第5章
第27話 偏愛式δ関数
昔から、母と父の夜の声を聞くのが好きだった。
夜の十二時を過ぎると、丁度真下の部屋から鉄が軋むような音が聞こえるのだ。最初はそれがまさか人の声だとは思っていなかった。
父と母が愛し合うなんてそのときは思いもしなかったけど、よく考えたらお互いに好き合ったから結婚して、あたしを生んだのだろう。
あたしが一体どういう行為から生まれ、どういう感情のもと育てられたのが気になって、一階に降りてよく襖に耳を当てていた。
母は聞いたこともない声で呻き、父は不自然なほど低い声で母の名前を呼んでいた。普段はぶっきらぼうに事務的な会話を続けて、しょっちゅう喧嘩するくせに。そのときだけは、二人は確かに愛し合っていた。
いや、その行為こそが、愛なのだとあたしは思った。
それから、あたしと父の血は繋がっていないということを告げられ、その数年後、母は震災で命を落とした。
それ以来、一階から、夜の声が聞こえてくることはなかった。
あたしの家から、愛が消えたのだ。
初めて行為をしたのは高校一年生のときだった。興味本位というほど前向きなものではなかったし、後悔と言えるほど嫌なものでもなかった。ただ、あたしの口から、あの日聞いた母のような声が出ることはなかった。
あたしには愛がないのだろうか。それとも、捧げられていないから、空っぽなのだろうか。
それを確かめるのに、SNSアプリは非常に便利だった。愛を求めて、躍起になっている人たちがたくさんいて、あたしが直接メッセージを送ると、遠い地域からでもわざわざ遭いに来てくれた。
相手は行為の途中、すごく切なそうな顔をしていて、一瞬失敗したと思った。歳も二回りほど離れているし、世間話にも華が咲かなかった。行為の前はあれだけ興奮を顔に出していたのに、どうしていざ行為になるとそんな顔をするのだろうと不思議だった。
けど、行為が終わると、相手は必ず満足そうな顔をしていた。まるで取り憑いていたものを払ったかのように清々しい顔をして、あたしにお金をくれた。
こんなにも簡単に金が手に入っていいのか、と。当時のあたしは心底驚いていた。それからあたしは、まるで人生ゲームのように、お金を貯めることに夢中になっていた。
でも、幸せそうなのはあちらだけで、あたしはいまだ、愛を確かめられずにいた。
母のあげていた声は、どうやったら出るのだろう。
部屋で何度も練習しても、本番中、それが出たことは一度もなかった。
「お父さん、邪魔。あと腹出てる」
ソファからずり落ちて床に寝そべる父を蹴飛ばすと、よだれの付いた口がだらしなく開く。
「あー、なんだ。
「バイトは辞めたって言ったでしょ」
「そうだったかー?」
相変わらず、換気扇に飲み込まれる煙のように形がない。それでも、昔よりは家にいる時間が増えたかもしれない。仕事も休みを入れることが多くなり、ビールばっかり飲んでいつもひっくり返っていることを除けば、良い変化があった。寂しいのと強がるの、楽なのは前者なんだって教えてくれたのは、誰だっけ。
「来週にでも家を出ようと思う」
大学受験は、端的に言えば失敗した。勉強も毎日頑張ったし、センター試験の評価も全教科B以上と申し分なかった。
だけど、受験当日、配られた用紙に綴られたチェックマークを眺めていたら急にイライラしはじめて、あたしの頭の中にある答えとは真逆のものにチェックを入れた。授業、勉強。机にしがみついて頭上から降りかかる教えに浸食された脳みそからこぼれ落ちる知識をあたしの答えとするのが、心底憎たらしかったのだ。
結果、滑り止めを含め、あたしはすべての大学受験に落ちた。
あのときの先生たちの狼狽えた様子は今でも忘れられない。滑稽で、無様で、アメーバが仲間を求めて広がるかのように、無機質で頼りない。そう、こいつらは、アメーバと一緒だ。個人個人の生き物だと思ってはいけない。
「ま、まさか、あの先生のところに行くって言うんじゃ」
「え、そうだけど」
「だめだめ、そんなの許さないぞー」
