第4章
第21話 狂信
背中を押してくれる。肩を支えてくれる。手を取ってくれる。受け止めてくれる。笑ってくれる。泣いてくれる。一緒に歩いてくれる。人は人を思い合い、世界に幸せをもたらしながら生きている。
そんなの綺麗事だって思ってた。でも、未成熟なまま社会に出て泣きべそをかいていたら、いろんな人に励ましてもらった。時には叱られることもあったけど、それも愛の鞭だということに気付くと、私は一人じゃないんだって前を向けた。すごく嬉しかったし、頼もしかった。私一人じゃ絶対につまずいて、倒れ込んだままだったから。
だからこそ、私も誰かのためになりたいって思った。私がしてもらったことを誰かにしてあげたいって思った。それはもしかしたら特別なことなんかじゃなくて、あのとき私に手を差し伸べてくれた人たちも同じことを思っていたのかもしれない。
世界は優しさで溢れている。顔を上げれば、思いやりに満ちている。この世界は、私たちが思っているよりも厳しくなんてないから、ちょっとは甘えたっていいんだよ。
夏を終え、紅葉に変わる準備を始めた緑の葉を見ていると、頑張れとエールを送りたくなる。歩くたびにふわふわの土が私を支え、微かに残る夏の日差しを、涼しくなった風が和らげてくれる。そうすると、私もこの世界の一員なんだと嬉しくなってついスキップを刻んでしまう。
そろそろ十月になるという頃、
病室で暇そうにしているという噂の通り、丸山先生は溜まっていたものを吐き出すかのように熱心に働いた。代理として働いていた私は丸山先生との引き継ぎ作業を終わらせて以前の仕事に戻った。
とはいえ、しなくなったことといえばホームルームとプリント作りくらいで、それ以外は丸山先生のせっかくだし、というご厚意もあって継続して私が担当した。
少し遅れて開かれた
「
仕事を終えて一息ついていると、今し方三者面談を終えた丸山先生が向かいの椅子を引いて私の名前を呼んだ。
「和久井さんも親御さんも、すごく丁寧に接してくれたよ。もう少し時間がかかると思っていたけど、もともと意向は決まっていたんだろうね。スムーズに進んだおかげで予定より早く面談が終わったよ」
「そうなんですね。実はちょっと心配していたので、よかったです」
あれから和久井さんはお父さんとの仲も良くなったようで、以前のように毎日私の元へ来るようなことはなくなった。学校での様子も変化し、他の子たちと遊ぶ姿も多く見られるようになった。元々人当たりが良い子なので、そこには苦労しなかったようだ。
それに、大学へ進むという進路が決まったからか、より一層勉強するようになった。頻繁に行われる小テストでも全教科ほぼ満点だし、来月に控えている期末テストへの期待も大きくなっている。
以来、和久井さんと話すのはほぼ校内だったので、込み入った話はあまりしていなかった。調子はどう? って聞いても和久井さんは「灯波先生に会えたので絶好調です」なんて付き合いたてのカップルみたいなことを言ってくるから信用ならない。
けど、丸山先生の話を聞く限り、大丈夫そうでよかった。
丸山先生はテーブルに積まれた、たくさんのプリントを急がしそうに片付けている。
「すみません丸山先生、やっぱり私手伝います」
引き継ぎは終えたとはいえ、復帰していきなり一から始めるのはいくら丸山先生だからって簡単なことじゃない。本来なら私もキリのいいところで終わらせなくちゃいけないんだけど、丸山先生がそれを断ったのだ。
「いいのいいの、僕がやりたいっていったんだから。それに灯波先生はずっと頑張っていたみたいだし。聞いたよ。和久井さんのお父さんが務める市場で働いていたんだって?」
「あ、はい。そうなんです。和久井さんのお父さんは仕事が忙しくてどうしても面談に出られないってお話だったので、なんとかできないかと思って」
「うんうん、和久井さんのお父さんから聞いたよ。いやあ、さすが若い子は体力があるね。僕にはそんな真似絶対できないよ。フットワークが軽いっていうのかな。やっぱり灯波先生はすごいね。今までそんなことする先生、しかも新任の人なんて誰もいなかったよ」
