第38話 終演後

「このお芝居、元は『レ・ミゼラブル』よね。この改変をあなたが書き上げたの? 薫」


 薫の母さんは涙で目を真っ赤に腫らしていた。おれたちは、おばさんに会ったのはこれで二回目だから、この人がどんな人格なのかもわからない。だけど、薫を見ているその目つきは、母親のそれでしかなかった。


「そうだよ。くだらない本ばかり読むなと父さんに言われないように、聖書や百科事典、哲学書なんかも読みあさったよ。これが今のぼくだ。あなたの知らないぼくと、その大切な友だちだよ」


 少し興奮した口調の薫だったが、うっかり『その仲間たち』だと言われなかったことに安堵の気持ちを抱きつつ、『友だち』だと紹介してもらったことに、気恥ずかしさもあった。


「ごめんね。あたし、弱い人間だったの。毎日毎日、あの人にバカにされて、浮気されて、そんな生活が耐えきれなかった」

「再婚した後も、父さんは父さんのままだよ」

「そう、よね……」


 鼻をすすりながら、おばさんはうつむいた。


「あなたを置いてきたのは、あたしでは満足な環境でいい勉強をさせてあげられないと思っていたから」

「そんないいわけを信じろって言うの? 今さら。何年たったと思っているの!?」

「ごめんなさい。あたし、その足で死ぬつもりでいたの。あの夜、暗い海を見ていたら、そのまま吸い込まれて。だけど、糸子さんに助けられたの」


 え? とみんなの視線が糸子さんに集まる。


「すぐに白百合家のお屋敷で働けるよう、取り計らってもくれた。だから、だから、糸子さんが時々薫と会っていたことも話してくれた。それだけが、生きる希望だった」


 糸子さんはやさしそうな顔でうつむいた。


「男の人と逃げたなんて、あの人のついた嘘なの。そういうことにしておかないと、自分の体面が保てないから。ただ、それだけのことなのに」


 うっうっ、とおばさんはその場でしゃがみこむ。あふれる涙が止まらない。


「あなたのお芝居を観てから三途の川を渡りたい。きっと、地獄に落ちることになるとわかっていても、これだけはゆずれなかった」

「……母さん。でもぼくは、それでもあなたをゆるせない」

「ゆるさなくていい。むしろ憎んで? そうでないと、あなたが悲しいままだから」


 そう言うと、おばさんは、おれたちの顔をひとりずつゆっくりと見回した。そして毅然として立ち上がり、おれたちに頭を下げる。


「素敵なお芝居を観せてくださり、ありがとうございました。どうか、これからも薫のことをよろしくお願いいたします。どうか、どうか……」


 最後は涙で声にならなかった。


「……あなたのことはゆるせないけど、ぼくにはみんながいてくれる。だから、これだけは言ってあげるよ。さようなら。あの日、言えなかったままだから」


 またおばさんがわっと鳴き声をあげた。汽笛が鳴る。


「本当にありがとうございました。みなさんと出会えて、あたしは、しあわせでした。さようなら。ごめんね、薫。さようなら、薫」


 おばさんは手を振りながら迷いなく船へと歩いて行った。


「さよなら、母さん」


 最後にそう呟いた薫の肩を、おれはしっかりと抱きしめた。


 つづく



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