第2話 ざわつくエピソード
一
翔の勤める株式会社プランニングエースは広告代理店だが、翔が所属する販売促進部は、クライアント企業の販促活動に対するプランニング提案や、案件によっては商品開発から事業提案を行うなど幅広い活動を行っている。
毎朝行われる朝礼の席で部長の川口真衣からそれは突然発表された。
「みんな知っていると思うけど、先日、当社が東航商事さんの事業提案コンペに参加することが決まりました」
そういう噂は聞いていたけれど、本当だったのだ。東航商事といえば大手企業なので、みんなの目が輝いている。
「それで提案内容を決めるためのプロジェクトチームを立ち上げることになりました。今からそのメンバーを発表するので、選ばれた人は前に出てください」
自分もやりたいと翔も思ったけれど、自分がプロジェクトメンバーに選ばれる可能性は低いと半ば諦めていた。自分より優秀な社員がたくさんいるからだ。
「まず最初にプロジェクトリーダーだけど、これは平野君にやってもらいます」
「えっ」
誰よりも翔が一番驚いて、思わず大きな声が出た。
でも、ショックだったのは、周りにいる全員が自分と同じ顔をしていたことだ。一瞬の静寂の後、急にその場がざわつき始めた。
「みんな、静かに。今理由を説明するから」
すると再びみんな静かになり、真衣を見つめた。
「実は、東航商事さんの専務さんが、平野君がこの間の雑誌のコンテストで受賞した作品をご覧になって、いたく気に入ったらしいの。それで、今回のコンペには平野君がいるわが社にぜひ参加してほしいと指名してくれたというわけ。なおかつ、平野君にはその中心となってやってほしいとまで言ってらっしゃるとのことです」
広告関係の専門雑誌で毎年行われているコンテストに、翔は遊び半分で応募した。というか、正確に言えば桃香に言われて応募した。でも、どうせ入賞することはないだろうと思っていたのだが、まさかの銀賞を受賞したのだ。金賞ではなく銀賞だったのは、何事も少し残念な翔らしいところ。このことは社内の人間のほとんどが知っていた。けれど、その作品がまさか東航商事の専務さんの目に留まっていたとは思いもよらなかった。
さっきまでざわついていたみんなも、東航商事の専務の意向と聞かされ、とたんに静かになった。
「それから、サブリーダーは大野君」
みんなが一斉に頷く。翔のリーダーは不安だけど、サブリーダーが大野なら安心だと思っているのだ。そう思われるほど大野敦はわが社でも仕事ができることで有名だった。現にいくつもの実績をあげている。
その後、メンバーとして男性3名、女性3名が選ばれ、総勢8名で構成されるプロジェクトとなった。女性3名の中の一人は、今翔が付き合っている新川桃香だった。
二
「それにしても、あの時の翔ちゃんの顔ったらなかったね」
顔いっぱいに笑いを張りつけながら桃香が言う。
「だって、本当に驚いたんだからしょうがないでしょう」
「にしてもひどかったね」
「俺、どんな顔してた?」
「豆が鳩鉄砲食らっちゃったっていうヤツ」
間違っていることはわかっているんだけど、どこが間違っているかわからない。
なにせ、この二人、バカップルなのだからだ。
二人とも学歴自体は決して悪くない。いや、良い。つまり学力はある。だけど、教養はあまりない。言うなれば、ペーパードライバー(?)みたいなものなのだ。
「何かへん」
一応は言う翔。
「どこが?」
「どこがって言われても困るんだけどね」
「だったら言うな。とにかく、とんでもなく間抜けな顔。桃香が翔と付き合ってきた史上、最高におもしろい顔でした。はい」
「ひょっとしてバカにしてる?」
「ひょっとしなくてもバカにしてる」
「ひどいなあ。桃香、俺の彼女だろう」
「彼女だから指摘してあげてるんじゃない」
たまにひどくまともなことを言う桃香。
でも、それを言われたら返す言葉がない。
「そうだよね。ありがとさん。でも…、俺リーダーなんて、自信ないなあ」
「何言ってるのよ。サブに大野君をつけられた時点でバカにされているっていうことだからね」
「でも、現実問題として、大野君のサブは助かる」
「もうー。そういう翔ちゃんの人の良さがダメなのよ」
「だって、事実だから」
「そういうことじゃなくて。みんなを見返してやるぐらいの気迫を持ってほしいものよね」
「そんなの無理だって」
「そんなことないよ。東航商事の専務さんが翔の才能を認めてくれたんだよ。だから、翔ちゃんは本当はできる子なんだよ。だから、自信を持って」
「子って、さあ」
「そこ? そこじゃなくて、前の部分が肝心なのわかる?」
「わかってるよ。桃香の気持ちは嬉しいよ。だけど、子って、さあ」
「いつまでもごちゃごちゃごちゃ、うざいな。そんなことより、あのコンテストに応募して良かったね」
そんなことより?
