15 義妹さえいればいい。
「……ん」
夢の中で誰かが呼ぶ。
「……ぃちゃん」
三歳くらいの少女が泣いていた。真っ赤に腫らした目をごしごし擦って、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている。
「……おにぃちゃん」
まるで覚えたての言葉を忘れないように、少女は何度もそう呼んだ。
それを見た三歳の杏一は何も言わず手を握って、頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめてあげる。
そうすると少女はいつも泣き止んだが、その代わり何度も謝ってきた。
「ごべんっ、さい……ごめんなさい」
少女は謝る癖がついていた。
夜は寂しいと泣いて、
迷惑をかけるのが嫌だと泣いて、
誰かに虐められるのが辛くて泣いて、
いつも自分を責めていた。
そして優しくされるとまた泣いた。
「やっぱり、じゃまだよね。ごめんなさい、おにぃちゃん。うぐっ……ひっぐ」
「そんなこと思うわけないだろ。だから俺に謝るのはやめろって」
「ぅぅ……でもぉ」
「俺はずっと一緒にいる。絶対に離れないから」
「ふぇ……ほん、と? きらいじゃない?」
「当たり前だろ。俺は柊の兄ちゃんなんだから。一生守ってやるよ」
かっこつけて強がってみると柊はくすりと笑ってくれた。その笑顔がもっと見たくて、泣いてる顔は見たくなくて、杏一は兄になることを決めたのだ。
「もう大丈夫だな?」
「うん! おにぃちゃんだいすき! おおきくなったらおにぃちゃんとけっこんする!」
「よ、よせって、恥ずかしいだろ」
「えへへ、やーだ」
その笑顔は一生忘れない。
自分が守るべき宝で、自分の生きる意味だから。
***
(……あれ? 寝てたんだっけ?)
薄っすら目を開けると見知った天井があった。どれほど寝ていたかは分からないが、日は落ちて部屋には明かりが点いている。
体には布団が掛けられていて、額と脇にはひんやりとした感触があった。形からして保冷剤だろう。まだほとんど凍っているから何度か取り替えたと思われる。
(あ、そっか。熱出して倒れたのか)
ということは、柊が看病してくれた。保冷材はむき出しで置かれているから柊らしく、ネットで調べたのか、それとも昔に何度か看病してあげたことがあるからか……ともあれ看病してくれたことが嬉しい。熱も引いたみたいだしもう少し休めば完治するだろう。
まだ起き上がる気にはなれなくて目を瞑ると、鼻をすする音が聞こえた。
「……おにぃちゃん」
横目で見ると柊が床にへたっと座り込み、懇願するようにベッドにおでこを擦りつけていた。昼間はあんなに怒っていたのに小さい女の子みたいだ。
(ありがと、柊。やっぱり柊は優しいな)
まだ体が重くて声を出す気力はない。頭はスッキリしてきたがもう少しこのまま休んでいよう。
そう思った杏一の手に柊の指が触れた。なぞるように手のひらを合わせると、ぎゅっと握りしめて指を絡ませてきた。俗にいう恋人繋ぎだ。
「おにぃちゃん、いつもありがとう」
(……柊?)
杏一は言葉に詰まった。実際に声は出していないが、心の中を探しても言葉は見つからない。汗ばんだ手の感触と柊の言葉が思考を乱す。
「ご飯、すっごく美味しいよ。毎日、楽しみだよ」
(……そっか、よかった)
そっちこそ食べてくれて嬉しい。
言葉にされて自分に意味を与えられた気がした。
「髪の毛も、恥ずかしいけど嬉しいよ」
(……うん)
「酷いこと言っちゃってごめんね? ほんとは思ってないよ」
(……わかってるよ)
「ほんとは大好きだよ。おにぃちゃん大好き」
(……)
ずーっと鼻を鳴らして、柊は続ける。
「だからね、嫌いにならないで。見捨てないで」
(……嫌うわけない。見捨てるわけないだろ)
「私を、独りにしないで……置いてかないで」
(そんなことしないよ。するわけない)
「ずっと側にいて。おにぃちゃんじゃなきゃやだよ」
(……ありがと。どこにも行かないからもう泣くな)
今すぐ抱きしめてあげたいが叶わない。
泣きじゃくる柊は、握った手を胸に持っていった。
「うぅ……好き、好き、好き。苦しいよ、おにぃちゃん。風邪、移っちゃったのかな?」
ぎゅぅぅぅっと胸に押し付けると懺悔するように吐露する。本当は起きているのが申し訳なくて、杏一は必死に手の感覚を忘れようと努めた。
「こんな私で、ごめんね。こんな妹、いらないよね?」
ぽたりぽたりと手が濡れる。
拭ってあげたいがやはりできない。
「おにぃちゃんは、優しすぎるよ。絶対許してくれるから、私も甘えちゃうんだよ? 私をこんな子にしたのは、おにぃちゃんのせい、だからね。今は、素直な子じゃないけど……もうちょっとだけ、許して──」
振り絞るように紡ぐと、最後にちゅっ──と、唇が手の甲に触れた。
たった一瞬、押し当てただけのキス。でもちゃんと柊の熱があって、吐息混じりの言葉と一緒にすとんと胸に落ちた。
「んぅ~。おにぃ……ちゃん」
柊は力尽きたようにすやすやと寝息を立て始めた。
ずっと付きっ切りで看病してくれたのだろう。柊には悪いが、寝てくれてよかったと杏一は思った。
(……柊、それはずるいって)
勝手に聞いてしまって悪い気がした。柊もまさか聞かれているとは思っていないだろうから、この話を持ち出すのはやめておいた方がいいだろう。
杏一は静かに寝返りを打って、柊とは逆の真っ白な壁を見つめた。
もう一度寝ようとしてもなかなか寝付けない。
(熱、やっぱまだ引いてねえや)
顔が火照って熱いのも、頭の中がぐちゃぐちゃなのも、動悸がするのも、全部全部風邪のせいだろう。
そうやって理由をつけて自分たちを正当化するのは楽だが、同時に胸が締め付けられる。でも今は『兄妹』という便利な言葉に縋って気持ちを抑えるしかないのだ。それが逃げだと分かっていても今はまだ早いから……。
(……柊)
杏一は握られたままの手をぎゅっと強く握り返した。
一番大切で大好きな手を自分から離さないように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます