第62話 終演後

 おれたちは凍えるような雪の中にいた。もちろん、緑の壁は健在だ。


 おれが台本を読んでうなったのは、もしかしたら薫はもう台本が書けないのではないかという不安を感じたからだ。


 才能は、時に枯渇する。その時、支えになることができなければ、真の友だちではない。


「薫、あのな」

「黙れよ、努。今は目の前のことに集中するべきだろう?」


 薫がじっと目を離さずに見ているのは、薄汚れた老人だった。この寒空の下では似つかわしくない薄着が、彼の壮絶な人生を物語っている。


 彼の元には、鶴があらわれなかったのだろうか? そんなおろかな考えが頭をよぎった。


「あんたら、なに者だよ? まさか、ここまでおれを笑いに来たってんじゃないだろうな?」


 老人の歯はまばらで、頰もこけている。


「このお方は、長年連れ添ってきた奥様を追い出し、若い女性と夫婦になりました」


 ああ、なんかそういうのよくあるパターンだよな。まさかこの爺さん資産家かなにかかな?


 糸子さんはそれ以上の説明はしてくれなかった。つまりは、そういうことなのだろう。


 おそらく爺さんは夜の界隈で女性と知り合い、若い女性に言われるがままに妻を追い出し、その女性と夫婦になったものの、財産を奪われ、命をも奪われたと。そういうことなのか?


「実際は、生きたまま臓器まで取り出されたんだ。あの女、絶対にゆるさないっ!!」

「ですが、あなた様はそれでよろしいのですか? 失礼を承知で言いますが、その女性と本気で夫婦になれると思っていらっしゃったのですか?」

「思ったさ」


 爺さんは苦虫を噛み潰したような顔をして、短く答えた。


「前の奥さんはおれのことを邪険にしていたけど、あの女だけはやさしくしてくれたんだ。だけど、家の中から不自然にいろんなものがなくなっていって。疑いたくなんてなかったさ。せっかく籍を入れたのに、あの女が泥棒だなんてさ。だけど、信じたかったんだよ。最初に出会った時の笑顔が忘れられなくてさ」


 それは、いわゆる最初から資産を狙われていたんだな。でも、わかっていても信じたかったというその気持ちはわからなくもない。


「家や土地の権利書まで奪われて、最後に臓器まで取られて。気絶したと思ったら、こんな場所にいたんだ」


 こんな場所。寒くて、三途の川を渡るしかしようのない場所。


「お芝居は、観ることができましたか?」


 糸子さんはやさしく問いかける。爺さんは深いシワをたるませるように、力なく首を左右に振った。


「ああ。おれにもあんなやさしい鶴がいたならな。でも、その前に鶴を助けていなければならなかったんだ。そうそう、おれの奥さん。……前のな、奥さんの名前が鶴子だったんだ。だからかなぁ。なんか、泣けてきてさぁ。おれ、鶴子に悪いことしちまったんだなってことがわかって。自業自得だよな、こんなの」


 身ぐるみ剥がされてしまった爺さんは、嗚咽を漏らして泣き始めた。


「鶴子、ごめんなぁ。全部とられちまった。お前と一緒に買った時計も、家も、思い出も、全部」


 子供は? いなかったのだろうか? 誰かが気をつけて、見ていてあげなくてはならなかったのではなかろうか?


 ひとしきり、わんわんと泣いた爺さんは、ゆっくりと腰をあげる。


「やっぱりおれ、三途の川を渡るわ。あんたたちにはえらい迷惑をかけちまったな。すまない。あの世でもし、鶴子に会えたら、あんたらのことを話してもいいかい?」

「はい。かまいませんよ」


 そこは薫が、やさしくまとめあげた。


 永遠に白い雪の世界に、突如として川があらわれた。そこに一艘の手漕ぎボートが近づく。


「じゃあな。ありがとうよ」


 爺さんはそのままボートに乗って行ったけれど。はたして本当に気が済んだのだろうか?


 こんな、芝居なんかで。でも、おれがそれを言うのははばかられて。


 薫も、おれとおなじ顔をしていた。


 つづく

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