でも、コンテストは桃香に応募しろと、もはや命令のように言われ応募した結果、銀賞を受賞できたのだから、やはり桃香には感謝している。
「うん。まさか銀賞を取れるとは思わなかったよ」
「何言ってるの。私は金賞を取れると思ってたよ」
「ええー、なんか嬉しいな」
「翔ちゃんって、がつがつしていないというか、ふにゃふにゃしてるところが好き」
「ふにゃふにゃ?」
「うん」
「えっ、どういう意味?」
「よく言えば、自然体。流れに逆らわないっていうか、無理をしないっていうか。まっ、そんなところ」
「悪く言えば?」
「そんなの聞きたい? 桃香は翔ちゃんの良いところだけ見ていたいの」
桃香のツンデレ。
ついさっきまでツンツンしていたかと思うと、突然、デレになる。
「そうかあ…」
「でも、今回だけは別。気持ちを入れ替えて頑張って。私もチームの一員として全力でサポートするから」
「うん。頼むよ」
三
「東航商事さん向けのプロジェクトチームがスタートします。私がリーダーを努めます平野翔です。よろしくお願いします」
改めて名前を言わなくてもみんな知っているのだけど…。
緊張のせいで、自分がしゃべっているのに自分じゃないような上ずった声になっている。
みんなも心配そうな顔で自分を見ている。そう思うと、さらに緊張してしまう。
そんな中、ふと桃香を見ると、こちらに向かって『がんばれ』と口の形で言っていた。
「プロジェクトの進め方等についてはサブリーダーの大野君のほうから説明してもらいます。じゃあ、お願いします」
挨拶もそこそこに、不安だからすぐに大野にバトンタッチする。
「サブの大野です」
翔とは違い、満面の笑みを浮かべながら堂々と話している。そんな大野を見て、プロジェクトメンバーみんながほっとした顔になっているのを見て翔は打ちのめされる。
「まずは、みなさん知ってはいると思いますが、東航商事さんについて資料を基に説明します」
大野が企業概要や現在東航商事が力を入れている事業その他についてテキパキと説明した。その説明ぶりにみんなが感心しているのがわかる。
「何かご質問はありますか?」
最後に大野がみんなを見渡して言った。
「あのお、いいですか?」
なんと桃香が手を挙げた。
へんなことを言わないでくれよ。
だいたいこういう時、桃香は受けを狙ってとんでもないことを言い出す。
翔は心の中で手を合わす。
「はい、どうぞ」
「プロジェクトはどう進めていくのですか」
珍しく桃香が至極当然の質問をした。
「はい。その点については昨日リーダーと相談しまして、各自に仕事を分担をして進めていただきます」
「えっ、分担ですか?」
翔が寝耳に水という顔で大声を出したことに、大野は驚いた。
そんな大野に、みんなも驚いている。
確かに相談されたような、されなかってような…。翔の記憶は定かではない…。
「そうですよ。やだなあリーダー、昨日相談しましたよねえ」
「あっ、そう、でしたね。続けてください」
「はい。提案内容の検討に入る前に、まずは情報収集が大事なわけでして、それを分担して行いたいと思います。よろしいでしょうか」
みんな頷いてる。
「消費者の生の情報の収集は、日頃から外での活動に慣れている営業部からの参加の谷口さんと丸山さんに担当をお願いします。原宿、新宿での定点観測や直接消費者にインタビューするとか、方法を考えて実施してください」
「わかりました」
真面目な谷口が口を真一文字にして答える。
そこまで真剣になる必要はないと思うけど。
「次に、プレゼンライバル社の博広社についての情報収集ですが、こちらは私と隣に座っている畑中君が担当します。それから、ファッション業界の現状、動向などの情報収集は新川さんと細野さんでお願いします。最後に、東航商事さんの動きに関する情報収集はリーダーと板倉さんに担当いただきます」
