第28話 共分散β相愛係数

 ちょこんと隣に座り直した杏子さんは、そのノートを慈しむように指でなぞる。


「だから頑張れたんだ。不思議だよね。たった一言で、人生ずっと踏ん張れるくらいの勇気と元気を貰えるなんて」


 これまで歩んできた道、心に負った傷、歩き続けた脚、いまだ燃え続ける命の炎。それらが透けて見えると、この人はやはり、あたしよりも生きてきた年数が長いのだということに気付かされる。


「ちなみに私の漫画を好きって言ってくれたのは紫乃ちゃんで三人目なの」

「そうなんですか? 少なすぎるくらいですけど」

「あ、ありがとう。へへ。あんまり自分から見せたことはないからかな。あのね、一人目は学生時代の友達、それで二人目が信幸のぶゆきさんなの」


 信幸というのはあたしの父の名前だ。


「私、漫画を好きって言ってくれた人のこと好きになっちゃうのかも・・・・・・。や、やばいかな」

「いいと思いますよ? 好きになったものを好きになれば」


 さっきまで自信満々に話していたのに、いきなり空気のなくなった風船みたいに萎れていくものだからついあやすような声色になってしまう。


「それで、紫乃ちゃんはこの家出て行っちゃうの?」

「はい」

「寂しいな」


 きっとこの人は嘘を吐くのが下手だ。というより、付けないのだろう。普段はおっかないびっくり話すくせに、気を抜くと無防備な感情が飛んでくる。


「信幸さんは反対してたけど、いいの?」

「あの人は今まで反対しなさすぎたので、今回で一生分の反対をしてもらわないと困ります。いいガス抜きになるんじゃないですか」


 腕を組んでため息をつくと、感心したように杏子さんが「すごいね」と言った。


「えっと、灯波、さんだっけ?」

「はい。灯波桃子さん。高校のときの先生なんです」

「そっか。あ、あの、ちょっと待っててね」


 すると杏子さんが、描いていた途中のノートになにやら文字を付け加え始めた。二人の女の子のキャラクターが一緒にジャンプしている、その隣に「大正解」と子供みたいな大きな字。杏子さんはそれを切り取ってクリアファイルに閉じるとあたしに渡した。


「オリジナルのキャラクターですか? これ」

「ううん、ふれプリのリッカとニーミだよ。リツニミはいいぞぉー」


 急におじさんみたいな口調になった。変なの。


「これ、よかったらその人に」

「え? あたしへのプレゼントじゃないんですか?」

「あ、ご、ごめんね! 私こういうところがダメなんだよね、ほんと、ごめんすぐ描くから!」

「あの、冗談ですよ」


 慌ててペンを走らせるも、そもそもペンが逆である。いたたまれなくなり、肩に手を置いて落ち着いてもらうことにする。


「分かりました。渡しておきます」

「う、うん、お願い」


 受け取ったクリアファイルをしっかりと胸に抱えると、杏子さんは安心したように綻んで再び机に向き合い始めた。


「あ、あのね、信幸さんは反対してるかもしれないけど。わ、私は賛成だよ」


 襖を開けたところで、あたしを引き留めるように杏子さんが口を開いた。


「行ってきていいと思う。好きな人を追いかけるのって、悪いことじゃないよ」

「・・・・・・誰も好きな人だなんて言ってませんよ」

「あれ!? うーん・・・・・・本当だ! うわ、早とちりだった?」


 芋虫みたいにうねうねとし始める杏子さんの額に冷や汗が浮かぶ。


「でも、面倒事を抱えるかもしれないのは杏子さんですよ? そんな爆弾を快く送り出していいんですか?」


 世間の目、常識。そんなものはこれまでに腐るほど見てきたし、実際足下で腐っているのだろう。歩くたびに腐臭がして、顔が歪みそうになる。


 このおとぼけな杏子さんは、そういった泥臭いものに触れたことがあるのだろうか。


「好きになったものを好きになる、でしょ?」


 芋虫だけど、おとぼけだけど。どうしてか、杏子さんの言うその言葉には妙に説得力があった。


「行ってらっしゃい、紫乃ちゃん」


 その優しい声に送り出されて、あたしは玄関に向かう。リュックを担いで、最後の荷物確認をしていると、スーツ姿になった父があたしを見下ろしていた。ちなみにネクタイはなし。シャツもシワだらけだ。


