第2話 トンネルの老人
一章 トンネルの老人
回転寿司屋での仕事の依頼から、二週間が経過した土曜日。
居石と袈裟丸の二人はY県Y市にいた。
最寄りの駅に降り立った二人は、塗師の指示に従って、駅前のバス停でバスを待っていた。
目的地の深見家は、駅がある町から離れたところにある。
この近くには温泉街もあり、観光客も訪れるような場所である。近くに別荘地もあるが、仕事場は別荘地がある一帯から離れたところにあった。
「わざわざそんな離れたところに家を建てようっていう神経が解んねぇな」
「別荘地から離れた方が煩くないんだろ?」
「なんで?」
「そりゃ、シーズンになれば人が集まってくるからだろう?」
「別荘地なんだから静かなロケーションじゃないの?」
「知らんよ。そういう人だっているだろ」
そんな無駄話の最中にバスがやってくる。
乗り込んだ二人は、バスに揺られながら目的地へと進む。
街並みばかりだった景観は、次第に木々が増えてきた。
何度目かの川を渡り、三十分ほど揺られて目的地付近の停留所で降りる。
「いやぁ、良い場所だな」
居石は大きく息を吸って吐いた。
居石の専門としている分野は地盤工学で、その研究テーマから、現地調査が多い。
そのため、自然と触れ合うことが多く、本人の性格的にもそうした自然の中で活動することが苦ではなかった。
「そうだな」
反対に袈裟丸は、GPSやセンシング技術を用いて国土を調査計測する技術開発を研究している。
相変わらずいつものアロハスタイルでスタスタと歩く居石に、次第に袈裟丸は後れを取っていた。
二人は、車道と歩道の境が無いような場所を歩く。
その左脇は大きな河川が流れている。川幅が十メートルはあったが、流れは穏やかだった。
降りた時から二人の視線の先に見えていたが、川を跨ぐ様に大きな石橋が掛けられている。
「あれだよな?」
袈裟丸は頷く。塗師からの指示ではあの石橋の先に、深見家があるのだという。
ビーチサンダルのペタペタという音が響く中、石橋に差し掛かる。
「随分立派な石橋だな…」
居石は箸の手前でしゃがむと、石橋を叩いた。
「石橋叩いちまったよ」
へへと笑って袈裟丸の方を向くが、すぐに表情が真面目になる。
「おい、耕平、お前なんでそんなに汗かいてんだ?」
夏はとっくに過ぎ去って、秋も終わりになろうとしている気候である。
袈裟丸は汗っかきであるということもない。
「ああ…悪い…。実は、バスに乗っている時から…ちょっと…」
「体調悪いのか?っつーか、おい、顔面蒼白じゃねぇか。どうする?」
「とりあえず…深見さんの家に…行こう。それが手っ取り早い」
そりゃそうだな、と居石は言うと、袈裟丸が持っていたキャリーバッグを受け取る。
背負っているリュックも持とうとするが、PCが入っているから自分で持つ、と譲らなかった。
「肩、貸すぞ」
袈裟丸の答えを聞く前に肩を担ぐ。
石橋は中心部に向かって僅かに上りの傾斜があり、ちょうど中央で、今度は下り坂になる。橋の幅は車が通れるほど広かった。
袈裟丸の歩調に合わせるようにして居石は、ゆっくりと石橋を渡って行く。
「まだ歩けるか?どんな感じだ?」
「吐き気…あと…下も…」
「上下の口からってことか…。胃腸炎かぁ?なんか変なもの食ったか?」
「お前と…一緒にするな」
「んー、なんか熱もありそうだな」
居石は袈裟丸の額に手を当てる。
口を開こうとする袈裟丸を居石は制した。
「ああ、喋んな。わかったから。あと少しだから、もうちょっと待ってろよ」
居石は前を向いて石橋を渡り切った。
そして、森を切り開いた道を進む。
「要…悪いな…」
「バイト代、お前の分も貰うからな」
袈裟丸は、口元を緩めて力なく笑った。
平坦だが、舗装はされていない道を進むと、切り開いた土地に出る。道はその先にも続いているようだったが、迷うことなく、開けた土地に進む。
その先に、二階建ての家が姿を現した。
小学校の校庭くらいの平らな庭を、居石は袈裟丸に声をかけながら、玄関まで歩く。
その中にひっそりと建つ家は、まるで本当の小学校の様にも思えた。
周囲の景観に合わせたのか、茶系の色をベースに、落ち着いた印象を見たものに与える外装だった。
居石は視線を左手に向ける。
小高い堤防のような丘が同じ敷地内にあり、その上にも建物が一棟、置かれていた。
恐らく、母屋だと思われる正面の建物に比べて、簡素な作りで、寂しさを感じるような佇まいだった。
特徴的なのは、正面の建物の屋上と、丘の上の建物が繋がっていることだった。
正面の建物の屋上から飛び出るようにして作られた、恐らく階段室だと思われる空間から、丘の方に向けて渡り廊下が伸びている。
その先は、丘の上の離れの一階に接続されていた。
離れには庭から階段を使えば、入ることもできるので、この渡り廊下は母屋から向かう場合に使うのだろうと居石は思った。
二人は西洋風の洒落た焦げ茶色の正面玄関に到着する。
ドアの所までは二段ほどの段差があった。
「ちょっと待ってろ。座ってんのと立ってんの、どっちが楽だ?」
ここまでの道のりから、袈裟丸が歩くのも大変だろうと察した居石はそう尋ねる。
「…大丈夫…ちょっと座るわ」
袈裟丸はゆっくりと、僅か二段の段差に腰を掛ける。
肩で息をしているのが、居石には痛々しく思えた。
わかった、と居石は言って、玄関に飛ぶように向かう。
いつものアロハだが、一応、初めて訪れる家である。
簡単に身なりを整えて、呼び鈴を押した。
玄関口からさっと左右を見渡す。
家の玄関は建物の丁度中央に位置しており、左右対称の建物だった。
ゆっくり観察している時間もないはずだが、それだけ待たされている感覚があった。
施錠が解かれる音がして、扉が開く。
そこに、白いシャツに黒いスラックスを履いた男性が姿を現した。
「あ、すんません、塗師明宏から紹介された人間なんすけど…。今日、アルバイトで…」
男性は背の高い居石よりもわずかに背が高い。黒々とした髪をしっかりと整えて、自然な分け目にしている。
男性は一瞬、思い至ったような顔をする。
「お聞きしております。私は深見家で使用人をしております、赤津と言います。今日はよろしくお願い致します…」
言葉の最後に向かうにつれて、声が小さくなり、視線が泳いでいた。
「あの…もう一人いるんすけど、ちょっと体調崩しちゃって」
居石は頭を掻いて、後方を見る。
その肩越しに赤津も、項垂れている袈裟丸を確認する。
「ああ、それは大変ですね。では…まずお部屋にご案内しましょう」
真剣な表情で赤津が言った。
堀が深くはっきりとした顔立ちでその表情だと、緊張感があると居石は思った。
赤津が一歩踏み出したところで、その後ろから、叫び声にも似た声が聞こえた。
「ちょっと赤津さん、さっきお願いしたこと、まだなの?」
その声は赤津の後方に立つ女性から発せられた。
呼びかけの声に居石が戸惑っていると、慣れた様にして赤津が女性の方を振り向く。
「江里菜様、大変申し訳ございません」
丁寧に赤津は謝罪する。
その右手が包帯で巻かれているのに、塗師はその時気が付いた。
掌全体が包帯で包まれているので、日常生活が不便だろうと塗師は思った。
「私の枕、出しておいてって言ったのに、いつ出してくれるのかしら?」
江里菜と呼ばれた女性は、わざとらしくゆっくりと歩いて、依然として頭を下げたままの赤津の前に立つ。
決して目立つような格好ではないが、白いレースのブラウスに幅の広いスラックスをあっさりと着こなしていた。
「枕が変わると寝むれないから準備しておいてって言ったでしょ?」
「はい、存じています」
「で、どこに出してくれたの?」
「申し訳ありません、やるべきことが終わっておりませんでしたので、そちらを優先しておりました」
ふーん、と江里菜は言うと、そこで初めて居石の方を見る。
居石としては、早く袈裟丸を休ませたかったので、このやり取り自体、早く終わらないかという思いで見ていた。
「あら、こちらは…どなたかしら?随分と…胡散臭い格好しているのね」
百人が見たら百人とも機嫌が悪いと評価するだろう表情で江里菜は言った。
