35 義妹のトラウマ

「足痛くない? ちょっと休憩しようか」


 食べ歩きに射的と祭りを満喫した杏一は柊を気遣った。慣れない下駄で人混みを歩いていれば思っている以上に体力を消耗する。


 他にも理由はあるが、誰にも邪魔されない場所に行きたかった。


「ありがと、おにぃちゃん。そうする」

「人少ないところ行こうか。花火ももうすぐ始まるし」

「そだね。ふふっ、おにぃちゃんと見るの楽しみ」

「俺もだよ。ほら、足元あしもと気をつけて」


 握っていた手を離して腕組に切り替える。

 柊が右手でぎゅっと抱き着いてくれて、左手で水ヨーヨーをぽよんぽよんさせた。杏一は体を寄せて頭をコツンとくっつける。


「行こっか」

「ぅん」


 一緒に人気の少ない方へ行く。花火の打ち上げは近場の浜で行われるのだが、海岸で見る人や近くの公園にある高台で見る人、ここの神社でワイワイしながら見る人など様々なスポットがある。


 杏一はそれらのメジャースポットを外して神社の裏に回ることにした。木々が植わっていて小さい頃は鬼ごっこをしたこともある。散歩コースにもなっていて、所々に休憩用のベンチが置いてあるため二人きりになりやすいのだ。


 祭りの喧騒から離れると風で葉の揺れる音が心地良く響いた。邪魔する者は誰もいない。




 ……はずだった。




 柊とくっついたまま歩いていると男性三人とすれ違う。


 一人の男が黒いスーツを着た二人を子分のように引き連れていた。その親玉は煙草をふかしながら龍の刺青の入った服を着るという、いかにもな格好の男。サングラスをかけて耳にはピアスが四つずつ。スキンヘッドで筋肉質な大男だ。酒の臭いも鼻孔を刺激する。