「これ、あげる」


 父が渡してきたのは鮭とばだった。しっかり二人分。


「あの先生には、まあ、世話になったしなー。どうであれ、紫乃がいいって言うんならいいんじゃないのー?」

「世話になったんじゃなくて、いいように使ったんでしょ」

「そうとも言うかもねー」


 間延びしたその声に決心のようなものは感じられない。ただ、わざわざクリーニングにも出していないスーツを引っ張り出して着替えてくるあたり、娘の出発を見送ってくれるだけの良心はあるらしい。


 あたしは父に頭を下げて、家を出た。最初は頭でも下げておくのが礼儀か、という形だけのお辞儀のつもりだったのに、気付けばあたしは、とても長い時間頭を下げていたと思う。


 車に乗って、夕陽村を目指す。免許を取ってからまだ一年も経っていない。正直そっちの方へは行ったこともないし、どれだけの距離があるのかも分からない。高速に乗れば道には迷わないかもしれないけど、やはり不安は付き纏う。


 助手席にはまだ誰も乗せたことはない。あたしが最初に乗せるのは灯波先生だって決めているのだ。


 灯波先生を大人の女性として意識しはじめたのは初めて車に乗せてもらったときだった。自転車ではいけない場所へも車はぐんぐんと進み、あそこへ行きたいと言うとすぐにそこへ向かってくれる。


 自由とは欲望への近道だということを、あのときあたしは知ったのだ。


 思えば母も生前、あたしを車に乗せてどこかへ連れて行きたがっていた。あたしがまだ小さかった頃は、母も父も仕事が忙しく旅行には行ったことがなかった。


 そんなある日、母が突然観光雑誌を大量に持ってきて「どこに行きたい?」と聞いてきたのだ。仕事が一段落するから、そしたら家族みんなで行こう。あたしはその言葉に胸を躍らせて、寝る間も惜しんでその雑誌を読んでいた。


 だけど、それから少しして母は出張先で震災に遭い、あたしの元に帰ってくることはなかった。


 母が亡くなってからは父もこれまで以上に仕事に専念するようになり、結局あたしは、無駄となった観光雑誌をすべてゴミ箱に捨てたのだ。


 お腹が空いて、高速の途中でパーキングに停まった。値段設定が高めなうどんを食べて、ふらりと売店へ向かう。何かおみやげでもと思ったけど、めぼしいものは見当たらなかった。


 その売店で、子供が一人泣いていた。近くにはお母さんらしき人もいたので迷子ではないらしい。子供の手にはロボットのおもちゃが握られていた。でもお母さんは「せっかくのおみやげなんだからここにしかないものにしなさい」と否定的だった。泣いていた理由はおそらくそこにあるのだろう。


 あたしは県外に行ったことがないので、おみやげというものがどういうものなのかが分からない。楽しみにしていた高校の修学旅行も、流行病のせいで中止になってしまったし。


 だからそのお母さんの気持ちも、子供の気持ちも、あたしには分からない。


「ぼく、これからどこへ行くの?」


 その子に話しかけると、泣きながらも「こーべ」と答えてくれた。


「そうなんだ。楽しみだね、写真もいっぱい撮らなきゃだ」


 首にデジタルカメラがぶら下がっていたので、きっと出発前は張り切っていたのだと思う。その子は途端に涙を止めて、自慢気にデジタルカメラを見せてくれた。


「そうなんだ! おれ、ロープウェイにのって、光の森に行くんだよ!」

「へー、いいな。あたしは行ったことないもの」

「そうなの? じゃあ写真撮ったらお姉ちゃんにも見せてやるよ! すげー綺麗なんだぜ!」


 目をキラキラさせるその子に、笑いながら頷いた。


「お母さん! 早く行こうよ光の森!」

「あ、ちょっと、その人形はいいの!?」

「いらなーい!」


 その子はさっきまで持っていたロボットの人形を売店に戻すやいなや、一人で出口まで走って行ってしまう。その子のお母さんは困った顔をして、こちらに一礼してから追いかけた。


