第26話 発狂
私は人間が嫌いだし、全員死んで欲しいとも思っている。
だから当然私は私のことが嫌いだし、ただ屋上から飛び降りたり縄にぶら下がったりする勇気がないだけで、できることならいなくなればいいのにと心の底から切望している。
苦痛ではなく、安らかなものであればもっと良い。眠るように、現実から逃れるように、深い場所へと沈んで行けたらそれでよかった。
そう思いながら常用している錠剤を二十個ほど口の中に放り込んだ。噛んだり丸呑みしたり。最後の方は水で流し込んだりした。
三十分ほど経つと、目の奥がギュッと痛くなり、胃が喉までせり上がってきたかのような嘔吐感に見舞われた。自分が息を吸っているのか吐いているのかも分からなくて、痺れる手足は痙攣するように震えている。熱感と悪寒が交互にやってきて、あくびをしたときのような耳の閉塞感によって音も聞こえなくなった。
立っていられなくなり床に転げ落ちると、その音で気付いたのか部屋の扉が勢いよく開けられた。お母さん? お父さん? どっちだか判別が付かない。
悪い夢から飛び起きたときのように、体が意図せずビクビクと跳ねる。やがて心臓の音が大きくなり、耳の横で鼓動を感じる。不規則で、不確かな脈が鼓膜を震わせている。
こめかみの近くにある大きな血管がぷくっと膨れているのが分かった。
ああ、死ぬのか。と私は思った。
予想していたよりもずっと辛くて、泣きそうになった。泣いてたのかもしれない。
気付いたら私は病室のベットに横たわっていた。時計を探すのにしばらく時間がかかる。ようやく見つけたかけ時計は三時を差していた。外は暗い。
手の中にあった、コードから伸びているボタンを見て、何かあったらこれを押してと言われたな、とどうしてか確かな記憶の断片を思い出す。
押しても音が鳴ったりはしなかった。けど、すぐにナースの人が来てくれた。
私は水が飲みたいと言った。異様に喉が渇いてしょうがなかったのだ。
それから私は何度もボタンを押して水を持ってきて貰った。
朝になると食事が出されて、それを食べ終えると着替えを渡された。袖を通すと、自分が病人であるという自覚が確かに感じられた。
お昼前に主治医の人が様子を見に来た。知っている人だった。どうやらここは、かかりつけの病院らしい。
主治医は二日間の入院と、精神病棟への移動を私に告げた。
精神病棟では規則正しい生活と、薄味の食事だけを徹底された。私自身、そうやって自由を縛られることで病状が改善している自覚はまったくなかった。
二ヶ月ほど経った頃、両親が迎えに来た。
感動の再会だと思っているのは誰もいなかった。両親は渋い顔で私を見て、私もきっと、同じような顔で両親を見ていたのだと思う。
そのまま家には帰らず、私は祖父母の家で降ろされた。自然溢れるこの場所で暮らすことで、心情の変化が現れたらいい。祖父母の手伝いをすることで、就職意欲も高まるかもしれないと、両親は説き伏せるように私に言った。
両親の車が躊躇なく消えていくのを見てから、祖父母に歩み寄る。
「大丈夫よ、一緒に頑張りましょう」
そう言って私の手を握ってくれた祖母の段ボールのような感触の肌は、私の何倍も温かかった。
教師という仕事を辞めてから一年ほど経った。場所も離れ、実家に帰ったこともあって変化という変化はあまりなかった。ただ、自分を形作る大切な何かが、ごっそりと欠け落ちてしまったような感覚だけはずっと消えることはなかった。
これまで信じてきた理想や憧れ、夢や信念、価値観倫理観その全てが間違っていると通告されて以来、私は何が正しいのか分からなくなっていた。
口を開けば間違ったことを言っているかもしれないと怖くなり、何かをしようと立ち上がっても、それは私がきっとこれでいいと思っているだけで他の人から見たら異常であることなのかもしれないと思うと、歩くことすらできなくなっていた。
平日も休日も、私は自分の部屋で寝ていた。お母さんからは何度も就職しろと注意されて、そのたびに喧嘩した。どこでもいいから、働くことから始めろと言われて、渋々近くの印刷会社に就職した。