 目を合わせるのも畏怖するような風貌に、杏一も下を向いた。


 柊の腕をしっかり組んで、このまま通り過ぎ……


「あ? ちょっと待て」


 横を通過した瞬間に男が声を発した。

 心臓が跳ねる。


 ちょうど一発目の特大花火が打ちあがったが掻き消してくれない。遠くで歓声と拍手も聞こえてくるが、この場の雰囲気は真逆だった。


 杏一は自分たちに話しかけていないことに賭けて足を速める。


「待てっつってんだろ」


 が、肩を掴まれた。

 クマにでも掴まれたような大きな手。

 心臓を直接握られたような悪寒がした。


冬乃ふゆのか?」


 人違いであって欲しいと願った。

 だが不幸なことにそうではなかった。

 冬乃というのは母の名前だ。

 つまり、この男は……。


「冬乃……はもういい年だもんな。じゃあそっちの女は、冬乃のガキか。名前なんだっけ」


「──っ」


 柊がカタカタと震え出す。気づけば遊んでいた水ヨーヨーは静かになっていて、爪が食い込むくらい手を握って来た。過呼吸になるほど異常をきたしている。


「だれっすか?」と、取り巻きが聞く。

「四人前の嫁だ。いや……五だったかな?」


 と、柊の実父が答える。断片的にしか聞いていないが、間違いなく柊にトラウマを植え付けた張本人だ。


 柊を人間不信にさせて、絶望に追いやった男。

 ただでさえ杏一も怖いのに、柊の様子がおかしくなるのは当然だった。


「どんだけいるんすか。さすがっすね」

「十年以上前だけどな。良い女だったが逃げられた。ははっ……ひっく」

「飲みすぎですよ。てことはお子さんですか? 感動の再開っすね」

「ああ。おい、もっとよく顔見せてくれよ。随分良い女になったじゃねえか。ちょっと殴ったぐらいでビービー泣いてたのに大きくなったもんだ」


 男が手を伸ばす。

 柊の髪に触れる直前で、杏一は男の腕を掴んだ。

 まるで大木みたいだ。


「なんだぁ? この手は」

「柊に触らないでください。怖がってます」


 柊は杏一の後ろに隠れてしがみついた。

 手の振動が布越しに伝わってくる。


 男はサングラスの内にある眼光を飛ばしてきた。


「娘に触るのは自由だろ。オレをあまり怒らせるな?」

「もうあなたの娘じゃないです。お願いですからお引き取りください」


 敵は大人三人。

 引いてくれるのなら靴だって舐める。

 それが柊を守るためなら。


「声震えてるぞ? お前こそ誰だ、関係ないだろ」

「柊は俺の一番大切な人です。もう柊に関わらないでください」


 杏一は一生懸命頭を下げた。

 しかし刹那──腹部に衝撃が走る。

 どしんと重い音が響いた。


「がはっ──!?」


 腹の中を混ぜられたような鈍痛。

 男の膝をもろに食らい、杏一は地に手をついてうずくまった。


「かっこつけんなって。柊、だったっけ? 久しぶりだな」

「ぐすんっ……、おにぃ、ちゃん」

「ん、こいつお前の兄なのか? 二人孕ませた覚えはねえぞ」


 短時間だがこの男がクズだということは痛いほど分かった。


 杏一はなんとか立ち上がって柊の手を握る。

 絶対に倒れるわけにはいかないのだ。


「柊……走って。……逃げるよ」


 手を引いて足を動かす。

 右足、次に左足を前に出そうとしたところでひっかけられた。

 杏一は無様に顔面から転倒する。


「ははっ、高校のガキがしゃしゃってんじゃねえよ」


 男は杏一の手に唾を吐いた。

 柊の頭を強引に掴む。


「なぁ、柊。父ちゃんのとこ戻ってこないか? また二人で仲良く暮らして俺の店で働けよ。お前の身体ならたーくさん稼げるぞ」


 ヤの付く人とかそっちの人間だと思っていたが違うらしい。でもそんなことはどうだっていいことだ。この男は気に食わなければ息をするように暴力を振るう。


「今日も探しに来たんだがなかなかいい女がいなくてな。お前なら合格だ」


 柊の頬に指が触れる。

 柊は抵抗できず涙をぼたぼたこぼした。


「ぅぅ……なさい。……ごめん、なさぃ」


 怖い記憶というのは無くならない。

 幼少期に植え付けられたトラウマは一生心を蝕み続ける。


「泣き虫は相変わらずか。躾けもしねえとな」


 柊の顔色がみるみる青に変わっていく。

 呼吸の仕方を忘れたように肩で息を始めた。


「……ゲホゲホ。はぁ……ハァ……! うげ……、ぉにぃ、ちゃん」


 その嘆きは地に這いつくばる杏一の耳にも届いた。

 その声が、杏一に勇気を与えてくれる。

 自分がここにいる意味を教えてくれる。


 柊が、呼んでいる。


 柊が、悲しんでいる。


 柊が、柊が、柊が、柊が。


 ……柊が、泣いている。


「触るなって言ってんだろ!」


 杏一は男の足に突っ込んでタックルを決めた。男は尻もちをついて、柊から引き剥がすことに成功する。


 だが相手は一人じゃない。

 杏一には隠された力も特別なギフトも無いのだ。


「柊! 逃げろ!」


 ただ妹のために。兄として。

 そして愛する女のために。一人の男として。

 大好きな大好きな柊を守らなくてはならない。


 たったそれだけだが、杏一が立ち上がるには十分すぎる理由だった。


「お、おにぃちゃん……!」


 柊は腰を抜かしてしまったらしい。這うようにして逃げようとするも、杏一が稼いだ一瞬の時間は無に帰す。


「くそ、このガキィ! おいてめえら、ボーっとしてんじゃねえ!」

「で、ですが、子どもっすよ?」

「オレに逆らったんだ。てめえらも死にてえか!?」

「い、いえ!」


 一対三。勝てるはずもない。

 杏一は背後から捕えられて両腕を拘束された。

 大人二人の力で抑えられては身動きが取れない。


「はっは。ざまあねえな。ヒーローごっこはもう終わりだ」


 男は立ち上がって拳をボキボキと鳴らす。


「や、やめて! おにぃちゃんをいじめないで! お願いだから、お願いだからあああ!」


 ボゴッ──

 柊の叫びは虚しくも届かない。

 杏一の鳩尾に拳がねじ込まれた。


「ぐああああ!」


 体にかつてない痛みが走る。

 上手く呼吸が出来ず、脳に酸素が届かない。


「やだ! やだ! やだああああ! おにぃちゃん悪くないもん! やめてよおおおお!」

「ちっ、喚くな。叫んだって助けは来ないぞ。おい、一人黙らせとけ」


 取り巻きの一人が柊の口を封じた。

 苦しそうにむごむご言う事しかできなくなる。


「……ぐ、柊に触んなよ。俺の柊を泣かせるな!」

「まだ意識あんのか。苦しい時間が続くだけだ、ぜ!」


 また一発。胃液が口まで届く。


「ぐぅぅぅぅっ! かはっ……頼むから、柊はもう放っておいてくれ」

「死にてえのか? いいから寝とけって。柊はオレの物なんだよ」


 それを聞いて、杏一の中で何かがぷつんと切れる。

 はらわたが煮えくり返りそうなほど怒りが湧いた。

 殺意にも似た感情が渦巻く。


「物じゃねえよ。ふざけんな。柊も母さんも泣かせやがって……お前だけは許さねえ!」


 今すぐ泣きたいくらい怖いし痛い。


 でも虚勢を張っていられるのは柊のおかげだ。


 柊がいるから。柊が泣いているから。


 自分は折れるわけにはいかない。


 柊がいなくなってしまう方がよっぽど怖い。


 だから、まだ倒れるわけには……。

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