第19話 勇気を出して

 終わってみれば、重かったのはコンポだけでそれ以外は簡単に運ぶことができた。アコースティックギターは中が空洞で、持ってみると想像よりも軽い。カラーボックスも木製ということもあって軽々と持ち上げられた。CDケースは数が多すぎて、重さよりも階段を上り下りする労力の方が大変だった。中身はあったりなかったりで、あったとしても青い読み取り専用のCDだったので、どんな曲が入っているか分からなかった。


 それが終わると、私は手持ち無沙汰になった。店の前をフラフラしていると、店の前の鮎川さんに声をかけられた。鮎川さんは私がここで働くようになって知り合った人だ。風貌はまだまだ若いけど、歳は今年で六十歳らしい。それでも私よりもキビキビと動き、盛り上がった二の腕には血管まで浮いている。


 そんな鮎川さんと目が合うと、さっそく台車を渡された。フラフラしてる暇があったら働けということらしい。ここのところ毎日のように来ていたので、どうやら本当にここで働き始めたと鮎川さんは思っているのだ。


 すっかり慣れてしまった台車を押して、今日使ったクーラーボックスをセンターに返す。このクーラーボックスは、センターからの貸し出し品だから、終わったら返却しなければいけないのだ。って、なんで私が詳しくなっちゃってるんだろう。


 鮎川さんの店の台車は重くてタイヤの動きも悪い。何回もつっかえて、時々他のお店に突っ込みそうになる。慌てて台車を引っ張って止めると、スニーカーの紐がタイヤに引っかかってしまった。ぐわっと体が傾いて、地面が濡れていたこともあってその場で尻餅をついてしまった。


 いったーい! と叫ぶけど、ほとんどの人が帰ってしまったこの市場で私を助けてくれる人はいなかった。お尻は濡れるし、ここの水、いちいち磯臭いしで最悪だ。


「こんなところでなにしてるんですか」


 地面に手を着いて空を見上げていたら、空よりも綺麗な瞳が現れて私を見下ろした。


「あ、あれ和久井さん。学校ぶりだね。えっと、どうも」

「どうも、じゃないです。服、濡れてるじゃないですか。とりあえず、立ち上がってください」


 和久井さんは一度家に帰ったらしく、黒にピンクのラインが入ったジャージというラフな格好をしていた。普段の格好よりも体の線の細さが目立って、そういうのも似合うんだそりゃそっかーとかなんとか、ぼやきながら私は差し出された手を掴んで立ち上がった。


 かと思うと、握られた手をそのまま引っ張られて、抱き寄せられる形になる。今日、学校でもやられた。びっくりしている間にも、和久井さんは顔を私の首元に埋めて鼻をすんと鳴らした。


「おかしいと思ったんです。灯波先生の髪から香るはずのピーチの香りが最近しないし、シャンプー替えたのかもって思いましたけど、なんだか磯臭いから。もしかしてって思って来てみたら。なにしてるんですか」

「うそ、臭う?」

「普通にしてたら分からないと思います。けど、こうやって」


 そうしてまた、和久井さんの顔が近づいてくる。


「近くで嗅げば分かります。誰かに指摘されませんでした?」

「こんな近くまで寄られたことないから分かんないよ」

「そうですか、嬉しいです」


 目の前で和久井さんが笑っているのが分かったけど、恥ずかしくて目を合わせることができなかった。


「それで、灯波先生はここでなにしてるんですか。ここは父が経営する店がある市場ですけど?」


 大体は察しがついてる、というような眼差しで問い詰められた。和久井さんは元々賢い子なので、全部お見通しなんだろう。


「えっと、実は和久井さんのお父さんに会ってました」


 和久井さんはわかりやすくため息をついた。


「それでなんで、和久井さんがこうして台車を持って尻餅を付いているんでしょうか」

「台車・・・・・・って、あ、そうだった!」


 忘れてた。私は鮎川さんに頼まれてクーラーボックスを返却してきて、今帰っているところだった。台車を押して急いで鮎川さんのところへと戻る。


 鮎川さんは屈託のない笑顔で、私に岩塩を渡してくれた。鮎川さんがくれる岩塩はこの近くの海で獲れた天然の塩を使っているから、すごく美味しいのだ。ありがたくいただいて、振り返る。