「とりあえず水飲んでくれる? お酒臭い」
休日だからって飲んだくれている父に水を汲んだコップを渡す。父は小気味よく喉を鳴らして、口元を袖で拭いた。
「あの先生は、だって、紫乃と、ええー?」
「別にいいじゃん。エッチくらい」
一年前、
いつかひょっこり出てきてくれるかもしれないと思い、一ヶ月ほど灯波先生の部屋に通っていたが、途中で大家さんと思われる女性に話しかけられ、灯波先生は実家に帰ったということを教えてもらった。
空っぽになった部屋を後にして、帰り道、あたしは自分を呪った。
あのくだらない男に万引きをふっかけられたことは悔しかったし、なにより強く言い返せず簡単に丸め込まれてしまった自分の無力さがショックで、しばらくの間落ち込んでいて自分以外の誰かを気遣う余裕なんてなかったのだ。
もしあのとき、あたしが学校まで駆けつけて、灯波先生に何か言えていたら、こんなことにはなってなかったのかもしれない。
ただ、まあ。気にしたってしょうがない。あたしはもう高校を卒業した。車にも乗れる。自分の脚で歩ける。答案用紙に求められた正解だけを書き記す必要もない。ここからが本番だ。
「追っかけるくらいしたっていいでしょ。今まで良い子にしてきたんだからそれくら許せバカ親」
「ぐえ」
腹を踏んで、父を乗り越える。物理的に。
・・・・・・口、悪くなったかな。
時と共に言葉遣いが上品になっていくのもそれはそれで不気味だけど。
「お前が大変になるんだぞー、僕は反対だからなー」
以前までの父なら、きっと許してくれていただろう。引き留めようとしてくれるのが、あたしを心配してくれているからだということは分かっている。それは嬉しい。素直にそう思える。あたしも父も、あれから一年経って変わった。ただ、変化は時に煩わしくもある。
あたしの足首を掴む父の手を蹴って、荷造りを始めることにした。
場所はすでに
丸山先生が渡してくれたのは地図が書かれた小さなメモ用紙だった。もしかしたら灯波先生はそこにいるかもしれないから、と、誰に言ってるかも分からない小さな声で呟いた。
お礼は言わなかった。あたしは丸山先生のことが嫌いだからだ。
いつも生徒を生徒としか見てくれない。いつもあたしたちを正しい道に導こうとしている。人工的なその優しさが嫌いで、あたしは丸山先生と別れる際、べー、と舌を出してやった。
あたしを分かってくれたのは灯波先生だけだ。そして、あたしが愛してあげられるのも、彼女だけだ。
灯波先生だけは、あたしに夜の声を出させてくれる。これまで繋がり合うように行ってきた行為では感じられない、ずっと綿棒でくすぐられるような触れ合いは、あたしの垢を綺麗さっぱり取り除いてくれた。
心地よかった。気持ちよかった。意識せずとも声は出て、練習していた声なんかよりも何倍も高い声で叫んでしまった。
あれこそが愛だ。あたしがずっと求めてきた、人と人との絆なのだ。
荷物をバッグに詰めている途中で、せめて仏壇に挨拶はしておこうと客間へと向かう。
襖を開けると、仏壇の反対側に置いてある机にはノートが広げられていて、一生懸命ペンを走らせている
杏子さんは今の父の奥さんであり、あたしの母親だ。父と交際をしているときは県外にいてあまり会えなかったらしいが、結婚してからはこちらに引っ越して一緒に棲んでいる。
「杏子さん」
その背中に声をかけると、まるで小動物のように飛び跳ねる。一センチくらい、宙に浮いたんじゃないだろうか・・・・・・。
ちょっと変わったその人のことを、あたしはまだお母さんとは呼べていない。別に亡くなった元の母への負い目があるわけじゃない。最近気付いたことなのだけど、あたしは案外、過去の出来事には頓着しない主義らしい。ただ。現在とぶつかり合ったときに感じるちょっとした気恥ずかしさとは、まだ分かり合えずにいる。
「ひっ、あ、し、紫乃ちゃん?」
あたしの存在に気付くと、杏子さんはにへらと笑いながら肩を揺らす。けど、それが嬉々とした感情から来ているものではなく、気まずさを誤魔化しているものだと気付くくらいには、もうすでに時間を共に過ごしている。