四
今日は部長の真衣と共に東航商事にプレゼン企業として挨拶に出かけることになった。
西銀座の一等地にあるその会社の本社ビルは30階建ての立派なビルだった。見上
げただけで圧倒される。
「どうしちゃったのよ、立ち止まっちゃって」
部長の真衣が心配して、というより揶揄い半分の口調で言ってくる。
「なんか急に緊張してきちゃって」
「しっかりしなさいよ、いい大人なんだから」
「そんなこと言われても。いい大人だって緊張する時は緊張するんです」
「それだけ言い訳ができれば大丈夫でしょう。さあ、行くわよ」
どんどん先に歩いていく真衣の後に慌ててついて行く。
受付嬢に真衣が用件を告げると15階の会議室へ行くよう指示される。乗り込んだエレベーターには自分たち二人しかいなかった。
「今の受付の子、可愛いかったなあ」
「緊張してたんじゃなかったの」
「それとこれとは別なんです」
「もおー、どういう思考回路してるんだろうね」
「いたって普通のつもりなんですけど。でも、話は変わりますけど、今日は部長が同行してくれることになったって聞いて嬉しかったです」
「私は来たくはなかったわよ。他にいろいろ抱えているしね」
本当は課長の田中洋治が同行するはずだったが、列車遅延により地方出張から戻る時間が大幅に遅れそうだということで、急遽部長の真衣が同行してくれることになったのだ。
「そうでしょうけど、僕にとっては心強いです」
「まあ、来たからにはしっかり仕事しますけどね」
「さすがは部長」
エレベーターはあっという間に15階に到着した。扉が開き、広い廊下に一歩踏み出すと、再び緊張感に襲われ、心臓が張り裂けそうになる。
「部長、手を握ってくれませんか」
隣を歩く真衣に思わず口走った。
「バカじゃないの」
まっすぐ前を向いたまま冷たく言われてしまった。しょうがないので、手を繋げたことを想像することで何とか耐える。
第6会議室という札の下がっている部屋の前に着く。
真衣がノックすると、中から女性の声がした。
「どうぞ」
部屋に入ると、自分と同じくらいの年齢の女性と、その上司と思われる男性が笑顔で立ってこちらを向いていた。
まずは名刺交換を済ませる。
男性の方は担当課長の眉村拓海といい、女性のほうは花山百合絵という名だった。
席に着いたところで真衣が口を開く。
「今日はお時間をいただきましてありがとうございます」
部長としてプレゼン企業に選んでもらったことに対する感謝の意だ。
「いえ。お待ちしておりました」
眉村という名前の課長の男性が答える。
今日は挨拶ということだったが、こちらとしては本格的な事業提案のための情報収拾という意味もあった。
「しかし、このところの御社の業績は右肩上がりですね」
こういう場に慣れている真衣が、まずは先方企業に対する称賛から入った。
「おかげさまで、何とか頑張ってます」
この後も真衣と眉村との間で挨拶の延長のような会話がしばらく続いた。その間、翔は担当者の女性のほうを見ていた。今後自分が主にコミュニケーションをとる相手だからだ。ごく平凡な顔をしていたが、顎が張っていてきつそうな雰囲気も持ち合わせている。ちょっと翔の苦手なタイプだ。
「ところで、急な話なのですが」
眉村が話を変えた。
「実は、これまでこの案件を担当していた花山がこの度寿退職することになりまして」
隣に座る花山が笑顔で頷く。
「それはおめでとうございます」
真衣が少し大げさな反応をしているのを見て勉強させられた思いだった。
「退社自体は少し先になるのですが、いろいろ準備があるということで担当から外れることになりました」