「江里菜様、こちらは今回のパーティで手伝いをお願いしたアルバイトの方々です」
居石は丁寧に説明する赤津にプロ根性のようなものを垣間見た。
「ふーん…人選がショボいわね。誰が選んでいるのかしら?」
「名のある便利屋がおりまして。そこにお願いしたところ、適した人間がいるということでしたので」
「こんなアホみたいな恰好した人間が?」
そろそろ文句を言っても良いだろうかと居石が口を開いたところ、さらに江里菜は続ける。
「それに方々、っていうけど、一人しかいないじゃない?」
「いえ、もうお一方、いらっしゃいますが…」
手を差し出して、座り込んでいる袈裟丸を示す。
「体調を崩されたとのことで」
「ちょっと、変な病気じゃないでしょうね?そんな自己管理もできない人間を寄こす業者って、ちょっと信用ならないわね。赤津さん、今後から発注する会社には気を付けなさい」
赤津は黙って頭を再び下げる。
「あの、こいつだってさっき体調崩したんすよ。なりたくてそうなったわけじゃないんで、そんな言い方、やめてもらえないっすか?」
居石は腕を組んで江里菜に言った。
「まあ…その格好の通りの言葉遣いね。身に纏うものからも人格を形成するって聞くけれど、その通りね」
赤津さん後はよろしく、とだけ言うと、蔑むような目を居石に向けて江里菜は奥に戻って行った。
「では参りましょう」
赤津はやっと部屋への案内を始めてくれた。
言いたいことはあったが、まず袈裟丸のことを優先した。
頭を下げて、ぐったりとしている袈裟丸の元に近寄る。
「耕平、すまん、行こう。休める所があっから」
とりあえず、袈裟丸を力ずくで肩に担ぐ。
「お二人がお休みになるのは、あちらの離れの建物です」
赤津が指し示すのは、塗師が想像したとおり、離れの建物だった。
赤津は、塗師が担いでいない方の袈裟丸の肩を担ぐ。
「あ、さっき言ってなかったっすけど、俺は居石で、この死にそうになってんのが袈裟丸耕平です。よろしくお願いします。すんません、挨拶遅れちゃって」
「居石様も焦っておられたのでしょう。仕方ありません」
不慣れなような笑顔に、居石はここに来て初めて安堵感を覚えた。
「…なんか…悪いな、要…俺のせいで…怒られたな」
「ああ?気にすんなよ。慣れてっから」
居石は袈裟丸が力なく笑ったように思えた。
「慣れるようなことではないように思えますが…」
袈裟丸を担いでいるからか、赤津の言葉に少し力が入っているようだった。
「ああいった人たちもいるって知ってっから、耐えられるんすよ」
よいしょ、と袈裟丸を乱暴に担ぎ直す。
「この先の道を行けば落石がありますよってわかりゃ、迂回できるじゃないっすか。だから、ある程度言われることはあるだろうなって分かってりゃ、心構えもできるって事っす」
そうですか、という赤津を笑顔で見返した。
「…普通の格好すりゃいいじゃんかよ…」
満身創痍の袈裟丸のツッコミに、担ぎ手の二人は言葉を返さなかった。
離れの階段を袈裟丸に合わせて慎重に上ると、赤津が先行して、離れの鍵を開錠した。
倒れ込むように離れに入ると、二人の部屋は二階にあると赤津から告げられた。
袈裟丸にまだ階段を上らせることは、忍びない気持ちになったが、仕方がなかった。
赤津の手助けを受けながら、袈裟丸を二階に運ぶ。
二階は二部屋あり、そのうちの一室は物置のような部屋になっていて使えない、ということだった。
部屋は奥に窓が一つあり、その両脇にベッドが置かれた簡素な部屋だった。
仕事をして寝るだけなので全く問題はなく、その簡素さが居石にとっては心地よかった。
袈裟丸が背負っているリュックを降ろすと、そのまま窓に向かって右側のベッドに寝かせた。
「…申し訳ないです…」
「年に一回あるかないかっていう出来事だからな。こっちはテンションが上がるわ」
「…人の体調不良を七夕か正月みたいに言うなよ」
そう言いながら静かに袈裟丸は気を失った。
「限界だったようですね…」
素早く、濡らしたタオルなどを準備した赤津が言った。
「いや、ほんとこいつはこうなるのは珍しいんすよ。いつもしっかりしてるやつなんで」
笑顔で赤津に返答する。
「袈裟丸様のこと、よくご存じなんですね」
「んー、どうっすかね」
居石は向かいのベッドに自分の荷物を投げするようにして置く。
常に稼働している部屋なのかどうかは聞いていないが、埃が積もっていることもなく、空気も静謐な気がしていた。
「お二人の会話から、伺えます。気の置けない友人、そういった関係でしょうか?」
「俺は全然人類ウェルカムなんで気にしてないっすけど…まあ、そうっすね。あ、でも、こいつはどうかわかんないっす」
居石の回答に満足したのか、赤津は頷く。
「私も袈裟丸様の様子を気にかけるようにしておきますが…何分、先程もご覧になったように手が一杯、というのがお恥ずかしながら現状です」
「ああ、気にしないでいいっすよ。俺が気にしておけば良いし、常に貼りついてる必要もないっすよ。多分」
静かに、そうですか、と赤津は言う。
「では、早速ですが、お仕事をお願いできますでしょうか」
「そりゃもちろん。こいつが使い物にならないっすから。俺も二馬力で頑張りますよ」
頼もしいです、と笑顔で赤津が返答する。
居石は小さめの旅行鞄の中から靴下を取り出すと、それを履く。
常にビーチサンダルを着用している居石は常に裸足である。だが、実験の時など、危険な場合に安全靴を履くこともあるので、靴下は持っていた。
今回も仕事であるので、雇用主の言うことには従うつもりだった。どんなアルバイトをしていてもそれは居石が守っていることだった。
靴下を履いたのは、流石にあの家の中を裸足でペタペタ歩くのは、赤津に対して申し訳ないと思ったからだった。
先程の江里菜の件はそれほど大きかった。
「あ、服装とか…さっきの事もあるんで、替えた方がいいっすか?」
替えなど持ってきてないし、替える気もなかったが、念のため居石は尋ねた。
「いえ、給仕などは私が行いますので、もう江里菜様の前に出ることは、ほぼないでしょうから。お好きな格好で構いません」
なかなか度量の大きな人物だと居石は思った。
了解っす、と小気味よく答えて靴下を履く。少し考えて、普段は開きっぱなしになっている前のボタンを閉じた。少しは赤津の心意気に応えようとしての事だった。
身支度を整えた居石は、ふと窓から外を眺める。
秋晴れ、とはいかない曇天の空が、否応にも不安を感じさせる。
離れは丘の上に位置している。そのため、この二階の窓から母屋も、簡素を通り越して哀愁すら漂う庭も全て見渡せた。
「プールなんてあるんすね」
その中で居石が気になったのは、母屋の屋上にあるプールだった。
小学校にあるような大規模なものではなく、横幅は三レーンほどの大きさだが、二十五メートルプールのようだった。
母屋の屋上はその四方がフェンスで囲まれており、プールの全容が確認できるわけではない。
プールの一部、奥の飛び込み台とその付近の水面が見える程度だった。
「ええ。深見家の当主である勘次郎様が、娘の美理亜様のために建造されました」
「はあ、娘のために…っすか。俺には考えらんないっすねぇ」
うんざりとした表情で居石は呟く。
視線の先のプールは、水が張っているものの、夏空に生えるキラキラしたような様子は一切なかった。
「では、参りましょう。歩きながら、深見家の事についてご説明いたします」
「へい。あ、耕平、じゃあ、働いてくっから、休んどけな」
袈裟丸は意識があるのかどうか、布団から手だけを出してそれに答えた。
退出した二人は、再び一階まで戻る。
落ち着いて周囲を見渡すと、とても簡単な造りである。
正面玄関を背にして右手にキッチン、玄関と同じ空間にテーブルがある。
その他、トイレや風呂等、生活に必要なものが最低限揃っていた。
そして、部屋を分けるように左手の空間が襖で区切られていた。
「あの、あっちは?」
居石は襖で仕切られた方を指さす。
赤津は、一瞥すると、表情を変えずに言った。
「ああ、そちらは当主のお部屋になっております」
「え?当主?それって…この家で一番偉いんすよね?」
