第17話 彼女のジョー・ディマジオ

「今日は、できるだけゆっくりと参りましょう。ですがやはり、緑の壁に触れてはなりませんからね」


 おなじみの緑の結界。今日は、どこからか川のせせらぎが聞こえてきた。顔を上げれば、大樹が茂り、小鳥が鳴いている。


 こんな風に、はざまで景色が見えたのはこれがはじめてのことだった。


「今回は、特別なのです」


 どう特別? と思えば、眼前に薫の母さんが立ちすくんでいる。なんとまぁ。こんな場所ところで再会するなんて、皮肉すぎるじゃないか。


「母さんに、芝居を見せろだって? あの人は、自分のことしか考えない。きっと三途の川を渡ろうとはしないでしょう。糸子さん、今日は辞めませんか?」


 かたくなにおばさんと顔をあわせようとしない薫を見ているのが、せつなすぎる。こいつがこれまでどんなに努力して生きてきたのかを、おれたちは本当に知っているわけじゃないのかもしれない。


 その涼しい顔の裏で、どんなに悲しい思いを抱えてきたのか、おれたちにその重荷を少しでも軽くしてやることはできていたのか、今となってはわからない。


「薫。あんたの言う通りだよ。あたしはまだ、三途の川を渡らない。また今度、ね」


 さみしそうに微笑んで、おばさんはどこかへ消えてしまっていた。


「すみません、糸子さん。こんな結果になってしまって」

「いいえ、薫様。本日のお客様はこちらの方なのです」


 糸子さんの視線の先にはたわわに実ったリンゴの木。そしてその根元では、老人がだらしなく寝転がっていた。歳の頃から察するに、以前の糸子さんと同じ歳くらいだろうか?


「みな様、どうかここにあるものに触れたり、口にしたりしてはなりませぬよ?」


 鋭くもはっきりとした口調に、おれの体は武者震いした。うまそうに実っているが、それを口にしたらおれたちは帰れなくなってしまうのだろう。


「ごきげんよう?」

「おぅ!! なんだ、川崎 糸子じゃないか!! どうしたんだよ? 若返って」


 糸子さんは、いたく不愉快そうな顔で振り返ると、おれたちに老人を紹介してくれた。


「こちらは、わたくしの初恋の殿方、仮にジョー・ディマジオとでもお呼びいたしましょうか」


 勝てない。糸子さんの初恋の人でジョー・ディマジオじゃあ、おれなんか勝てるわけがない。


「おっ? ちったぁ、おれのことを認めてくれていたってことか? ジョー・ディマジオだってぇ!! おれってすげぇや」


 なんだか別の意味で大物のような気がしてきた。


 つづく

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