸ばして、触れる直前で手を引っ込めた。
触ったら、散ってしまいそうだ。
「大丈夫だよ。」
それって、泣いてるってことじゃん。
頼ってくれないのは、僕がお姉さんより子供だから?
僕は躊躇いながらもそっとお姉さんの隣に腰を下ろした。
お姉さんはそんな僕の方を見ることなく、ただぎゅっと唇を噛み締めて、庭の紫陽花を見ていた。
今日も今日とて雨は降り続ける。
梅雨は、いつ明けるのだろう。
でも、梅雨が明けたら、僕はお姉さんとさよならだ。
このままずっと雨が降り続けたらいいのに。
このままずっとお姉さんと過ごせたらいいのに。
僕は、こんなにもお姉さんを想っているのに。
どうしてお姉さんは、ずっとそいつを想い続けるの。
どうしてお姉さんは、ずっと結婚指輪を大切にしているの。
「そんな奴、やめたら。」
ぐちゃぐちゃと考えていたら、思わず口から言葉。
言ってから後悔した。
一番、言っちゃいけなかった言葉。
「なにそれ。」
僕は驚いた。
お姉さんが怒った顔をして、僕をまっすぐに見つめたからだ。
今まで一度たりとも僕に目を合わせてくれなかったくせに。
こういう時だけ、僕をまっすぐに見るんだ。
なんだかすごく腹が立った。
「お姉さんのこと放っておいて、全然帰って来ないじゃん。」
言うつもりなんて、なかったのに。
つい口から滑り落ちてしまった言葉。
まるで子供だ。
構ってもらえなくて、駄々をこねる子供。
バシッと音がして、僕の頬に衝撃が走った。
「何も知らないくせに、口出さないで。」
「僕はただ・・・。」
お姉さんのことが好きなんだ。
言いかけた言葉は、出なかった。
僕の頬を叩いたお姉さんが、凄く傷付いた顔をして、泣いていたからだ。
僕が、傷付けたのか。
僕が、泣かせたのか。
アイツじゃなくて、僕が、僕が、僕が・・・
何とも言えない高揚感で、僕は震えた。
でも、一瞬でその高揚感はかき消された。
「
お姉さんが、僕じゃない人を呼んだからだ。
傷付けたのは、僕じゃなくて、アイツだったのか。
泣かせたのは、僕じゃなくて、アイツだったのか。
一気に落胆。
頭に冷水をぶっかけられたかのように、急に冷静になる。
"ごめん。"
"言い過ぎた。"
言おうと思った言葉は喉に突っかかった。
僕は、その場から立ち去るしかなかった。
***
翌朝。
昨日まで降り続いた雨が嘘のように、すっきりと晴れた。
僕は、ここに来た時と同じ、白いシャツにベージュの短パン姿。
お気に入りの麦わら帽子に、パンパンに詰められたリュック。
"ごめん。"
昨日言えなかった言葉はまだ言えない。
「出ていくの?」
玄関で靴ひもを結んでいると、後ろから声がかかった。
「うん。梅雨が明けたのだから、雨宿りはお終い。」
「そう。」
できるだけ軽い感じで別れを告げる。
そうしないと、泣いてしまいそうだった。
またお姉さんを傷つけてしまいそうだった。
「僕、お姉さんに出会えてよかったよ。」
「うん。」
「さようなら。」
僕は青天の元に飛び出した。
お姉さんがどんな顔をしているのか怖くて、僕は振り返れなかった。
雨が止んだら、さようなら。
***
ほどなくして、お姉さんの家には警察官がやってくる。
「あなたに、未成年誘拐の疑惑がかかっています。署までご同行願えますか?」
「はい。」
お姉さんはにっこりと微笑んだ。
とても、幸せそうな笑みだった、らしい。
**********
「雨宿り」一部抜粋 より
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