言ってから変な聞き方だな、と居石自身も思った。こうしたことはこれまでにもあったが、口から出てきたことを言い直すことが面倒なので、訂正することはしない。
「居石様の言葉をお借りすれば、そういうことかと」
「いや、なんつーか…あっちの大きい家じゃないんすね?」
「ええ。勘次郎様はこちらで、お一人で生活されています」
「えー。寂しくないっすか?」
「もう、ここで生活し始めて十年になります。後程ご説明しようと思いましたが、すでに勘次郎様の奥様は他界されて…そして三人いるご息女も、もうこの家を出て生活しておりますので」
「あーなるほどね。確かにあんな家に一人でいる方が寂しいって訳か」
では、こちらへ、と促す赤津について行く。
玄関脇のキッチン、昔の家ならば勝手口が置かれる位置に扉がある。
赤津が開けると、それは勝手口ではなく、小さい空間になっている。
何が入っているかわからない木箱が一つ置かれただけの空間は、すぐ右手に扉があるだけだった。
その扉の脇に操作盤が設置されており、赤津はそこに番号を打ち込み、さらにパネルの上部に指を当てることで開錠の音が聞こえた。
「なんかここだけハイテクっすね」
「ええ。ここはこの家に住む人間にしか開けられないようになっております」
「へー。じゃあ、俺なんかが使えないって事っすね?」
「残念ながら」
「そっか、これって母屋から繋がってるって事っすよね?」
「はい。屋上部分にある階段室に出るようになっております」
「やっぱセキュリティってやつっすか?」
赤津は黙って頷いた。
「でも…なんでここだけ?母屋の方も…ここも玄関は普通の鍵だったじゃないっすか?」
赤津は開いた扉をもったまま、少し黙った。
「ここの鍵の設置は深見家の皆様のお考えですので…」
「まあ、そうっすよね」
知らない人間に聞いたところで、時間の無駄であることは分かっていた。
赤津は大きく息を吸い込む。
「では参りましょう」
赤津と共に渡り廊下を進む。
渡り廊下は、その左右に等間隔で窓が設置されており、薄暗くなってきた空を見て、雲の上では太陽が沈んでいる頃だろうかと居石は思った。
五十メートルほど進んで、母屋の方の扉に到着すると、赤津は軽やかに扉を開けた。
ここには操作盤が取り付けられていなかった。
居石は振り返って、渡り廊下に入ってきた扉を見る。やはりそちらにも操作盤は見えなかった。
つまり、渡り廊下に入る時だけ暗証番号と指紋認証が必要で、出る時は必要が無いということになる。
不思議な扉だな、と思いながら、赤津が開けた扉を通り抜ける。
そこはやはり簡素な作りの空間で、正面に扉、そのすぐ右手に階下へ向かう階段が伸びている。
正面の扉の奥は、離れの二階から見たプールがあるのだろうと居石は推測する。
渡り廊下の脇の台から、赤津は来客用のスリッパ取り出して、居石の足元に置く。
ここから先は靴下着用であっても、スリッパが必要な空間だということだった。
ビーチサンダルの常時使用者である居石は、意外としっくりしているスリッパの履き心地を確認しながら、赤津を先頭にして階段を降りる。
その最中、あ、と居石は声を上げた。
「赤津さん、そう言えば俺、勘次郎さんに挨拶してないっす」
赤津は落ち着いた表情で、頷く。
「そうですね。ご挨拶していただきたいと思いますが…」
「戻った方が良いっすか?」
居石は離れの一階が勘次郎の部屋であるという説明を思い出していた。
「いえ…今はお部屋にはいらっしゃいません」
「あ、そうなんすか?じゃあ、母屋ってことっすね」
赤津は答えにくそうな表情になる。
「いえ、母屋にも…いらっしゃいません」
「うーん…どこにいるんすか?」
ヘラヘラした表情で居石が尋ねる。
「裏の山にいらっしゃいます」
伏し目がちに赤津は言った。
「裏山…芝刈りっすか?」
ジョークのつもりで言ったが、赤津の答えはそれを上回った。
「穴を掘っております」
居石は階段を踏み外しそうになる。
「穴…っすか?穴って…あの…穴っすか?」
「他に穴は存じ上げませんが…。そうです。ご本人はトンネルだと仰っておりますが…」
「トンネルって…設計したって事っすか?」
「そうですね。ご自身で全て作業しております」
二階に到着すると、ダークブルーの絨毯が敷かれた廊下を左に折れる。
三メートルほど進むと、左手に階段があり、さらに階下へと進む。目的地は一階にあるということである。
「たった一人でトンネル掘ってんすか?」
心なしか声のトーンが落ちたが、驚いていることは伝わるトーンだった。
赤津は無言だったが、居石には無言の肯定だとは思えなかった。
「勘次郎さんって何歳っすか?」
「現在…今日で六十七になります」
「最近は若いお年寄りもいるっていうけど、言ったってお爺ちゃんじゃないっすか」
「昔から行動力はあるお方でしたから」
一階に降り立つと、最初に訪れた玄関と玄関ホールが左手に見えた。
二人は玄関ホールを抜けてすぐ向かいにある部屋に入る。
部屋の中は、暖かな照明が、長いテーブルを照らしていた。
テーブルには細やかな花が活けられて、その下に掛けられている白いテーブルクロスからは清潔感しか感じられなかった。
「ここはダイニングになります。お食事を摂る時は、皆さまここにお集まりになります」
「パーティーの食事を作る手伝い、としか聞いてきてないんすけど…勘次郎さんの家族が集まるんすか?」
「ええ。勘次郎様にはご息女が三人いらっしゃることはお話ししましたが…先程会われたのは、次女の江里菜様です。そして長女が恵令奈様、三女が美理亜様です。今日は勘次郎様の誕生日なので、そのパーティーが開かれます」
居石は、ほうほう、と言いながら説明に耳を傾ける。
「塗師さんからお聞きになっておりませんか?」
「あいつ細かい事全く話さないんすよ」
しばらく絶句していた赤津が口を開く。
「よくこの仕事引き受けましたね」
「まあ、お金ないんで。あいつが持ってくる仕事はお金が良いんすよ」
そうですか、と赤津が言うと、踵を返して部屋の奥にある扉を開く。
まずい内容だったかと思ったが気にせず、居石もそれに続くとそこは厨房だった。
レストランなどでアルバイトをしたことはあるが、それに匹敵するような規模のキッチンだった。ダイニング側の壁の一部にガラスが嵌め込まれており、テーブルの様子がうかがえるようになっている。
細かく見ていくと、長く使用された跡が見えることから、日常的に使っていることが伺える。
「ここが厨房となります。ここでお料理を作っていただくことになります」
「なるほど。ここが仕事場って事っすね」
腕組みをして厨房を見渡した。
「私がこうした手でなければ一人で作ってしまうのですが…」
痛々しく赤津は包帯で巻かれた右手を持ち上げる。
「それ、どうしたんすか?」
「お恥ずかしながら…中指から小指まで三本骨折してしまいまして…」
居石は痛々しく顔をゆがめる。
「まあ、やっちまったもんはしょうがないっすよ。転びたくなくても転んぢまうことってあるんすよ」
居石の例えは、赤津に刺さらなかった。
「では…仕事に入る前に、勘次郎様の所にご挨拶に。申し訳ございませんがお一人で言っていただけませんでしょうか?」
「それは大丈夫っすけど…俺だけで行って大丈夫っすか?」
「お手伝いが来ることは、ご存知ですので」
一人で行ける条件が揃っていた。
「了解っす。山の方っすよね?あ、でも少し仕事してった方が良いっすか?」
「片手でできることを済ませておきますから。大丈夫です」
赤津に勘次郎のいる場所を聞くと、この家に来るときの道をさらに奥まで進んだところだった。
赤津から玄関にクロックスがあるので使って良いと言われた。
深見家にクロックスがあるのは珍しいのではと思ったが、使わせてもらうことにした。
今度は玄関から外に出て、来た道を逆に進む。
開けた土地の隅に、車が二台停まっていることに気が付いた。先程は袈裟丸の事に付きっ切りで視界に入っていなかった。
家を出ている三姉妹の誰かの車だろうと思いながら、右手の離れを見上げる。
滅多に体調を壊す人間ではないので、居石は気にかかっていた。