「あ、ありがとうございます・・・・・・」
恐縮をそのまま鏡に映したみたいに、私は身を縮み上がらせた。
「ただ」
丸山先生がプリントに目を落としたまま、重苦しそうに呟く。
だけどなかなか、その続きを口にしない。気になって顔を覗き込むと、虚ろ気な丸山先生の瞳とかち合った。私を見た丸山先生の瞳は、銃弾のように黒くて丸い。
「いや、ううん。灯波先生の生徒を思う気持ちには僕も感服してしまうよ」
「そうでしょうか・・・・・・」
「ああ、僕だったら三者面談を断られた時点で他の案を探してしまうと思う。あんまり執着して親御さんにアポを取っても無礼だと思われて学校の信用を落としかねないし、それに三者面談でなくとも、たとえば三年生になると開かれる講習会で進路のことについて書くプリントを配られるんだけど、込み入った話はそのときでもいいかなって後回しにしちゃってたかもしれない」
「そっか、三年生になると講習会とかもあるんですね。私、とんだ早とちりでした・・・・・・」
「そんなことないよ、結果論だけど、今回はうまく言ったんだし。それに灯波先生だってなんの考えもなしだったってわけじゃないでしょ?」
「それは、もちろんです。和久井さんは良い子ですけど、良い子すぎて自分の本当の気持ちを言わないことが多いんです。けど芯はしっかりした子ですから、逃げないできちんと向き合えばきっと上手くいくって思ったんです。高校生って、結構そういう子多いじゃないですか。だから教師である私が前に出ることで、和久井さんのきっかけになればいいなって、そう思って」
丸山先生は湯飲みにほうじ茶を注いで、小さくすぼめた口に流し込んだ。熱かったのか、やや表情を歪めたまま、丸山先生が言う。
「僕は一目見たときから、灯波先生は絶対に生徒のことを思いやれる素敵な先生になれるって感じたんだ。なに、教職二十七年の僕が言うんだ、間違いないさ」
丸山先生が微笑んだ。湯気のせいで、ゆらゆらと揺れている。
「そういえばお盆は実家には帰ったの?」
「あ、はい。祖母の家に」
「たしか、夕陽村にあるんだよね」
以前バードウォッチングの話をしているときに、祖母の家の近くに大きな山があるという話になって、そのときに夕陽村の名前を出したのだ。私が「はい」と答えると、丸山先生は体をうずうずさせながら言った。
「一度でいいから行ってみたいなぁ。でもあの辺道が入り組んでいるので有名だしなぁ」
「それでしたら私が地図を書きますよ。いい抜け道があるんです」
私は近くにあったメモ紙に簡易だけれど地図を書いた。丸山先生の言うとおり、あの辺は道が複雑なので、初めて訪れる際に迷う人は多い。だから地図を書くこと自体、初めてのことではなかった。
「これで行けると思います。桜がとても綺麗なので、春頃がオススメです」
「おぉーありがとう!」
最後に「邪魔してごめんね」と付け加えられた丸山先生の言葉に、私は深く頭を下げた。
引き出しに鍵をかけてから、玄関へと向かう。まだ六時にもなっていないというのに、外はすっかり暗くなっていた。一ヶ月ほど前までは「七時になったら暗くなる」というのが当たり前だったのに、今じゃその当たり前も通用しなくなっている。
たった十二ヶ月の間に次々と常識を塗り替えていく季節というものの柔軟さに、私は感動してしまっていた。
職員玄関を出て階段を降りていたときだった。
「わっ」
横から突然人影が飛び出てきて、私は思わず「きゃあ!」と声をあげてしまった。
「驚きすぎですってば」
花壇の影に隠れていた和久井さんが、肩を揺らしてくしくしと笑っていた。
私は額に浮かんだ汗を拭って、脱げかけた靴を履き直す。
「そんなところにいるとは思わないよ、普通」
満足そうに笑う和久井さんが、後ろに手を回したままぴょんと跳ねて目の前に着地した。
「あたしに会えなくて、寂しかったですか?」
「えー? 寂しかったって言って欲しいの?」
「はい。あたしは結構、寂しかったので」
おちゃらけ返しとでもいうのだろうか。こういう会話では、和久井さんのほうが一歩上手だ。私の頭には、ぐいぐい来られたとき用のマニュアルが用意されていない。