「そうですか。準備大変ですものね」
真衣が同じ女性らしく花山を気遣っているのがわかった。
「今日プランニングエースさんがわざわざお出でいただいたということで、後任者を紹介したいと思うんですけど、よろしいでしょうか」
「ぜひお願いします」
「じゃあ、花山君、彼女をここへ」
「はい」
花山が立ち上がって部屋を出て行った。てっきり花山と仕事をするものと思っていた翔は、後任者がどんな人間なのかすごく気になった。
5分ほどして花山が後任の女性を従えて戻って来たのだが、その女性を見た翔は危うく腰を抜かしそうになった。なんと松村渚だったからだ。そう言えば、渚とはこの間再会した際も昔話しかしなかったので、お互いどんな会社でどんな仕事をしているかは知らなかったのだ。
当然、驚いたのは翔だけでなく渚もだ。
思わずお互いに「えっ」という顔をしてしまった。もちろん、その姿はみんなに見られていた。とりあえず席に着いた渚に眉村が言った。
「君たち知り合いだったのか?」
「ええ。小学校の時の同級生です」
「だ、そうです」
渚の答えを受けて眉村がさも親しそうに真衣に言う。そんなこと言われなくても同じ場にいたのだから、当然真衣もわかっているのに。
「驚きましたね。でも、小学校の時の同級生なんて顔が変わっているはずなのにすぐにわかったみたいですね」
真衣もおもしろがっているのがわかる。
「実はつい先日同窓会がありまして、その時に顔を合わせているんです。ただ、その時は立ち話をしただけでお互いに会社の話とかはしなかったので、まさかこの場で会うなんて私もびっくりしてるところなんです。あっ、遅くなりました。今回担当になりました松村渚と申します」
「こちらこそよろしくお願いします」
真衣が頭を下げる。
しかし、渚がいかにもありそうな嘘をついたのには驚いた。
とっさによくこんなもっともらしい作り話ができるものだと感心する。
「しかし、偶然ね」
真衣が翔のほうを見て言う。
「ええ」
「良かったじゃないですか。コミュニケーションもうまくとれるでしょうし」
眉村が意味深な顔をしながら言う。
どういう意味深なのかはわからないけれど。
「そうですね」
真衣が納得した顔を見せたのを受けて、眉村が本題に入った。
「ということで、では早速打ち合わせを始めましょうか。まず最初に私のほうから今回のプロジェクトの趣旨についてお話させていただきます。今回当社が新規事業としてアパレル事業を行うことになったのは社長の強い意向があったからなんです。実は社長の出身地は服飾関係の小企業が多い地域なんです。ところが今非常に厳しい状況なんですね。そんな地元のために少しでも役に立ちたいということでアパレル事業が選ばれました。つまり、地域貢献事業の一環として行うのです。ただ、そうはいっても、事業であることには変わりないわけで失敗は許されません。失敗すれば逆に地元に迷惑をかけてしまいますので。こうした点を頭に入れた上で事業提案をしていただきますようお願いいたします」
「大変よくわかりました」
真衣も初めて聞く話だったようで深く頷いている。今日真衣が来てくれて良かった。
「今後進める上で何かありましたら、新任者の松村君にご連絡くださいね、平野さん」
眉村が翔に謎のウィンクをして言った。
いや、ウィンクなのか、ただ目が痒かっただけなのか、そいういう目つきなのかわからなかったけれど。
五
「しかし、川口部長さんってお綺麗ですよね」
話が一段落したところで、突然眉村が言い出した。
「はい?」
真衣が困惑気味に答えた。だが、眉村はさらに続けた。
「いや、綺麗ですよ」
誰もそのことは否定していないし、その場にいる誰もがすでに認めている。言葉には出さないだけで。
