第30話 集合論∈アタシ属

 それから十分ほどして、灯波先生は立ち上がる。ヒールを履くのをやめたのか、あたしの首辺りで灯波先生の頭が止まる。なんだかちっちゃくて、可愛らしかった。


 虫の羽音だらけの竹林をさっさと抜けて、公道に停めておいた車に乗り込んだ。灯波先生は一度立ち止まって驚いていたようだったけど、あたしが運転席に乗るとおそるおそる助手席に座った。


 誰かを乗せて走るのは自動車学校のとき以来だ。砂利だらけの道を通ると、車がガタガタと揺れて、お尻が痛いのか、灯波先生が腰を浮かせていた。


 命を乗せるなんて仰々しいことは意識したことはなかった。けれど、隣に誰かを乗せるというのはそういうことなのだと今更になって気付く。なんとか揺れを少なくしようと、砂利が少ない場所を選んで、揺れそうならスピードを落としたりしたけど、途中から面倒くさくなってアクセルをめいっぱい踏んだ。


 隣の灯波先生は乗馬マシンにでも乗ってるみたいにグワングワンと揺れて、小さな悲鳴をこぼしていた。


 あたしが灯波先生の車に乗っていたときは、こんな風にはならなかった。今思えば灯波先生は、カーブのときも、ブレーキを踏むときも、いつだってゆるやかで、隣に座っていたあたしの負担なんてほぼなかった。


 あたしにはそんな気の利いたことできそうにないな、と砂利道を抜けるまでアクセルをべた踏みする。徐行しなくていいのは、田舎の利点かもしれない。とはいえ公道に出ればしっかりとアクセルを踏む足からは力を抜いた。


 車の中で、大学に落ちたことを話すと、灯波先生は泣きそうな顔で「私のせいだよね」と縋るように言ってきた。この人はもう、自分から罪を被るのが癖になっているのかもしれない。


 大学に落ちた要因は、どう考えても受験当日、急に反抗期に入ったあたしの脳みそのせいだ。導き出した答えとはあえて違う答えをチェックマークに記入したのは、今思い返しても中々に度胸がある。


 けど、灯波先生を辞めさせ、灯波先生を追い詰めたこの社会というものが用意したレールに良い子ちゃんのフリをして乗っかるのがどうしても嫌だったのだ。それはまるで、あたしまで灯波先生を否定しているみたいで、不快だった。


 だからもしも、あたしが受験に成功してあたしが大学に行っていたとしても、講義の途中でいきなり立ち上がって、窓の一つでも割って自主退学していたに違いない。


 結局、今こうして山奥でひっそりと、灯波先生と一緒にいる未来があたしにとっての最善だった。当然父はずっと反対していたし、浪人することも勧められた。でも、父の説得は相変わらず弱く、あたしの心が動かされることはなかった。


 灯波先生のおばあちゃんちをそのまま通り抜けると、灯波先生があたしの顔を覗き込んだ。どこへ行くの? という視線での問いに、あたしは車のスピードをあげることで返事をした。


 運転が荒い、とは自動車学校ではよく言われた。あたしにはその自覚がないから、直しようがないのだけど。


 夕陽村を出て、しばらく走ると、山が遠くなる。それでも周りは田んぼだらけの田舎道。熊注意の看板を無視しながら、白線のない狭い道路を突っ切る。


 その間、どうして灯波先生はあんな崖に一人で座り込んでいたのかと問いただすと、灯波先生はこれまでのことと、今の自分の事情を説明してくれた。


 教師を辞めてから人間不信になったこと。一度就職したけどすぐに辞めて、引きこもりになったということ。一番衝撃的だったのは、それから精神科に通うようになり、錠剤を大量に飲み込んで自殺を図ったということだった。


 もしそれが成功していたら、もうこの世に灯波先生がいなかったかもしれない。崖っぷちで会う前にあった墓地で、あたしと灯波先生が再会していた未来もあったのだ。


 灯波先生はそれから両親に連れられ祖父母の家に預けられた。最初は優しくしてくれたけど、ずっと寝てばかりの灯波先生に痺れを切らして祖父母までもが厳しい言葉を使うようになった。渋々就職相談所に向かったけど、やっぱり人ごみにいると嫌なことばかり考えてしまって、走って帰ってきて、そんな自分が嫌で泣いていたのだという。


 事情を話し終わると、灯波先生は自嘲気味に笑って、それから押し黙るように俯いてしまった。


「生きていてくれて、ありがとうございます」


 あたしがそう言うと、隣から鼻を啜る音が聞こえてきた。ハンドルを離してもいいのなら、今すぐにでも抱きしめてあげたかった。


 ポツンと寂しく光るコンビニの看板を目印に道を曲がると、河川敷が見えてくる。開けた窓から、草木の乾いたにおいが漂ってきた。このにおいを嗅ぐと、小さい頃空き地で遊んでいたことを思い出す。名前も知らない白い花をかき集めて冠を作っていたのだけど、友達は綺麗に作れるのに、あたしはいつも失敗して、嫌になって家に帰るのだ。