だけど、その社会というものが私にとっては地獄そのものだった。
まず、挨拶というものが苦痛だった。おはようございます、そう言うたび、心を守っていた皮膚がぺりぺりと剝がれていくみたいだった。それを毎日何度も繰り返されて、私は朝、人に会うのが嫌でわざと遅刻するようになった。
会社の新入会や親交会もずっと断り続けた。そのたびに「付き合いってものがある」と上司に怒鳴られた。そんなもの、どこにあるんだろう。こちらからは見えないのに、それは確かにそこにあると言われる。見えない、窒素みたいなものだろうか。
この世界は人で溢れている。嫌いな人間で溢れている。支えてくれる人がいる。守ってくれる人がいる。私以外の人間が周りには存在している。自分以外の存在が疎ましくて仕方が無い。
人と関わることを避けだしたのはその頃だった。
仕事は、半年で辞めた。それから私は人と関わるのが一層怖くなり、家にひきこもるようになった。ひきこもっていると、まるで土に埋まっているように、心がじっとりとし始める。部屋の掃除ができなくなり、身支度が困難になり、お風呂に入るのも億劫になった。誰かが階段を上ってくる音を聞くだけで胃の中のものを吐き出すようになって、見兼ねたお母さんに連れられて、私は精神科に連れていかれた。
「あんたはね、甘えてるだけなのよ」
私と同年代の子はみんな仕事してるし頑張ってる。私だけが、働きたくないとわがままを言っている。そう説き伏せられた。
辛いのはみんな同じなんだから、と。見たこともない人間と同化するよう、お母さんに促されると、自分の体の感触が一切失われていった。
「確かに桃子は間違ったことをしてしまったかもしれないけど、全部が間違っていたわけじゃないんだから」
なら、教えてよ。どれが正解で、どれが間違いだったのか。答案用紙に書き記すみたいに答え合わせをしてくれたらいいのに、人はまるで、見えない用紙にインクのでないペンで落書きするみたいに採点する。見えない、分からない。乱雑で、適当。不確か。それを理解しろと、枷をはめられるように私は毎日を生きた。
私が祖父母の家に住むようになってから二ヶ月が経った。
最初は優しく迎えてくれたおばあちゃんだったけど、まったく動き出さない私を見て、だんだんと態度に変化が現れた。おじいちゃんはあまり私に近づかないようになり、おばあちゃんはあからさまに態度が冷たくなって、農家の手伝いをお願いしてくることもなくなった。
布団から出て一階に降りると、長テーブルの上に焼き鮭と味噌汁、それからカブの漬物とホカホカの白米が私を待っていた。
手を合わせて箸を持つと、おばあちゃんが口を開いた。
「桃子ちゃんね、いい加減働きんしゃい。すぐに見つかるわけじゃないんだし、とりあえず行動するっていうのは大事よ」
隣に座るおじいちゃんが、小さく頷いた。
箸で焼き鮭を挟んで口に運ぼうとするも、おばあちゃんの視線を強烈に感じて、手が止まる。見られている。私が食べるところを見られている。返事を待たれているのか、それとも、私の一挙手一投足を見て嘲笑しているのか。今すぐにでも返事をしたほうがいいのか。
顔を上げたら目が合ってしまいそうで、俯いたまま動けない。背中に脂汗が滲む。
「おばあちゃんとおじいちゃんだって、若いころはたくさん働いたんよ。そいで今こうして暮らせてるわけじゃんし、桃子ちゃんもがんばらんとなんよ」
強くなった語気を感じ取ると、箸を持った指先が震え始める。味噌汁だけはこぼさないように、なんとか手から離した。それなのに、味噌汁をこぼしてしまったときのおばあちゃんの反応を想像してしまう。動悸がして、冷汗が止まらない。怒られているのに、更に怒られてしまうようなことをしてしまうという悪循環。あまりにも身に覚えのある未来の出来事に怯えて、私は食事をすることができなくなる。
「だ、だから、なに」
不満を口にした。