しかし、仕事はやり遂げなければならない。
袈裟丸の分も働けば済む話である。
居石は砂で敷き詰められた素っ気ない庭を進み、林道に出る。右に進めば石橋である。
赤津に教えられた通り、左を選択して進む。
緩やかに傾斜のついた坂を上って五分ほどすると。左右が石壁の様に反り立ち谷底にいるような感覚になる。
そこまで高くはないものの、上ることは難しいだろうと居石は考えた。
さらに先を進むと再び開けた空間に出る。
先程の左右の切り立った岩肌がそのまま地続きになっている。
そこだけ空間になった、という雰囲気だった。
その奥、突き当りに穴が視界に入る。
裏山の裾野の途中といった雰囲気の石壁にぽっかりと穴が開かれていた。
その穴の脇には、キャンプで使うような簡単な骨組みのテントが張られている。
屋根だけの簡素なテントが守っているのは、居石も見たことのあるような工作機器のメーカのボックスや、簡単な椅子とテーブル、衣装ボックスなどであった。
そのテント越しに見えるのは、ブルーシートが掛けられた木材で、かなりの量が積まれている。
「ほえー。マジじゃんか」
思わず声に出たのは、その本気さが伝わったからだった。
穴に目を移すと、その上部からダクトのようなものが飛び出していた。
近づいて行って、手を伸ばしてみると、そこから風が吹いていた。
「換気まで…おいおい爺ちゃん、マジだな」
もともと無い語彙力がさらに無くなるほど、居石は驚いていた。
穴の入り口から中を覗くと、周囲に木材が組まれており、補強してあった。
居石は恐る恐る穴の中に足を踏み入れる。
一歩二歩と進むと、徐々に涼しくなってきた。
穴の中は気温が大きく変化しない。冬場は暖かく、夏場は涼しい。
湿度も高いので、じっとりと身体に空気が纏わりつく。
穴は馬蹄型をしており、居石の目測で最も高い所は四メートルほどの高さだと判断した。
居石がもう一人、頭の上に立ったとしてもまだ余裕がある。
横はちょうど居石が横になったくらいの広さだろう。
組まれた木材があるので実際はもう少し狭く感じる。
これほどの穴を一人の老人が掘削したのだろうかと、信じられない気持ちになった。
穴の入り口付近からは、勘三郎の姿を確認することはできなかったが、数歩入ることで目が慣れた。
三十メートルほど先に勘三郎の姿を見ることができた。
「あの…こんちはぁ。勘三郎さん…すか?」
居石の良く通る声が、反響して響く。
ランプ程度の照明がその背中を揺らしていた。
「おお。んー?赤津じゃないんか」
背を丸くしていた老人が立ち上がり、こちらを振り返る。
恐らく頭に取り付けてあるのだろうライトの光が見えた。
シャカシャカと着ているウィンドブレーカの音が小気味よく聞こえる。
「あんた誰?季節はずれな格好してからに」
キャップを上にずらして、こちらを見るような仕草をする。
「あ、今日のパーティーの…料理を作る手伝いに来た…バイトっす」
居石はなぜかその場で返答する。
「ああ…なんか言うとったな。ん?お前さん、オトコだよな?」
それは男か、漢かどちらだろうかと居石は本気で考えた。
後者だったら自信はなかった。
「えっと…それは…」
「女か?」
「そりゃないっす」
「ならええわ。こっち来い」
終始ペースをつかめないまま、居石は勘三郎の元へと向かう。
「おお、随分いい身体しとるなぁ。スポーツ何やってた?」
白い口髭に眼鏡をかけた老人が軍手を着けた手で居石の二の腕を叩く。
「あ、いやなんもやってないっす…」
勿体ねぇ、と明確な苦笑をして勘三郎は言った。
「驚いただろ。こんなトンネル」
そう言って勘三郎は笑う。
「驚いた」
素直に居石は言った。その回答に勘三郎も。大口で笑う。
居石の答えに満足したのか、勘三郎は腰を下ろす。
腰を下ろしたのは、階段状になっている部分だった。
それは地面から二段ほどの階段になっており、そこを上ると、まだ掘削している面になっている。
「あれ…これって、ベンチカット工法っすか?」
居石が気付いて言った。
それに、勘三郎は目を見開く。
「あんた、よー知っとるなぁ」
「あ、俺、土木学んでるんすよ」
居石は簡単に自己紹介をする。袈裟丸と二人で来ていることも伝えた。
「ほぇーまあよくこんな時代に土木なんて学ぼうと考えたもんだ」
「え?そうっすか?うーん、いつの時代でも土木って必要な学問だと思うんすけどね」
口を閉じて満足そうに頷きながら勘三郎は立ち上がる。
「そう。そのとおりや」
居石はその横を通り過ぎて、僅かな段差を上り、掘削している面に手を当てる。
「良い地盤っすね。確かに人の手でも掘りやすそうだな…」
「ちょうど今は掘りやすいんや。半年前は地盤が固かったから。まあ骨が折れたわ」
果たしてこの場合は、比喩なのか本当に骨を折ったのか、居石には分らなかった。
「切羽が綺麗っすけど、何で掘ってんすか?」
切羽とは、トンネルの掘削面を指す。今居石が触っているところになる。
「まあ、今はスコップやらつるはしやら、昔ながらの道具でエッチラホッチラ掘ってるがな。硬い時は削岩機担いで、ガガガっと」
勘三郎は削岩機を手に持つふりをして、身体を振動させた。
「身体大丈夫かよ」
「鍛えた。ここもな」
勘三郎は頭を指差す。
居石はへー、と笑って言った。
視線を左右の孔壁に移すと、切羽とは色が違っていた。
「なあ、じいちゃん、なんでこれ…」
それはな、と勘三郎は口を開く。呼称に起こるようなことはなかった。
「モルタルが塗られておる。擁壁の補強のためや。まあ、一応ナトム工法を真似てみてるつもりや」
「ナトム…ああ、鉄腕…」
「それはアトムやな」
「…その弟の…」
「弟?コバルトの事か?アニメだと兄ってなっとるが、原作では弟やな。いや、違うからな?」
「じいちゃん詳しいな…」
「お前の方が詳しいわ。ええか?N、A、T、Mでナトムや。聞いたことないんか?ベンチカットは知ってるのに…。お前さんの方が記憶は新しいやろ?」
「聞いたことねぇな…寝てたかな」
「寝てたんよ」
二人で頷く。
「で、それをマネしたんだ」
「掘削した孔壁に長いボルトを打ち込んで、その上から急速で固まるモルタルを吹き付けるのが特徴やからな。流石にボルトを打込みはせんかったが、モルタルに繊維を入れて、やってみた」
居石にはそれがどのような効果になるかわからなかった。
「それからこうして木組みして、崩落しないようにしてるんや。本物も鋼材を建てこんでるからな」
「どちかっていうと木組みで持ってる感じがすっけどな…」
断続的に送風機の音が響く穴は、長時間いたら精神的な疲労が溜まるだろうと居石は塑像する。
加えて掘削もするのだから、長時間いることは容易くはない。
「ベンチカットも自分で考えたんすか?」
「楽やからな」
ベンチカット工法は切羽の上から段差を着けて掘削していく工法である。実際のトンネル掘削でも行われる工法で建設機械などを使う場合に適している。
「へー、勉強してんだ」
「人生、学ぶことしかないわ。お前さんも常に学んでいかんと、ボケんのは早いぞ」
居石が足元に視線を向けると、袋が置かれている。
袋にはケイ酸ナトリウムと書かれていた。
「じいちゃん、これは?」
ん、と視線を送った勘三郎は、袋の傍にしゃがむ。
「書いてるやろ。これは水ガラスってやつや」
「水ガラス?」
「まあケイ酸ナトリウムっちゅうのが正しいけどな」
「何に使うんすか?」
「掘ってる先の地盤が緩い場合に小さい穴をいくつも開けて、そこにこれとセメントを混ぜたもんを入れるんや。そうすっと固まって切羽の崩壊を防げるんや」
ふーん、という居石の顔を確認すると、休憩や、と言って勘三郎は外に向かう。
居石はついて行く前に。切羽から土砂をこそぎ落として、口に含んだ。
「お前、何しとるん?」
口の土を吐いて居石は説明する。
「俺、土とかを口に含むと、その組成が解るんすよ」
「めちゃくちゃな奴やな。あんた。いつか腹壊すぞ」
勘三郎は笑いながら振り返り、トンネルを出て行く。居石もそれに続いた。
穴から外に出ると、空気が生ぬるく感じた。それほど孔内は寒かったのだろう。
