第25話 迷妄

 先日の事はすでに教育委員会にも伝えられていた。和久井さんは特に罰則もなく、いつも通り学校に復帰するとのことだ。それを聞いただけでも、体から力が抜けていくのが分かった。


 今回の件の事情説明と事実確認を行ったあと、私の処遇を言い渡された。


 懲戒免職。夕方、なんの気なしにテレビを点けていると聞こえてくる言葉が、今私の目の前で突きつけられている。


 私はまだ一年目で正式雇用もされていないことから、処分は簡単らしい。教育委員会の方々も、あまり大事にはしたくないとのことで、深掘りはせず、余分因子となる私を除名することに全員賛成していた。


 警察からの見解は、和久井さん本人の意思もあって、名前を出しての報道は伏せてくれるという。それでも新聞には載るし、しっかりと学校の名前も載る。


 すでに噂が流れていて、保護者からの電話が後を絶たないという。


 私は大変なことをした。私は多大なるご迷惑をかけた。そのことを胸にしっかりと刻めと、教育委員会の方が厳しい顔で指摘した。


 当然、和久井さんとの今後の接触は一切を禁止され、スマホに残っていた連絡先も全て削除した。


 同席していた校長先生は事務的に教育委員会からの話に頷き、教頭先生は眉間にシワを寄せてこめかみを指で押さえている。学年主任の先生は横から私の顔をじっと見ていた。


 私は俯くことはせず、真っ直ぐ前を向き続けていた。


 話が終わると、先に教育委員会の方々が席を立ち、それから教頭先生、学年主任の順番で部屋を出て行く。私がいつまでも椅子に座っていると、校長先生が「もう終わりましたよ」と声をかけてくれたので、私もようやく立ち上がる。


 職員室に戻ると、一斉に視線を向けられた。まるで獲物を捕らえようと矛先を一斉に向ける、狩人たちのようだった。


 私はもう、この学校にはいられない。今日のうちに荷物をまとめてこの机を空にしなければならない。


 最初、この机に座ったときは不安よりもワクワクが勝っていた。ついに私も教師になれる。ようやく私も誰かの役に立てる。整理整頓はあまり得意なほうではなかったけど、あるべき教師の姿を追い求めて、机は常に綺麗にしてあった。


 私が黙って荷造りをしていると、奥の長机に座っていた船橋先生が我慢できないと言ったように勢いよく立ち上がった。


「でも、ラブホテルっていったって、今なんて普通に泊まるためだけに行くこともあるじゃない? 私だって若い頃、友達の女の子と一緒にラブホテルに入ったことくらいあるわ。中にはカラオケとかもあって、私なんかずっとマッサージチェアに座っててね、気付いたら朝になってたこともある。灯波先生だってそうでしょう? 和久井さんとただ一緒に過ごしただけなんでしょう?」


 いつも落ち着いた佇まいであったはずの船橋先生が饒舌に話す。祈るようなその瞳に、私は淡々と返事をした。


「違います」


 そう言うことしかできなかった。他になんて返せばいいのか、最善な答えはなんなのか、どう繕えばいいのか、どう誤魔化せば良いのか。大人の導き出す賢明な手段とはなんなのか。私には思いつかない。


 船橋先生が、悲しげに私を見つめている。船橋先生にもたくさんお世話になった。船橋先生はいつも優しくて、私が落ち込んでいるのを見ると、楽しい世間話をしてくれて、遠回しだけど私を元気づけようとしてくれた。その気遣いに私も気付いていたから、船橋先生の気持ちに応えるために頑張ろうって思えた。


「やめといたほうがいいですよ船橋先生。どうせ、最初からその気だったんだ」


 気付くと、太田先生が私の机に手を置いてこちらを睨んでいた。


「おかしいと思ってたよ、妙に生徒との距離が近いなって。最初はすごく友好的な先生なんだって思ってた。若いし、生徒と親しくできるのは武器だから、良いことなのかもって見過ごしていたけど。ようやくわかった。灯波先生、君は、そういう目的で生徒に近づいていたのか」