人を嫌いになれば、私は私を嫌いになる。人間が嫌いで、世界が憎くて、何もかもに否定的になれるこの瞬間だけ、私は私を防衛できた。
食事を残して、私は家を飛び出した。
ここ夕陽村は県境の山奥にある小さな村だ。周りには山と畑ばかりで、ビルの頭など一つたりとも見えやしないし、車のエンジン音も聞こえない。
この自然ばかりの田舎で、私が得るものってなんなんだろう。両親は何を期待して私をここに残したんだろう。
いつものように散歩をしていたけど、朝、おばあちゃんに言われたことを思い出し、私は追い立てられるようにバスに乗り、就職相談所へと向かった。
昔作った会員カードを使って中に入る。受付を終わらせて、番号を呼ばれると奥の個室へと向かった。
「かんたん検索はお使いになられましたか?」
「、使ってない」
です、までが声に出なかった。正面に座る女性は顔色を変えることなく、私に着席を促した。
「では、どういった職種をお探しですか? サービス業とか、製造業とか」
「えと、あの」
ここまで一人で遠出しただけでもかなりの疲労だった。そこから来たこともない施設に入って、知らない人と話すなんて、これだけでも、私としては上出来の部類だった。
「特に、ないです」
「お近くにお住まいですか? でしたらご希望の地区がございましたら優先して探させていただきますよ。お車はお持ちですか?」
私は頷いたり、首を横に振ったりして応答する。
「今は求人も多い時期ですので、なるべくご提示された条件に合う場所を探してみましょう。方針としては三つほどに候補を絞って、まずは第一候補の会社様に連絡をしてみましょう」
「あ、あの」
「はい、どうされましたか?」
「なっ、なるべく、人がいない場所が、いいです」
私の言葉を聞いた女性は、一瞬手元の資料に視線を落として、
「了解いたしました。それでは少々お待ちください。十五分ほどでまたお呼びすると思うので、それまでかんたん検索などでご希望の会社をお探しください。印刷機能もありますし、業種選択に役立つ自己診断もございます。分からないことがありましたら気軽にお尋ねくださいね」
物腰の柔らかい女性は、そのまま奥へ消えて行ってしまった。私は元いた椅子に座って、胸をなでおろす。
い、今のはちょっと、うまく喋れてたんじゃないかな。
先ほど交わした会話を頭の中で何度も反芻しながら、呼ばれるまで待つ。
手持無沙汰になると、つい先ほどの女性を探してしまう。もしかしたら気が合うのかもしれないし、あっちも私と喋って、私のこと喋りやすい人だと思ってくれているかもしれない。
良いことをしたと、謎の優越感に私は浸っていた。
けれど、なかなか私の番号は呼ばれない。
受付の女性は私と話してからというもの、ひどく急がしそうに走り回っている。
私の注文が多すぎたせいだろうか。あそこは建前でもいいから、なんでもいいですって言えばよかったのだろうか。そうすれば彼女も、あんなに忙しくなることもなかったのだろうか。
私の言葉一つで、誰かを不幸にする。私の選択一つで、誰かに迷惑がかかる。
「あ、あ・・・・・・」
耳の奥で大きな爆発音が聞こえた。それに混じって人の怒号が反響する。
間違っている。ふざけるな。裏切り者。同情なんてできない。自業自得。大丈夫だよ。ここから消えろ。信じてるからね。理解できない。あなたはおかしい。桃ちゃん、好きだよ。働け。逃げるな。不適合者。教え子に手を出す犯罪者。なんで女同士なの。罪が重くなる。近所の人に顔向けできない。外に出れない。外に出ろ。お母さんを困らせないで。
私は叫びながら、施設を出て走った。
急いでバスに乗って夕陽村に戻る。ポーチから錠剤を出して、子供がラムネを貪るみたいに、口に放り込んだ。
早く体に回れ。そう思いながら、錠剤を口の中で噛み続けた。
これで薬はなくなった。また病院に行かなきゃ・・・・・・。
苦しんで、叫んで、ゲロを吐いて。そのたびに薬を飲んで、無くなったら病院に行く、そんな日々を一生繰り返す。それでも、理解不能の世界に飛び込むよりは数倍マシなのかもしれない。