 それなのにこうしていい思い出としていつまでもあたしの中に残っているということは、その失敗ですら、好奇心を刺激するのには充分だったのだろう。知りすぎてしまった今じゃ、考えられない思考だ。


 駐車場に車を停めると、灯波先生が目の前にある大きな建物を見上げて口にする。


「マンション?」

「はい、マンションです」


 街灯のように遠慮がちに光る大きな建物が、あたしと灯波先生の前に立ちはだかっている。歓迎しているように見えないのは、まだ心の中に引っかかりと、置いてきたものが多すぎるからなのかもしれない。


「一緒に棲みましょう、灯波先生」


 エンジンを切ると、静寂があたしたちを包み込む。唾を飲む音さえ、聞き逃すことはできない。


「一緒に棲むって、え?」

「先月に不動産会社で契約は済ませてあるので、今からでも棲めるようになってますよ」


 頭が付いていかないのか、灯波先生は口をぽかんと開けたままあたしを見ている。


「ルームシェアってこと? でも、私、貯金あんまりなくって」

「そこは安心してください、敷金と最初の月の家賃はすでに払ってあるので。あたし、灯波先生が辞めちゃったあとバイトを始めたんです。そのときの蓄えもありますし」

「バイトって、まさか」


 灯波先生の顔がどんどん厳しくなっていくので、あたしはやんわりと否定する。


「違いますよ。普通に、カフェで働いてました。時給よかったし、制服も可愛かったので。でも、もちろん、あたしがあたしを売っていたときのお金も、まだ残っています」


 やはり、灯波先生はあまりいい顔をしなかった。でも、それは想定内のことだ。


「ここの家賃、六万円なんです。安いでしょう? 立地は少し悪いですけど、逆に静かでいい思いませんか?」

「六万円・・・・・・」

「あ、気付きました? そうですよ。あの日、灯波先生があたしを買ってくれた金額です。あのとき貰ったお金、まだ手を付けてなかったので、使わせてもらいました」

「でも、あれは、良くないお金だよ・・・・・・」


 人によっては、確かに自分を売るという行為を否定的に見る人もいるだろうし、知らない人に抱かれるなんて絶対嫌だって人もいると思う。あたしは当時、そこまで難しく考えてはいなかった。ただ、自分の純真な体よりも錆び付いたお金のほうが大切だったというだけだ。


 それでも、あたしは灯波先生と出会ってから、自分の体を売ることはやめた。灯波先生が触ってくれたこの体が、別の誰かによって上書きされるのがどうしても嫌だったのだ。


「良くないお金が、あたしにはたくさんあります。あたしの中には、良くないものが感触としてまだ残っています。やっぱり灯波先生は、そんなあたしなんて嫌ですか?」


 灯波先生は、首を横に振る。


「良くないものでかき集めたものを資金にして、一から始めてみませんか。灯波先生」


 近くの田んぼから、虫の鳴き声が聞こえる。遠くのバイパスから、車の走る音が聞こえてくる。静けさとは、色だ。この空間はまだ透明のままだ。染めていくのは、これからのあたしたち次第。


「でも、私。病気なんだよ。心がね、もうおかしいの、普通じゃないの。普通には、もう生きられないの」


 あたしは運転席から助手席に身を乗り出して、灯波先生の唇にキスをした。


「外に出たら普通でいられないなんて当たり前です。絶対、働けー! って言われるし、しっかりしろ、大人だろー! って非難されると思います。あたしたちは常に監視されて、評価され続けなくちゃいけません。それが生きるってことです。でも、逃げ場所さえあれば、そんな世界でも頑張ろうって思えませんか?」


 駐車場の奥に設置された街灯の、微かな光が灯波先生の顔を映す。変わってしまっても、廃れてしまっても、灯波先生は、やっぱり綺麗だった。


 あたしが車から降りてマンションへ向かうと、灯波先生も後を付いてくる。


 玄関の隣には駐輪場があって、自転車が何台か止まっている。この河川敷を灯波先生と一緒にサイクリングするのも楽しいだろうし、一緒に花を摘んでみるのもいいかもしれない。灯波先生の隣でなら、あたしは今度こそ綺麗な花冠を作れそうだった。


