26 義妹以上、恋人以下

 今朝ぽつぽつと降っていた雨はざあざあと本降りになっていた。


 傘をさせば頭と上半身は防げるが、ズボンは湿り靴下はぐっしょりになっている。


 夏だから寒さは無いものの、水分を吸って肌に張り付く服は不快でしかない。


 それでも杏一はお構いなしに走った。

 水溜まりをばしゃんと踏んで重くなった足を動かす。


 夜に運動しているおかげか息切れはしなかった。

 学校から離れるにつれて人気は少なくなり、車の音も減っていく。


 ザーザー。ザーザー。

 バシャン。バシャン。


 ただ雨の音が邪魔だった。もう七月なのに五月蠅い。


 気持ちに余裕のある時はゆっくり時間が流れているみたいで好きだが、今はただ急かされているような気がして嫌だった。


 雨はいつでも同じように降っているのにおかしな話だ。自分の都合で勝手に嫌われて好かれるのだから泣きたくもなるよなとか、そんなことを思った。


 そうこうしているうちに到着。

 目指した場所は公園だ。そこ以外ありえないと思っていたが正解だったらしい。


 公園に入ると傘もささず俯いたままブランコに座る柊がいた。


 寂しくなるとここに来るのは変わらない。逃げているのに本当は見つけて欲しい我儘な子なのだ。


「柊」


 最初に出した声は雨に負けて消えてしまう。

 キコキコというブランコの鎖が擦れる音も今日は聞こえてこなかった。


「柊!」


 負けないようにもう一度叫ぶ。

 聞こえているはずなのに、柊は地面を見つめたまま微動だにしない。だったら、


「柊、一緒に帰ろ」


 杏一は柊に傘をさすと泥水の地面にお尻をつけて座った。汚れるのは構わないし、すぐには帰れないと思っての行動だ。こうすれば柊の顔もよく見える。


「……なんで、来たの」


 柊の唇が小さく動いた。

 表情と同じく消え入りそうな声だ。


「俺もブランコ乗りたくてさ、来たら柊がいたんだよ」

「うざい……ほんとにうざい」

「そうかもな。俺も自分でそう思う」


 言いながら、口や目にかかっていた柊の髪をはらってあげた。目は赤く腫れていてたくさん拭った跡がある。杏一はもう少し早く来てあげたかったと思った。


「……うっ、ぐすん…………」


 柊の足元にしとしとと雫が落ちて波紋を作る。

 隠そうともせず、瞼からこぼした。


「……あぐ、泣いてなんか……ないもん」

「わかってるよ。今日は雨強いもんな」

「バカ……おにぃちゃんのバカ」

「……ああ。バカな兄ちゃんでごめんな」


 杏一は嗚咽混じりに吐露する妹の頭を撫でた。

 ポンポンと叩いて笑いかける。

 子どもをあやすようによしよしすると、


「うざい……おにぃちゃんはうざすぎるよ! なんでそんなにうざいの!」


 ぼたぼたと、次から次へと雫が落ちる。


 前が良く見えないだろうから指で拭ってあげても柊はすぐにぐしゃぐしゃにしてしまった。


 やめてよと手で払われるがやめてあげない。


「うざいうざい。うざいよ!」


 何度も言われてしまう。


「バカぁ……! おにぃちゃんのアホぉ!」


 大好きなおもちゃを取り上げられた子供みたいに、えんえん泣き叫んで溜まった感情を吐き出した。


「私悪くないもん! おにぃちゃんのせいだもん!」

「そうだな。柊は頑張ったもんな」

「うざい……うざぃ……」


 何年も閉ざしてきた想い。今日の一件はきっかけに過ぎないのだ。溜めてきた想いが一気に決壊して自分を保てなくなってしまったのだろう。


 それは杏一も似ているからよくわかる。自分が逆の立場だったら同じように泣き崩れていたところだ。


 撫でていると、柊がポカポカと腕を叩いてくる。

 その反抗は力が入っていなくて弱々しい。

 何度も何度も泣きじゃくりながら攻撃してきた。


 でも最後に、柊はようやく口にしてくれた。

 前にずるして聞いたが、やはり面と向かって言われるのは嬉しさが違う。


 ずっとずっと聞きたかった言葉で、懐かしい言葉。

 たった一言なのに、杏一を救ってくれる言葉だ。



「でも…………好き。おにぃちゃん大好き!」



 バサ──っと傘が舞う。

 柊がブランコから降りて杏一に飛びついた。


 雨に打たれても傘は拾わない。

 杏一も腕を回してぎゅっと抱きしめる。


 自分たちの関係や年齢や想いなんて気にせず、今はただ抱きしめていたいから触れ合った。


「うぅ……おにぃ、ちゃん」

「柊」


 懐かしい温もりだが大人になった分だけ僅かに違う。

 杏一がぎゅっと力を込めると、柊もぎゅっとやり返してくる。

 そうして全身雨でずぶ濡れになると、柊は耳元で振り絞るように囁いた。


「もぉ……おにぃちゃんキモすぎ。なんで私に構うの。こんなに酷い事たくさん言ってるのになんで側にいてくれるの。おにぃちゃんはほんとに変態で気持ち悪いよ。シスコンうざい」