勘三郎はテントの方に向かうと、椅子に腰を掛けた。
慣れた手つきで卓上コンロを点火すると、脇の薬缶を乗せる。
「コーヒーでもどうや?」
キャップを外して、禿頭を撫でるようにしてタオルで拭くと、勘三郎は言った。
「ああ、俺も飲みたいんすけど…赤津さんが待ってるんすよ。じいちゃんに挨拶してくるって言ってここに来たんで」
そうか、と短く勘三郎は言った。嫌味や不機嫌な様子はなく、居石の意思を汲んだということは居石にも分かった。
「今日、誕生日なんすよね?」
「この年で誕生日もへったくれもないわ。あとは死ぬまでの暇つぶし」
薬缶が音を立てて、沸騰を報せる。
紙コップに粉末コーヒーを無造作に入れ、薬缶のお湯を注いだ。
居石はコーヒーに付き合おうかと本気で迷ったが、遊びに来ているわけではない。
「じゃあ、じいちゃん、また後でな」
片手を挙げて返答する勘三郎は、紙コップを傾けていた。
「あ、そうだ。一つ、聞き忘れてた」
ん、と勘三郎はリラックスした表情で言った。
「なんでさっき、トンネルの入り口で男かどうか聞いたんすか?」
ああそんなことか、と勘三郎は座り直す。
「そりゃ、山の神様が怒るからや。山の神さんは女だからな。嫉妬が激しい」
勘三郎は片目を閉じて、コップを持っていない方の手の人差し指を立てて、頭の横に持ってきた。
「わしからも、一つ、聞いていいか?」
居石はゆっくりと頷く。
「なんでそんな格好してるんや?」
居石は笑顔で天を仰いだ。
勘三郎の元を去った居石は、再び母屋に向かう。
玄関から入ると、ジーンズに大きめのTシャツを着た男性がホールに立っていた。
僅かにウェーブのかかった髪に力ないような目でこちらを見ていた。
ちょうどホールを歩いていたところ、居石が帰ってきたのでこちらを見た、というような状況だった。
よく見れば幼さが残る顔で自分よりも若いのだろうと推測する。
「あ、こんちは」
先に居石が口を開く。赤津や袈裟丸ではないのだからこの家の住人ということになる。
最初は戸惑っていた男性だったが、声帯を震わせているのかわからないような音量で、ども、とだけ言うとホールから階段の方へと小走りで去って行った。
「愛想ねぇな…」
不服そうに呟いてから居石はダイニングへと向かう。
ダイニングの扉を開けようとしたところで、逆に中から扉が開かれた。
居石は思わず飛び退く。
中から出てきたのは、江里菜だった。
江里菜自身も驚いた様子で、目を見開いて身体を硬直させていた。
「ちょっと。危ないじゃない。ああ、驚いた」
発言と同時に、胸に手を当てて目を閉じた。
「ああ…すんません。タイミングよかったっすね」
驚かしてしまったことは間違いないので素直に謝った。
「ああ、あなた、まだいるの?さっさと帰りなさいよ」
語気を強めて言われたので、流石に言い返そうと居石は考えた。
大義名分ならあるのだ。
「俺、ここにバイトで来ているんすよ。今寝込んでいる奴もそうだったんすけど…。俺がいなきゃ、今夜のパーティーできないっすよ?」
「あら?そうなの?でも赤津さんは厨房で料理しているわよ?」
「そう…すね。あのじいちゃん…えっと勘次郎さんに挨拶まだだったんでしてきたんすよ」
じいちゃん、と江里菜は聞き返すが、すぐに表情が曇る。
「あんな人に挨拶なんていらないわよ。それよりも先に私に挨拶無かったじゃない?」
挨拶より前に、罵声を浴びせられたことは忘れているのだろうかと、逆に心配になった。
そんなことより、と江里菜は続ける。
「司、見かけなかった?」
「つかさ?」
「私の息子よ」
少し考えて、たった今、無愛想な対応を受けたことを思い出す。
「ああ、なんか何考えてっかわかんない、気持ち悪い奴っすか?」
言い終わる前に不機嫌になった江里菜に、言い終わった後に気付く。
「えと、階段に…階段の方に行きましたっ」
江里菜の怒号が飛ぶ前に、必要な情報を伝える。
江里菜は目尻を吊り上げた状態のまま、何も言わずに階段の方へ歩いて行った。
足音が響きそうな歩き方だったが、高級なスリッパなのか、余計な足音一つしなかった。
居石は江里菜をしっかりと見届けると、ふう、と息を吐く。
「親が親なら子も子だな」
自分だけが聞こえる声で呟いた。
丁度言い終わるところで、玄関のドアが開く。
「ただいまぁ」
居石が顔を向けると、薄緑のワンピースを身にまとった女性が鞄を重そうに抱えて入ってくるところだった。
柔和な顔が、特徴的だった。
その後ろから、不機嫌そうな男性も一緒に入ってくる。チノパンからシャツをだらしなく出しているが、髪型はしっかりと整えられている。
靴を脱ぎながら舌打ちをするが、女性は気にしていないようだった。
つまり、彼にとっては日常的なことだとわかる。
二人同時に居石に気が付く。
「あら…えっと…どちら様…でしょうか」
言葉の最後につれて、弱々しくなっていった。
「何者だ?」
言葉で人を殺す人間がいたら、きっとこういう人なのだろう、と居石は思った。
それは落ち着いてからで、言われた時は本能的に身体が身構えていた。
「あの…えっと…バイトで…」
たどたどしく説明し始めると、柔和な顔を崩さずに女性は聞いてくれたが、男性は終始不機嫌だった。
「ああそうなのね。よろしくお願いしますね。遠い所から大変だったわね。それに友達のことも心配ね」
「そうっすね」
言葉の内容が心配して共感してくれているのは分かるが、居石には本心から言っているようには思えなかった。
「私はこの家の長女で三本木恵令奈です。こっちは旦那さんの敦さん」
恵令奈が紹介しても、敦は表情を変えずに、シャツの胸ポケットから煙草を取り出して火を点ける。
居石が言うことではないかもしれないが、社会人として中々ぶっ飛んだ行動である。
「居石君」
「…はい」
何を言われるのだろうかと、身構えていると、敦は口を開く。
「R大学の土木の学生だと言ったな」
ゆっくりと紫煙を吐き出す。
「うちの会社にも君のOBが沢山いる。誰もが優秀だ。先生方がしっかりと教育されてるんだな」
そういうコメントは人を殺しそうな声で言わないでほしかった。
「はあ…ありがとう…ございます」
敦は携帯灰皿を取り出して、灰を落とすとそのまま吸い型をもみ消す。
「敦さん、煙草はキッチンで吸ってください」
それを言うのも遅かったが、何より、笑顔で怒っているのが何とも言えない雰囲気だった。
敦はそれには何も言わず、居石にじゃあな、と告げると一人歩き出す。
恵令奈も、もう、と言って居石に笑顔で頭を下げると敦の後を追う。
二人は階段がある方の廊下を真直ぐに進んで行った。
これで深見家の長女と次女に会ったことになる。
姉妹でも性格は違うが、両極端だなと居石は思った。
しかし、恵令奈は独特な感性の持ち主であることは確信していた。
立て続けに緊張と緩和を味わった居石はぐったりとしていた。
「うしっ」
気合を言えるように声を出して、居石はダイニングの扉を開けた。
「おい、大丈夫か?」
勢いよくドアが開かれる。
寝込んでいた袈裟丸は、その声で覚醒する。
「んあっ。ふえぇ?」
「ああ、悪いな。起こしちまったか?」
低く唸る袈裟丸を気にせずにどかどかと部屋に中に入る。
窓際にある小さめのサイドテーブルに、居石が持っていたお盆を置く。
その上にはミネラルウォータのペットボトルと、お粥が置かれていた。
「起きられるか?どうだ?腹減ったか?飯とか持ってきたぞ」
袈裟丸は恨めしそうな目で居石を見るだけだった。
「さっき、赤津さん来ただろ?」
袈裟丸は頷く。
「…スープ貰った」
「すげーよな。バイトいらないんじゃねえかって思ってきたよ」
「…お前、仕事は?」
「仕込みと、料理やってきたよ。飯の時間までまだあるから、ちょっと様子見てこようと思ってよ。赤津さんもそうしろって言ってたし」
袈裟丸は視線だけ窓に移す。
すでに暗くなっているが、パーティーの開始まではまだ時間があるということだ。ポケットに入れたままになっていたスマートフォンを見ると十七時を回ったところだった。
「あ、忘れてた。これ、熱測っておけよ」
居石は体温計を手渡す。
「仕事…できてるか?」
