海原 薫視点。-エピソードゼロ-その三

 なるほど。これはおもしろい。これが戯曲か。っていうか川崎さん。小学生に『リチャード三世』なんてすごいものをいきなり貸すかなぁ? こんなの読んでいるところを父さんに見つかったら大変なことになるな。


 そう思って、読みかけの『リチャード三世』をカバンの奥に忍ばせる。


 川崎さんとぼくだけの秘密。絶対にバレてはいけない。


 翌週、同じように海岸を歩いていたら、川崎さんと会うことができた。


「本、貸してくれてありがとうございました」

「どうでしたか?」


 川崎さんは、その歳からは想像もできないほどに目をきらきらと輝かせている。おもしろい人だな、そう思った。


「なんか、今まで読んだことのない世界観でした。でも、いいんですか? 小学生にこんなの読ませてしまって」

「かまいませんよ。だって、人間の心の機微を教えてくださるのは、本当はお母様の役目ですもの。差し出がましいようですが、薫様がこのまま大人になってしまったら、とんでもなく偏った考えの持ち主になってしまうことでしょう。それを防ぐためにも、シェイクスピアは薫様に必要なのですっ!!」


 たとえば、と、川崎さんはカバンの中に『リチャード三世』をしまい込んで、今度は『ハムレット』を取り出し、渡してくる。ぼくはそれを拒否した。


「薫様はお父様の権力を利用しようと近づいてくる者に対しては敏感です。ですが、それ以外の目的で近づいてくる者もいるのだということを知っておかなければなりません」

「それ以外?」


 はて? なんだろう?


「お父様を失脚させて、立場そのものをかすめ取ろうとする輩もたっくさんおります。たしかに、シェイクスピアは過激な場面や表現がたくさん出てまいります。このセリフはここでは不要なのではないか? と疑ってしまうくらいにです。ですがそこに、人間の心の奥深くを覗き見ることができるのです。不満、嫉妬、不和、裏切り。また反対に、愛や信頼なんかもしっかり書かれているのですよ」


 なるほどな。この人、ただのシェイクスピアおたくじゃなかったんだ。その知識をぼくに、分けてくれようと言うのか? でも、どうして?


「わたくしには姉がおりました。泣き虫であわてんぼうで、人のことをすぐに信じてしまうようなお人好しでした」


 少なくともぼくは、お人好しではないつもりなんだがな。


「ですが、殿方の裏切りにあい、自らの命を絶ってしまいました。まだ若いさかりでしたのに」


 川崎さんは、一見するとのんきなおばさんでしかないのだけれど、その実、いろんな経験をしているのだということがだんだんわかってきた。


「ですから、後悔したくないのです。もう、わたくしの周りで不毛な死を迎えたくない。そのためには、知識が必要なのです!!」


 はいっと差し出された『ハムレット』を、今度は素直に受け取った。古い紙のにおいがした。


 つづく

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