「最近、家での時間が増えたんです」
私が車に向かって歩き始めると、和久井さんも後を付いてくる。
「父の相手の人も、この前会いに来てくれました。変な人だったらこっちから小突いてやろうくらいに闘志バチバチで話したんですけど、なんか全然。あっちには覇気がなくって、喋るの苦手なのに無理して喋ってるのがこっちまで伝わってきてしまったんです。それでなんかいたたまれなくなってしまって、最終的にはこっちが気を遣ってしまう始末で、もう大変だったんですよ」
母、と呼ばないのを見るに、まだ和久井さんの中で完璧には整理できていないのかもしれない。それでも、和久井さんはその人と会ったときのことを楽しそうに話してくれた。
「今月末からは一緒に住むんです。色々大変だとは思いますけど、まあ、あの人なら大丈夫そうです」
「それならよかったよ」
私の車は、駐車場の一番奥に停めてある。最初は遠くて不便だと思っていたけど、駐車場を覆う柳の下は空気が澄んでいて、深呼吸しながら車までの道のりを歩くのがいつのまにか楽しみにまでなっていた。
「灯波先生のおかげです」
自分の車に着いたころ、窓ガラスに、いつになく真剣な表情をした和久井さんが映って、思わず振り返った。
「頑張れたのも、勇気を出せたのも、灯波先生のおかげなんです」
「そんな、私はきっかけだっただけだよ」
「違います。あたし、灯波先生だからここまで向き合えたんです。灯波先生じゃなかったら、いつもみたいに、良い子のフリして、模範解答ばっかり並べてました」
和久井さんが微笑むと、落ち葉を拾い上げた秋風がふわっと横切っていく。まるで和久井さん自身が、一本の立派な樹木のように見えた。
「だから、灯波先生のおかげです」
謙遜は失礼に当たるのかもしれない。そう思ってしまうほど、和久井さんの瞳は真っ直ぐ、私を捉えて離さなかった。
「あのね灯波先生、あたし。灯波先生のこと」
一気に、寒くなった気がした。冬の風、驚くほどに乾ききった空気の香り。そんなものが、肌を擦っていく。
和久井さんは地面に落ちた石ころを見つめ、それから再び顔を上げた頃にはいつもの柔らかな表情に戻っていた。
「やっぱり言いません」
「気になる終わり方だなあ」
「そっちのほうが気になるじゃないですか。だから灯波先生は、ずっとあたしのこと気にしていてください」
「言われなくても気にしてるよ。和久井さんは私の大事な生徒なんだから」
和久井さんの顔が微かに赤くなったかと思うと、突然目の前にペットボトルが現れた。
「差し入れです。いつもお疲れ様ですというのと、それから、お礼です」
ラベルにはピーチティーと書かれていた。ありがとう、とそれを受け取ると、和久井さんが踵を返して走って行く。顔が見えなくなるまで離れたところで、和久井さんが振り返った。
私が手を振ると、和久井さんも同じように手を振って、今度はゆっくりと歩いて行く。
車に乗り込んでエンジンをかけると、生ぬるい空気が広がる。一人の空間になった途端、急激に喉の渇きを覚えて、もらったばかりのピーチティーを飲んだ。
仕事に集中していたからか、そういえば水分を摂っていなかったことを思い出した。
和久井さんにもらったピーチティーが胃に落ちるのと同時、和久井さんの優しさが全身に染み渡っていくのを感じる。
「私、あんなだったかなぁ」
高校生の頃の自分は、もっと子供で、面倒くさがりやで、そのくせ欲深い、お世辞にもできた人間とは言えない。でも和久井さんは、もうすでに、大人への一歩を踏み出している。
「頑張れー」
だから私も、一層彼女の未来を応援せざるを得なかった。
車を走らせて、夜空の下を駆ける。
街灯が道を照らしてくれるみたいに、人もまた、人の存在を示してくれる。人は、人に支えられて生きている。
だから、こうして夜道を走ることができる。
都合が良すぎることに不安にならなくたっていい。
都合の悪いことを恐れなくたっていい。
だって世界は。
優しさで溢れているのだから。
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