脇に体温計を挟みながら袈裟丸は言った。
「故郷のオヤジかよ。大丈夫だって。赤津さんも作業が全くできないわけじゃねぇんだからさ」
「…お前、オヤジいねえだろ」
「それを言われたら、俺はなんも言えねえ」
「…すまん」
「謝られるのが一番リアルに響くだろ」
袈裟丸が少し笑ったので、居石は安堵していた。
体温計が測定終了を告げたので、自分で確認してから居石に渡す。
「まあ、まだ熱はあるな。これから上がってくっかも」
少し上体を起こした袈裟丸はペットボトルの水を飲む。
居石の勧めで、袈裟丸はお粥を少しずつ口に運ぶ。
「食ったり飲んだりできるんだな」
「…うん。胃腸炎とかじゃなかったみたいだよ。それだったら危なかった」
「まあ、トイレに籠りっきりだっただろうからな。不幸中の幸いってやつだな」
あまり長居はできなかったが、袈裟丸が寝ている間にあったことを一方的に話した。
「ぶっ飛んだじいちゃんだな…」
「だろ。そう言えばまだ帰って来てねぇな。もう穴掘り終わってもいいんじゃねえかな」
「…穴の中にいたらわかんないだろ」
袈裟丸は再び横になる。
「…個性豊かな人たちだな…三女は聞いてないけど」
「まだ会ってねぇしな。さて、俺は戻るから、腹減ったら食ってろよ」
袈裟丸は片手で手を振って応える。
今は睡眠が最優先であることを袈裟丸は知っていた。
勘次郎生誕パーティーは十九時きっかりに始まった。
とは言っても、勘次郎はまだ姿を現さず、娘たちの家族だけが集まって会食を始めている。赤津も何も言わなかったことから、異例なことではないのだと居石は想像する。
袈裟丸の様子を見て帰ってきた居石は、赤津にその様子を報告すると、安堵の言葉を貰った。
それまでの赤津の作業を受け継ぐ形で調理を開始する。
感心する赤津を横目に、スピーディーに着々と料理を完成させていた。
コース料理のような豪華で煌びやかなメニューではなく、一般家庭で出されてもおかしくないメニューだったことも、居石が活躍できた一要因である。
居石が赤津に尋ねたところ、勘三郎がこうした料理が好きだから、という明確な答えが返ってきた。
赤津は、居石の料理が出来たところからテーブルに運んでいく。
その過程が始まったところで、ぞろぞろと一族がダイニングに入ってきた。
「居石様、引き続き作っていていただけますか?サーブなどをしてまいります」
「あーはい。あ、あの」
テーブルに向かおうとする赤津を引き留める。
「すんません。今更って感じなんですけど、俺の事、呼び捨てで良いっすよ」
「ああ、そう言えば…そうですね。すっかりお客様という目でしか見ていませんでした」
苦笑しながら赤津は言った。
「職業病ってやつっすか?」
「ですね。では…居石君、よろしくお願いします」
「へへ、はい」
赤津の人柄が出ているな、と居石は思った。
しばらく黙々と料理を作っていた居石が、戻ってきた赤津から、一息つきましょうと言われたときには、食事の開始から三十分経過していた。
「手際が良いですね」
「自炊長いんすよ」
調理台の間に椅子を持ってきて腰を掛ける。調理台に余った料理を並べて赤津とつまむ。
「このキッチンって無駄に広くないっすか?」
「もともとこの家は別の用途で使われていたんです」
「ゼロから建てた家じゃないんすか?」
「ええ。確か療養所だったか、合宿所だったはずです」
「あ、リノベーションってやつっすか?流行りなんすよね。袈裟丸が言ってました」
赤津は立ち上がって冷蔵庫に向かうと緑色の瓶を取り出す。
棚からグラスを二つ取って居石と自分のところに置く。
「炭酸水は飲みますか?」
「ああっと…そうだなぁ。じゃあ、そうします」
不思議な顔をしていた居石に気が付いて、赤津が尋ねる。
「どうしました?」
「いや、同期に炭酸水ばっかり飲む奴がいるんすよ。ちょっとそれ思い出して」
そうですか、と微笑みながら赤津は発砲する液体をグラスに注ぐ。
「ってことは、間取り変えてないんすね」
「ええ。ただ、皆様のお部屋は、そのままでは窮屈に感じるということで、いくつかの部屋をぶち抜いて、広さを確保しております」
居石は、ふーん、と言いながらグラスを傾ける。
アルコールが入っていない炭酸水は、不思議と飲んでいる気がしなかった。
「ああ、じゃあ、あんまり部屋数無いんすね」
「一階にはホールと階段を挟んで左右に二部屋うち一部屋はお物置です。二階には玄関ホールの位置に談話スペースがあって、一階と同じく二部屋に挟まれています」
「部屋数少ないってことでもない…っすね」
「六分儀様は、司様が一部屋専有して使っておりますから」
「ろくぶんぎ?」
「江里菜様が嫁がれた家です」
「力強い名前っすね」
「そう言えば、まだ旦那の顔見てねぇな…」
「あ、見ますか?あれですよ」
赤津は立ち上がって居石を連れていく。
キッチンのガラスの端から、覗き込む。ダイニングのテーブルには顔の見える位置に六分儀家が座っていた。
江里菜の右隣には司が座っており、料理をがっついている。
その司に寄り添うようにして江里菜が座り、チラチラと気にかけている様子だった。
分かりやすい、子離れできない親だな、と居石は思いながら、江里菜の左隣の男性に視線を移す。
シャツにフード付きのパーカを着用している細身の男性がビールを傾けているところだった。
「イケメンっすね」
「建設関係のコンサルタントのお仕事をされています」
それとイケメンとの関係は分からなかったが、肯定的な発言だろうと居石は解釈した。
「勘三郎様が建設重機のリースのお仕事をしていた関係でお知り合いになったそうです。ちなみに、恵令奈様とご結婚された三本木敦様もゼネコンに勤められている関係で勘三郎様とお知り合いになりました」
そうしてそれぞれの伴侶と出会ったというわけである。
「よくある話って感じっすね」
敦がゼネコン勤務というのが、雰囲気と相まって良くできた話だと感じていた。
二人が立ってのぞき見しているところからは食卓の会話は聞こえてこなかったが、一際オーバに動いているカップルがいた。
「あの二人が三女と旦那さん?」
「ええ。美理亜様とボーイフレンドの安良田裕二様です。確か工務店にお勤めとか…」
「ってことはまだ結婚はしてないんすね?」
そうですね、と言って赤津は窓から離れた。
「美理亜さんって何歳っすか?」
居石も元居た場所に戻って、弱くなった炭酸水を一口飲む。
「今は大学院に通っておられます。修士二年生だったはずです」
「俺より年上かぁ。恵令奈さんと江里菜さんの年齢って幾つっすか?」
「居石君は、女性の年齢が気になりますか?」
「えーっと、そう言った意味じゃないんすけど…美理亜さんが幼く見えるんで、姉ちゃんたちは何歳かなって」
居石は女性の年齢を聞くことが悪いことだとは思わなかったが、それで気を悪くする人もいることは知っている。
「江里菜様が三十七、恵令奈様が四十一だったと記憶しております」
「恵令奈さんって四十を超えているんすか?」
「驚くことですか?」
「いや、見た目もっと若いと…ふえぇ」
その時、ダイニングの扉が開き、勘三郎が入ってきた。
トンネルで会った時とは見違えるような格好で入ってくる。
麻のシャツに綿のパンツという、ラフな格好である。
その体は、かっしりと筋肉が纏わりついて、七十近い老人とは思えない体つきだった。
本人が発言していた通りである。
「じゃあ、続きを始めましょう。私はサーブに行ってきます」
「うっす。お願いします」
居石は調理の続きに入った。
時刻はもうすぐ二十時になる。
ダイニングでは、主役の登場で生誕祭が正式にスタートになった。
二十分ほど過ぎた頃には、居石の出番はほぼ終わっていた。
後片付けを始めようかとしている厨房に、赤津が入ってきた。
「あとは片付けになりましたね。では…そろそろあれのタイミングです」
「うっす。ケーキっすね」
仕込みの段階で、誕生日ケーキを準備していた。
業務用冷蔵庫の中からデコレーションの施されたケーキを取り出し、調理台に慎重に置く。
赤津がケーキに蝋燭を四本立てる。
勘三郎の年齢と本数とはあまり関係がなさそうだった。