「仏壇に挨拶をしようと思って。杏子さんは、何か書いているんですか? こんな場所で」
「そ、そうだよねっ、仏壇の横でこんなことしてっ、失礼だよね・・・・・・でも、ここが一番涼しくて、エアコンの風は、冷たすぎて苦手なんだ。すぐお腹痛くなっちゃうから」
おっかなびっくり話す杏子さんは、以前、人と話すのが苦手なんだと教えてくれた。その頼りなさと、そこまで歳が離れていないこともあって、気付けばあたしの方から寄り添う形になっていた。
「ごめんね、勝手なことしちゃって。うわ、わ! 今すぐ片付けるね!」
「あの、いいですよ。全然、気にしないでください」
あたしは仏壇の前に座って、ゆっくりと鐘を鳴らす。
手を合わせてる間、何か伝えたほうがいいのかと思っていたら、鐘の音はとっくに蝉の声にかき消されていた。
目を開けると、杏子さんもあたしと一緒に手を合わせていた。けど、あんまりにもギュッと強く目を瞑っているものだから命乞いをしているみたいになっている。
「大変じゃないですか。父もあんまり頼れる人じゃないですし、あたしみたいな、血の繋がってない娘もいて」
仏壇の向こうにいる父と母に伝えたかったのは、もしかしたらこれなのかもしれない。あたし自身の存在が誰かに迷惑をかけているかもしれないと、心にずっと音もなく引っかかっていた異物を取り除きたかった。
「わ、私は、幸せだよ」
杏子さんは、もじもじと内股になったまま、上ずった声で言う。
「大変なことは生きていればたくさんあるから、仕方ないと思うけど、い、今はそれを帳消しにできるくらい幸せだから、気にしないで。というより、わ、私の方が、紫乃さんに迷惑かけちゃってるよね。やだよねこんなお母さん、本当ごめんねー!」
「そうですね、杏子さんのことは歳も近いし、あんまりお母さんって気はしません。どちらかというとお姉ちゃんでしょうか」
「お、お姉ちゃん・・・・・・!」
杏子さんは嬉しいのか悲しいのか分からないような顔のまま、俯いてしまった。
「でも、家族です」
杏子さんの隣に座ると、ふわりと、優しい香りがした。
果実のような、酸味を含んだ、けれど甘い香り。どこかで嗅いだことのある香りだったけど、出所は思い出せなかった。
「それ、漫画ですか?」
ノートにはよく見るとコマのようなものが割り振られていて、その中でキャラクターが動き、台詞を喋っている。軽く書いたものなんだろうけど、素人目にも中々上手だということは分かった。
「う、うん」
「へー、知らなかったです。杏子さんが漫画を描けたなんて」
「ずっと描いてなかったんだけど、最近ちょっと生活も安定してきたし、暇な時間も増えたからまた描こうって思って」
杏子さんは照れくさそうにペンを指で挟んで回していた。くるくる、ぽーんと、ペンが飛んでいき、杏子さんが慌ててそれを追いかける。
「あたしこの絵好きですけどね。こんなに上手なのに、どうして描くのやめちゃってたんですか?」
机の下に潜り込む杏子さんに声をかけると、こぶりなお尻が返事をしてくれた。
「辛いことがたくさんあって」
表情は見えないし、お尻から感情を読み取る術なんてあたしは当然持っていない。
ようやくペンを拾った杏子さんが机から抜け出す。寂寥を含むその瞳は、いったいどこを見ているのだろう。視線を追っても、そこには畳の目があるだけだ。
「ちょっと、自分を信じられない時期があって。正直、生きるのも辛い! ってこともあったんだけど・・・・・・」
それでも、杏子さんがさっき言ったことは嘘じゃないんだと、あたしは直感的に理解した。
「でも、嬉しいこともあったから」
杏子さんは幸せそうに、笑っている。
まだ新しい、綺麗なノートを持ち上げて、杏子さんは言う。
「私の漫画をね、好きって言ってくれた子がいたの」
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