第29話 存在Σ証明群

 まず何を話せば良いか分からなかった。あたしはただ灯波先生に会いたくて会いたくて仕方がなかった。たったそれだけが原動力となってあたしを動かしていたから、今となっては夜道を走るハイブリット車のように、ひっそりと前を向く他なかった。


 久しぶり、こんにちわ、それすっぴんですか? いいセンスのシャツですね、ホームセンターで買いました? 


 どれも違う気がした。このまま黙って灯波先生の手を引いて無理矢理車に乗せて帰ったとしても、それだけでもあたしの願いは叶ってしまう。簡単すぎて、選択肢がありすぎて、どう動けばいいかが分からない。 


 灯波先生があたしを見て、怯えたように体を縮こまらせている。あたしが前に出ると、灯波先生も後ずさる。サスペンスドラマの終盤みたいだった。けど、ドラマみたいにあたしたちにはアリバイなんてないし、どんでん返しも存在しない。


 あたしたちがぶつかるのはいつだって実際の起きた事実と奇跡とは無縁の現実なのだ。まるでコンクリートに頭を打ち付けているみたいで、頭痛がする。


 そのまま灯波先生が崖から身を投げるというのなら、あたしも一緒に地面へ落ちるしかない。だけど、灯波先生は背中に宙を背負うと、後ずさるのをやめた。恐怖心というものがまだ残っていてくれて、あたしも助かる。


 しかしその体勢のままでは突風が吹き抜ければ簡単に落ちてしまう。灯波先生が死ぬ瞬間を見る前に、あたしが先に死ぬことはできそうにない。


 あたしは手を伸ばして、灯波先生の手をしっかりと掴んだ。


「いい眺めですね」


 迷った割には、第一声が淀みなく発せられた。


 あたしの声があたりに響いて、森の木々や動物たちにまで聞かれている気分になる。それでも恥ずかしくはなかった。むしろ誇らしい。あたしの言葉が自然の中に溶け込んでいく様子は、紅茶に角砂糖を入れるように心をまろやかにする。


 灯波先生の手は冷たかった。以前はもっと温かかったのに。


 灯波先生は口をパクパクと開けて鯉みたいになっている。


「声の出し方も忘れちゃったんですか? それとも、あたしが誰だか分からない?」


 顔はそこまで変わっていないと思う。背は伸びたけど、髪型も、メイクも学生時代のままだ。


「和久井紫乃です。あなたの元教え子です」


 まさか自己紹介をすることになるとは思っていなかった。


 灯波先生はあたしの名前を聞いても、「あー! 久しぶりー!」とは言ってくれなかった。それどころか、あたしの脚にしがみついて、うわごとのように何かを呟いている。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 灯波先生の頭が震えている。その言葉は、本当に今のあたしに向けたものなのだろうか。どれだけ耳を澄ませても、すきま風のように、あたしを横切っていく。


「あのとき、私のせいで、本当に、ごめんなさい。私が、しっかりしなくちゃいけなかったのに、私が、全然、知らないばっかりで、正しいことなんて一つも分からなくて」


 涙と鼻水で膝がべちゃべちゃだ。


 あんまり汚されても嫌なので、あたしは子供に視線を合わせるみたいにその場で屈んだ。


「もしかしてラブホに入ったときの話ですか? あれは別に、入った時点で問題なんですから、エッチしたかしてないかは関係ないでしょう?」


 あたしの言葉を聞いて押し黙った、かと思うと再びいやいやと首を振り始める灯波先生。人は年老いていくとだんだんと赤ん坊の頃へと戻っていくというけれど、それにしたって幼児退行はまだ早すぎる。肉体的な退化ではなく、精神的退廃というのなら話は別だけど。


「もしかして、何に謝っているのかも、もう分からないんですか」


 灯波先生の頭に手を置くと、灯波先生が弾かれたようにあたしから離れる。


 飢えているくせに、警戒心だけが異常に強い。野良犬のようだった。


 一年とちょっと会わなかっただけなのに、人間はこんなにも変わってしまうのか。


 あたしの知っている灯波先生と、今、目の前にいる人は大きくかけ離れている。優しいあの眼差しも、志を映したかのようにつり上がる眉も、一生懸命伸ばした背中も、見る影もない。