「居石君、申し訳ありませんが、運ぶのを手伝ってもらえませんか?」
「オッケーっす。その手じゃきついっすもんね」
「ええ。では、電気消しますよ?」
赤津の合図で食堂の電気が消される。
居石も蝋燭に火を点けた。
「おお?なんだ?」
「いつものよ」
そう言った声が聞こえる。
赤津がスピーカから流したバースデーソングに合わせて、厨房から居石が慎重にケーキを運ぶと、上座に座る勘三郎の前にケーキを置いた。
「おお、君が運んできたのか」
蝋燭の炎に照らされた勘三郎が微笑む。
「父さん、早く火を消してください」
恵令奈に言われ、おお、と言った勘三郎は火を消す。
家族全体から拍手が送られた。居石も大きく拍手を送った。
「もう誕生日なんていいだろう」
そういう勘三郎だが、表情は柔らかい。
目立たないように隅に立っていた居石は、敦がいないことに気が付く。
喫煙者だから、外で一服しているのだろうか、と思っていると、人を殺しそうな目をしながら帰ってきた。
「あ、あなたが今日の料理作ってくれた人?」
不意に声をかけられ、きょろきょろと声のする方に顔を向ける。
髪を簡単に後ろで束ねただけの女性だった。
三女の美理亜である。
確かに面影は姉たちに似ている。
居石は、うっす、とだけ言って頭を下げた。
「あ、マジで?すげー美味かったよ」
その隣の短髪の青年が、くりっとした目で居石を見る。
美理亜が付き合っている安良田裕二である。
やんちゃそうな見た目だが、話し方や口調から悪い人物ではないように居石は感じた。
「そうね。悪くはなかったかな。エプロンも似合っているじゃない」
一人冷静な声で目を細めて江里菜が発言する。
居石は服装こそ同じだが、調理中はエプロンを着用していた。
「ちょっとーえりちゃーん、怖い顔すると皺が増えるってぇ」
思いがけない声と表情に居石は口が開いたままになっていた。
江里菜の隣に座る、六分儀零士だった。
「変な呼び方は辞めてってさっきから言っているでしょう?」
居石が見たことがある怒りの表情だったが、零士はにこやかにその顔を見ている。
「怒っている顔も、かーわいーいねー」
一人、声を殺しているが、裕二が腹を抱えて笑っている。
「君の見た目ではなく、しっかりとした技術に裏打ちされた味だった。居石君、美味しかったよ」
ここで敦の真面目なコメントだと逆に浮くな、と思いながらも居石は頭を下げる。
「皆さま、ケーキを取り分け致します」
赤津とアイコンタクトを取り、居石がケーキを再び厨房に運んで切り分ける。
取り皿に人数分を取り分けて今度は赤津と一緒に配膳する。
「いや、今日はなぜか楽しいね。毎年やってんだけどなぁ」
勘三郎は大口で笑う。その姿を笑顔で見ながら、美理亜が口を開く。
「母さんが死んだときもそうやって笑ってたよね」
角に新しいケーキ屋さんができたんだってね、と同じ口調だった。
一瞬にして場が凍り付く。ただ一人を除いて。
「美理亜ぁ、そんな酷いこと言わんでくれよ」
茶化すように返事をして、ケーキを口に運ぶ。
「本当のことでしょ?」
今度は口調と内容が合致した。
居石は居心地が悪くなりながら、参加者を観察する。
深見家の姉たちは、妹を止めることなく、黙ったまま視線だけ勘三郎に送っている。
考えていることは同じということだろうか。
「もう、忘れなさい」
「忘れるわけないでしょう?父さんの誕生日でお母さんの命日だよ?」
美理亜の肩が震えていたのか、裕二がそっと手を置く。
居石には到底できないことだった。
「美理亜ちゃん、落ち着きなさい。義母さんに対する気持ちは分かったが、今日は義父さんの誕生日だ。盛大に祝う方が、義母さんも喜ぶだろう」
敦が淡々と諭す。
「どうやらまだ静子の事を忘れてないようやな?」
当たり前でしょう、と江里菜も参戦の意を示した。
「私たちは、あなたを許したわけではないからね」
居石に見せる表情とは違った顔を江里菜は見せた。
そちらに視線を送った勘三郎は、鼻から息を大きく吐き出す。
「まあ、許してくれとは言った覚えはないからな。お前らがどう思うかは勝手や」
お義父さん、と敦が静かに諭す。
最もこの場を収めようとしているのは、敦かもしれないと居石は考えた。
赤津だって静観している。
立場上、仕方ないかもしれないが。
「恵令奈はどうや?」
敦を無視するように、勘三郎は恵令奈に尋ねる。
恵令奈は、姿勢正しく座って伏し目がちになって、無言でテーブル上の切り分けられたケーキを見つめていた。
照明でゼラチンを纏ったイチゴが光沢を放っている。
勘三郎は視線を戻して、ゆっくり目を閉じた。
すぐに目を開けると、席を立ちあがり、食堂から出て行った。
まだそれでも張り詰めた空気が漂っていた。
無言で美理亜が立ち上がると、足早に食堂を後にした。
勘三郎の誕生日パーティーはそれで閉会となった。
「お腹壊しませんか?」
「ふえぇい。ふうひっふ」
口の中にケーキを詰め込んだ居石は、食器を棚に戻している赤津に言った。
伝わっていないと考えて、しっかり飲み込む。
「はい、オーケーっす」
「災難でしたね」
「まあ、家族喧嘩ってやつっすよね。どこの家でもあるもんなんでしょ?」
「そう…かもしれませんね」
「奥さんは病気っすか?」
赤津は黙って頷く。居石は四個目のケーキに手を付けたところだった。
結果、ほとんどの人間がケーキに手を付けなかった。完食したのは裕二と司だけだった。
「元からお体が弱い方でした。それでも三人もお子様を生みになったのは、忖度なしに強いお方だと感じたものです」
居石は六個目のケーキを平らげたところだった。
「じいちゃん…勘三郎さんにヤバいくらい恨み持ってる感じっすね?」
「当時は、勘三郎様はお忙しくて、加えて、よく寝込んでしまわれることもあったので、いつもの事だと考えていらっしゃったようです」
居石は食べたケーキの皿を流しに持って行き、自分で洗い始める。
「でも…あそこまでの態度になるんすか?」
「美理亜様があんな事を言うのは…初めてです」
毎年こんなことがあれば、こうして集まることもなくなるだろうと居石は思った。
「久しぶりに姉妹が三人とも揃ったんです。それなのに…」
分かりやすく落胆している赤津に、いたたまれなくなった居石は口を開く。
「毎年、家族が揃ってるって訳じゃないんすね。あ、忙しいからか」
極力明るく言った。
「お察しの通り、皆様がそれぞれの生活をされていますので、今日のように三人がそろうことは珍しいことです」
「なるほどっすね…。でもそれだけ娘から恨まれるっつーのは中々なことしたんすね」
居石の言葉に、赤津は手を止めて遠くを見るような目になる。
「十九年前の冬も近づいた寒い日だったと聞いています。まだご家族が都内に住んでおられたときの事です。当時私の前任者がいましたが、お二人のご配慮で早めの冬休みを頂いていました」
キッチンには居石が食器を洗う音だけが響いている。
「そんな中、奥様が体調を崩されました」
「そのまま…っすか?じいちゃんは?」
言い直すこともなく尋ねる。
「ええ…その日の夜でした。勘三郎様は、当時海外事業に力を入れておりましたので日本にいませんでした」
「救急車とか…」
「その時、家にいたのは…美理亜様だけで…。恵令奈様は地方大学に通われていましたのでまだ帰省されていませんでした。江里菜様は高校の部活動で遠征しておられて…」
居石は頭の中で三姉妹の年齢を計算する。
「…じゃあ…美理亜さんだけ…ってこと…か」
「当時五歳でした」
苦々しい表情に自分がなっていることに気が付く。
「美理亜様は…何もすることができなかったとずっと思い詰めております」
自分の母親が目の前で死に逝く様を何も出来ることなく、見届けなければならなかった五歳の少女の姿が、居石の頭に浮かんでいた。
「飛んで帰ってきた江里菜様が見たのは…息を引き取った奥様の胸元に、しがみつくようにして泣いている美理亜様の御姿でした…」
居石の手が止まってしまっていた。水道の水が、そのまま排水溝に吸い込まれて行った。
「…でも…じいちゃんも仕事だったんすよね?」