「肌も綺麗だしね。ちなみに独身ですか?」
これはまずいと翔が思った時、渚が毅然たる態度で制した。
「課長。セクハラになりますのでやめてください」
渚、君はエライ。
さすがは小学校時代からいつも学級委員をやっていただけのことはある。
もし渚が止めてくれなかったら、翔は仕事を忘れて眉村に殴り掛かっていたかもしれない。
「あっ、そう。ということで、失礼しました。お許しくださいね」
ということで、ってどういうことだよ。
コイツ許せねえ。
だいたい、言葉では謝罪の意思を表しているけれど、態度がヘラヘラしていて、とても反省しているようには見えないのだ。
「ええ」
真衣はこの一言に静かに怒りを込めているのがわかった。
「私としてはへんな意味ではなかったんですけどね」
言い訳にもならない言い訳をした眉村に、みんな呆れて無言で冷たい視線を向けた。しかし、当の本人は何も感じないらしく、何もなかったような顔をして話を続けた。
「さて、とりあえず今日の打ち合わせはこれで終わりなんですけど、最後に私どもの部長からご挨拶をさせていただきたいと思いますので少々お待ちいただけますか」
そう一方的に言うと眉村は会議室の奥にあった内線用の電話に向かい、受話器をあげて話をしている。
しばらくして一人の男性が入ってきた。いかにも仕立ての良い濃紺のスーツを着こなしたカッコいい中年のその男性は、何かの運動をやっていたようながっしりとした体格をしていた。いかにも頭の切れそうな鋭い目つきをした顔を、部屋に入った瞬間に笑顔に変えるあたりはこうした場に慣れている証拠だ。
ん?
ちょっと待って
スーツを着ているし、髪型も決まっているのでわからなかったが、見覚えがあった。
翔がある休日のランニングの帰り、何気なく見上げた自宅マンションの外廊下を歩く中年の男性。なんとなく見過ごすことができない感じがして目で追っていたら、自分の1階上の702号室に吸い込まれていった。
自分の人生に自信を持っているようなカッコいい男。
間違いなくあの男だった。
部長の彼氏だ。
いったい、どういうこと?
肘で部長の真衣のことを突っつきたかったけど、この場でそんなことをしたら後で何を言われるかわからないのでやめた。
真衣がすくっと立ち上がったので、翔も慌てて立ち上がる。双方の部長が部屋の真ん中あたりで名刺交換をするようだ。
「私、株式会社プランニングエースの川口真衣と申します」
わが部長の真衣が最初に挨拶をしている。こちらは仕事をいただく側だから当然だろうけど、すでにお互い知っているというか、付き合っているのに、しらじらしい。
「はじめまして。私、今回のプロジェクトの総責任者をしております大竹純次と申します。この度はよろしくお願いします」
へえー、大竹純次って言うんだー
しかし、『はじめまして』には笑っちゃう
真衣が今日この打ち合わせに出たくはなかった本当の理由がわかった。
それにしても、おもしろいことになってきた。
打ち合わせが終わりビルを出ると緊張が解けてほっとする。
駅までの道を真衣と並んで歩いているが、真衣は何もなかったかのように振舞っている。それがおかしくて翔は思わず顔がにやける。
「何、にやけた顔してるのよ」
「だって…」
「何?」
「いやー、しかし、僕はびっくりしましたよ」
「何が? あの課長の件?」
「ああ。あの課長もひどかったですよね。渚がすぐに対応してくれたから良かったけど、じゃなかったら僕あの男ぶん殴ってたと思いますよ」
「気持ちは嬉しいけど、ダメよそれは。あの程度の人ってまだ結構いるものよ。もう慣れてるわ」
「ええー、そうなんですか。なんか嫌だなあ」
「まっ、そういうことで」
「ちょっと待ってくださいよ。僕が言いたかったのはもう一つの件ですから」
