第3話 At a loss

「う…ん…」

気がつくと教室ではないところにいた。


―頭が痛い。

何か深い―とても深い海の中にいた気がした。


「気がついたようね」

「―田宮先生?ということは…ここは保健室?」


声がしたほうを見ると養護の田宮先生がいた。

私のおでこに手を当てて、熱の有無を見てくれた。


一瞬、どうして私はこんなところにいるのかを思い出そうとして、さっきの強烈な出来事が頭によぎった。


「―そ、そうだ私、教室で…あ、杏奈!杏奈は大丈夫でしたか!?」

「落ち着いて神代さん。また倒れてしまうわ。」

「で、でも」

「柊さんなら大丈夫。今は安定して眠ってるから。もうすぐ目を覚ますんじゃないかしら?」


焦燥に駆られて田宮先生の両腕を取って杏奈のことを尋ねてしまった私は、彼女が見つめる先に目をやる。


「―杏奈…よかった…」


彼女の姿を認めて、一気に力が抜けるのを感じた。


様子を見ていた田宮先生に、私ももう少し横になっているようにと促され、元いたベッドに体を滑り込ませる。


瞳に映る私の親友の顔を見ながら、どうして私に―ううん、私たちにこんな事が起きたのかを思いながら、誘われるようにもう一度眠りについた。


― ― ― ― ― ― ― ― ―


「はい、どうぞ」

「あ、「ありがとうございます」」

「―っ」

「どうしまして。ふふ」


私と杏奈が目を覚ました後、先生が温かい紅茶を入れてくれた。

私たちの声が重なってしまって、思わず私は杏奈のほうを見てしまったけど、それが可笑しかった様子の先生は、私たちにも促してからティーカップに口をつけた。


「それで―さっきの事だけど、何があったか思い出せる?」

「それは…」


私は杏奈と視線を合わせた後、少しためらいながらも、お互いに何が起きたのかを説明しはじめた。


「…なるほど。世界史の授業で百年戦争を扱っていて、するとその場面の光景が強く思い浮かんで、まるでそこにいたかのように感じた、って事ね」

「…はい…」

「柊さんも同じ?」

「はい…なんだか、すごく怖くて…悲しくて…」

「…杏奈…」


その表情が、一瞬だけ苦痛に歪む。

そっと彼女の頬に手を伸ばすと、その手をとって、無理やり微笑んでくれる。


「―大丈夫。マリーも怖かったでしょ?」

「う、ん…」


田宮先生が続ける。


「なにかきっかけとかに心当たりはある?たとえば昔写真を見た、とか、現地に行ったことがあるとか…そういえば神代さんのおばあさまってフランス人よね」

「いいえ…ありません。確かに祖母はフランス人ですが…それでも『あの人』に関係する場所に行ったことなんかは…」

「『あの人』?」

「―!あ、あの…何でも、ないです」


慌てて話を逸らす。いくら何でも、まだ私自身もよくわからない事だから、いたずらに話したくない。


それに―これ以上、関係ない他の人に言うべきじゃない気がした。

これは、私や杏奈にしかきっと分からない。


それに他の人に『あの人』のことを言ってしまうと、あの人を踏み荒らされる気がしたから―


だから結局、田宮先生にはそれ以上は私も…そして杏奈も何も言えなくて、申し訳ないと思いつつ、保健室を後にした。



「なんか…すごい一日だったね」

「えぇ…」


校庭を2人で歩いて駅に向かう。


いつもの私と、杏奈の日常だった。


でも―私たちの日常は、今日大きく崩れてしまった。



―私だけじゃなくて杏奈にも起きるなんて―いったい、何が起きてるんだろう?



これからどうなってしまうのか、ただ怖くなってしまう。


―でも、きっと大丈夫。

杏奈がいるから。


そんな予感がして、そっと隣にいる杏奈の手を握った。

お互いに暗い表情だったけど、杏奈となら、この漠然とした恐怖に耐えていける気がした。


― ― ― ― ― ― ― ― ―


それから私たちはあまり多くを話すこともないままお互いに帰宅した。

話したくても、話せなかった。

今日という出来事に疲れてしまっていた。


「―ただいま帰りました」

「お帰りなさいマリー」


母は、いつもの優しい笑みを浮かべて私を出迎えてくれる。

それにものすごく安心して、私の中で渦巻いていた、いろんな感情が溢れだした。

感情のコントロールが効かずに、優しい母の胸に飛び込むように抱き着く。


「…く…ひっく…」

「…マリーちゃん…」


私を幼いころの愛称で呼ぶ母。

それが私の感情を揺さぶり、余計に母に甘えたくなり、ぎゅっと抱き着く腕に力を込める。

母のエプロンを涙で濡らす私の背中を、何も言わずにさすってくれる手が温かくて、しばらくの間そのまま泣き続けた。




「…何があったか、話せる?」

「…うん。」


落ち着きを取り戻した私に、母はホットミルクを入れてくれた。ホットミルクに口を付けながら、私はずっと家族の誰にも黙っていたことを―夢の中の『あの人』のことを話し始めた。