スマホを開く。連絡なんて誰もくれない。最初は友達も心配してくれて連絡をくれたけど、私が返事をすると一週間経ったら音信不通になった。
私はまた、人知れず、間違ったのかもしれない。
優しいこの世界の一員に、私はなれなかった。
何度か着信が着たけど、一度電話に出たら知らない人に「この変態教師」と怒鳴られて急いで電話を切った。それ以来、私は電話に出ることをやめた。
無数にある不在着信の中に、私を否定し、この世界から排除しようとするものはどれだけあるだろうか。
「わかんない、わかんないよ・・・・・・」
うずくまっていると、ようやく薬が回ってきたのか、スッと感情の昂ぶりが消えていく。
冷静になると、ふいに自分ではなく、この世界を責めたくなる。
私、頑張ったのに。どうして受け入れてくれないの。せめて、間違いなんかじゃないって言ってくれたらそれでよかったのに。
そうやって頭ごなしに否定して、なんなの。
顔をあげると、ギラギラと太陽が照っている。もうじき夏がくる。
今年は去年よりもまた、気温があがるだろうか。季節は年々、常識というものを覆していく。
この世界を取り巻く常識だって同じようなはずなのに。
子犬を捨てただけで死刑になる時代もあったけど、今はなんの罪にも問われない。常識なんて結局上に立つ人間と時代、環境次第で簡単に変わっていく。
私は、そんな馬鹿馬鹿しいものに罰せられたというのだろうか。いずれは許されることであるかもしれないのに。
ワガママなんでしょ? 自業自得なんでしょ? 同情なんてできないんでしょう?
分かってる。何度も言われた。そのたびに私は、すみませんと謝った。世界のために、常識のために、変容を心がけた。
それでもこの世界が嫌いと言うのなら、私自身が、この世界を去るほかない。
夕陽村の山岳地帯はバードウォッチングの有名スポットとして知られている。その先には元々滝があった大きな崖も存在する。そこもまた、別の意味で有名だった。
とても空気が澄んでいる。私は深呼吸をしてから下を見下ろした。高く、深い。遠くに地面が見える。けど、この世界よりはよっぽど浅い。
そうだ。ここなら誰も私を採点なんかしない。正解も不正解も、ここには存在しない。
真っ白な答案用紙の中に溶けていけたら、そこはきっと天国なんだろうな。
『桃ちゃん』
どこからともなく、声が聞こえた。
奈落の底から、私を引きずり下ろそうとしているのだろうか。
そんなことされなくても、自分からそこに行くのに。
ごめん。
本当に、ごめんね。
私があのとき、声をかけてあげられていたら、もしかしたらこんなことになっていなかったのかもしれない。
あのときからずっと、私は間違っていたのだ。
片足を、虚空に投げ出す。
『マルかバツしか付けられないくせに』
その声は、奈落で響く、遠い過去のものではなかった。鼓膜をまるごと掴まれたかのように、ズッシリと重く心に染みる。
和久井さん。
和久井さんは体を売ることでさえ、間違いなんかではないと胸を張っていた。自分を否定しない彼女は、私の選択や行動にも、いちいち目くじらを立てることはなく、それどころか全てを肯定してくれるかのように包み込んでくれた。
今思えば、和久井さんといるときだけは、私は私自身を信じることができた。
あの子は今、どうしているだろうか。
私の間違った選択によって、苦しんでいるだろうか。しっかりと生きていてくれるだろうか。もうすでに高校は卒業しているだろう。無事大学には進めただろうか。お父さんと、新しいお母さんとは仲良くできているだろうか。
知りたい。
和久井さんが今どうなっているのか。
「和久井さん・・・・・・」
私はその場に崩れ落ちて、涙を流した。
会いたい。
和久井さんに、会いたい・・・・・・。
零した涙が小さな滝となって、崖から落ちていく。
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