「それって何?」
こちらを見たらまずいと思ったのか、真衣はまっすぐ前を向いたまま即答した。
「何って、とぼけるつもりですか」
「だから何よ」
真衣はバレていないと思っているのだろうか。
「ええー、僕が気づかなかったとでも思ってるんですか。部長の彼氏のことですよ」
「……」
すました顔はしているが、内心の動揺が頬のわずかな痙攣でわかった。
「はじめましてなんて下手な演技しちゃったりして、おかしかったなあ」
「なんでわかったのよ?」
「この間彼氏さんが702号室へ入るところを、偶然見ちゃったんですよ」
「……」
もはやぐうの音も出ないようだ。
「白状すれば楽になりますよ、部長」
「やめてよね、犯罪者みたいな言い方。でも、平野君の言う通りよ」
諦めたのか、素直に認めた。
「やっぱりね。しかし、あの時おもしろかったなあ」
もう一度ネタにする。
「だって、ああするしかなかったでしょう」
「まあ、そうですね。しかし、うちの部の人が知ったらみんな驚くだろうな」
「平野君」
真衣が急に声を低くした。
「何ですか」
「わかってるわよね」
「何を、ですか?」
「知らなかったことにするっていうことよ」
「さあ、どうでしょう」
すると突然真衣が立ち止まり、翔のほうに向き直り両手を合わせて頭を下げて言った。
「お願い、平野君」
「お願いされてもねえ。僕にも何かメリットがないとですねえ」
ここはチャンス。
何かを得たい。
「う~ん。じゃあ、君とデートする」
「何言ってるんですか。それはすでに約束済みのことですよ。忘れちゃったんですか」
「そうだったわよね…」
「僕の言うことを何でも聞くっていうのはどうです。たとえば、1日部長が僕の下僕になるとか」
「そんなの無理」
「じゃあ、セーラー服姿の部長の写真を撮ってもらって僕だけにくれるとか」
「もっと無理。そんなことは自分の彼女にやってもらいなさいよ」
「彼女にはすでにやってもらいました。それがすごく可愛かったので、部長のも見たいなあ、なんて思ったりして」
「変態か。彼女ならまだ若いからいいかもしれないけど」
「いや、部長もまだまだいけます」
「そんなの褒めたことにならないから」
「あのお、何か勘違いしてませんか。僕はそのお、いやらしい意味じゃなく言ってるんですけどね」
「どうだか」
「じゃあ、何をしてくれるんですか」
「う~ん。わかったわよ。じゃあ、今度デートした時1度だけキスしてあげる。でも、いい、1度だけだからね」
いつまでも引きずるのがよほど嫌だったのだろう。1発で終わらす方法を打ち出してきた。でも、翔にとっては最高の提案だった。
「ええー、いいんですか?」
「だから、1度だけよ」
「そんなに何回も言わないでもわかりすよ、子供じゃないんだから」
「平野君って、子供みたいなところあるから」
「僕、部長と2つしか違わないんですよ。しかし、なんかすごい得した気分です。やばいです。なんかヨダレが出ちゃいそうです」
「本日2回目だけど言うわね、変態」
「そう言われてもいいです。だけど、今度のデートってヤツが2年後とか、そういうの無しですからね」
「わかってるわよ。もうこの話はこれで終わり」
六
「もう笑うしかないね」
開口一番、翔が目の前に座る渚に言った。
あの打ち合わせから会社に戻ってすぐに渚に電話したら会って話そうということになり、その日の夜に会うことになったのである。
今日は渚の部屋ではなく、駅から3分ほどのところにある喫茶店で待ち合わせた。
「大笑いよ。だけど、あの時の平野の顔ったら間抜け以外の何ものでもなかったね」
そう言えば、この間は桃香からも間抜けな顔って言われたな。
そんなに俺って間抜け顔なのか?
「ひどいこと言うなあ。そういう渚だって、カエルを飲み込む前のヘビみたいな顔してたぜ」
「どんな顔よ」
「だから、そういう顔だよ」
「まあ、あんなことめったにないからね。お互い様ってところよ」
「確かにね」
「お宅の部長とうちの課長も相当驚いてたじゃない」
そう言われて、思い出したくもない、あの眉村という課長のことが頭に浮かんだ。
「うん。だけどさあ、うちの部長、綺麗だと思わない?」
「思った。綺麗よね。しかも、あの若さで部長って、何者?」
「そう思うよね。俺と2つしか違わないんだぜ」
「ということは今年29」
「そう」
「ひゃあ、すごいね。あの若さで部長になるって、よほどの切れ者だよね」
「うん。確かに優秀なんだよね。T大卒だから元々頭がいいんだろうけど、仕事のセンスがいいって噂。もちろん、人一倍努力もしてるし、みんなの倍以上の仕事をしてるんだと思うけどね」
「女が男社会の中で勝ち抜くためにはそのくらい大変なんだろうね」
「そうだね。ただ、その分、周りの当たりも強かったみたい」
「そうでしょうね。うちの課長みたいなヤツもいるだろうし」
またまた思い出した。
「そうだよ。思い出しちゃった。アイツ、失礼なヤツだよね。あの時渚が止めてくれたからよかったけど、もし止めてくれなかったら俺何をしでかしたかわかんないよ。だから、渚には感謝してるよ」
「危ないって思ったからすぐに止めたのよね。まあ、あの課長、社内でも札付きの変態男だからね」
「ええー、そうなの」
「でも、なまじ頭は悪くないからセクハラぎりぎりのことをやってくるのよね。質悪いでしょう」
「ほんとだね。質悪いね。渚は大丈夫?」
「私はつい最近プロジェクトの担当になったばかりだからまだ被害は受けてないけど」
「でも、気をつけたほうがいいよ。渚も綺麗だから危ないよ」
「渚もの後、なんて言った?」
「聞こえてたでしょう」
「ごめん。聞こえなかったから、もう一度言ってくれない」
改めて言うのはさすがの翔も照れくさい。
「う~ん、わかった。じゃあ言うよ。渚も綺麗」
「は~~い。ありがとうございました~」
は~~いが、元自衛隊員の芸人のやすこの言い方に似ていた。
「何だよ、そのやすこみたいな返しは」
「まさか本当に言ってくれるとは思わなかったからよ。でも、心配ご無用。あの程度の男をかわすのなんてどうってことないから」
「すごいね」
「それに、課長、私の性格知ってるから手を出してこないんじゃないかな」
「ふ~ん。でも、それってどういうこと?」
「以前、他部署にいた頃、私にちょっかいを出してきた次長がいるのね」
「ふ~ん。度胸あるね」
「どういう意味よ?」
「すみません。深い意味はありませんからお許しを」
「まあ、いいわ。で、その次長、結婚してるわけよ」
「つまり、不倫の相手になれっていうこと?」
「そういうことね」
「で?」
「そいつの奥さんにすべてをバラした」
平然と言い放った。
渚ならやりかねない。
「怖~い」
「怖くなんかないでしょう。当然のことよ。しかも、このことは社内の誰もが知ってるってわけ」
「やっぱり怖~い」
「怖い、怖い言うな」
「でもそれなら、あの眉村も迂闊なことはできないね」
「そうでしょう。だから、心配ご無用」
「わかった。でも、そんなきつい渚って、一人の女性としてどんな恋愛をしているのか気になるなあ」
「きつくたって、普通に恋愛はできるでしょう」
「えっ、ということは恋愛すると、とたんに可愛くなっちったりするわけ」
「なっちったりって、高校生か」
「頭の中はね」
相手に言われる前に言っておく。これが翔の流儀。
「自分で言うんだから間違いない」
「でしょう。それで?」
「そんなこと教えるわけないじゃない」
「そうだけどさあ。でも、俺、渚のこと好きだなあ。もしかして、俺にもチャンスあり?」
「何一人で勝手にしゃべってるのよ。好きって言葉、そんなに簡単に使わないほうがいいよ」
「そうかもしれないけど、あの日あの時、劇的な再会を果たしたあの瞬間に、僕はあなたに心を奪われてしまったのです」
「よく言うわよ。でも、平野、彼女いるって言ったじゃない」
「いるよ。それに、渚にも付き合っている人がいることもわかっているけど、好きになっちゃったこの気持ちは止められないのです」
「始末が悪いわね。どこぞのテレビ局のアナウンサーが6股をしていて話題になったことがあったけど、平野もそういうタイプなわけだ」