 なんだか無性に腹が立つ。あたしなんかよりもずっと必死に一人前になろうとした人が、社会に揉まれて廃れていく。なんとかしたいと思っても、あたしにはどうすることもできないし、灯波先生自身は、もう何をしたらいいのか分からなくなっている。こんな不可逆の変化、自然界では決して生まれない。


 これがあたしたち人間が生み出した、あたしたちだけの進化だとでもいうのだろうか。


「いや、もう、やめて。人と関わりたくないの、人が怖いの。私が何をしても、どうせ間違ってるって言われて、一生懸命、誰かのためにって頑張っても、私はおかしいから、自分でも気付かないうちに誰かを傷つけて、誰かの信頼を裏切る。私、もう分かんないの、どれが必要な感情で、どれが不要な気遣いなのか」


 決壊したように泣きわめく灯波先生に歩み寄って、その顔を両手でそっと包み込む。


 灯波先生の琥珀色の瞳に、あたしの紅がかった瞳が混ざっていく。


「灯波先生の嘘つき」


 分からない? 分からないならそんな風に泣きわめいたりしない。灯波先生だったら、分からないなら分かるようにって動き出すはずだ。


 それなのにこうして立ち上がる気力すらもなくして泣いているのは、きっとすべてを分かっているからだ。


「関わりたくないんじゃないでしょう? 怖いんじゃないんでしょう? 灯波先生は、人が憎いんです。憎くて憎くて仕方が無いんです。信じていたこの世界が、損得と善悪だけで構成されていることに気付いてしまったから、泣いているんじゃないんですか?」

「なんで、そんなこと言えるの?」

「灯波先生は、自分のために泣けるほど傲慢じゃないからです」


 この人は真っ直ぐすぎる。人を疑わない、損得勘定をしない、恩の押し売りをしない。そんな人が自分のために泣けるわけがない。この人はいつだって、自分を犠牲に誰かを助ける手段ばっかり模索して、誰かを犠牲に自分を助けようとは微塵も思っていないのだ。


「落ち着きましたか?」


 両手で頬を包んであげると、灯波先生の涙がだんだんと薄くなっていく。ようやく長い時間、灯波先生と目を合わせることができた。


 ずっと会いたかった灯波先生。あたしの心を蝕んで止まらなかった灯波先生。


 溜め込んでいたものはたくさんあった。今すぐにでも抱きついて甘えたい。でも、それらはこんな状態の灯波先生にするべきことじゃないだろう。


「なんで・・・・・・和久井さんが、こんなところに・・・・・・?」

「なんでって、決まってるじゃないですか。灯波先生に会いたかったからです。灯波先生はあたしが恋しくなかったですか?」


 こうやってイタズラっぽく言ってあげると、灯波先生は顔を真っ赤にしてあたしから目をそらす。でも今の灯波先生はそうすることはなかった。あたしの胸元に顔を埋めて、「恋しかった」と聞いたこともないような声で鼻を啜っている。相当、参ってるなぁ。


「髪、ボサボサですよ。いいシャンプー使っているんじゃなかったんですか?」

「おばあちゃんちのシャンプー、アロエの変な奴なんだもん」

「買いに行けばいいじゃないですか」

「人に会いたくない・・・・・・」


 この世界なんて言ってしまえば人しかいないのに。決して叶うはずのない願いを抱いたまま、この人はずっと一人で過ごしていたのか。


「ちょっと老けました?」

「やつれたかも」

「眉毛もこんなビッシリ生えちゃって。シャツもそれ、やめたほうがいいですよ? おっぱい見えちゃいますよ?」


 敬語で話しているはずなのに、なんだか年下の人と話している気分になった。


「あたしが体を売っているってこと、言えば先生を辞めるなんてことにはならなかったのに。灯波先生はバカですね。本当に」


 少なくとも、男を追い払うためにホテルに入るだけ入って、行為はしなかった、とでも言えばまだ罪は軽くなったはずだ。それなのに、灯波先生は最後まであたしの事情を誰にも話さなかった。