 エントランスホールの入り口に設置されたオートロックを解錠してエレベーターに乗る。四階で降りて、あたしは自慢するように「角部屋ですよ」と見せびらかす。


 しかし目が合うと、灯波先生は口をキュッと結んですぐにあたしから視線を外してしまった。


 部屋に入ろうとすると、足音で気付いたのか隣の部屋の人が出てきて「こんばんわ」と挨拶をされた。


 不動産の人と一緒にこのマンションへ来たときに、隣人への挨拶はすでに済ませておいた。隣に住んでいるのは戸田さんといい、家族三人で棲んでいる専業主婦だ。まだ三十代で、このマンションには二年ほど前に越してきたという。愛想がよくて、笑顔が素敵な人という印象の人だ。


 あたしが頭を下げると、戸田さんの視線があたしの後ろにいた灯波先生に向く。灯波先生はビクッと体を震わせると、何かを言っているのか口をパクパクさせるが、声にはなっていない。


「この方が一緒に棲まれるっていう?」

「はい。灯波桃子さんっていいます。明日には荷物を持ってきて住み始めようかなって思ってます」

「そうなんですね。よろしくお願いします。何か困ったことがあったら、いつでも相談してくださいね、手伝えることは手伝いますので」


 戸田さんは優しい。思いやりがある。けど、灯波先生はそんな戸田さんの優しさに触れた途端、顔が恐怖で歪む。怯えたように震え始め、後ずさる。


 あたしは灯波先生の手を握って、戸田さんに見せつけるようにした。


「改めてよろしくお願いします」

「え、ええ。大変でしょうけど・・・・・・」


 戸田さんが、繋がれたあたしたちの手を凝視して、怪訝な顔になる。あたしはまだ何の事情も説明していないのに、どこから大変でしょうけど、なんて言葉が出てきたのだろう。


 あたしは戸田さんを振り切るようにして、灯波先生の手を引いたまま自分の部屋に入った。


 まだ何も荷物を運び込んでいないまっさらな部屋。ガラっとした玄関は、二人同時に入るにはやや狭かった。


「あの、和久井さ――」


 あたしは振り返って、灯波先生の腕を掴むと壁に押しつけて再びキスをした。


 灯波先生の息づかいと、呻くような声が唇の間から漏れる。


「この部屋には何もありません」


 顔を離すと、灯波先生の顔がよく見えた。髪がボサボサで、枝毛がまつげに引っかかって、目をこらすと鼻毛までちょこんと飛び出ている。首元と額には赤みがニキビのように残っていて、唇は干上がった地面のようにひび割れている。


 灯波先生のためにとっておいた、キスという行為は、あまり、潤ったものにはならなかった。どうやら灯波先生には、リップクリームを渡しておかないといけないみたいだ。


 けど、そんな灯波先生の悪いところ。外に出たら直せって言われるに決まってるダメなところ。それも全部、あたしは愛したい。


「外に出て、疲れちゃったら、この部屋に帰ってきましょう。そしたら、あたしたち、わざわざ悲しむ必要なんてありません。それどころか、笑ってやりましょう。あいつら学校卒業したのに、まだ百点とるために必死になってる、って」


 灯波先生の頬に手を当てて、涙の跡をなぞる。


「どうして、私なんかのためにそこまでしてくれるの?」

「灯波先生があの日、間違ってくれたからです」


 言うと、灯波先生があたしの袖をギュッと握る。


「あたしたち、もう先生も生徒もやめたんです。だからこれからは、答案用紙なんて気にしないで、あたしたちの好きなように生きていきましょう。外の世界じゃそんなことできないかもしれないけど、この部屋でなら、きっとそれができます」


 これからこの部屋は、あたしと灯波先生だけで埋め尽くされる。あたしの好きなもの、灯波先生の好きなもの、そういうもので溢れていく。


「あたしと一緒に暮らしてください、灯波先生」


 あたしの言葉を聞き届けると、灯波先生は首を縦に振った。


 その瞬間、自分の体からフッと力が抜けていくのが分かった。


 あたしは自分でも気付かないうちに、緊張していたみたいだった。安心しきった頬が緩んでしかたがない。


 灯波先生もまた、過去を慈しむように泣いている。


 今頃、ホテルでしたあたしとのエッチを思い出しているのだろうか。


 でもね、灯波先生?


 あなたはホテルでの件よりも、もっと、ずっと前から、とっくに間違いを犯しているんですよ。


 あの日、茜色の日差しが射し込む廊下で、あなたはあたしに言いましたよね。


 ――和久井さんは恋人とかいるの?


 変なの、普通、彼氏って聞きませんか?


 どうしてわざわざ、恋人、なんて言い方したんですか? 


 おかげであたし、あのときから、灯波先生のことが気になって気になって仕方がなかったんですよ。


「和久井さん、和久井さんっ」


 腕の中であたしの名前を呼びながら泣きじゃくる灯波先生。そっと頭を撫でながら、真っ白な天井を見上げる。


 ねえ、灯波先生。


 あたしたちは出会ったあの日からとっくに。


 あたしたちだけの道を歩み始めていたんですよ。

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