ボーリング・アシンメトリー~Asymmetric face~

八家民人

第1話 プロローグ 

プロローグ 

 

 

 デスクの上に置かれているダブルモニタには、それぞれテキストファイルと設計図が開かれている。

何度も瞬きをしながらそれを見比べて、キーボードに乗せた指を忙しく動かす。

何度も瞬きをしているのに、視界が一向に良くならない。

目を使い過ぎているのは明白だった。

時刻は十八時を過ぎている。

終業時間はとっくに過ぎているのに、周りの人間は誰も帰っていない。

これが普通である。

しかし異常である。

考えた途端に、その意味のない考察は、頭の中から消えて行く。

考え続けるより、目の前の仕事を終わらせた方が早いからだった。

つまり、仕事をしている時しかこんなことを考えないということである。

周りの人間は自分と同じようにキーボードを叩いて、黙って仕事をしている。

響いているのはキーボードを打鍵する音だけである。

視界がぼやける。

雑音は徐々に、脳で処理することを諦めたかのように気にならなくなっている。

それは突然だった。

机を大きく叩くと、その上に飛び乗る。

顔を天井に向けて、咆哮を上げると、机の上のモニタを蹴り上げる。

簡単に飛んで行ったモニタは向かいに座る職員の顔に当たる。

そのまま、横に並んで座っている職員のモニタを片っ端から蹴り上げながら、机の島を端から端まで歩く。

職員たちは黙って座ったままだった。

誰一人、叫び声を上げる者も、逃げ出す者もいない。

机の上から飛び降りると、別の机の島に向かう。

一番近い職員の机に近づくと、椅子を掴んで机から引き離す。

引き離した職員が叩いていたキーボードを掴み、引きちぎる様にして引っ張る。

PC本体に繋がれていたコードが引きちぎれて、本体も倒れた。

引きちぎったキーボードは、座ったままの職員の顔面に、正面から叩きつける。

キーボードが折れて、キーが飛び散る。

飛び散ったキーが、ゆっくりとスローモーションで自分の視界に入る。

ああ、これは現実ではないのだ、と理解する。

意識が戻ってくる。

自分は相変わらず二つのモニタを見ながら仕事を進めていた。

全身に疲労感が広がる。

汗が滲んできているのも感じていた。

一度深呼吸をすると、立ち上がって、洗面所へと向かった。

顔を洗って戻ってくると、すぐに作業を再開せずに目頭をマッサージする。

こういう時に顔を洗ったりして気分が変わることがあるのか、あまり意味は無いのではないか、と思う。

何か行動に起こしたという結果が重要なのかもしれないと思いながら、首に手を当てる。

その時、デスクトップ上にメールの着信表示があることに気が付く。

マウスを操作してメーラソフトを起動させる。

未読のメールは一件。

タイトルは『依頼』とだけ。

選択開封して、内容を読む。

添付ファイルもあったのでそれらも開いて確認する。

差出人は良く知っている人物だった。

大きく溜息を吐くと、返信を送るためにキーボードに指を乗せた。



チェーン店の回転寿司だった。

カウンターに座る袈裟丸耕平の目線の高さを、マグロが通り過ぎる。

もちろん、泳げる状態ではない。

一口大のシャリに、光沢を纏った赤々とした身が乗せられている。