「そんなんじゃありません、私は」

「そんなことをするために教師になったのかって聞いてんだ!」


 太田先生が机を思い切り叩くと、周りにいた先生たちも驚いたように背筋を伸ばした。


 太田先生に怒られることは何度もあった。この人はどんな人に対しても厳しく、強い言葉を浴びせる。最初は怖い人だって印象だったけど、教師を続けていくうちに、太田先生の言っていることの正しさに気付いた。ただ大きな声をだして叱りつけているわけじゃないのだ。それを知ってからは、私は太田先生になるべく褒めてもらえるよう、太田先生に教えてもらったことをすべて実践した。


 ある日太田先生に呼び出されて、有名な和菓子ををプレゼントされた。中にはメッセージカードが入っていて、私を激励する趣旨の文面が記されていた。太田先生は厳しいのではなく、誰よりも教師という職業に真剣だっただけなのだ。


「早く荷物をまとめて出て行け。生徒に手を出すなんて、君は教師失格だ!」


 怒号から逃げるように、私はリュックを担ぐ。


 荷物は全部持った。机には何も入っていない。


「灯波先生」


 出口には、丸山先生が立っていた。


「君を初めて見たとき、なんて真面目な人なんだろうて思ったよ。ちょっとだけ茶目っ気もあって、でも一生懸命で、その一生懸命さがほんの少し大丈夫かなって不安だったけど、この子ならなんとかしてくれるだろうって思った」


 私は丸山先生が大好きだ。この人は何よりもまず、生徒のことを大事にする。それが生徒にも伝わっているから、丸山先生は生徒からも慕われている。ふざけるときは生徒と一緒にふざけて、注意するときはしっかりと注意する。当然、生徒もそれに逆らうことはしない。


 丸山先生は私の中の、理想の教師像だった。


「行事にも積極的に参加してくれたし、体育祭のときは熱中症になった生徒に誰よりも早く気付いて保健室へ連れて行ってくれたって他の先生から言づてで聞いた。そのとき僕はね、病院で嬉しくて泣いていたんだよ。生徒の成長ももちろん嬉しいけど、先生の成長も同じように嬉しいんだ」


 丸山先生は私が困っているといつも手を差し伸べてくれた。仕事を教えてもらう際、かなり乱雑に、手順だけを教えてそれで終わりという先生もいた。自分の仕事で忙しいのは分かるけど、もう少し丁寧に教えてもらいたかったと思ったことは何度もある。


 その中でも丸山先生は、仕事をいくつも抱えているにも関わらず、私に付きっきりで教えてくれた。


「灯波先生が最初、誰も居なくなった職員室で泣いていたのを見たときはびっくりしたけど、それと同時に僕は感心したんだ。怒られて注意されて、失敗を続けてしまうとどうしても拗ねたり、誰かを嫌いになったりする。それはしょうがないことだし、僕もその内の一人だった。けど灯波先生は、もっと教師としてしっかりしなきゃと、泣いていた。それは悔し涙だ。悔し涙は、本気で取り組んでいる人にしか流せない。それを見て僕は灯波先生を全力でサポートしてあげようと思ったんだ。こんな一生懸命な人、そうそういないから。なのに・・・・・・」


 丸山先生は、泣いていた。それも同じく悔し涙なのだとしたら、丸山先生は一体、どこまで私に本気になってくれていたのだろうか。


「どうしてだい、灯波先生」


 どうして? 丸山先生なら、分かってくれるはずだ。


「どうして、あんなに大事にしていた生徒と、そんなことをしてしまえるんだ」

「・・・・・・和久井さんが、寂しそうにしていたので」

「寂しそうに?」

「はい」

「だとしても、後でいいじゃないか。どうしてもラブホテルに入らなきゃいけない理由があったのかい? 例えば、例えばだよ!? やむを得ない理由があったとしても、僕じゃなくてもいい、誰かに相談すればよかったじゃないか。他の先生を呼ぶでもいい、一度和久井さんを家に帰すでもいい。それなのにどうして、わざわざ・・・・・・!」


