第20話 灯籠流し
「あー、いやー。どうも先生。お待たせしましたー」
パンダみたいに目をとろけさせて、和久井さんのお父さんが私たちの元へとやってくる。視線は一度、和久井さんの方へと向けられたけど、まるでいない者として扱うようにすぐ逸らされた。
「実はさっきプロポーズしてきて、相手からもオッケー貰えたんですよー。いやびっくり」
よほど嬉しいのか、声が普段よりも弾んでいた。
「それで、えっとー、紫乃も、そういうことだから」
本人を見ないまま、和久井さんのお父さんが事情を説明する。隣の和久井さんも、視線を合わせないまま、空洞な相槌を打ち続けていた。
結婚って、こんなもんだっけ? もっと喜んで、互いに祝い合うようなものだって私は勝手に思っていた。けど、中にはそれを望んでいない人や、気まずいと思う人がいる。
和久井さんは言っていた、再婚を繰り返す人を見続けたせいで、愛情というものがどれだけ移ろいやすく、案外適当にできているのだと気付いてしまったと。自分を置いて先に進んでいく大人たちを気遣いながら、どこか冷めた目で見ていたのだ。
でも、和久井さんのお父さんはしっかりと、血の繋がっていない娘のことも考えて再婚という手段を取った。奥さんを亡くした傷もまだ癒えていないはずなのに、それでもその決断ができるのは、愛情がなければできないと私は思う。
「和久井さん、紫乃さんに、事情を話してあげてください」
「あー、はい。まあ紫乃、そういうわけだからさー、新しいお母さんは今度連れてくるからー」
「そうじゃなくて、紫乃さんに対してのことです。思っていたこと、たくさんあるはずです。言ってあげてください。言わなきゃ、伝わりません」
和久井さんのお父さんはバツの悪そうな顔で、目の前で佇む娘を見下ろした。和久井さんは地面を見つめたまま、私の手をギュッと握ったままだった。
「教えてあげてください。きちんと、愛しているってこと」
和久井さんの視線が、ゆっくりと上がっていく。そこで初めて、親子の視線が交差した。互いに思うことと、伝えたいことが多すぎて一歩を踏み出せない。そのことが、長い静寂の内から伝わってくる。
先に口を開いたのは、和久井さんのお父さんだった。
「新しいお母さんな、まだ若いんだ。だから話しやすいと思うし、世話もしてやれるはずだからー、紫乃も、相談事があったら気兼ねなく聞けばいい」
「そうなんだ。じゃあ、そうする」
和久井さんの口調は私と話すときよりも、やや幼く聞こえる。拗ねて口を尖らせている、子供のようだった。
「あー、そういうことだから。・・・・・・あと、大学に行きたいんだってー?」
「・・・・・・うん」
「ふーん。どこの?」
「まだ、決めてない」
「はぁー、そういうもん?」
疑問を露わにする和久井さんのお父さんを見て、私は慌てて一歩前に踏み出した。
「進路希望はまだまだ先です。三年生になってから大学を決める生徒がほとんどです。なので今は、方針だけ決まっていればそれで充分です」
「そうなんですねー。わっかりましたー」
和久井さんのお父さんとの会話は、やはりどこか芯を感じない。本当に分かっているのかな、と不安になってしまう。
和久井さんのお父さんはお店の方へ向かうと、私がさっき降ろしておいたアコースティックギターを抱え、少し優しい雰囲気の声で和久井さんの名前を呼んだ。
「持ってってー、これ」
和久井さんは返事はしなかったけど、ゆっくりと歩み寄ってアコースティックギターを受け取った。まるで赤ちゃんをあやすように、胸に抱いている。
「他にも、取ってあるから。そこの先生が降ろしておいてくれたんだー。好きなの持ってって、いらないのはそこの段ボールに入れてー」
もう、進路や、再婚の話は終わったんだろうか。私には、あの一言二言だけで意思疎通ができたようには見えなかった。それでも、和久井さんはお父さんに言われるがまま、積まれたCDケースを一つ一つ吟味した。カラーボックスだけを段ボールに入れて、それ以外の全てを持って帰ると和久井さんは言う。