「生徒を、守りたかったから・・・・・・」


 こんなボロボロの雑巾みたいになってしまったのに、絞って滲み出た泥水にこれほどまでに強い意志がまだ残っていたなんて。本当にこの人は、あたしを救おうとして救ったのだ。


「でも、間違ってるって言われた・・・・・・丸山先生にも、お母さんにも」


 信じていたから、尊敬していたから、だからこそ灯波先生の心の傷は深いのだろう。あたしだったらうるさいバカと一蹴できるかもしれないけど、あたしはこの世界に一人だけだ。人の選択は、無数に存在する。


「私、やっぱり、間違ってたのかなぁ」


 木々の間を風が吹き抜けていく。ティッシュペーパーのように軽くなった灯波先生の魂までもが風に持って行かれそうな気がして、あたしはそれを急いでつかみ取った。


「灯波先生、この場所なんですけどね、どうしてここまで来れたかというと、丸山先生に教えてもらったんです」

「え? 丸山先生に?」

「はい、卒業式の日、丸山先生が地図を渡してくれたんです。これ、灯波先生が書いたそうですね」


 出発したときからずっとお世話になったメモ用紙を灯波先生に見せる。


「あたしは丸山先生のことあんまり好きじゃないですけど、丸山先生、灯波先生のことなんとも思っていないなら、居場所を教えたりしなかったと思います。きっと、迷っているんじゃないでしょうか」

「迷ってる・・・・・・? 何に?」

「マルを付けるか、バツを付けるか。自分でも分からないから、あたしにこれを託したんじゃないかって思うんです。灯波先生の行動が間違いだったかどうかは、これから決まるんだって思います。もちろん、世間的には確かに間違いだったのかもしれないけれど」


 あたしは思い出す。灯波先生に会いに行くと言って、父はそれに反対した。けれど、杏子さんは賛成してくれて、あたしの背中を押してくれた。


「この世界には許してくれる人と、許してくれない人がいます。灯波先生の行いは、もしかしたら許してくれない人の方が多かったのかもしれません」


 灯波先生は悲しそうな顔をする。灯波先生にしてみれば、世界から放り出された気分だろう。


「でも、あたしは、灯波先生の間違いを愛します。灯波先生があたしの間違いを愛してくれたように」

「私が、和久井さんの間違いを?」

「はい、あの日、灯波先生は、あたしの体を売るという行為にバツを付けました。それでも灯波先生は、あたしを抱いてくれた。だからあたしも、灯波先生のバツを愛したいんです。世間が許さなくたって、あたしだけは、灯波先生のバツを抱きしめてあげられます」


 決して人前に見せられないようなボサボサの髪も、手入れのされていない荒れた肌も、腫れた目元も、社会不適合者と言われてもいいくらいに怯えた彼女の恐怖心も。


 他人が見たら軽蔑するかもしれない。でも、あたしはそんな灯波先生のよくないところも愛したい。


「だから、灯波先生。あのときはあたしを助けてくれて、ありがとうございました」


 どうせ世界なんて変わらないんだ。常識も、偏見も、殺気だったまま一生あたしたちの背中を追いかけてくる。なら、逃げ場を作れば良い。


 立ち向かうんじゃなくて、あたしたちにしか理解できない、あたしたちにしか理解されない、あたしたちだけの逃げ場を。


「そうだ、お腹空いてませんか?」


 あたしはバッグから、父に持たされていた鮭とばを取り出す。


「これ、父からです。灯波先生にもどうぞって。灯波先生が頑張って市場の手伝いをしてくれたこと、感謝していましたよ」

「でも、あれは生徒への過干渉だって」

「誰が言ったんですか?」

「丸山先生が・・・・・・・」

「そうですか。でも、あたしは嬉しかったですよ。過干渉なんかじゃありません。あたしと父がもう一度家族として話し合えるきっかけを作ってくれたのは紛れもない灯波先生です。おかげで、今は前よりも話す機会が増えたんですよ。父も休日は家にいるようになりましたし」


