36 義妹を守る男
今すぐ泣きたいくらい怖いし痛い。
でも虚勢を張っていられるのは柊のおかげだ。
柊がいるから。柊が泣いているから。
自分は折れるわけにはいかない。
柊がいなくなってしまう方がよっぽど怖い。
だから、まだ倒れるわけには……。
「離せええええええええ!!!!」
杏一が必死に抵抗するも拘束を解くことはできない。
男は一方的に拳を振り上げる。
「んだその顔はよぉ! 気持ちわりいしイライラするなぁ!」
顔面を殴打が襲う。口が切れて鼻血も噴き出る。
それでも杏一は倒れない。アドレナリンがどばどば出ているせいか、単にプライドか、杏一は気力だけで立っていた。気持ちを絶やさず意識を保った。
「……へへ。気持ち悪いなんて言われ慣れてんだよ」
「こいつ、いかれてるな。ははっ、殴りがいがあるぜ!」
男は面白がってまた殴る。
だんだん痛みも感じなくなってきた。
「おにぃちゃんもういいよ! やめて、死んじゃう! 私がこの人たちの言うこと聞くから許し……きゃあ!」
「おい、喋らせるなって言っただろ」
「噛んできたんですよ。このっ」
「んんんんんんんんんんんんんんんんんん!」
柊が取り押さえられる。
柊は自分を犠牲にしたいようだが、その願いだけは叶えてあげない。
「……へ、平気だ、柊。俺が守るから」
杏一は瞳に憎悪を宿して睨みつけた。
敵はただの人間だ。ナイフも持っていないただの男。
痛いのを我慢すれば立っていられる。
「はっ、てめえに何が出来るんだよ。堪らんなその何もできない目。柊に惚れてんのか? しゃーねぇから一回ぐらい練習でヤるの許可してやるよ。大事な商品だからな」
「……っ、黙れ!!!!!!!!!!」
怒りはとっくに沸点を超えていた。
今すぐぶん殴って喋れないようにしてやりたい。
「へっ、黙らせてみろや!」
ボコッ、ボコッ、ボコッ。
腕を、足を、胴を、サンドバッグのように殴られる。
たちが悪いことに加減して殴っているのか痣が出来る程ではなく、何かあった時に言い逃れできるようにしている。おそらくやり慣れているのだろう。
人の心を折るのに最低限の力で最大限の恐怖を与える方法だ。
「ちょ、ちょっとやり過ぎでは?」
杏一が痛がることすらしなくなると取り巻きの一人が言った。
「オレはこういう自分の立場を分かってねえガキが一番嫌いなんだよ。徹底的にここで潰す」
……正直、杏一は自分が何をされているのか分からなかった。
ただ柊と楽しく花火を見て気持ちを伝えようとしていただけだ。
なぜ殴られているのか、なぜ痛い思いをしなければならないのか。
一見、災難で本当に無駄なことに思えてくる。
我慢ももう限界だ。
それでもこれにはきっと意味がある。
柊が笑っている未来に、この不安は必要ない。ここで完全に打ち消す機会を得たと思えばむしろラッキーだ。
問題は、どう切り抜けるか……。
「そろそろ一発本気で殴ってみるかぁ?」
朦朧とする意識の中で、男の拳が迫ってくる。
嫌なくらいスローモーションだ。
脳には映像のように柊のいろんな顔が思い浮かぶ。
走馬灯だろうか。こんな時なのに、自分のことより柊のことばかり考えてしまう。
(ごめん、柊)
自分はもうダメかもしれない。
助けてあげられなかった。
強がってみたけど所詮子どもだった。
この逆境を乗り越える一手は何も…………。
「だあああああああああああ!」
諦めかけたその時、杏一の耳にうるさいくらいの渇が届いた。
たったったと地面を駆ける音、次いで男の呻き声。
拳が杏一に届くことは無かった。
その正体は、
「ひでぇ面してんな、杏一」
「柊さんの前でみっともないですよ、杏さん」