なんだこりゃと思いながら私は運んでいたけど、もしかしたらあれは、和久井さんの所有物だったのかもしれない。やたら古かったり、埃を被ったりしていた理由は分からないけれど。
「明日の朝家に運ぶからー、今日はとりあえず置いておこう。他に欲しいのはない?」
「ない」
「そっかー、こんなもんかー」
残った荷物を見て、苦笑いするお父さん。
「んじゃー夜も遅いし、そろそろ帰りましょうー」
ふわふわと、埃が風に乗るように会話が進んでいく。きっと家でもこうなのだろう。これでは、上辺だけの会話しか発生しない。人間っていう生き物はすごく器用だから、本当の気持ちなんて簡単に隠せるし、都合の悪いものや恥ずかしいものはすぐに誤魔化せる。そうやって波に揺られるように進んでいっては、きっとどこにも行き着けない。
和久井さんのお父さんが店を出てシャッターを締める。その背中に、和久井さんが声をかけた。
「お父さん」
それには和久井さんのお父さんも驚いたらしく、降ろしていたシャッターを途中で止めて、こちらに振り向いた。
「灯波先生に頼りすぎ、本当、情けない」
「えー、そうかな。だって先生優しいし、全然断らないんだもん」
「だからって、筋肉痛になるまで働かせるなんて。倒れたらどうするの」
「筋肉痛? うそー、あんなにキビキビ働いてたのに」
和久井さんのお父さんが私を見て、そんなことないですよねー? と問いかけてくる。ちょっとこめかみのあたりがピキっとした気がしたけど、私はなるべく穏便に、愛想笑いを浮かべた。
「しっかりしてよ、父親なら」
「あー、まあ、なるべくねー」
筒を叩いたときにポンと鳴る音のような、透明な相槌が流れていく。
シャッターを締めると、和久井さんのお父さんがタッパーから鮭とばを取り出して、私と和久井さんの手のひらに乗せた。
「これ、お礼。ありがとうございましたー。今後ともどうぞー」
「あ、はい。こちらこそ。よろしくお願いします」
「それで三者面談なんですけどー、いつにしましょうかー? もう仕事も先生のおかげでだいぶ片付いたので、日程の確認をしてもらってもいいですか」
「分かりました。えっと、それでは・・・・・・」
互いにカレンダーを見ながら話し合い、結局来月の二週目の火曜日に決まった。和久井さんのお父さんはスマホをぎこちなく操作して、日程をメモしてくれた。
それが終わると、頭を下げて、私たちの元を去って行く。遠くの駐車場からエンジンの音が聞こえた。
「あ、あれ。乗っていかなくてよかったの?」
「父はあたしを車に乗せてくれないんです。お母さんといるときは、乗せてくれてたんですけど」
「・・・・・・もしかしたら、照れくさいのかもしれないね」
「どうなんでしょう」
和久井さんは鮭とばを口に咥えながら、お父さんが去って行った方角を見つめていた。私も貰った鮭とばを口に入れる。
「しょっぱすぎますよね、これ」
和久井さんが、ぼやくように言う。
「父は、昔からいつもこの鮭とばを買ってきては私の部屋のドアノブにかけていきました。本当はクッキーとか、チョコとかがよかったんですけど。漁業一筋でやってきた人だから、そういうの、分からなかったのかもしれません。今となって、思い返すと、そんな気がします」
「私は美味しいと思うけどな、この鮭とば」
「・・・・・・あたしは、嫌いです」
そう言いながらも、和久井さんは鮭とばを惜しむように食べている。この塩辛さを鬱陶しく感じることもあるかもしれないけど、時には、そのアンバランスな塩梅の味が愛おしくなることもあるかもしれない。
「あのアコースティックギターとかコンポ。それからCDは、全部あたしとお母さんの物だったんです」
「そうだったんだ」