皿を取ろうと伸ばした手を、それと悟られないようにして湯呑に目標を変える。

粉っぽいお茶を一口含むと、僅かに目を細めて、流れる光景を目に焼き付ける。

同じ皿が後ろに二つ、計三つの皿が通り過ぎるのを確認すると、袈裟丸はその後から来たイカ二貫に手を伸ばす。

「気にしないで良いんだよ」

袈裟丸の隣で、塗師明宏が呟く。

自分は正面を向いたまま、袈裟丸が取らなかったマグロを手に取る。

ねっとりとしたイカの食感を楽しんでいた袈裟丸は喉が閉まる様に感じた。

塗師の声は、かろうじて袈裟丸の耳に聞こえる程度の音量、つまり囁かれたものだった。

自分がマグロを取ろうとしていたことに気が付かれていた。

「俺、イカが好きなんですよ」

恐らく顔は赤くなっていただろうと袈裟丸は思ったが、愛想笑いをするよりは自分らしいと思っていた。

塗師は何も言わず、そして相変わらず正面を向いたまま、僅かに微笑むとマグロを口に運んだ。

袈裟丸は遠慮するのは別に理由がある。

塗師を挟んでさらに隣の席に座る、居石要である。

「うおっ、マグロじゃん。二皿取っちゃお」

両手を伸ばしてレーンから下すと、二貫まとめて口に入れる。

節操や遠慮と言った言葉を学んだことが無い、というような男は、袈裟丸と同じ大学の同期である。

二人共、R大学の土木工学科の修士一年生である。

所属する研究室は異なるが、なぜか一緒にいることが多い。

同期で集まって遊ぶこともあるが、それ以外でも袈裟丸と居石は二人で行動することがある。

下宿が近いということが大きな理由だろうと袈裟丸は考えているが、居石はどういうつもりかは分からない。

笑顔でマグロを頬張っているその脇に、高く積まれた皿を見ると、袈裟丸はそこまで無遠慮になるわけにはいかなかった。

カウンター席でなぜか、二人に挟まれるようにして座っている塗師は、便利屋を生業としている男である。

上下黒の作務衣に雪駄、頭には黒いタオルを被る様にして巻いている。

職業を知らなければ、美味しいラーメンを作る職人の様にも見える。

服装だけで見れば、居石も負けてはいない。

一年を通じて、ハーフパンツにタンクトップ、そして半袖のアロハを着用している。

つまり、三人の中で極めて目立つ格好が二人いるシチュエーション、ということである。

この場合、極めて普通の格好である袈裟丸が浮いている存在となっている。

袈裟丸自身は、もう慣れてしまっているため、気にすることはないが、周囲の人間はどう考えるだろうと思う。

「要君さ」

「ん?」

塗師が居石に語りかける。居石はすでにマグロの皿を、積み上げたタワーの上に乗せている。

「さっきから…気になっていたんだけれど」

「なんすか?」

「君…寿司に一切醤油を付けないよね?」

塗師と袈裟丸の前には醤油用の小皿が置かれて、黒々とした液体が揺れているが、居石の前にはそれが無い。

「いや、いいんだよ。全く関係ない。君が寿司をどう食べようとも僕には関係ないことだよ」

でもさ、と塗師は言うと身体を居石の方に向き直る。

「極論を言わせてもらえば、僕はね、寿司ってやつは、醤油を食べている、という側面もあるんじゃないかと思うんだ。ネタの種類が変わろうとも、基本的にはどの寿司にも醤油はつけて食べることになる。でも君はそれを一切拒んでいる」