 あたしも売店では何も買わずに、車に乗り込んで出発した。


 どこか遠い場所へ行きたい。


 そう思っていた時期があたしにもあった。あれは愛というものを紛失した陰湿な家にいたくなかったから抱いていた想いだったけど、あたしの家はあのときとは違い少々賑やかになっている。


 それなのに、いまだにあたしは、コンビニや本屋などで観光雑誌を見かけるとつい脚を止めて読んでしまう。


 この後に及んで、あたしは一体どこへ行きたがっているというのだろう。


 雑念を振り払い、エンジンを吹かす。


 今は置いておこう。


 あたしには行かなければならないところがある。



 暗くなる前に、なんとか夕陽村に着くことはできた。地図を見ながらだったから来られたけど、これがなかったら絶対迷っていたに違いない。ふと丸山先生の顔がよぎったけど、お礼はしたくないのでもう一回べー、と舌を出した。 


 だけど、ここからが鬼門だった。


 この地図には夕陽村の場所が書かれているだけで、灯波先生の居場所が書かれているわけじゃなかった。ここからは自分の脚で灯波先生を探さなければならない。


 灯波という姓が使われていることを願って、灯波の姓を近所の家に聞いて回った。まさか自分がこんな大胆な行動が取れるなんて思いもしなかった。以前のあたしだったら、諦めて帰っていたに違いない。


 幸い、五件目で灯波家を知っている人と会うことができて、教えてもらうばかりかわざわざ案内までしてもらった。


 玄関の鐘を鳴らすと年配の女性が一人出てきてくれた。事情を話すと、その人はやはり、灯波先生のおばあちゃんだった。


 ようやくここまでこれた。そう安堵したのもつかの間、どうやらまだ灯波先生が帰ってきていないらしい。普段は家にいるはずなのに、とその人は随分と心配しているようだった。


「今朝がっと叱ってしもたからねぇ」

「あたし、探して来ます」


 ここにいて灯波先生の帰りを待つというのも一つの手だった。けれど、あたしは待つためにここへ来たわけじゃないのだ。


 地面を蹴って、あたしは走り出した。


 この夕陽村は、車を使うには道路が少しばかり狭すぎる。周りは田んぼと畑ばかり。来る途中の山では猿とたぬきにまで出くわした。自分がこんなところに来ていることすら、現実感のないことだというのに。


 こんな場所から本当に灯波先生を探し出せるのだろうか。心当たりなんてありはしない。それでも、あたしの脚は迷うことはなかった。結局、車があろうがなかろうが、最後に必要なのは自分自身なのだ。


 山を登り川を下り、道があると思って飛んで移ったらただの茂みでそのまま水路に真っ逆さま。溝にサンダルが挟まったり、アブに首を刺されたりと散々な目に遇いながらも、あたしは灯波先生を探し続けた。


 山の中にあった墓地を抜けると、大きな崖が現れる。川が流れていたと思われる溝があるが、完全に干上がっていて水気すらない。後ろに階段があり、そこを登っていくと、さっき見た崖に出ることができた。


「あ」


 そこから見た景色はさぞ綺麗だったのだろう。


 けど、あたしはそんなものよりも先に、小さく丸まった背中に視線を奪われた。


「灯波先生ですか?」


 後ろから声をかけると、小さな頭がビクッと跳ねてこちらに振り返った。


 ああ、なんて顔をしているのだろう。


 髪もボサボサ。唇の端が切れていて、肌も荒れ放題。目まで腫らして、おばあちゃんが着るような白の肌着一枚でオシャレの欠片もない姿だけれど。


 灯波先生だ。


 ようやく会えた。


 あたしの、ずっと会いたかった人が、捨てられた子供みたいな目で、あたしを見上げている。

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