「そういう倫理観のないのとは違うんだよなあ。ただ、俺ってイタリア人の血が流れているみたいで、綺麗な人みたら口説かないとすまないんだよね」
「イタリア人の血?」
「うん」
「何か根拠でもあるわけ?」
「まるで、ない」
「どうして、そういうことを平気で言えるんだろうね。そこはイタリアの男っぽいけど」
「そうでしょう」
「言い方だけよ。それに、平野って、どうみても日本人の顔してるし」
「ええー、そうかな。このシュッとした顔はイタリア系に見えない」
「見えない。ところで、平野、今日この後時間ある?」
「あるけど、何?」
「私の部屋に来ない」
「ええー、いいの」
「バカ。勘違いするんじゃない。私のパートナーが昨日海外出張から帰ってきてるから紹介するよ」
「今の彼氏と、これから彼氏になるかもしれない男が激突しちゃうわけ」
「もう。平野にはついていけない」
「まあ、そんなこと言わないで」
「で、来るの来ないの?}
「もちろん、お邪魔させていただきます。おもしろいし、なんか興奮するから。そういうのって」
「平野って、やっぱりバカなの」
「やっぱりはやめて。でも、これまで付き合った女の子には、最低3回はそう言われる」
「あっ、そう。そう言われても何とも思わないの」
「ぜんぜん。屁でもない」
「ある意味すごいね。まあ、根っからの明るいバカってことよね」
「暗いバカよりはいいと思わない」
「あくまで比べれば、ね。まっ、とにかくうちに来て」
というわけで渚の部屋に向かう。途中桃香に会わないことを願ったが、幸いなことにそれはなかった。
「どうぞ」
「おじゃまします」
この部屋に上がるのは2回目になる。リビングに通される。
「とりあえず座ってて」
「うん」
どことなく部屋の雰囲気が変わってる。
渚がアイスコーヒーを翔の前に置いた。
「この部屋、なんか雰囲気が変わったね」
「ああ、そういう細かいことに気づいちゃうタイプだ。でも、どこが変わったかまではわからないのね」
「うん」
「そこは平野らしいね。この部屋、パートナーが昨日レイアウトを変えたのよ。じゃあ、そのパートナーを今から呼ぶわね。いい?」
「うん」
「ミューちゃん、こっち来て」
渚が隣の部屋に向かって言った。
「えっ、ミューちゃんって、まさか彼氏という名の猫?」
「何言ってるの、今ミユちゃんって名前呼んだでしょう」
「ミユ? いったい、どういうこと?」
「ほらっ、来たわよ。ミユちゃんが」
隣の部屋のドアが開き、とんでもなく可愛い女の子が入ってきた。
「美優ちゃんです」
渚が彼女のことを紹介する。『みゆ』という名前はどこかで聞いたような気がするけれど…。
「何で女の子? 彼氏じゃなかったの?」
すると美優が翔の顔をまじまじと眺めながら言った。
「その前に、私のこと覚えてないんですか?」
こんな可愛い子、もし前にどこかで会っていたら忘れるわけはない。
「どこかでお会いしましたっけ?」
「わかんないんだ。がっかり。私、大和小学校の同級生の中川美優ですよ」
「ええー、あのナカミーちゃん」
当時そう呼んでいた。翔が一番好きだった子だ。だけど、美優は翔だけじゃなく、ほとんどの男の子の憧れの存在であり、翔といえどもなかなかアプローチできなかった。
「そうよ。あんたがずっと尻を追っかけてた美優よ」
渚が言わなくてもいいことを言う。
「すんげー可愛くなったじゃん。もちろん、当時から群を抜いて可愛いかったけど、可愛さが十倍くらいになってない。しかも、大人可愛いっていうか」
「語彙力ないよねえ。しかも覚えてなかったじゃない」
渚が冷めた声で言う。
「可愛さのレベルが違っちゃったからだよ。だけどさあ、なんでナカミーちゃんがここにいるの?」
「鈍いわねえ、まったく。彼女が私の彼氏というか、正確にいえば彼女よ」
「ど、どういうこと?」
「私たちビアンなのよ」
「トレビア~ンって、そんなこと言ってる場合じゃないけどさあ」
「どう? 似合いのカップルだと思わない?」
「なんかもったいないなあ。二人とも美人で男がほっとかないだろうにね」
「考え方が古いわねえ。平野だってLGBTぐらい知ってるでしょう」
「サンドイッチの種類だっけか?」
「それはBLTでしょう。無知にもほどがあるわよ」
「ああ、わかった。性的なんとかってやつ?」
「性的少数者ね」
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