25 義妹、逃亡

 杏一の指導の甲斐もあって柊は期末テストで赤点を回避した。


 杏一はいつも通りの順位をキープし、柊も二十位と大きく成績を伸ばしている。


 文系科目は相変わらず満点に近い出来栄えのためこの調子で勉強すれば上位も夢じゃないだろう。ちなみに栞は一位、伊織は後ろから十番目ぐらいの成績だ。


 学校は明日から夏休みに入る。


 そうなれば朝から晩までずっと二人きりでいられるが、杏一の気持ちに変化はない。特に期待や変な気も無いし、普通に過ごすだけだ。


 たまに一緒にどこかに行って思い出を作り、あとは扇風機に当たりながらゆったりと生活すればいい。


 そんな計画を立てながら放課後に杏一が向かった先は図書室。


 柊が先生の手伝いをしているため終わるまで待っていようと思ったのだ。約束はしていないが一緒に帰るのが当たり前になっているため今日も例外ではない。外は夏の豪雨で待つには辛いし時間を潰すならここだろう。


 図書室の中は委員と生徒を合わせても三人しかおらず時間がゆっくり流れていた。


 杏一は数冊本を手に取って奥の勉強スペースに向かう。本棚が壁の役割を果たしてくれて落ち着く空間だ。この中でかくれんぼをするならここを選ぶだろう。


(一応メッセージ入れとくかな)