「……伊織? ……栞? ……なんで?」
男を横からタックルして吹き飛ばした伊織。
そして杏一を拘束していた取り巻きAに飛び蹴りをかまして救ってくれた栞。
杏一は伊織に肩を借りてよろよろと立った。
「俺たち考えること一緒だな。さすが親友だ」
伊織が耳打ちする。
花火を見るために来たら偶然……ということか。
親友であり悪友の伊織は思考回路が同じらしい。
「なるほどな……いや、マジで助かった」
「いいって、柊ちゃんも無事だぞ」
見ると、栞が柊を拘束している取り巻きBに接近していた。
「柊さんを離しなさい!」
「な、なんだこのちびっ子!」
栞は取り巻きBの顎に掌打をお見舞いする。だが初手の攻撃は浅く、取り巻きBは反撃とばかりに殴り掛かった。
「危ない!」
杏一の心配は杞憂だった。
栞は軽い身のこなしで踊るようにひょいっと躱し、飛び後ろ回し蹴りで後頭部をシュート。取り巻きBは一回りも二回りも小さな栞にあっという間に無力化された。
「……あいつあんな強かったっけ」
「栞ちゃん護身術習ってるから」
「にしてもだろ」
だんだん心に余裕が生まれてきた。
仲間の存在が頼もしすぎる。
「ガキのくせに生意気な!」
取り巻きAが起き上がった。だがこれも、
「おっと、サッカー部なめんなよ。お前ボールになりたいのか?」
伊織が脇腹に蹴りを入れて膝をつかせた。
取り巻きAは嗚咽して地べたを転がる。
「足使っていいのかよ」
「俺はボールを蹴っただけだ。それに正当防衛だ」
さすがエースなだけある。
日々しごかれている肉体は伊達じゃない。
あっという間に立場は逆転し、数的優位の状況だ。
柊も傷一つついていない。
泣き崩れるように抱き着いてきた。
「うっ、うげぇ……げほっ、おぇ……うええええん!」
「大丈夫だよ、柊。もう終わるから」
「……おにぃ、ちゃん。……おにぃちゃん!」
柊がえんえん泣いている。
よしよしして、杏一は残る一人に向き合った。
あと一人だ。
これで柊を本当の意味で救うことが出来る。
初めて会った日の顔は今でも忘れない。
すべてに怯えて苦しんで泣いていたあの顔はもうさせないと誓った。
「……っでて。んだごらぁ! 大人舐めんなよガキどもが!」
頭に血が上った様子の男は鬼の形相で睨みつけてくる。かけていたサングラスを投げ捨てた。
「うぅ……ぐすっ」
「柊、待ってろ。あとそれ貸して」
ポンポンと撫でて、柊が大事に持っていた水ヨーヨーを受け取る。別にふざけているわけではない。
「三人だろうが関係ねえ。全員オレが泣かせてやる」
「勘違いすんな。お前の相手は俺だ」
杏一は一歩前に出る。
もう震えは止まったし呼吸も落ち着いた。
これでようやく同じ土俵。一対一のタイマンだ。
意地でもやらなければならない。
かっこつけてでも杏一が解決しなければならない。
というか、そうしたいというエゴだ。
これだけは譲れない。
「てめえが? 笑わせんな!」
──勝負は一瞬だった。
男が右手の大振り。
杏一は迷わず一つの動作に全神経を集中させた。
水ヨーヨーを振りかぶり、顔面に向かってぶん投げる。
「ぐをぉ!? な、なんだ!?」
バシャン。破裂して水が飛散する。
小細工だがこの男に比べれば可愛い手段だ。杏一はただの高校生だが、柊のためなら何にだってなれる。
たった一瞬、隙を作ることさえ出来れば、
「酔いは醒めたかよ!」
杏一はすかさず姿勢を低くし、腰に体当たりした。
男は頭から転んで押し倒すことに成功する。
杏一は馬乗りになって胸ぐらを掴んだ。
「柊に謝れ馬鹿野郎!!!!!!」
拳を振り上げ、杏一は地面を殴った。