「はい。母は外国で演奏家をしていて、とても楽器を弾くのが上手でした。あたしはいつも母の横で歌を歌って、一緒に歌った曲を録音してCDにしてたりで。けど、母が亡くなってからは歌を歌うことも減りました。それで父に、もう使わないから全部捨ててくれって言ったんです。正直、もう見るのすら辛かったんです」
和久井さんと初めて会ったとき、外見はもちろんのこと、なんて綺麗な声をしているんだろうと思った。鈴の鳴るような声で歌う和久井さんの歌は、さぞ素敵なことだろう。
「けど、取っておいてくれたんですね」
「きっと捨てられなかったんだよ。だってあれは、和久井さんとお母さんとの思い出でしょ? お父さんも分かってたんだよ」
和久井さんは無言だ。自分の中で、噛み締めるものがあるのかもしれない。お父さんも、それから和久井さん自身も、不器用だからすれ違ってしまったけど。今回を機に少しでも寄り添っていけたらいいなって思う。
「ゆっくりでいいと思うよ。これからたくさん、時間はあるんだし」
「そう、ですね」
「頑張ったね」
和久井さんの頭を撫でると、和久井さんの鼻がすんと鳴った。握ったままの手に、力が込められる。和久井さんは頭を私の肩に預けて小さく呟いた。
「愛情って、本当にあるんでしょうか」
それは、生徒から先生へと出されたテストだった。私はそこに、何を書き記せばいいだろう。答えは誰が持っているのか、誰が採点をするのか。まったくもって検討は付かない。だから私は、自分の素直な気持ちを口にすることこそ、正解なのだと思った。
「あるよ」
和久井さんの肩を抱き寄せる。
愛していないなんてことはない。愛していたから、和久井さんは今もここにいる。愛されていたから、和久井さんはこんな良い子に育った。
都合のいいことばかり考えていると、突然不安になることだってある。けど、必要以上に怖がる必要なんてない。だってこの世界は優しさで溢れている。
私だって、いろんな人に支えられてようやくここまで来た。失敗することだってあるし、泣いちゃったときだって何度もあった。そのたびに誰かが私に声をかけてくれて、背中を押してくれた。
愛されていないなんてことはない。この世界は人間を愛している。人間は人間を愛している。愛し合っているからこそ、今日も元気に生きているのだ。
「紫乃って呼んでください」
「どうしたの? 急に」
「電話ではあたしのこと、そう呼んでました」
「聞いてたんだ・・・・・・」
「父はいつもスピーカーで話すんです。だから灯波先生が言っていたこと、灯波先生が思っていたこと、全部丸聞こえでした」
なんてことだ。私、変なこと言ってなかったよね? 思い返しても、緊張していたからか、記憶がさっぱり抜け落ちている。
和久井さんが突然、指を絡ませてくる。ビックリしたけど、和久井さんが私を待ってくれているのを肌で感じたので、顔が熱くなるのを自覚しながらも、目の前に広がる大きな夜空に向かって放った。
「紫乃」
その二文字が、強烈に私の体を駆け巡る。
「さん」
付け加えると、隣で和久井さんが笑ったのが分かった。
「ごめん、ちょっと恥ずかしい。友達同士じゃないんだし、やっぱり和久井さんって呼び方でもいい?」
「はい、いいですよ。それより灯波先生、なんだか汗かいてません?」
密着した手のひら同士に、微かに湿ったものがある。でも、なんとなくだけど、これは私だけのものではない気がした。
「冬が待ち遠しいです」
和久井さんがボソと呟く。
冬か。
冬は、正直苦手だ。
置いてきたものと、もう届かないものが、あの季節には多すぎる。
けど、今ならほんのちょっとは、向き合えるかもしれない。
「ある、のかな」
和久井さんのその言葉は、私に向けられたものではない気がした。
和久井さんと一緒に、夜空を見上げる。
あるんだよ、と。
私も、誰に向けたわけでもない言葉を、灯籠のように空へ流した。
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