 灯波先生は、安堵したような顔を見せる。


「先生方は、そういうかもしれません。大多数の人は灯波先生の行動に疑念を抱くかもしれません。灯波先生は、この世すべての人に認められないと嫌ですか?」


 灯波先生がゆっくりと首を横に振る。


「あたしだけが灯波先生のことを分かっている。それじゃ、ダメですか?」


 ジップロックを開けて、灯波先生が鮭とばを一切れ、口に放り込む。その塩辛さからか、再び目尻に涙がにじんでいる。


 鮭とばを咥えたまま、灯波先生が首を横に振る。あたしはホッと、胸を撫で下ろした。ここで拒絶されていたら、あたしたちの関係は一方的なものに成れ果ててしまっていたかもしれない。


「こんなところにいたら虫に刺されちゃいますよ。あたしなんてここまで来るのに何回アブに刺されたか」


 赤くなった二の腕を灯波先生に見せる。そのほかにも、靴は泥だけで、指先は草に触れて切れている。ボロボロになっていたのは、あたしも一緒だった。


「鮭とば、美味しいですか?」


 灯波先生は口から鮭とばをぶら下げながら、頷いた。あたしはあんまり、好きじゃないんだけど。


「とりあえずここを離れましょう。灯波先生、続きは帰ってから。実は行きたい場所があるんです。付き合ってくれますか?」

「・・・・・・うん」


 それでも、灯波先生は立ち上がらない。へたり込んだまま、自分の脚を掴んでいる。


「もう少しだけ、休憩してから」

「ごめ、ん、なさい」

「怒ってなんかいませんよ。あたしはここで待っていますから」


 灯波先生の脚の震えが止まるのを、隣で待つ。急かそうとは思わなかった。灯波先生はいつだって、あたしに寄り添ってくれた。悩み事を聞き出しながら、共感するように、何度も頷いて、同情してくれた。あたしが今しているのは、灯波先生がこれまで、あたしにしてくれていたことの模倣にすぎない。


「そうだ。灯波先生。これ、あたしの今の母から預かったものなんです。母に灯波先生のことを話したら是非渡してくれって」

「これは、なに?」

「漫画みたいです。あたしの母、漫画を書くのが好きみたいで」


 クリアファイルごと渡すと、灯波先生は無気力な手つきで中のノートの切れ端を取り出した。


 振り返って、間違っていたと思うことはたくさんある。前に突き進んでいたら、突然通行止めを喰らって自分の間違いを指摘されることも当然ある。


 毎日選択を迫られるあたしたちは、いつだって挑戦者で、成功すれば勝者、けれど失敗すれば、異端者だ。その積み重ねで人間というものができあがっていき、形成された自分に納得がいかなくて変わろうとすれば、それを間違いだと指摘される。そんな理不尽な毎日だ。


 でも、あたしはそのときそのときの選択に、その場で採点をしてしまうのはもったいないと思う。大人はせっかちだから、集団の同調圧力に押し流されて決断を急ぐけど、ときには間違いだと思っていた行動が誰かのためになっていることだってきっとある。


 もしくは間違いに目を奪われすぎて、それを超える確かな正解に気付かないだけかもしれない。


 一生懸命頑張ったのなら、例えそれが世間に認められなかったとしても、ほんの少しくらいなら、報いがあったっていいじゃないかと、あたしは思う。


「灯波先生?」


 灯波先生の頰を流れる大粒の涙に、あたしは驚いた。


 灯波先生が、ノートの切れ端を掴んで泣いている。


 悲しいのか、それとも別の何かなのか。自分の涙を噛み締めるように、そのノートの切れ端に顔を埋めている。


 その理由は、あたしには分からない。


 ただ、こんなにも灯波先生に涙を流させたのがあたしじゃないということが。


 少し悔しかった。 

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