 ジト目の和久井さんが待っていた。


「あの、仕事を手伝えば三者面談してくれるって、和久井さんのお父さんが」

「分かっています。学校でも教えて貰いましたし。市場でこんな仕事をしているのは予想外でしたけど・・・・・・まあいいです。あたしが言いたいのは、なんでそこまでするのかってことです」

「そこまでって、え? 私は私にできることをしてるだけだよ」

「できること、なんて言ったら際限ないです。灯波先生。あたしのこと、あたしの父のこと、色々考えてくれたのは嬉しいです。けど、あたし、灯波先生に無理して欲しくて事情を話したんじゃないんです。灯波先生に、大丈夫だよって撫でてもらえたらそれでよかったんです」


 和久井さんが求めていたのは、そういう温もりの触れ合い。それに対して私は、和久井さんのいないところで、冷たい水に打たれて濡れている。真逆と言ってもいいかもしれない。


 私の濡れた袖を掴んで、和久井さんは言う。


「三者面談の件、父に話してくれただけでもありがたいです。父もきっと考えてくれているでしょうから、後はあたしがなんとかします。自分の口から自分のこと、ちゃんと言います。だから、灯波先生。もう大丈夫です」


 どうして和久井さんが急にそんなことを言うのか、私は不思議で仕方がなかった。だけど、不安そうに俯く和久井さんの顔を見て、すぐに納得がいった。


 和久井さんは私に、気を遣っているんだ。


「筋肉痛だって、このせいですよね。あたしのためなんかに、灯波先生が傷ついてしまって、本当に、すみません」

「和久井さん」


 申し訳なさそうに私の二の腕をさする和久井さんの手を、両手で包み込む。


「生徒が先生に気なんて遣わないの。和久井さんが悩んでることがあるのなら、それを解決するために全力を尽くす。それだけのことだよ」

「けど、灯波先生。服まで濡れて、体まで痛めて」


 和久井さんが泣きそうな目で訴えるように私を睨む。けれどそこに力はない。それはきっと、口にする言葉に本当の思いが含まれていないからだ。


 高校生になると、人に気を遣うことを覚える。自分の守り方も知らないくせに、人を傷つけないようにばかり生きてしまう。だから苦しいことがあっても平気な顔をするし、悲しいことがあっても笑って誤魔化す。


 気付けなくて当然だ。隠しているのだから。けど、そのせいで自分を追い詰めてしまう人がいるのなら、私は見なかったことにしてはいけない。過ちは、決して繰り返してはいけない。


 だって私は。


「いいの和久井さん。だって私は、そのために教師になったんだから」

「灯波、先生?」

「だからね、和久井さんには私を頼ってほしい。遠慮なんかしないで、困ったら私の名前を呼んで。そしたら先生が、全部なんとかしちゃうんだから」


 和久井さんの頭に手を置いて優しく撫でると、力の入っていた目尻が微かに緩んでいく。細められた和久井さんの瞳が、私を捉える。


 それでも瞳の奥にある不安は拭いきれない。だから私は笑いかけた。任せてって、自分の胸を叩く。それが和久井さんの目に、どれだけ頼りある姿に映っているかは分からない。


 和久井さんは静かに、私の胸に顔を埋めた。そして小さく、私の名前を呼ぶ声がした。


「うん」


 返事をして、背中をさすってあげる。この小さな背中を守るためなら、市場を駆け回るくらい安いものだ。マグマの中を泳いでこいって言われたって、私は喜んで頭から飛びこむ。


 しばらくそうしてたけど、遠くで車が停まる音がして、私たちは離れた。


 もうじき夕陽が沈みきって夜になるという頃、向こうから和久井さんのお父さんがこちらに走ってくるのが見えた。


「お父さん・・・・・・」


 和久井さんが私の隣でボソっと呟いた。


 手はいまだ、繋がれたままだった。

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