 どんどんと背中を叩きながら言いたい放題言ってくる。

 溢れるほどたくさん言いたいのだろうが、杏一はたった一言で十分だった。


「そんなの兄ちゃんだからに決まってるだろ。柊は俺にとって世界で一番大事な人だ」


 杏一は即答した。


 御託は要らないし、今必要なのは兄だからという理由だけで十分だ。


 その先や言葉の意味はまだ確認しなくていいとお互い分かっている。分かっているから、この状況を利用してほんの少しだけ本音を混ぜながら想いをぶつけ合った。


 本当は言いたいのに言えないことも、『兄妹だから』を理由にすれば伝えられる。


「私も、おにぃちゃん大事。……一番、大好き!」

「知ってるよ。絶対裏切らないから信じてくれ。俺も柊が大好きだから」

「うん……大好き。信じてる」


 柊の涙で肩が濡れた。

 背中をさすってあげると柊は続ける。


「でも、今日のはおにぃちゃんが悪いんだよ。違うってわかってるけど、おにぃちゃんは私のなんだから気をつけてよ。やな気持ちになっちゃうじゃん」


 栞と抱き合っていたことだろう。

 柊はそれを見て嫉妬すると言った。


 しかし杏一はそれを、兄を取られるのが嫌な”ブラコンな妹”と勝手に変換する。そう自分を誤魔化さなければ戻れないところまで行ってしまいそうだったから……柊の顔を見ていなくて良かった。


「そっか、気をつける」

「うん、おにぃちゃんは渡さない。私だけのおにぃちゃんだよ」

「ああ。柊も俺だけのものだから勝手にどっか行くなよ。あんまり心配させるな」

「うん! おにぃちゃん大好き!」


 柊はもう一度雨にも負けない声で叫んだ。

 それを聞いて、杏一の頬にも雨みたいな雫が伝う。

 昔はこんな風に毎日言われたセリフだ。

 あの頃は毎日のように柊を撫でて抱きしめていた。


 ……そのはずなのに、当時は抱かなかった想いが込み上げてくる。いや、その頃も想っていたはずだ。


 でも分かっていなかっただけで、今は分かりたくなくても分かってしまう。


「おにぃちゃん、苦しいよぉ」

「あ、ごめん……平気か?」


 慌てて力をゆるめる。


 どれだけ抱き合っていたか分からないが、気づけば雨は止んでいた。まだ空が黒いから一時的なものだろう。おかげで心臓の音がうるさい。


「うん、平気だよ。えへへ」


 柊の顔はお日様みたいだった。

 あんなに落ち込んでいたのに曇り一つない。

 無邪気に笑うその顔は杏一の知る柊そのものだ。


「帰ろっか」

「うん! 手繋いでもいい?」

「いいよ。柊は甘えん坊だな」

「そ、そんなんじゃないよ。だって手冷たいし。兄妹なら手ぐらい繋ぐよね?」

「そうだな。繋ぐと思──っと、なんか違くない?」


 杏一の腕に、柊はコアラみたいに抱き着いた。黒の下着がスケスケになっている胸が押し当てられる。


「いやだった? そうだよね、汗かいちゃってるし」

「そうじゃないよ。嫌じゃないからもっとくっつこ」


 誰かに見られるのを避けるためだ。

 他意はあまりない。


「やった! じゃあこうして、一緒にかーえろ」


 柊は杏一の腕を挟むように抱き着くと楽しそうに鼻歌を歌い出した。


 その様子を見て杏一も変に気にせず歩き出す。


(戻ったんだよな……。これでいいんだよな?)


 昔の関係に戻れたと思う。

 柊はこんな風に杏一を好いてくれていた。


 なら問題ない。


 これが望んでいた関係で、このまま仲良く暮らせばいい。

 ……はずなのに違和感がある。

 昔とは違う何かに侵食されそうになるのだ。


(兄妹……か)


 杏一はその答えを探そうとして、やっぱりやめた。

 今はまだこのままでいい。そう思って、幸せそうな柊とベッタリくっつきながら二人きりの家に向かうのだった。

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