いつからか、夢を見るようになったこと。

必ず、『あの人』が出てくること。

『あの人』を『私』が見ていて―そう、まるでそこにいるかのように、現実であるかのように感じること。

いろんな感情を抱いて―最後には、必ず大きな後悔と絶望を感じて夢が終わること。

そして―今日、世界史の授業の時に、夢の内容がフラッシュバックして、それが夢なのか現実なのか区別できないまま、夢で見たことがない光景までありありと浮かんできて―

やがて『あの人』が捕らえられ、火刑台に火を付けられたときに、身を切り裂かれるような、強い感情を感じて、そのまま気を失ったこと。


―まるで、そこにいるのが『私』である気がして、どうしようもなく怖かったこと。


口にすると気が触れていると思われる、と思っていたことを、すべて話した。

いつの間にか飲み干していたホットミルクを持つ手を、母が両手で包み込むように握ってくれていた。


すべてを話し終わったら、母は静かに語り始めた。


「…マリーちゃん。マリーちゃんが、どうしてそういう不思議な夢を見るのか、私には分からないわ。でもね、今の話を聞いて、思い出したことがあるの。」

「…思い出した、こと…?」

「えぇ。ねぇ、マリーちゃんが大切にしてた絵本があるの、覚えてるかしら?」

「―絵本…?大切にしてた…」

「実はね、マリーちゃんがまだ小さい…3歳くらいかしら、言葉も増えてきて、いろんなお話を読んでってせがむようになってきた頃に、本屋さんで絵本を選んでたの。それこそ、シンデレラとか白雪姫とか、女の子が好きな物語を買ってあげるつもりだったんだけどね、その時にマリーちゃんがどうしてもこれがいい、って言ってね。」

「…全然、覚えてない…」

「ふふふ、もう大泣きするものだから、『とても難しくて悲しいお話だけどいいの?』って何度言っても、『どうしてもこれがいい』の一点張りで、買ってあげたのが…」


何か、予感がする。


「―まさかそれって…」

「そう。『ジャンヌ・ダルク』のお話だったの。」

「…!」


まさか

そんなことって…


「最初はね、フランスを救ったジャンヌに憧れたのかな、って思っていたの。シンデレラに憧れるのと同じようにね。でも、マリーの反応は全然違った。読んでほしいってせがむんだけど、毎回、涙を流しながら聞いてるのよ。『ジャンヌ…ジャンヌごめんね』って繰り返しながら。」

「―っ!」

「子どもって感受性が強いから、ジャンヌに同一化して、自分のことのように感じていたのかもって思ったりもしたわ。でも、いくら絵本でもね、やっぱり歴史を学ぶための絵本だから、ジャンヌが捕らえられて、異端審問を受けて判決を受けて火刑に処されるところまで描かれているの。私が最後まで読もうとすると、必ず止めようとするの。読むたびにうわごとのように『助けられなくてごめんなさい』って繰り返してね…。それでも、やっぱり寝る前には必ず『お母さま、読んで?』ってせがんできてたのよ」

「…そんな…ことって…」

「でも、だんだん私も心配になってきて、結局その絵本は隠してしまったの。そのままだとマリーちゃんが壊れてしまうと思ったから…。もちろんあなたは大泣きして、返して!って何度も言ってきたけど、ね。代わりに私が絵本を参考にしてジャンヌのぬいぐるみを作ってあげると、何とか機嫌が直ってね。それ以降は、どこへ行くのもジャンヌのぬいぐるみと一緒だったわ。」


うまく反応できない。

それくらい、衝撃的だった。

全くと言っていいほど、母に言われたことは覚えていない。


絵本のことも、その時の反応も。


でも、ぬいぐるみのことはだんだんと思い出してきた。

確かに、騎士の格好をした女の子のぬいぐるみを持っていた。

今もどこかにしまってあるはず。


そう。寝るときも、お出かけする時も―いつも一緒だった。


あれは―そうだ。『あの人』の―ジャンヌのぬいぐるみだったんだ。


「私はね、今日のマリーちゃんの話が、小さい頃の絵本の内容が無意識に刷り込まれていただけだ、なんて単純に思えないわ。まるで、絵本を読んであげた時の反応そのものだもの。不思議なことだけど…まるで、遠い遠い昔も記憶を、マリーちゃんがまだ持っているようにも感じたのよ。」


母が、私の手を強く握った。


「マリーちゃん。マリーちゃんも私も、フランスに縁があるでしょう?何か、それが関係あるんじゃないのかしら。」


母の、深い青の瞳がまっすぐ私を見つめる。

おばあさまの祖国―フランス。


何か、あるのかもしれない。


「ありがとう、お母さま。私―おばあさまにも話してみます。」

「ええ。それがいいと思うわ。」


祖母の厳しい表情が思い浮かび、ピッと背筋が伸びる気がした。


母から聞いた、私の昔のこと。

なぜか、そのことも覚えていないけど―なにか、手がかりであるように感じる。


―あなただったのね、ジャンヌ―


遠い昔、わずか19年の短い生涯を終えた、救国の乙女に思いをはせた。

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