 ニ十分ほどで終わると思うが待たせると怒られるため柊に居場所を伝えておく。


 イヤホンをして本を開くと、音楽を流す前に足音が聞こえてきた。


「あ、お兄さん」


 そう呼ぶのはこの学校で栞しかいない。杏一は適当に返事してイヤホンをポケットに突っ込んだ。すると栞もあら偶然と少し驚いた顔で杏一の向かい側に座った。


「相席の許可はしていないんだが?」

「えーいいじゃないですか。私もここの席好きなんです」

「まあ、お前なら別にいいけど」


 知らない奴なら遠慮したいが友達同士で座るのは自然な流れだ。


 杏一が許可すると栞は髪を耳にかけて遊ぶように聞いてきた。


「口説いてます?」

「だから違うわ。座らせねえぞ」

「ふふっ、わかってますよ。せっかく柊さんと良い感じですもんね」

「……なんで柊が出てくるんだよ」


 柊の話はしていないし良い感じとはどういう意味か分からない。だって相手は妹だ。


「あんまり言うと怒られちゃうので秘密にしてくださいよ。最近柊さんが楽しそうなので何かあったのかなーって思ったんですけど、お兄さん見て納得です」

「柊が楽しそう? 俺と関係あるのか?」

「またまたとぼけちゃって。柊さんと同じこと言ってますよ」


 とぼけているという意識はない。そんなことはないが、栞が言わんとしていることは分かる。


 でもそれはあり得ないことだ。そうに決まってるから疑う余地はない。


「ところで栞はどうして一人でここに?」

「いつも部活まで勉強してるんですよ。今日は後半なので」


 栞は吹奏楽部に所属しているのだが、音楽室は合唱部と時間差で使用しているのだ。


「なるほど、さすが学年一位は違うな。テスト終わったばかりなのに凄いじゃん」

「毎日勉強するのは当然です。ところで話を逸らさないで貰えますか」


 杏一はぎくっと言ってわざとらしく咳払いした。

 ジトーっと栞が睨んでくる。


「柊さんとはどこまでしちゃいました?」

「ぶふっ! 女の子がいきなり何言い出すんだよ」

「私はナニをとは言ってませんけど? あれれ、何を想像したんです?」

「うっせえな。図書室は静かにしろよ」


 不覚にも動揺を見せてしまった。

 栞がそこを見逃すはずがない。


「うふふ、女の子だってえっちな話ぐらいしますよ。それとも恥じらいながら言った方が興奮します?」

「お前が言ったって何とも思わねえわ!」

「へーでも柊さんのことは言い逃れできないですよね?」


 栞が唇の前に人差し指を立てて「しー」とやった。

 一段階ボリュームを落とす。


「言い逃れって……何の話だよ」

「その本ですよ。お兄さんは柊さんのことどこまで想ってるんです?」


 栞が本を手に取って表紙を見せてきた。


 料理本に混じって妹との接し方や女の子の心理、それから民法の本など確かに男子高校生が読むにしてはバラエティーに富んでいる。


「た、たまたま取ったのがそれだったんだよ」

「ふぅ~ん。そうですかそうですか。ぱしゃり」


 栞は何をするかと思いきやスマホで本を撮影した。

 顔には面白そうと書いてある。


「あ、あの栞様? 何をなさるおつもりですか?」

「え~聞いちゃいます? ぴこぴこぴっぴ、と」


 栞は柊とのトーク画面を開き、画像送信の手前まで進んだ画面を見せてきた。


「私喉乾いちゃいました~。あと甘いものの気分ですね~」

「くそ、きたねえ女だな。この悪魔め!」

「あわわ! お兄さんがか弱い乙女に酷いこと言ってきます。うぅ~しくしく」

「ちょ、わかったから押すなよ? 絶対柊には教えないでくれ」


 こんなことが知られたらキモがられるだろう。

 最悪縁を切られるかもしれないし、そうなったらお兄ちゃんとしては死ぬほど辛い。


「じゃあ教えてくださいよ。ちゃーんと柊さんのお顔を思い浮かべて言ってみてください」

「いやだから柊は…………俺も、よくわからない」


 捻りだした答えは答えではない。

 でもこれ以上の回答は現時点で提示できなかった。


 負けを認めて栞を見ると、満足してくれたのかスマホをホーム画面に戻してくれた。


「意地悪してごめんなさい。購買あと五分で閉まっちゃいますよ」

「お前パシリはさせる気なのか!?」

「それは別ですよぉ。あーお腹ぺこぺこだから間違えて押しちゃうかもです」

「わーったよ!」


 杏一は財布を取り出して席を立った。

 購買が閉まる前にダッシュで──


(行くわけねえだろ)


 今日は有耶無耶にできるが、弱みは握られたまま。

 栞という女は面白がって何度も脅してくるだろうから、完全にデータを消す必要がある。


 杏一は買いに行くふりをして栞のスマホに手を伸ばした。しかし──


「ふふっ、そう来ると思いましたよ」

「ちっ、相変わらずなんて力してやがる」


 完全に読まれて両手を掴まれた。

 そのまま押し合いになる。


「いいからそれ貸せって」

「やです。これでお兄さんを困らせるんです」

「ハッキリ言いやがったな! やっぱ性格悪いわ!」


 栞は杏一より強い。だが杏一も負けていられない。

 そこで杏一は秘策を使った。

 簡単な方法だ。押してダメなら、


「きゃっ!」


 杏一が力を抜いて手を引くと、栞がバランスを崩して女の子みたいな声を上げた。


「やべ!」


 そして杏一も動揺が口から出た。

 軽く力をいなしてスマホを奪うはずだったのに、杏一もバランスを崩して後方に傾いたのだ。


 栞が倒れてきた重みも加わり、杏一に出来ることといったら栞を抱きしめて怪我をさせないことだけだった。


 自分が招いた結果だったし、女の子に痛い思いはさせられない。


 だから杏一は栞を自分の方に抱き寄せ、背中から床に叩きつけられた。


「いっでて……おい栞、平気か?」


 頭は打たず痛みもほとんどない。

 栞が軽かったのも助かった。


「はい、なんとか。ありがとうございます」


 文字通り目の前に互いの顔があるが、栞も杏一も顔色一つ変わることはなかった。互いに異性として見ていないから、冷静に状況を確認して会話するだけの余裕がある。だが、


「まったく、お兄さんが余計な事するから」

「だってお前が脅してくるからだろ。俺は悪くねえよ」

「教室出たら追いかけて写真も消す予定でしたもん。だから私は悪く……」


 抱き合ったまま、栞はふと顔を上げた。

 杏一は上を見ているため嫌でも視界に入ってくる。


 ドスンドスンという足音が怒っているように聞こえるのは、杏一の耳が床に近い位置にあるせいではないだろう。上から、ぽたりと雨が降ってきた。


「柊……」


 気づいたときには遅かった。

 それはさせてはいけない顔だった。


「柊さん! これは違うんですよ!」


 咄嗟に栞は杏一からどいて声をかける。

 だが柊は何も聞きたくないと、髪がぐしゃぐしゃになるくらい頭を振った。


 杏一も制服を直さず起き上がる。しかしその頃には柊は走りだして後ろ姿しか見えなかった。


「柊! 待て! 待ってくれ!」


 呼んでも止まらない。

 だが、そもそも自分は何を焦っているのだろうか。

 妹に見られてダメな理由でもあるのだろうか。

 言葉を探しても言語化できない。


 ただ足音と一緒にどんどん遠ざかっていく背中が泣いていて、杏一は胸が痛くなった。


「お、追いかけなきゃ。ごめんなさい、私が調子に乗って余計な事したから……」


 栞はまるでカンニングがバレたような顔で息を乱して汗もかいていた。


 今にも泣きだしそうだし自分を責めているようだが、見当違いなため杏一は追いかけようとする栞を止めた。


「栞は悪くないから。一回落ち着いて部活行け」

「ごめんなさい。こんなつもりじゃ……ほんとに、ごめんなさい」

「謝るな。誰も悪くないから大丈夫だって」


 何も間違いではない。杏一と栞のは事故だし、杏一と柊は兄妹なのだからどこで誰と何をしようが問題ない。


 問題はないが……。


「俺が話してくる」

「はぃ……お願いします」

「心配するな。こういうのは何回もあったから」


 杏一は本を戻して荷物を持ち、再度栞を励ましてから図書室を後にした。


 靴箱に向かうと柊の靴は無かった。

 外は雨脚が強まっているのに柊の傘は放置されたまま。


 何も持たず逃げてしまったのだろう。

 そういえば昔保育園を抜け出した日も雨だった。


「ほんとに、世話が焼ける妹だ」


 杏一は荷物を靴と交換で突っ込み、傘一本だけ持って走り出した。

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