お決まりクック

 一人暮らしを始めてまず最初に痛感したのは、毎日の食事のことだった。

 数日はコンビニ弁当やお惣菜を買って済ませていたのだが、それだと出費が重なるばかりだった。自炊を続けるかどうかはともかく、少しでもいいからできるようにしておくべき、と思ったのだ。

 できるけどやらない、のと、できないからやらないでは、やはり違う。選択肢は多い方が良いに決まっている。


 そんなわけで僕は、近所にあったお料理教室を偶然にも見つけ、その足で入ってみた。


 話を聞くだけ……のつもりだったのだけど……、


「あら、若い男の子とは珍しいですね――こんなおばさんの隣で良ければどうぞ」


 いくつものシンクが並べられていた部屋だった。黒板と教卓があるので、本当に学校の教室のようで……、先生らしき女性が教卓の前にいて、隣の椅子に僕を促してくる。


 おばさん、と自覚しているようだけど、まだお姉さんでもいける見た目に見える。


「あの……お休み中のようでしたけど、いいんですか……?」

「お休み中だったけど、いいのよ。仕事中に話しかけるのも尻込みするでしょう?」


 それはそうだけど、その場合は予約をして後日にあらためる、つもりだった。


 見回しても教室には誰もいない。僕と、先生だけだった……、ちなみに定休日というわけでもなく、単純にまだ生徒がいないのだろう。


「あなた、お名前は?」

畑山はたけやま、です」

「農作物が似合いそうね」


 それは初めて言われた。料理人目線だとそういう印象なのだろうか。


「私は水川みずかわ、と言います。まあみなさん、『先生』としか呼ばなくなりますので、覚える必要はないですよ。私よりも料理を覚えてくれればそれでいいわけですから」


「いえ、先生の名前も覚えますよ」

「あら。みなさん最初はそう言いますよ?」


 笑顔だけど笑っていないよな……?


「呼んでくれる方は、もういませんからね……」


「低いトーンで言わないでくださいよ……大丈夫ですよ、先生、と呼ぶ方が短くて楽なだけで、生徒さんが先生の名前を忘れているわけではないですって」


「そう、なのでしょうか……」


 そうです! と力強く言っておいた。

「はいはい、そう思っておきますよ」と引っ掛かる言い方だったが、調子を取り戻してくれた水川先生だった。


「それで畑山くんは、料理を覚えたいのですか?」


「はい。まあ、軽く自炊ができるくらいに、と思っています。本格的なものではなくて、ある程度の基礎というか……、食費の節約が目的なので、安くてたくさん食べられる料理を覚えられたらな、と思っていて……」


「では、ここで軽く料理をしてみますか? 幸い、冷蔵庫の中に食材がたくさんありますし、今日は教室をお休みにしましたから」


「え」

「なんてことない理由ですよ。生徒の方々がこられなくなった、というだけですから」


 水川先生に問題があった、わけではないようでほっとした。

 彼女の傷心中に突撃してしまっていたらと思うと、申し訳なかったし……。


「あの……ちなみにおいくらに……」

「体験教室ですので無料ですよ。請求なんてしませんから安心してください」

「それなら――体験してみていいですか?」


 どうぞこちらへ、と促してくれる先生についていき、シンクの前に立つ。

 手を洗い、エプロンをつけ、料理をするための最低限の準備を整えたところで、水川先生がぱんっ、と手を合わせた。


「それではなにができるのかな――お料理教室を始めましょう!」

「え、なにができるのか分からない、ですか?」


「畑山くんは、ですね。まあ調理の過程で分かるかもしれませんけど。出来上がりが分かっているよりも、なにが出来るのか分からない方が面白いじゃないですか?」


 分かっている方がレシピや過程を覚えるのでは……、


「何度も作って覚えるものですよ。一回教わっただけで完璧に作れるわけがありませんからね。どうせ何度も作るのですから、最初にしかできないこういう遊びを入れた方が面白いと思いませんか、畑山助手!」


「僕は助手なんですね……生徒ではなく?」

「助手はほとんど生徒みたいなものですよ」


 と、いうのは水川先生の解釈である。


「さて、まずは野菜を切っていきましょうか――包丁を持ちます」


 包丁を手に持った水川先生が人参を取り、まな板の上に置く。

 刃を人参に食い込ませながら、


「そう言えば助手くん」

「はい?」


「さっき私が『こんなおばさんの隣で良ければどうぞ』と言った時、私の『おばさん』に訂正を入れませんでしたよね?」


 時計の秒針が止まった気がした。


「…………まあ、そうですね」

「なるほど、助手くんからすれば私はもうおばさんだ、と……へえ」


「あの、包丁を持ったタイミングで言わないでくれますか?」


 とんっ、とまな板の上の人参が真っ二つに切れた。


「――あぁっ!? ごめんなさい痛かったよね!? 痛かったですよね!? ごめんなさい分かっているんです刃物が肉を抉る感覚と痛みくらい私だって分かっているんですよぉ!!」


「せ、先生!?」


 真っ二つになった人参に頬ずりをしながら謝罪を繰り返す先生に、ちょっと引いた。


「お、落ち着いてください先生! これっ、食材です! 牛や豚を殺すことに抵抗があるなら分かりますけど、野菜にまでそれをしていたらきりがありませんよ!」


「きりがなくてもやるんですよ! 全ての命、食材に感謝をしていただきますを言う――習いましたよね!? 食べることだけでなく私たちの身勝手で加工をすることにもきちんとお礼を言い、謝罪を繰り返すべきです! それができないならするべきではない!!」


 先生が人参をさらに細かく切っていく……先生はもう途中から泣きながら、「痛いよね……痛い、痛い、痛いって分かっています――でも切っています、ごめんなさい……」と、目を真っ赤にしていた。


 切っているのは人参だよね? 玉ねぎじゃないよね?