 話すたび、丸山先生の語気が荒くなっていく。こんな風に憤りを見せる丸山先生を、私は初めて見た。


「丸山先生なら、分かるんじゃないですか」

「・・・・・・え?」

「そのときじゃなきゃダメなんです。後になってからじゃ遅いんです」


 あのときああ言えばよかった。ああそうかあの子はずっと悩んでいたのかそっか。ようやく気付いてから、必死に走っても、あの子はどこにもいなかった。家はすでにもぬけの殻。私は謝ることもできずに、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


 私はもう二度とあんな思いしたくないし、あんな思いをさせたくない。でもそれは難しいことだ。気持ちを塞ぎ込む人間の心に触れることなんて到底できやしない。子供なら尚更。


 だから私は教師になった。大人にしかできないことがある。教師にしかできないことがある。そうして私はようやく、この手で、救うことができた。


「和久井さんのために市場で働き始めたって聞いたときから薄々気付いてた。灯波先生は一生懸命だから、しょうがない。そういう理由で僕は僕を誤魔化してきたけど。もう、潮時かもしれないね、灯波先生」


 丸いおっとりとした形の目であるはずなのに、丸山先生の瞳が、氷柱のように鋭く見えた。


「過干渉だよ」


 重く紡がれたその言葉に押されるように、私は丸山先生に頭を下げて職員室を出る。


「灯波先生!」


 後ろから、丸山先生の声がする。振り返ると、先ほどとは打って変わって、怯えた表情の丸山先生が私を見ていた。


「どうして君は・・・・・・さっきから一度も、謝罪をしないんだ」


 指で自分の口元をなぞる。そうだっけ?


 理由は分からない。でも、無意識下でというならきっと。


「悪いことをしたとは思っていません。私は生徒を救うためなら」


 マグマにだって飛び込んだっていい。とっくの昔にそう決めていたのだ。


 職員室の扉を閉める際、丸山先生の低く、重い声が、地面を這うように聞こえた。


「君は・・・・・・間違っている」


 私は丸山先生のことが大好きだ。尊敬している。いつか恩返しをしたい。


 丸山先生は、私のことを、どう思っているだろうか。


 職員室を後にして廊下を歩いていると、西口にしぐちさんと細川ほそかわさんにばったり会った。


 今は放課後であるはずだけど、どうしてまだ学校にいるんだろう。


「あ、灯波先生・・・・・・」


 西口さんが、か細い声で私を呼ぶ。けど、その表情は芳しくない。西口さんは腕に抱えた絵を抱きしめるようにして私を見上げている。


 そういえば西口さんに絵を描いてもらえるという約束を前にした。持っているのはその絵だろうか。


「西口さ――」


 手を伸ばすと、強い力で思い切りその手を振り払われた。


「・・・・・・最低」


 西口さんを守るように、細川さんが私を睨んでいる。


 噂の出所は分からない。けど、西口さんも細川さんも、私に何があったかは知っているみたいだった。


 細川さんは生徒の中でも明るく、その人当たりの良さからいろんな子と仲が良い。私が担任になったときも、緊張している私を気遣って声をかけてくれたこともあった。


 すごく、良い子なのだ。


「行こ、西口」

「う、うん」


 二人が、私から逃げるように去って行く。私も、もうここにいる必要はないのかもしれない。


 帰宅して、マンションの立ち退き手続きを行った。元々荷物は少なかったので、引っ越し業者は呼ばなかった。


 それから二日後、私は実家に帰った。教員免許が剥奪された今、あのアパートにいる意味もなかった。


 お母さんに会うと、言葉を交わす前に思い切り頬を叩かれた。当然お母さんにも、警察や学校から連絡は入っている。


「どうして!? どうしてこんなことをするの!? あんた、みんなを助けられる先生になるんだって言ってたじゃない。将来の夢もやりたいこともなかったあんたが、ある日突然そう言って、お母さん嬉しかったんだよ。桃子にも夢ができたんだって。桃子、先生になるためにってあれだけ頑張ってたじゃない! それなのに、どうしてよ!」


 リュックを担いだまま、お母さんに叩かれる。就職先が決まって、行ってきます、と玄関でお母さんに手を振ったときも、このリュックを担いでいた。


「桃子があんなに頑張るの初めてだったから、お母さんも精一杯応援したんだよ!? できることはしてあげたかったし、最初は不安だったけど、必死な桃子を見てたら、きっと大丈夫、桃子は立派な先生になるって確信があったから、だから精一杯支援をしてあげたのに。大学だって、安くなかったんだよ!? それなのに、こんなことして。お母さんは桃子が生徒とそういうことするためにお金を払ってたの!?」


 お母さんが馬乗りになって、私を叩く。こんな風にお母さんから手を上げられるのは生まれて初めてだった。


「でもお母さん、私、教師になりたくて教師になったわけじゃない。生徒を救いたくて教師になったの。この結果は残念だけど、生徒を一人救えたんだよ。私、後悔してない」


 馬乗りになっていたはずのお母さんが、私から飛び退いた。まるで汚いものにでも触れたように、弾けるように、私から離れていく。


「お母さんなら、分かってくれるでしょ?」


 立ち上がる気力はなかった。仰向けになったまま、お母さんを見上げる。


 この世界は優しい。


 優しさで溢れている。


 困っていれば誰かが助けてくれるし、泣いている人がいたら誰かが寄り添ってくれる。貰うばかりじゃいけないって気付くのはそうやって救われたときで、同じように自分も誰かを救いたいと願うようになる。


 そういうもので溢れているから、この世界は回っている。だから人は笑って今日を過ごすことができる。


 私を支えてくれた人はたくさんいる。何度もお世話になった。いつも助けてもらった。私一人じゃ絶対、生きてなんかいられなかった。


 この世界は優しさでできている。


 だから。


「あんたは、間違ってる」


 ビリビリに破かれた答案用紙が、私の胸に溶け込んでいく。


「同情なんてできるもんか」


 失敗。


「自業自得でしょう」


 全員、敵。


「被害者面するな」


 誰も助けてくれない。


「理解できない」


 手を取ってもらえない。


「裏切られた」


 いつのまにか期待されてた。


 私の思いは最初から、変わってなんかいないのに。


「ずっとそこで寝てろ」


 そう言い残して、お母さんは私の元から去って行く。


 玄関に一人残された私は、まるでゴミステーションに捨てられた人形のように、壁によりかかっていた。


 ふいに、涙が零れた。


 この世界が地獄ならよかった。それなら自分に降りかかるものがどれだけ醜悪だったとしても納得ができた。みんな辛いなら、一緒に地獄を乗り越えようって手を取り合うことができた。


 けど、世界は優しすぎる。


 それは社会に出て、いろんな人に支えられ生きてきて分かったことだ。


 そんな優しい世界ですら、今の私を受け入れてくれることはなかった。


 なによりも、ずっと私を見守ってくれていたお母さんにすら抱き留めてもらえなかったことが悲しくてしかたがない。


「・・・・・・私」


 一体、どこで間違えたのだろう。


 私はいつから、この世界にすら受け入れてもらえないほど、手に負えない存在に成れ果てていたんだろう。


 涙が止まらない。


 悔しい。


 正解か、不正解か。善か、悪か。優劣を付けながら、付けられながらも。


 私は必死に生きていた。


 だから、悔しかった。


 優しい世界と、間違いだらけの自分は、きっと繋がれない。


 私が泣きわめいても、お母さんは来てくれなかった。


 それからの記憶は、あまりない。

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