なぜかな、と最後だけ声のトーンを落として塗師は尋ねる。

尋ねられた塗師は、ああ、というと、少し表情を曇らせた。

それだけで普段の居石を知っている袈裟丸からすれば普通の事ではない。

「いや…俺、米とかが濡れるのが好きじゃないんすよ…」

「え…何それ…気持ち悪い…」

二人の会話を聞きながら、袈裟丸はいたたまれない気持ちになっていた。

丁度二人の会話が途切れたところを見計らって、袈裟丸は切り出す。

カレーライスや牛丼の時はどうするのか、と袈裟丸も気になったが黙っていた。

「塗師さん、それで、今日は…なんの用でしょうか?」

それは言わずもがな、仕事の話であるが、あえて袈裟丸はこうした尋ね方をした。

塗師の便利屋に来る仕事の中で、アルバイトとしてできそうな案件は、二人の共通の友人経由で回してもらっていた。

極稀に、そうした仕事が入り、決まって食事の席を塗師はセッティングしてくれる。そうならない場合もあるが、ほとんどが何かを食べながらの話になる。

「うん、また二人に仕事を手伝ってはもらえないだろうか、と思ってね」

塗師は手伝って、という表現だが、今まで同じ現場にいたことは、例外はあるがほとんどない。

塗師がゆっくりとした動作で鯖の皿を取り、口に運ぶ。

「内容は?」

居石は口に寿司を含んだまま尋ねる。

「それは内容次第、ってことかな?」

「そりゃそうでしょ。しんどかったらやらない」

居石のいうことももっともである。ただでさえ理系の大学院生である。バイトに明け暮れるほど時間が空いているわけではない。

塗師もそれを理解しているはずである。

「それはそうだね」

そう言うと、少し間をあける。顎を摩る様にして考える素振りを見せる。

「そうだな…。簡単に言えばキッチンスタッフ、っていうことになるかな」

袈裟丸は言い方が若干気にかかった。キッチンスタッフであれば、そう言えば良い。言い換える必要がある内容だということである。

「ふーん。期間は?」

塗師が持ってくる仕事は短期のものがほとんどである。前述の通り、長期の仕事だったら、二人は手伝うことは難しい。

「二日だね」

「ほう。短けぇな」

居石はお茶を一口飲んで言った。

「二日間だけで良いのですか?」

袈裟丸の問いに、うん、とだけ言って塗師は口を閉じた。

もう、判断しなければならない。もう少し情報が欲しいところだったが、忙しい以上にほぼ毎日金欠である、という条件が二人にはある。

塗師が、忘れていた、と言って報酬金額について説明すると、二人はお互い顔を見合わせた後に、塗師の顔を確認する。

「悪い話じゃない、と僕は思うけれどねぇ」

その笑みに、袈裟丸は不安感が襲ってきたが、居石はそうではなかった。

「やる」

「おい、要、そんな簡単に決めていいのかよ」

「ん?金が良くて、実働時間も短い、っていうのは良い話じゃんか」

居石の言っていることに間違いはない。

現に居石はなぜ、そんなこと聞くのか、といった表情で袈裟丸を見ている。

「何か、問題があるかな?」

「いや…何もないですけど…ちなみに…どこかの店ですか?」

仕方ない、と言った表情で塗師は口を開いた。

「いや、個人の家だよ」

「人ん家でキッチンスタッフ?パーティーとか?」

やはり気になっていたのか、居石が畳みかける。

「そんなところだね。やる?」

「それは変わりねぇなぁ。なあ、耕平?」

「まあ…」

「袈裟丸君、納得いかないかい?」

「いや…そんな大規模なパーティーなんて捌けるかなって」

はにかむようにして袈裟丸は言う。


「家族くらいしか来ないパーティーみたいだね。そんなに大規模ではないみたいだよ。今回は、先方にとってもイレギュラな事らしいんだ」

塗師の説明では、毎年その家の当主の誕生日パーティーを開いており、その手伝いにどうか、と二人に声がかかったということだった。

曰く、イレギュラな事象と言うのは、その家の家事雑事を一手に引き受けている使用人が手を負傷してしまったため、料理が作れない、ということだった。

「怪我した手で料理が作れねぇってことか。手伝ってあげねぇとな。これは人助けだ」

一人で納得している居石を無視して袈裟丸は塗師を見る。

「そういう理由であれば…まあやります」

「乗り気じゃねぇの?俺だけでもいいけど?」

「いや、お前だけ行かせるとその一族が滅亡しかねない。血の誕生日にならないために俺も行くよ」

「君たちに頼んで大丈夫だよね?」

塗師がコメントだけ不安そうに言った。

「問題ないっすよ。俺メシ作るのは上手なんで」

それは居石の言う通りだった。高校生の時から一人暮らしをしているらしく、自炊はお手の物なのである。袈裟丸もご馳走になったことがあった。

「今回も塗師さんは…」

「行かないよ」

あっけらかんと答える塗師に、袈裟丸は何も言えなくなった。

「当日別の仕事が入っててね。それが無かったら行けたんだけれども…。連絡は取れるようにしておくから、よろしく頼むよ」

「まあ、金持ちのパーティーの手伝いってだけでしょ?塗師さんは行かんでも良いでしょ。なあ?」

まあね、と袈裟丸は答えるが、その表情は曇っていた。

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