男の顔の真横に拳を落とす。
「お前のせいで柊がどれだけ泣いたか分かってんのか!」
血が滲むほど殴った。
何度も何度も手がいかれるくらい地面を殴った。
柊はきっと、望んでいない。
こいつをいくら殴ろうが喜んでくれない。
むしろそれがトラウマだ。
自分のそんな姿は見せられない。
「わ、わかった! 謝るから、もうやめろって」
「うるせえ! 俺の柊に二度と関わるな! うらあああああ!」
杏一は我慢できず、一回だけ頭突きした。
怒りも柊への想いも全部乗せて。
「はぁ、はぁ……頭かち割るぞこのクズ野郎!!!!」
「……でて。わ、わわ、悪かったよ。ほんとに、ちょっと酔ってただけだ。だからもうしない! 許してくれ、お願いだ!」
杏一の異常なまでの覇気に当てられて男は怯んだ。
杏一は歯の三本ぐらい折ってやろうかと思ったが思いとどまり、首根っこを掴んだまま男を立たせる。
柊の方を向かせると、
「す、すまん柊。そ、それと冬乃にも……すまん!」
男は頭を下げて謝罪した。
今は龍の刺青も耳ピアスも何も怖くない。
これ以上柊の視界に入れると目に毒なため、最後にもう一度叫んで立ち去らせる。
「柊に手ぇ出すなら俺はお前らを地獄まで追いかけて潰すからな! 高校生だからって舐めんなよ! 俺は本気だ!」
「わ、わかった……お、おいてめえら、帰るぞ!」
男は取り巻きたちを連れて立ち去った。
一人気絶した者を担いで、三人は逃げるように撤収した。
ようやく脅威が去ると、杏一は全身の力が抜けたように足から崩れた。
「おにぃちゃん!」
柊が支えてくれる。
その温もりが、柊を守った証だった。
「おにぃちゃん! おにぃちゃん! おにぃちゃん!」
「聞こえてるよ、柊。無事でよかった」
柊はただ連呼して泣き叫ぶ。
杏一はそんな柊を抱きしめながら栞と伊織に目を向けた。
「……さんきゅ」
「何言ってんだ。当然だろ」
「はい。本当によかったです」
二人が拳を作って差し出してきたため、杏一もゆっくり手を持ち上げてコツンとぶつける。
「……ぃで。大丈夫かな? 仕返しとかされないか?」
相手は大人の中でも怖い存在。
勢いで怒鳴り散らしたが急に不安になって来た。
体の方も痛みが押し寄せてくる。
「問題ないですよ。顔は撮っておきましたし、私の家の力を使えば消すこともできますっ」
栞は笑顔でそんなことを言う。
そういえば金持ちだったが、財閥の権力は頼もしい。
「そっか。二人ともほんとにありがとう」
一人では助けられなかった。
二人は大したことしてないと言うだろうが、本当に、本当に、感謝してもしきれない。
杏一が痛みでぎこちない笑みを浮かべると二人も笑ってくれた。
「じゃあ俺たち帰るな。あんま盛り上がりすぎんなよ」
「がっつきすぎちゃダメですよ」
「う、うっせ。一言余分だ。とっとと帰れ」
そんなやり取りを交わして、伊織と栞もこの場を去った。花火はフィナーレなのか、夜空を彩るその様はまさに百花繚乱だ。
***
「……すん。…………うぅ」
花火に交じってすすり泣く声。
やっと、柊と二人きりになれた。
「柊」
「おにぃ、ちゃん」
「柊」
「おにぃちゃん」
潤んだ瞳で見上げてくる。
杏一は我慢できずに、
「ちゅ──」
キスをした。
「柊、俺の話聞いてくれる?」
「……ぅん」
トロンとした目で頷いてくれる。
心臓の音は花火のおかげで悟られない。
杏一は今、兄でいることをやめる決意をした。
兄から妹への最後の仕事だ。
それをやり遂げるまで、二人の祭りは終わらない──
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