第4話 ばあやの料理

 なされるがままに美術館の中を進んでいくと、分厚そうな木のドアの前に着いた。

 ドアの上部には、館長室と書かれた札が垂れ下がっている。

 とんとん、とシトリーネがドアを叩き、返事を待つことなく扉を開けた。

 僕もそれに続いて入る。


「ばあや! ただいまー!」


 勢いよく右手を上げるシトリーネ。

 その目線の先には、窓辺に立つ茶色のコートを纏った何者かがいた。


 シトリーネの声を聞いたからか、何者かがこちらを振り返る。


 それがなぜか不気味で、どきどきしていたのだけど……


「おお、シトリーネ。おかえり」


 と優し気な声色が僕を出迎えてくれた。

 その声の主は、にこやかな表情を浮かべているおばあさんだった。


「戻ってくるのが早かったね」

「うーん、そうかな?」


 シトリーネは、そう答えながら慣れた手つきで麦わら帽子を壁のフックに掛けた。


「おや? この子は……?」

「お客さまだよ! お腹が空いてるから、ばあやの料理を食べてもらおうと思って来たの」

「そうだったのかい。わかったよ。今準備するからね」


 おばあさんはそう言うと、館長室から出て行ってしまった。


「そこに座って待ってようか。きっとすぐできるから」


 シトリーネに言われて、応接間にあるような革のソファに腰を下ろす。

 ロビーホールにあるソファよりもふかふかだ。

 ちょっとご機嫌になっていると僕の隣にシトリーネも座った。


「シトリーネ、あの人がばあやなの?」

「うん。慈愛の老婆っていうんだけどね。この美術館にある作品全部のお世話をしてくれているの。良い人だよ」

「へえ、確かに優しそうだもんな」

「うん。そうなんだけどね……わたしは、なんかにがて」


 そう言うとはあと溜息をこぼす。


「え、そうなんだ。……どうして?」

「それはひみつ」


 どこか暗い顔をして、シトリーネは僕から顔を逸らした。

 話したくないなら、無理にきくのは悪いよな。



   ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 それから特に話すこともなく過ごしていると、急にドアが開いた。


「遅くなったね。お待ちかねの料理だよ」


 ドアの軋む音に遅れて現れたのは、お盆を持ったおばあさんだった。

 おばあさんはこちらに近づいてくると、お盆にテーブルに料理を並べていく。

 随分と、おいしそうな匂いがするなあ。


「これは、ミネストローネですか?」


 野菜がいっぱい入っているスープが視界から外れない。


「そうだよ。たんとおあがり」

「ありがとうございます」


 いただきます。と言って一口運ぶ。


「うん。すごくおいしいです」


 匂いを感じたときから疑ってはいなかったけど、やっぱり料理も本物だ。

 いったいどうなっているんだろうな、ここは。


「でしょー! ばあやの料理はぜっぴん? なんだよー!」


 隣で食べているシトリーネが元気な声をあげる。


「それなら良いんだけど……なんだかそうじゃなさそうな顔をしているね」

「いえ……」

「まあ、それはいいさ。ところで、シトリーネ。何か儂に話すことはないかい?」

「ふぇ!」


 ギロっと睨まれたシトリーネが、食べていたミネストローネを喉に詰まらせて苦しそうにもがく。

 しばらく背中をさすると落ち着いた。


「な、何もないよ!」

「本当かい?」

「ほんとほんと!」

「じゃあ、どうしてリンゴとさくらんぼが減ってるんだい。あとバナナも!」


 ばあやが、大きな声で怒り始めた。

 さっきとは打って変わって鬼の形相だ……!

 もしかして、料理の材料を探しに館内を見て回っていたのだろうか?


「そ、それはですね。ああ、美味しそうだなあと思って、どうしようもなくお腹が空いたといいますか……」

「だからって勝手に食べちゃためだろう! 食べるときは言うと、約束したじゃないか」

「い、良いじゃんちょっとくらい! 果物が美味しそうなんだもん!」

「それでもし全部食べちゃったらご主人様の作品が消えて無くなっちゃうだろう? 儂が描き足しているから良いもの、もし無くなったらもう食べられんぞ? お腹が空くのは分かるが、少しは我慢なさい」

「そんなこと言われても……お腹空くもん」


 悟らせるように叱るばあやに、シトリーネはタジタジだ。

 いじけたように、ぼそぼそと小さく何かを呟いている。


 ――仕方ないな。


 あまりにもシトリーネが可哀想なので、僕からあらましを説明することにした。


「そのことなんですが……実は僕が悪いんです」

「どういう意味だい?」

「ええっと、作品を見て回っているとき、僕がお腹を空かせてしまって、それを見かねてガイドのシトリーネが絵から果物を取り出してくれたんです。だから、僕が――」

「ユーちゃんは、悪くないの! 私が勝手に! ――あ!」


 僕の説明を遮ったシトリーネが、不自然に途中で話すのを止めた。


「ユーちゃん? なんだいそれは。シトリーネ、まさかお客さまに名前を訊いたのかい?」


 その問い掛けにびくっとシトリーネは身を震わせた。


「べ、別にいいじゃん! 名前くらい訊いたって!」

「シトリーネ! 儂らは作品じゃぞ! お客様とは一定の距離を置かねばならん! 名を知れば、胸の内に情がこもり、ご主人様の意図に背く心が生じかねん! だというのに、どうして掟を破った!」


「お客さまと仲良くなって何がいけないの! ただでさえ、最近美術館に来てくれる人は少なくなっているんだよ? きっとこのままじゃ……それに、ばあやも言ってたじゃない。人々にわたしたちのことを……ご主人様がわたしたち作品に込めた思いを深く知ってもらうために、ここに人を招いているんだって!」


「それとこれとは話が別じゃ! 人を招いておるのは、ご主人様の作品を通じ、ご主人様の意思を正しく伝えるためであって、何もお客様と睦まじくなることは必要ない! むしろ、それがご主人様の作品としてご主人様の意に反することになるやもしれぬ!」


「そんなことないよ……! 仲良くなっても、きっと――」

!」


 ばあやの怒声で部屋の中が一気に静かになった。


 一体何の話をしているのか分からず、どう止めれば良いか分からなかった。


「ばあやは、いつもわたしの言うことに反対するんだ……私のお願いも聞いてくれなかったし……」

「それは――」

「もうばあやなんて知らない!」


 そう強く言い放つと、シトリーネは大きな音を出しつつ立ち上がり、


「シトリーネ!」


 僕のことも無視して館長室の外へと出て行ってしまった。


 ドアが勢いよく閉められた「バン!」という拒絶するような音が、僕の頭の中を反響した。

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