「ええ。ですが、後に恵令奈様が連絡したところ、向こうで誕生日パーティーをしていたようで、笑いながら電話に出たとのことです。その事を聞いた美理亜様はひどく憤慨していたと仰っていました」
「え…それだけで?」
「もちろん、勘三郎様は一報を聞いてすぐに飛んで帰ってきております。それに奥様のご遺体を前に泣いておられたと…」
「じゃあ…美理亜さんが勘違いしているってことっすか?」
赤津は視線を落とす。
「一度思い込んでしまったことは…奥様の死を目の当たりにした、という点も含めて、ご自身の中で書き換えられないのでしょうね」
そうっすか、と言いながら、最後の皿を洗い終えて、蛇口を閉める。
確かに、食堂で恵令奈だけは、美理亜以上に勘三郎を責めることはなかった。
むしろ、黙ってしまって何も言えない状態だった。
居石は、もしかしたら美理亜に、勘三郎との通話内容を伝えてしまったことが、こうなってしまった原因ではないか、と恵令奈が自分を責めているのではないかと考えた。
「難しい問題っすね」
「難しいお話をしました。さて、私達も終わりましょう。袈裟丸君の事もありますから」
赤津が言うのと同時に、食堂の扉が開く。
「あ、すみません」
裕二が厨房の入り口に立っていた。
「安良田様、どうされましたか?」
「あ、いやーあの…ちょっと飲み物を頂きたいかなーって」
照れ笑いする裕二は、くしゃっとした笑顔で言った。
「ああ、それでしたらお部屋にお持ち致します。裕二様のお部屋でよろしいでしょうか?」
「んー、美理亜の部屋に…」
今度は言いにくそうな表情だった。
居石としては、彼女の家に呼ぶような間柄なのだから、堂々としていればよいと考えているが、裕二としてはそうでもないようだった。
やんちゃな見た目に反して真面目な性格のようだった。
「それは…でしたら、今準備いたしましょう。アルコールの方がよろしいですか?」
「いや、酔わない奴で。お願いします」
赤津は手際よく準備する。
「あ、あと…さっきあいつが残したケーキって…まだありますかね?」
「ケーキ…でございますか?」
「本人が食べたいって言ってて…」
赤津がゆっくりと居石の方を振り向く。
「あ、食べます?」
居石は冷蔵庫に向かい、中から食べかけのケーキが乗った皿を取り出す。
「残しておいたのですか?」
「そうっすね。念のため」
裕二は再び申し訳なさそうな表情でそれらを受け取ると、食堂を出て行った。
「あの子、良い奴っすね」
「見た目や言動と人間性とは関係ない、という好例でしょうか。ともあれ、美理亜様にああした方が傍にいてくれることは、私としても嬉しい限りです」
その観点で仕える家の事を見ている赤津も簡単にできることではない心から居石は思う。
「では、私達も終わりにしましょうか」
赤津は、ふう、と息を吐く。
「一人で大変だったと思いますが、素晴らしい仕事だったと思いますよ」
「あざっす。いやー、実際しんどかったっす」
「明日は、ゆっくり寝ていてください。袈裟丸君も体調が戻れば良いのですが…」
「ああ…でも朝飯も手伝いますよ。せっかくなんで」
「それは…」
「バイト代は今日だけの分で良いっすよ。もともとそういう話だったんで」
「いえ…君たちに申し訳ないですし…」
「いいんすよ。どうせ暇っすから」
実際は暇ではないが、何もしなくても同じことである。
気配がして振り返る。
そこには、三本木敦が立っていた。
「うおっ」
居石は声を上げて驚いた。
「三本木様、どうされましたか?」
「ああ。一服だ。外だと寒くてね。換気扇の下で吸って良いか?」
どうぞ、と端にあるガスコンロを手で示す。
「三本木様、我々はもう上がらせていただきますが…」
「構わないよ。電気だけ消して来れば良いかな?」
よろしくお願いします、と赤津は言う。
屋内禁煙で、ここに来た時に吸っていたのだから、許されているのだと思っていた。
あの時の敦の行動は良く分からないが、今は気を遣っているようだから居石は黙っていた。
厨房の壁に掛けられた時計を確認するとすでに二十一時半を回っているところだった。
袈裟丸は大丈夫だろうか。
結局、居石も赤津もここから離れることはできなかった。
早く戻ろうと玄関に向かう。
「居石君」
赤津に呼び止められる。
「渡り廊下を使ってください。その方が早いでしょうから」
「あざっす」
二人は階段で屋上の階段室へと向かい、そこから赤津に渡り廊下を開錠してもらい、渡り廊下へと入る。
「明日は八時から朝食になっています。お休みなさいませ」
「おやすみなさい」
そう言って扉を閉めた。
後は病人の世話が残っている。
本当に袈裟丸から介護料をふんだくってやろうかと考える。
しかし。
よく考えれば自分の方が迷惑をかけることが多い。
これまで、袈裟丸にかけた迷惑を考えれば、これくらいのことはするべきなのだろう。
「やれやれ」
居石はそう呟いて離れ側のドアを開けた。
頭がガンガンと痛い。
ゆっくりと頭が覚醒してくる。
ああ、バイト先の家で寝込むなんて最悪だ。
しかも居石にも迷惑をかけてしまっている。
まあ、あいつから迷惑を掛けられることの方が多いから、今回くらいは良いか。
袈裟丸は身体を少し動かすが、身体の節々が痛くなった。
まだ熱があるし、体中が汗をかいている。
着替えくらいするか、と身体を起こすが、鈍い痛みが脳に響く。
窓際の小さいテーブルに置かれた水を一口飲む。
吐き気も便意も収まっているが、手洗いには行っておきたい。
お世話になっている先で、粗相を犯すことは、この上なく恥である。
同じテーブルに置かれた自分のスマートフォンを手に取り、ホーム画面を呼び出す。
時刻は二十時半を回っていた。
発熱のためか、視界がぼやけている。
まだパーティーは続いているのだろうか、居石が戻ってこないのできっとまだ盛り上がっている最中だろう。
ふと、忘れられてはいないかと不安になる。
居石の事だから、誘われたら浴びるほど酒を飲むだろう。
心配になりながらも、排泄欲求には勝てずに、ゆっくりと立ち上がる。
視界の端が気になったのは、立ち上がったと同時だった。
部屋の窓から外に見える母屋。
その屋上に人影が立っているのが見えたからだった。
肩で息をしながら窓に近づく。
貼りつくようにして見たガラスの先、母屋の屋上に確かに人が立っていた。
「天…使?」
袈裟丸にはそう見えた。
なぜかライトアップされた屋上に、子供を抱いた人物が立っている。
髪の長さから、恐らく女性だと思われる。
胸に白い布で巻かれた物体を大事そうに抱えている。
まるで中世の絵画に書かれている聖母のようにも思えた。
こちらからはその人物は右斜め後ろから見ている形になる。
そのために顔ははっきりと確認できない。
ただ、その人物が立っているのが、屋上の床レベルよりも高い位置だった。
浮いているようにしか見えない。
あんな所で何をしようとしているのだろうか、と袈裟丸は考えていた。
自分の吐く息でガラスが曇ってきた。
片手でそれを拭く。
急に足に力が入らなくなる。
崩れ落ちるようにして膝をついた。
心臓が早鐘を突く。
熱が上がっているのか、余程弱っているのだろう。
しかし、足の力も入らなくなるとは思わなかった。
窓枠に手をかけてゆっくりと立ち上がる。
今のショックで粗相をしなくて良かったと袈裟丸は心から思った。
再び視線を母屋に向ける。
「え?」
先程まで経っていた人物がいなくなっていた。
視線を外したのは数秒だったはずである。
「羽…?」
人物が立っていたところから、空へと向けて、鳥の羽のような小さな白い浮遊物が舞い上がっている。
それは吹きすさぶ山風に舞い上がり、空へと消えていった。
袈裟丸は、今見たものが一体何だったのか、頭で理解できずにいた。
ぼうっとする頭を窓ガラスから離して、手洗いに向かう。
戻ってきた袈裟丸は倒れ込むようにしてベッドに入る。
居石が戻ってきたのは、それから一時間ほどしてからだった。
六分儀江里菜の死体が、屋上プールで見つかったのは翌朝の事である。
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