 あと気になったけど、涙を流して謝ってはいても、それだけだった。謝っているから逆に、刃を入れることに躊躇がないとも言える……、罪悪感を払拭するための儀式を挟んで加工をしているから、食材側よりも自分のことばかりに目がいっている気がするけど……。

 元より必要な行程ではないのだ、疲れるのは先生である。


「はい、助手くん、あなたも野菜を切ってみましょうか。切り方は分かるかしら、それくらいは学校で習うわよね?」


「まあ、はい……」


 手に取ったのは玉ねぎだ。僕は食材を想って泣くことはできないので、せめて玉ねぎの力を借りようと思ったのだ。

 じっと見られている先生の圧にびくびくしながら、僕は食材に刃を入れていく。


「ごめんなさい、痛いと思いますが、少しの辛抱です……今、ぐっと深く入れますね、ぐっと――」


「もうすぐですよ、もうすぐで刃が抜けますからね……――はーい、抜けましたー」


 ごとり、と玉ねぎが真っ二つに割れた……、疲れる。


「よくできました」

「これ、毎回、言うものなんですか……?」


「当然です、全てのものに感謝と謝罪を込めて利用させてもらう――最低限の礼儀ですよ?」


 はあ、と頷く。

 まあ、その言い分が理解できないってわけでもないし……。


「助手くん、野菜は私が切っておきますので、お肉を用意してくれますか――」


 冷蔵庫を指差され、先生の指示通りに向かい、扉を開ける。


「助手くん、冷蔵庫を開ける前に一礼は?」

「……これは機械ですよ、野菜とは違うと思いますが……」


「全てのものには感謝と謝罪を込めてから利用しましょう」


 なんだこれ、お料理教室の皮を被った宗教だったりするのか?


「助手くん」


「はい、分かりましたよやりますから。……一礼をしてから――すいません開けますね、痛いでしょうけどがまんしてください――」


 痛いのか? と思いながらも冷蔵庫の扉を開ける。


 あとさっきから気になっていたけど、先生も僕のことを助手くんとしか呼んでいないじゃないか。僕の名前が畑山だってこと、覚えているのかな?


「先生、お肉、ありました」

「はい、ではこちらに持ってきてください」


「……持ち出しますね、寒いところからちょっと温かいところにいきますけどがまんしてくださいね――はい、いま出ましたー」


「助手くん、分かってきましたね」


 この教室のルールに順応できてきている……料理ってこんなにしんどいの?


「それではお肉も切っていきましょう」

「もう切らずにこのままでも良い気がしてきましたけど……既に小さくなっていますし」


 いちいち感謝と謝罪を言いたくない……面倒くさいから。


「そうですか? 少し大きいですが、まあ喉に詰まる大きさではないですしね」


 言って、てきぱきと料理を進める水川先生……、

 彼女の独り言を隣で聞きながら手際を見ていくと、あ、カレーなんだなと分かった。


 それから先、僕の手が必要な場面はなく――きっと先生も僕の興味が薄れたことを感じ取ったのだろう、面倒な部分を任せて料理自体を嫌いになるよりは、出来上がったカレーの美味しさで勝負をしよう、という魂胆なのかもしれない。


 この教室を続けるかどうかはともかく、美味しそうな匂いが漂うカレーくらいは食べて帰りたいものだった。


「できましたっ、助手くん、二人で食べましょうか!」

「そうですね――」


 もちろん、感謝と謝罪を忘れずに――いただきます。

 カレーを一口食べて……あれ? そこから先の、記憶がない。


 ―― ――


 痛みはなかった。

 だけど確実に抉られ、切られている感覚はあった……。


「せ、先生……?」


 薄暗い部屋、だけど高い天井近くにある窓から差し込む光でなんとなく部屋の構造が分かる……そして、包丁を持ち、僕の下半身を血で染めているのは、水川先生……っ。


「先生ッ、あつ痛ッ、なに、を、なにしているんでげがッ!?!?」


 激痛が視界を真っ赤に染めた。


「ごめんなさい、痛いでしょう、痛いのは分かっているんです、だけどごめんなさいすぐに終わりますから――あと少しで、ほら、取れますから……」


 なにを、とは聞けなかった。


 僕の下半身には既に、ほとんどの肉がなかったのだから。


「せ、ん、se」

「感謝と謝罪を込めて助手くんを使わせてもらいます……えっと……畠山くん」


 気持ちと言葉さえあればなんでもしていいわけではないです。

 いくら気持ちを込められても、痛いものは痛いし、つらいことに変わりはないですから。

 あなたの罪悪感を払拭するための言葉は、僕たちのことなど一切考えていない。


 一から十まで、あんたの――お前の、自己満足じゃないかッッ!!


「また一人、私の名前を呼んでくれる子が、いなくなってしまいますね……」


「あんただって僕の名前を間違えているじゃないか! 畠じゃなくて畑なんだよッ!!」


 ごめんなさいね、畑山くん――という謝罪には、なんの重さも感じられなかった。

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